第七話 絶海の生み出した怪物
投稿が不定期になってしまい申し訳ございません。
2027年9月8日火曜日、19時22分。
神奈川県横浜市、南区、鈴木家。
鈴木家の長男、海徒は、家族と一緒に近くのラーメン屋で夕食を食べていた。店内はいくつかの家族や人々や調理の音が混ざり、賑わいを醸し出している。
海徒は目の前にある豚骨ラーメンと炒飯を口いっぱいに頬張る。その旨味で、自然と広角が上がってしまう。
彼の席からは、高台に置かれたデジタルテレビがよく見える。店内の騒音のせいで音声はあまり聞こえない。弟の豪郎は台風を不安がっているのか、湯気を上げるラーメンを食べながらもニュース画面に没頭していた。
「台風16号は、今日の午後6時ごろから進路を西に変え、時速75kmという異例の高速で日本列島へ進んでいます。中心気圧は午後6時半の推定で800hPaであり、観測史上最低の気圧を記録――」
ニュースキャスターの声は半分ほどしか彼らに聞こえなかったが、内容は充分に把握できた。
台風がついに日本にやってくる、ということである。
食べる手が止まっている豪郎を見て海徒は「さっさと食えよ」と急かしたが、豪郎の手つきは散漫としたままだった。
時は少し遡り、日本標準時で同日18時55分。
北マリアナ諸島に属するサイパン島のサン・アントニオ。
飛んできた小石を頭に受けて脳震盪に陥っていたメンドーサ・エイドリアンは現在、症状から回復しつつある状態である。
包帯を頭に巻いた彼は、今朝からスマートフォンで台風が接近しているという天気予報を見て、警戒心を抱いていた。
テープを窓に貼ったり、備蓄用品を妻子と共に買いに行ったり、普段はからっぽの湯船を満水にしたりと、できる限りの備えをした。
とはいえ、彼の住む家は暴風に耐えられるほど強い訳ではない。まだ発達期の台風が来ただけで家が揺れたのだから、怪物となった今の台風がこの地に襲ってくれば、ひとたまりもないのは火を見るより明らかである。
一度重傷を負ったこともあって、メンドーサは人一倍台風に対する警戒を怠らなかった。家が吹き飛ばされる覚悟はもうできていた。
だが、彼の心拍数は平常より高い水準を保ち続けている。いまだ腹をくくり切れていない表れであろうか。
それだけに、「台風が向きを変えた」というニュースは、彼の心をずいぶん安心させた。
「台風、来ないみたいね。良かったじゃない」
メンドーサの妻が彼に話しかける。彼女の声に、彼はコップの水を飲み干してから、微笑みをたたえて「ああ。そうだな」と返した。
空は南国らしい晴れである。
一方、サイパン島から数千km離れたフィリピン、ルソン島。
この地では、一度到来した台風16号の影響によって甚大な被害が発生しており、現在救助活動が行われている真っ最中である。
水に濡れてさらに重くなった瓦礫をどけ、手を伸ばす人々を引っ張り上げる。
湖と化した洪水の現場で、屋上で懸命に手を振る人々を舟に乗せる。
雨と風が過ぎ去った今は、被災者を助ける絶好のチャンスである。救助隊員は皆必死になって救命活動に励んでいた。
そんな中で飛び込んできた「台風が向きを変えた」という報せは、隊員を緊張させるには充分であった。天候が悪化すれば、当然ながら救助活動を断念せざるを得なくなる。
しかし、眼前に広がる瓦礫と湖の中には、まだ人がいるだろう。それらを見捨てて撤退することは、人の道に反する。そう思うがゆえに、隊員たちの表情は堅くなっていった。沈みかけた太陽の光が、雲の切れ間を縫って悔しげな彼らの顔を真横から照らす。
淀んだ場の空気は、隊長の言葉で流れを取り戻した。
「台風が来る前に、できるだけ多くの人を助け出すんだよ。それが我々の仕事だ。落ち込んでいる暇はない」
隊員たちは喝を入れられ、作業の手を再び動かし始めた。東の空が、端を真っ黒に染めた積乱雲に覆われていた。
21時24分。
神戸市、佐東家。
この日、建多は珍しくまだリビングにいた。お笑い番組を見るためだ。テレビ画面には、彼の父、功増も大のファンであるお笑いコンビ、コーニズの漫才が映されている。
「やっぱコーニズが一番おもろいわ」
「だよね!」
功増の言葉に、建多が笑顔で同意する。一方で、彼らの会話から外れている母、麗子はやや不機嫌そうな様子で「そろそろ風呂入ったら?」と声をかけるが、彼らは「うんわかった」と空返事を返すばかりで、騒がしい画面に釘付けである。風呂が沸いてからもう15分近く立っているので、彼女が苛立つのも無理はない。
「まったく……」
麗子はため息をついてから近くにあったポテトチップスの袋を普段より荒っぽく破り、中身を手摑みで食べ出した。
しばらく建多と功増がテレビに興じていると、SEと共に画面上部にテロップが現れた。
「沖縄県大東島に大雨・暴風警報発令」
二人はその文に注意を引かれたが、数秒後にはまたお笑い番組の方へ意識を戻した。
台風16号は午後6時以降、北西の方向にほとんど直線の進路をとって猛進しており、ゆえに彼らは16号がそのまま台湾の方へと抜けると思っていた。事実、夕方の天気予報でも「台風はこのまま西へ進み、沖縄に接近して通り抜けるだろう」といったことを報道していた。
そういうわけで、佐東家の面々は多少の不安を感じつつも、それほど危機感を抱いてはいなかったのである。むしろ、「お笑いを邪魔しやがって」という怒りのほうが勝っていた。
21時25分、気象庁は沖縄県大東島に大雨・暴風警報を発令。まだ台風は数百km向こうにあったが、早期の警戒を促す目的で発表された。
続いて大崎課長および数名による会見が開かれ、沖縄地方の国民は避難準備をするべきである、といった趣旨のことをカメラに向かって語った。万が一の場合に備え、東京都心の都外広域避難についても報告されたが、こちらはあまり注目を集めなかった。
これに連なるように、JR九州は、鹿児島県など台風の影響を受けると思われる地域の路線を運休する、と発表した。
もちろん、関西に住む建多や関東に住む海徒が影響を受けることはない。
しかし、日本国民の大半は現実感のない不安に襲われた。SNSや匿名掲示板では、台風に関する話題が再び持ち上がり、有名人やインフルエンサー、動画配信者などが注意喚起を行うに至った。
16号が予報通り直進してくれればよいが、そうはいかない可能性もある。今までの異常な進路を考えれば、「本州直撃」も充分あり得る話だ。そうなれば被害は想像を絶するものとなるに違いない。
もっとも、本州直撃《・・》を警告する天気予報は、気象庁発のものですら、存在しなかったのだが。
気象庁の会見が始まる少し前。
ルソン島の小都市バレルから、南南東に600km進んだ絶海。
台風第16号──海神は、時速80kmを超える速さで闇の支配するフィリピン海を疾走する。
勢力はさらに強くなり、最大瞬間風速は毎秒180メートルに達していた。
中心気圧の低下も留まるところを知らず、740hPaまで落ちていた。もはや、2500m級の山の頂上に等しい低気圧である。が、風はその事実を感じさせないほどに強く、海はタンカーすら沈ませるほどに盛り上がり、猛っている。
16号はひたすらにフィリピンの大地めがけ、韋駄天台風となって突貫していく。既に壊滅したルソン島東部には、再び大雨が降り始めた。
時々雲の中で光る雷は、非常に美しい電気の大樹を型作り、何も見えない漆黒の大洋を僅かな時間、昼かと見紛うほど明るく染め上げた。
海神は超高音の咆哮を上げ、地を見下すかのように速度を緩めた。
その先には、肉眼では視認できないほどの小ささの、実に矮小な光の小粒があった。
その正体は、大型旅客船「パシフィック・エレガンス」。
全長270m、最高速度23ノットを誇るこの巨人は、現在世界一周クルーズの最中であった。
パシフィック・エレガンスを運用するジャパン・オーシャン・ライン社は奇抜な戦略で有名であり、セブに寄港する珍しい航路をとる世界一周クルーズを提供していた。今はその途中、というわけである。
19時の時点でパシフィック・エレガンスの船員は台風が転向したことを知っていたが、船長は予報を見て「セブに着くまでには台風は通過しているだろう」と言い、少し速度を緩めさせるのみで回避行動を命令しなかった。
奇妙に思える船長のこの行動には、ある理由があった。
今まで雨風が無く、大丈夫だろうと高をくくっていたのもそうだが、パシフィック・エレガンスは航路において2時間の遅延を起こしており、これ以上の遅れが許されなかったのである。ジャパン・オーシャン・ライン社は快適な旅行を提供するために遅延に厳しく、10分でも遅延を起こした船の船員には、数十分にわたる注意や訓戒と言った懲罰が与えられていた。
また、客からの苦情も深刻であった。数時間前、十数人の客が一斉に船客に苦情を言いに来た。それはもはや痛罵とも呼べるもので、「遅れるとか何考えてんの?」「頭おかしいだろ手前ら」などという侮辱の言葉が船員に浴びせかけられた。
しかし、船員に反論は許されない。苦情に誠実な対応をしなければ、譴責や訓戒といった厳しい処分が科せられるのを、彼ら、彼女らはよく知っていた。
船員たちは自分勝手な客からの罵倒を、ただただ頭を下げて受け止めるほかなかった。
当然、ストレスと疲労が溜まり、自然と注意散漫となってしまう。他の業務にあたる人々も激務に追われ、同様の状態となる。
これらの要因から、船員は一刻も早くセブに向かう針路をとらざるを得なかった。狂い切った野分、雨と風の権化が迫っているにもかかわらず、それに伏し、留まることをしなかった。
――否、できなかったのである。
船長はあらためて進路をセブに向け、1ノット程度速度を上げた。
船の上の空に、雲が立ち込め始めていた。
一方、船内のロビーでは、「演奏祭」と称して、大規模なパーティーが行われていた。
部屋の中では、何十ものテーブルと、それに付属する数百の椅子があり、凄まじい量の料理と飾りがその上に置かれている。椅子には何百人もの人々が座っていて、そのほとんどの視線は前方に向けられていた。
会場の前にはマイクや数々の音楽器具が乗った台があり、歌手らしき男女数人がマイクに向かって大音声で歌いかける。
その台は、十数個のスポットライトによって明るく照らしあげられていた。
天井から釣り下がるは、華やかなシャンデリアや垂れ幕。
「次はサイドジティックの『ソグネパーティー』ですッ!」
司会者らしき男がそう声を張り上げると、後方のスピーカーから、鼓膜を破るような大音量でロックと思しき曲がかかり始めた。客たちが一斉に笑顔で騒ぎ出す。
「うぉー!!」
「イェーイ!」
しばらくすると、前に立つ男女が声を上げて歌い始めた。
その間にも、船員は笑顔を配りながら片付けや給仕などの業務を行う。彼らに暇はない。
このほか、船内のレストランや映画館、バー、カジノなどにも未だ多くの人々が集まり、各々の時間を楽しんでいた。
レストランでは食事を満喫する夫婦の声が聞こえる。映画館には大音量で登場人物の叫び声が響く。
「よっしゃ勝った! 20ドルだ!」
カジノ場では、トランプを引いた一人の中年が歓喜していた。
……今この場に、台風第19号が迫っていることを頭に入れていた者は、どれほどいたであろうか。
16号が、洋上を進む一隻の船を見つけた。
そう示すかのように台風16号は速度を落とし、進路を西北西へと変えた。
闇黒が統べる大海洋に、海神の絶叫が響き渡る。
暴風域は南西に寄り、雨もそれに連動して同じ方向へと動く。
しばらく経つと船は台風の端に入り、波が荒れ、雨が降り出した。だが、パシフィック・エレガンスは大型船ゆえ、揺れに気付く者はかなり少数であった。
不幸なことに、彼らは未だ分かっていない。
台風という、恐るべき自然の脅威を。
絶海の生み出した怪物の、圧倒的な力を。
広島原爆数万個分のエネルギーを持つ積乱雲の化身。それを以ってすれば、ほんの数百メートルの大きさしかない船を鉄塊に至らしめることなど、極々容易いことである。
今一度、海神は甲高い叫びを上げた。
パシフィック・エレガンスは風に圧され、船員が気づかないうちに予定していた進路から外れようとしていた。
その先には、闇に包まれながら強烈な波を受ける岩礁が数個。
船の生命が尽きる時は近い。




