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第六話 踵返し

 日本標準時、9月8日火曜日、5時55分。

 中華民國(臺灣)、臺東(タイドン)市。


 この地は早朝を迎えており、既に太陽が地平線の上に昇り出ていた。空には多少の雲が浮かぶのみである。


 しかし、臺東の南に住む劉心悦(リウ シンユエ)は、窓から見えるその朝日を見て妙な感覚を覚えた。

 昨夜寝る前に見た天気予報では、今日の朝には台風が台湾にかかり始めると報じられていた。二日間は雨が降り続け、史上最悪の台風災害になるだろう、と。

 ところが、現実はこうだ。空は清々しく晴れているし、吹く風も髪を少しなびかせるくらいで、およそ台風の風とは言いがたい。これは一体、どういうことなのか。


 劉はひとまず朝の空気を吸い、台風が来なかったことを喜んだ。なぜ台風がいないかは現時点ではわからなかったが、晴れているだけで彼女は充分だった。平和に一日を過ごせるのだから。

 爽快な気分のまま、彼女は朝の支度に取り掛かり始めた。

 

 


 日本に住む建多も同じような気持ちでいた。

 家がなくなる不安と学校がなくなる期待を半々にして起きたのだが、彼が見たのは晴天。警報はおろか、注意報すら出ていない。当然、学校もある。彼はがっかりした。あまりにも早く起きてしまったものだから、その落胆具合は普段よりも大きかった。

 もちろん、がっかりしていようがいまいが学校はあるので、建多はそのための準備をすることにした。今の彼には、昨日抱いていた台風への不安などなく、ただ面倒くさいな、という怠惰な感情が心を支配していた。

 

 十分ほどで支度が終わったので、建多は朝食までしばらくテレビを見ようと思って、リモコンの電源ボタンを押した。昨日から同じチャンネルを付けていたらしく、ニュース番組が映っている。しかし建多はそれには構わず、データ放送を選択した。

 画面に映し出されたのは天気予報の欄。建多はこれを見て台風情報を確認したうえで、警報の発令という学校を休める僅かな可能性を検証したかったのだ。

 結論を言うと、彼の目的は片方だけ(・・)叶った。やはり、警報は出ていない。沖縄から北海道まで、所々に注意報を示す黄色が光っているだけである。昨夜沖縄と九州に発令された警報は全て、一旦解除となっている。

 台風情報はといえば、多少は入手できた。台風16号は日本には来なさそうだ、ということである。これ以外に特筆するような事柄はなかった。


 満足できなかった彼は、スマートフォンを点けてニュースを見た。

 画面に示された進路図が描く予報円は東に向いていた。円の端に行くとか、円をはずれるとかの極端な軌道を取らない限りは、日本に来る心配はしなくて良さそうだ。

 

 建多がスマートフォンに夢中になっているうちに、朝食が出来上がった。母、麗子に注意されるのが嫌で、建多は不本意ながらスマートフォンの電源を切った。

 彼の心中では、「台風は逃げたのかな」とか「台風は南の方に行くだろ」といった楽観的な意見がすっかり主流となっていた。何というか、がっかり半分、安心半分といったところである。

 これは、今の日本国民の半数程度に共通している意見でもあった。






 ――それが間違いであることも知らずに。



 建多が「いただきます!」の号令を掛けてから数分後。


 7時20分。

 フィリピン海上。


 

 今日、9月8日の2時ごろ、ちょうどルソン島の東が甚大な被害を受けたその時から、台風16号は今までにない高速で海上を東へ驀進(ばくしん)し続けていた。空に吹く季節風が一斉に東へ向きを変えたためである。

 いわば、16号は人類が作った天気予報に真っ向から歯向かったのである。


 その速さは時速60kmに達しており、雲に包まれるかと思われた中国南東部や沖縄などの地域は太陽の光を享受することができた。

 台風が速度を上げたことで、雲の下ではこれまで以上の暴風が空気中を疾走し、進路上にある街や自然はいよいよ壊滅状態と化すこととなった。

 雲の中で時折、何か生物の鳴き声のような超高音を発しながら、台風は東方へと突き進む。


 その下には、ヒトの平熱ほどにまで熱されている大海洋があった。

 本体の一部が陸地に入り、地との摩擦によって勢力の発達に陰りが見えていた16号は、際限なくどしどしと押し寄せる水蒸気の力を以て二度目の大発達を開始した。

 次々と発達していく狂乱する積乱雲は、対流圏いっぱいにその体を伸ばす。

 目はいよいよ輪廓がはっきりとしてきて、直径は150kmに及んでいるかと見える。

 ずいぶんと地上との摩擦が少なくなった今、この台風の成長を妨げるものは、全くなかった。


 16号の大きさの成長は三日前と比べるとそれほど勢いのあるものではなかった。しかし、その代わりというべきだろうか、勢力の成長はこれまでで最も飛躍的なものとなった。

 遂に中心気圧は800hPaを下回り、瞬間風速は秒速160mを超え、雨量は一時間あたり200mmにまで匹敵していた。

 風はビルをも薙ぎ倒し、雨は地上をも水満ちる湖へと変貌させるであろう。


 この「地球が生み出した怪物」としか言いようがない雲の化け物に、もはや敵など存在しなかった。


 14時33分、中心気圧が750hPaまで下がったその時には、台風16号は北マリアナ諸島から1000kmの地点にまで迫っていた。

 一度16号が過ぎ去った海は、暴風と超が付くほどの低気圧により、再び表面を真っ白に泡立てながら吠え、荒れ、狂瀾怒濤と化した。

 そこに人間の姿がなかったことは、不幸中の幸いであった。

 ヒトという実にか弱い生物がいたなら、あっという間に海の藻屑となって自然に還っていることであろうから。


 既に十分――否、十二分と言っても何ら過言ではないくらいに育った台風は、それでも決して成長の手を緩めようとはしなかった。あくまでも「油断」はせず、着々と力を増強させていく。妥協などしない。

 16号は、とにかくも慎重であった。




 

 それと比べると、日本や周辺諸国の対応は少し慎重さを欠いているように思われた。


 鉄道会社であるJR九州、JR四国、JR西日本は、本日夕方から実施する予定であった計画運休の取りやめを発表。他の交通機関もほとんどが同様の判断を行った。

 沖縄県や九州南部に発令されていた大雨・暴風警報は午前5時に解除された。一応注意報は発令されたままだが、それも沖縄県に留まっている。中華民國の交通中央気象局も、警報を台湾島全域で解除。

 日本全国の学校は普段通りの登校を実施したし、会社でも「台風が来るかもしれない(・・・・・・)から休め」などと言うところがあるはずもなく、通常通りの出勤となった。

 気象庁だけは「台風第16号は複雑な進路をとる台風であり、再び日本に接近する可能性もあるので、まだ警戒を解くべきではない」といった主旨の会見を開いたが、これを見た者はおろか、ネットニュースを通して視聴した者すらあまりいなかったものだから、大半の日本国民の台風への警戒心はそれほど高くなかった。東京都をはじめとするいくつかの都府県は、大規模な広域避難の計画を立てて発表していたが、これに着目する国民もわずかだった。

 しかしこの対応は、無理もないことである。無駄に運休をして客を逃すわけにはいかないし、無為に休校をして授業日数を減らすわけにはいかない。会社が出勤を強いるのも当たり前のことである。

 結局、台風が来ていないときには、日本を含めた国家、そしてその国民は普通に日常を送るしかない。




 一方、フィリピンのルソン島では、被災地が未だ強風域に入っている中で、懸命な救助作業が行われていた。


 とはいっても、救助隊が到着するには数時間を要した。そのうえ、ようやく着いた救助隊は、瓦礫の山とすっかり水没した町の残骸を見る羽目になり、救出作業はかなり困難であった。

 肉眼で見えるのは、前述した悲惨な景色と、片手で数えられるくらいしかいない舟に乗った被災者だけ。あとは救助隊自身が身をもって瓦礫の中から人々を救い出さなければならない。しかも空からはまだ小雨が降り続いているし、弱いが風も吹き続けている。

 このような状況で被災者を救助するのは、いくら台風災害に慣れたフィリピンの人々であっても骨の折れる作業であった。


 だが、泣き言は言っていられない。人々を救出するのが、彼らの役目なのだから。

「よし、かかれ」という救助隊長の一声で、隊員たちは一斉に瓦礫のほうへと歩み出していった。





 

 

 日本標準時、18時36分。

 北マリアナ諸島から西へ1600kmほど進んだ海上。


 台風16号──海神(ハイシェン)は海を自身の大雲の渦で覆い隠しながら、東進を続けていた。

 深夜以降、速度はだんだんと上昇しており、既に時速70km近くまで加速している。

 

 中心気圧の低下は全く止まらず、約一時間前に750hPaを下回ってしまった。暴風域は、とうとう本州全土をすっぽりと囲み込めるほどに巨大化していた。

 今までに人類が出会ってきた全ての台風を、海神は遥かに凌駕していたのである。

 

 これほどまでに発達しているにもかかわらず、16号の成長速度は数時間前からほとんど落ちていなかった。中心気圧は未だ一時間あたり3hPa以上という驚異的なスピードで低下し続けており、雲の密度は、昼をも半ば暗がりとするほどに高い。

 35℃を超える、極めて暖かい海水のためである。

 自動車にも負けない速さで、海神は太平洋を突進する。



 雲の上の夕日は、高空を美しい橙色に染め上げ、下に広がる積乱雲の土台と相まって、地球から見える景色とは思えないほど幻想的な風景を作り出している。

 現在、国際宇宙ステーションは海神の上にあり、宇宙ステーションに住まう宇宙飛行士たちは、この恐ろしくも美麗な光景を目の当たりにすることとなった。


 海神は、盛りも盛りであった。




 ……。



 

 その時。



 台風16号を疾走させていた季節風が急激に弱まり、遂には逆流を始めたのである。それと連動して、16号の速度はどんどん落ちていく。

 ほんの数十分で、海神はほとんど停滞状態となってしまった。

 これは平年から起こることではない。季節風がそれほどの短時間で逆に吹き出すなど、気象的にありえない現象である。


 しかしながら、海神に「ありえない」などという陳腐な言葉は通用しない。

 鉄筋コンクリート造りの建築物すらも容易くひねり潰せる烈風を持つ超巨大台風の前では、常識などただの偏見と思い込みの塊と化す。

 

 西への「逆走」を開始した季節風は、数時間前よりもさらに速く吹き抜けて、16号を人類やその他の生物が住む大地の方面へと突き動かす。

 台風の目の端で、霹靂(へきれき)の轟かす雷鳴に混じって超高音が響き渡る。


 その音──否、台風の「声」は、台風がヒトを含めた地上の動物をことごとく駆逐する準備ができた表れのように聞こえた。



 この気象的怪異と呼べる事象を、日本やフィリピン、朝鮮や中華の人々のほぼ全ては気づけていない。

 今から避難の準備をしておけば、命を落とさないで済む可能性はまだあるかもしれないというのに。


 

 太陽が地平線の下に墜ち、漆黒の闇に覆い尽くされた大海洋を、海神は西へ西へと驀進し続ける。


 その先には、十数億に及ぶ無辜の人々が生きている大地がある。その地は彼ら自身が生み出した電気の光によって、煌々と照らし上げられていた。


 台風第16号の大進撃。

 それは今度こそ、人類を他の生物もろとも、絶望と死に満ちた惨憺たる地獄へと叩き落とすのである。

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