第五話 先駆降雨帯
更新が遅れまして申し訳ございません。
建多が自室に戻ってから何十分か経過したころ。
9月6日月曜日、19時51分。
東京都千代田区大手町、気象庁。
気象庁ビル内では、台風16号についての緊急記者会見を行うために職員が慌ただしく動いていた。
気象庁は、迫り来る16号について国民にその情報を知らせ、警戒させるため、会見を行うことを昨日に決定している。今はその準備中、というわけである。
会見場にはスライドを映すためのテレビやテーブルなどが置かれている。部屋の中へは、マスコミ関係者が続々と入室しつつあった。
10分ほど経ち、会見の準備が整った。十数本マイクが置かれたテーブルの前に、2人の職員が座る。
「気象庁予報課課長の大崎と申します。皆様、よろしくお願いします」
テーブルの左側から発せられたその声で、緊急記者会見が始まった。
「超大型で猛烈な台風第16号は、現在特別警報級の勢力であり、今後も発達を続け、明日、明日午後、沖縄、奄美地方に接近して、その後、勢力を保ち、あるいは発達しながら九州地方に上陸するおそれがあります。本日未明には、沖縄本島が強風域に入る見込みです──」
テーブルに置かれた原稿を大崎課長が読み上げる。しばらくすると台風の情報を気象庁が伝える旨が伝えられ、会見は次の段階に入った。
「──台風が接近、上陸する地域では、記録的な大雨、暴風、高波、高潮となる見込みであり、また、台風から離れた地域であっても、例年の台風と同程度かそれ以上の被害が出るおそれがあり、最大級の厳重な警戒が必要です。気象庁の発表する最新の台風情報や、危険度分布などの情報に留意すると共に──」
真剣な眼差しで話す彼の前には、数十人の記者がおり、皆視線とカメラをその方向へと向けている。
数分説明が続いたのち、国土交通省水管理・国土保全局所属の高尾課長による河川の状況の説明が始まった。
「引き続き、河川関係について、説明させていただきます。資料の次のページをご覧ください。今後台風による大雨により、河川の増水や氾濫、海岸、河口付近の地域では高潮による冠水、浸水のおそれがあります。えー、過去に例を見ないほどに強い勢力の台風ですので、これまで氾濫しなかった河川、国が管理する河川であっても、氾濫する可能性があります。河川付近にお住まいの方は、ハザードマップを確認するなどし、まだ台風の来ていない早いうちから避難の準備をしていただければと思います」
後ろの画面に映る資料には、氾濫するおそれのある河川についての情報がびっしりと書き連ねられている。
「──高潮は最高で6mを超えると想定されており、沿岸部は甚大な被害を被るおそれも──」
「──今年のフィリピン海および太平洋の海水温は、例年より3℃以上高く、これが台風の発達に影響を──」
会見では、被害に遭う地域とその見通し、河川の整備の情報、大気の状況などが説明され、20分程度の時間を費やすこととなった。
会見は続いて質疑応答の時間に入った。記者たちと職員が呼応を重ねる。
この会見を建多はスマートフォンで見ていた。テレビで見なかったのは、横に流れるコメントで少しでも不安を和らげたかったからである。コメント欄には、台風を怖がる者、備えを呼びかける者や、逆に台風など心配ないと発言する者など多種多様な意見が次々と流れていく。
11人が質問し終わったとき、一人の記者が手を挙げた。
「日輪テレビの大江と申します。台風第16号は過去に現れたどのような台風よりも強いと存じていますが、国民に対して何か注意喚起など、しておく言葉はありますでしょうか?」
その言葉を聞き、大崎課長の眼差しは真剣なものへと変わった。会場の雰囲気も、先ほどより堅くなった。
「はい。この会見を見てくださっている国民の皆様方には、台風第16号は、日本が、いや世界中の国々が、一度も経験したことのないような強い勢力の台風であるということを、強く、肝に銘じていただきたいと思います。過去にも日本は洞爺丸台風や、伊勢湾台風、平成30年台風第21号や令和元年東日本台風など、多くの台風の被害を受けてきました。その度に、私たちは尊い犠牲を払いながらも復興してきました。
──しかし、この台風は違います。既に気圧、風速、雨量などの各分野において観測史上最大の記録を確認しており、この勢力のまま日本へ直撃すれば、沖縄から東北地方に至るまでが極めて壊滅的な被害を被ることになり、そうなれば復興は非常に困難であると、気象庁の立場から申し上げざるを得ません。国民の皆様、このような事態に陥らないためにも、気象庁の公開する最新情報やハザードマップなどを随時確認し、命を守る最大限の対策をしてください。この会見を見ていない方にも、ぜひ、台風第16号の恐ろしさを知っていただきたいと、そのように思います。未曽有の大災害に際して、どうか、国民の皆様のご理解とご協力をお願いいたします」
彼はしっかりと正面を向き、言葉を紡いだ。会場がしんと静まり返る。
「……マジかよ…………」
それを見る建多の手には、いつの間にか冷や汗が浮かんでいた。
午後8時30分ごろ、九州国民鉄道株式会社、四国国民鉄道株式会社、西日本国民鉄道株式会社の3社は、7日の午後5時から8日全日までの期間で計画運休を実施することを発表。台風が来る前にあらかじめ電車を止めるというこの判断に、バスや路面電車などの他の公共交通機関も追随した。
気象庁の会見に続き、午後8時45分からは中川威才総理大臣が異例の会見を行い、国の機関が一丸となって国民に警戒を促すに至った。
また、沖縄や九州の自治体は、住民に対しある限りの防災セットの配布を行うことを決定した。
午後10時には、沖縄県の大東島、八重島、宮古島に大雨・暴風・高潮警報が発令された。
史上最強の台風に対して、日本はできる限りの対策をとり始めたのである。
時は進み、9月7日火曜日、1時50分(日本標準時)。
フィリピンの首都マニラから、北東に約340km進んだ海上。
台風16号──海神の誕生からちょうど3日が経った。16号はほんの僅かにも勢力を衰えさせることなく地球を這う。
この時間には、台風16号はルソン島の300km圏内に接近しており、速度を徐々に上げつつあった。
勢力の増強は留まる所を知らず、中心気圧は800hPaを切ろうとしていた。暴風域の半径は500kmに達しており、もし今、強風域も含めた全域を日本に運んできたなら、それこそ本州と北海道の全てを覆い尽くせるほどに、16号は成長していた。
熱い海から蒸発していく莫大な量の水蒸気は、どんどん台風に吸い込まれて彼を強化する養分となる。2027年の異常な偏西風の軌道は、あたかも人類に最大の被害を与えられる最適なルートを、16号に通らせているかのようであった。
本来、台風は大きくなるほど威力が弱まる傾向にあるのだが、16号はこれを完全に無視していた。
既に太陽は極東アジアの裏側に隠れており、肉眼で台風を見ることはできなかったが、赤外線カメラを用いた人工衛星の画像は、彼の勇姿をはっきりと写していた。
フィリピン中央部から沖縄に至るまでの大地が、丸ごと雲の鎧に覆い隠されている。ブラックホールにも似た不気味な目が、圧倒的な存在感を以て16号の威容を体現していた。
ルソン島の東部に位置する町、バレルは、台風に襲撃を受けている最中であった。
バレルは比較的風が弱いとされる可航半円内に位置していた。しかし、狂ったように吹き荒れる烈風は、人々にその事実を微塵も感じさせることはない。
数時間前から吹き続ける暴風により、骨組みの弱い家は基礎だけを残してバラバラに吹き飛ばされていた。
そうでない建築物であっても、窓ガラスは飛来する石や材木、バイクなどの物体に粉砕されていて、とうてい住居としての機能を保てる状態ではない。いくつかの家は、もはや砲弾と化した飛行物体に壁を突き破られていた。
毎秒70mを超える勢いでバレルを駆け抜ける風が、電柱を、大木を、根元からへし折った。
この大災害に全く無力であるバレルの人々は、その多くが、空中を疾駆する石や瓦礫に体や頭を打ち砕かれるか、風で空を飛ばされて地面か瓦礫に激突するかの二択を強いられた。地面には、かつて人体の一部をなしていたであろう血液や肉片が所々に散らばり、絶えず地を殴りつける雨と共に、道を流れる濁った川を作った。
この風の地獄を切り抜けた人達は、まだ形を保っている建築物に避難しようと試みた。だが、彼らを容赦なく叩く大雨によって、道は膝まで冠水しており、歩くことすら至難の業であった。
電柱が破壊されたことで起きた停電も、彼らの苦境に拍車をかけた。月明かりなど射すはずもない。動こうにも前も後ろも見えず、感じ取れるのは降り注ぐ豪雨の音と、吹き荒ぶ風の音のただ二つ。
沿岸に襲い掛かる高潮は、泥を含んで黒く濁り、沿岸部を逃げ惑う諸人を家ごと洗い流していった。海水はそのままバレルの低地を満たし続ける。
かろうじて懐中電灯を持って出られた者も猛烈な狂風に圧され、ほとんどの電灯は彼らの手から引き離されてしまった。
ほぼ何も見えない闇夜の暗黒と、異様な暴風雨の音、そしてそれによる息苦しさは、あっという間に人間をパニックに陥らせた。
半狂乱となったバレルの人々は悲鳴の声を上げながら暗闇の中で暴れ、そして溺れるか大怪我を負うかして命を落としていった。
この人智を超えた雲の渦に対抗する術を、不幸にもルソン島の人々は持ち合わせていなかったのである。
こうして大多数の人間が消えたバレルに、時折、大気を揺るがす雷と共に甲高い音が鳴り響いた。
それは聞きようによっては、海神の嘆きとも、怒りとも、あるいは歓喜ともとれるものである。
16号はルソン島東部を壊滅させた後、南東へ進行方向を変えた。
まるで、台風が意思を持って、熱された大海原へ赴くかのように。
同日、午前2時40分。
鹿児島県鹿児島市、大竜町。
この地は台風の直撃を受けると予想されており、1時間ほど前に大雨暴風警報が発令されていた。
前日の昼には、近隣のスーパーやコンビニは備蓄用の物資を買い求める人で溢れていたのだが、今は深夜ということもあり、人も車もほとんどいない。街灯の光に寂しく照らされる道は、静謐であった。
そんな鹿児島の街中を、目つきの悪い一人の男が歩いている。
「なんであれ買うの忘れてたんだよ!あー、もう!」
そう独り言を呟きながら男――桐田益弥は舌打ちする。その音は物音の無い大竜の町によく響いた。
彼は近くにあるコンビニに向かって、わざと肩を左右に揺らしながら足を動かす。コンビニまでは、あと数分であろう。
しばらく歩いていると、暗い道に白く明るい光が射しているのが見えた。目的地のコンビニである。その中は、外から見ても、明らかに品切れであることがわかる。
男はかなり品物の少ない店内に入ると、3分ほど買い物をしてコンビニから出てきた。手にはいくつかの食べ物か物かが入った袋が提げられている。
「ふぅー、タラコあったな。帰るか」
彼が道に出て歩き始めたその時。
彼の腕に水滴が落ちる感覚がした。桐田は思わず、暗い紫に染まった夜空を見上げた。
「雨……か」
乾いた道に雨粒の丸が塗られていく。
幸いにも、それほど強い雨ではないらしい。彼は呟くと再び軽く舌打ちし、少し足を速めて自宅へと向かった。
しかし、この雨は決して普通の雨ではなかった。
空に広がる黒紫色の雲は、台風16号の先駆けなのだから。
それは、先駆降雨帯。
かの台風がまもなく日本へ到来するということを知らせてくれる、とても親切な合図であった。
台風から遥かに離れた場所にいる不用意な男はそんなことはつゆ知らず、雨の降る街を風切り歩く。
16号がこの島弧を襲う時が、刻一刻と迫っていた。