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第四話 不安

 2027年9月7日月曜日、7時20分。

 神戸市灘区、佐東家。


 建多は先週の土曜とは打って変わって、誰かに起こされることもなく早めに起きた。今日は余裕を持って登校できそうだ。

 いつも通りに身支度をしてから朝食を食べる。鞄の中も確認し、出発準備は完了だ。


「いってきまーす」

 彼は母、麗子にそう言って家を出た。彼の背中に、「いってらっしゃい」という麗子の声が掛けられる。

 今日は充分時間があるが、月曜日であることもあって足取りは重い。彼はしばしばため息をついて学校へと赴く。



 建多は校門に着くと、元気に挨拶している校長先生に会釈し、上履きへ履き替え、教室へ向かった。教室へ入ったのは8時10分のことであった。

 彼は教室のドアを開け、小声で「おはよう」と何とも覇気の無い挨拶をした。教室には8人くらいのクラスメートがいる。創樹はまだ来ていないらしい。愉得都はいたが、机に突っ伏して眠っており、部屋の中は静かである。

 仕方が無いので、彼は宿題をやることにした。どうせ家に帰ってもやる気にはならないだろうから、今のうちにやっておくのだ。彼は問題集の三角関数のページを開き、半分以上記述で埋まっているノートに問題を解き始めた。

「なにこれ? どう変形したらいいんだ?」などとうめきながら、彼は問と格闘する。



 彼が3つの大問を解き終えた頃には、教室の時計は既に8時28分を指していた。途中で創樹の邪魔が入ったこともあり、あまり問題を解けなかった。ドアを開けて担任の阿邊先生が大股で入ってくる。


「みんな、おはよう! 今日は皆元気がないなあ。月曜日だからか? まあ、何曜日だろうと学校は始まるけどな! さあ、ホームルームを始めるぞ!」

 先生は皆の様子とは対照的に笑顔でしゃべる。生徒たちは、彼の暑苦しさを少し煙たがっているようだ。ホームルームは出席確認、連絡、手紙の配布と進んでいき、その間、生徒は皆生気の無い顔をしていたが、話題が休校のことになると一斉に目を輝かせた。


「台風がどんどんこっちに来てるらしいな。この調子だったら、まあ、明後日は休みかなあ~」

 先生はもったいぶって、顔を前に近づけながら言う。

「先生! 何日ぐらい休めますか」生徒の一人が声を上げる。

「そうだなぁ、3日くらいじゃないか? もしかしたら学校そのものが(・・・・・)なくなるかもしれないけどな」

 彼はわざと悪い目つきをして答えた。それを聞き、教室の面々が明るい笑いに包まれる。


 しかし、その中でも建多は内心で不安を感じていた。家が吹き飛ばされるなんてとんでもない大事(おおごと)だ。洒落にならない。


 彼は窓の外を見る。今は晴れている空の奥に、あの化物のような台風がいると思うと、少し鼓動が速くなった。

 弱い風が教室に吹き込み彼の頬を撫でる。現実感のない恐怖が、彼を掠めていった。







 ホームルームが終わり、一時間目が始まってからおよそ20分後。日本標準時で9時6分のこと。


 ルソン島とグアム島のほとんど中間の空域に、ジェットエンジンの騒音が鳴り響く。

 その音を発しているのは、アメリカ海洋大気庁所属の航空機である、ガルフストリームIV-SP。「ハリケーン・ハンター」と呼ばれるこのチームは、フィリピン海上で猛威を振るう台風16号を観測するためこの空にやってきたのである。

 この頃には、16号は海神(ハイシェン)と命名され、熱帯低気圧番号25Wが付与されていた。



 機に乗って大空をはるばると飛び、台風にたどり着いた搭乗員たちは、この恐るべき大嵐の姿を目の当たりにすることとなった。

 海の上に、巨大な渦を巻く雲の塊がへばりついている。彼らは高度8400mの高空にいたが、それでも積乱雲の上端に機体がかすっている。その雲の端は、彼らがどれほど目を凝らしても見ることができないほどに遠くにあった。

 視界のギリギリには、隙間なく敷き詰められた雲にぽっかりと開いた台風の目が、蟻地獄のような不気味な姿でたたずんでいる。


「こんなに大きい台風は初めて見るな。大仕事だぞ」

 ガルフストリーム機長、アレクサンダー=エドワードが後ろを向いて部下に声を掛ける。それに部下の一人が「ええ。雲の下は大丈夫でしょうか」と返す。

 エドワードは、「いや、これほどの規模だと駄目だろう」と雲を見ながら低い声で呟いた。当たり前だが、海は白の塊に覆い隠されて見えない。


 機体から投下された30個ほどのドロップゾンデは、無線を通じて台風の情報を伝えている。その情報を見て、機器の前に座っている隊員が目を丸くした。


「えーっと、中心気圧……838hPa!? 噓だろ……」

彼の声は、少し震えている。


 機器のメーターには、最大風速が秒速100mを超えている旨が映し出されていた。速度は相も変わらず遅く、時速22kmである。

 気圧を示すレーダーは、殆どの部分が極めて低い気圧を示す紫で埋め尽くされている。目の部分だけは色はなく、高気圧であることがわかる。


「機長、台風へのこれ以上の接近は中止し、観測を終了次第すぐ帰投せよと、本部からの通達です」

 通信士がエドワードに告げる。

 これほどの強さの台風に突入すればただでは済まない。台風の端の方に入っただけでも空中分解を起こし、海の藻屑と消えてしまいかねない。本部の命令は、ごく当然のことであった。


「了解した」と短く彼は応え、5分ほど観測を続けたのち、操縦桿を右に切り、現場空域から離脱した。


「ガルフストリームIV-SP、これより帰投する」

 台風に背を向けて飛行するガルフストリームIV-SPの搭乗員たちは、自らが観測した台風の巨躯を改めて目に焼き付けながら、基地への帰路を辿っていった。







 同日、13時41分。

 神奈川県横浜市南区、鈴木家。


 建多の従兄弟である海徒と彼の弟剛朗(ごうろう)は、1階のリビングで留守番をしていた。今日は二人とも建校記念日で休みであり、両親がショッピングに行っているので、今家にいるのは彼ら二人だけである。

 外では、空を覆う灰色の雲がしとしとと雨を降らせている。

 大学受験を4ヶ月後に控えている彼は、昨日も今日も合格のため勉学に励む。彼は時折顔をしかめたり、ぶつぶつ独り言を言ったりしながら受験勉強を進めていった。

 部屋の中は、背景音代わりに点けているテレビの小さい音が響くのみである。剛朗は、後ろにあるソファーに寝転んでゲームを楽しんでいるようだ。


「はあ。やっと解き終わった」

 積分の問題をあらかた解き終え、海徒がふと顔を上げたその時。

 


 二人は家中に響く甲高い音を聞いた。テレビの音が全く聞こえなくなるほど大きい音だった。

 それは高いばかりで何の音なのかはよくわからなかったが、海徒には生き物の鳴き声のように聞こえた。しかし、何の生き物の鳴き声なのかは分からなかった。いつの間にか、雨は外が白むほどの豪雨と化している。


 そうして彼らが茫然と外を眺めていると、今度は大気を引き裂くような轟音と共に雷が光った。かなり近くに落ちたらしく、空気が音に合わせて震えた。

 耳が麻痺するほどの大音量に、二人はとっさに目を閉じ、耳を覆った。


 しかし、海徒が目を開けてみると、空模様は先ほどまでと同じ小雨に戻っていた。停電はしておらず、携帯の電波も普通に通っている。


「さっきの何?」

「そんなもん知らん。勉強してるんだから静かにしとけよ」

 少し不安がる剛朗の声を海徒は一蹴し、再び勉強に取り組み始めた。





 


 場所は変わり、神戸市。

 16時32分。

 

 建多は創樹と愉得都と家に帰る途中である。おとといと同じくまだまだ外は非常に暑く、彼の制服には既に汗がしみていた。


「あー暑いな、もう。今年どうなってんだよ」

 彼が嘆くと、二人もそれぞれ「それな」「マジ暑いよな、今年」と同調した


 やがて、建多は交差点に着き、二人とは別れることとなった。


 建多は横断歩道で一時停止し、スマートフォンをいじる。傾き始めた太陽の光のせいで画面が見づらいが、彼は明るさを最大にしてニュースを見た。


『史上最強の台風 日本に接近中』

『台風に備えよう! おすすめ対策法五選』

『台風16号 観測史上最低気圧を記録』

『台風に厳重警戒 今週の天気予報』

『日本各地で猛暑を観測 太陽活動の大幅な増長が原因か』


 ニュースの見出しには台風情報や気象情報が並ぶばかりで、普段すぐ目に飛び込んでくるはずの芸能やらスポーツやらのニュースは端に追いやられてしまっている。中には、『台風16号は気象兵器WMEの仕業!?』といった、かなりうさん臭いオカルトメディアの記事もあった。

 彼は「台風ばっかやんけ。つまんない」と独り言を言ってスマートフォンを閉じたが、心の中にある不安は拭えなかった。

 

 明日か明後日には台風が来る。早く備えないといけないけど、そもそも備える程度で太刀打ちできるレベルの台風なのか?

 家ごと吹き飛ばされたらどうしよう。死ぬのか? この年で。


 このような不安とともに、「吹き飛ばされる訳がない。ファンタジーを心配してないで宿題やれ」という根拠のない楽観もまた、彼の心に同居していた。この二者は心の中で拮抗していた。

 

 ふいに車の走る音が聞こえた。どうやら信号が青になったようだ。後ろからは数人の歩行者が迫ってきている。


 彼は意識を現実に引き戻し、自宅への帰路を急ぐことにした。







 16時47分に建多は家に着いた。彼は母、麗子のお迎えを一瞥だけして、さっさと自室へ入った。汗まみれの制服を早く脱いで着替えたかったからである。

 彼は着替え終わると、楽しい動画を少し大きめの音量で流しながら宿題に取り掛かった。この時間帯に普段読んでいる『現代の災害に対する考察』は読まないことにした。余計な不安を煽られたくなかったのだ。彼は現実から逃げるように目の前の問題集に集中した。


 宿題はもう終わりの兆しを見せていたが、建多はあえてスピードを緩め、できるだけ宿題を長くするように努めた。集中した時間の分だけ、台風から逃れられる。彼は、あの本を日々読み続け、結果として今の自分を苦しめている過去の自分を恨めしく思った。


 結局、宿題は一時間半もしないうちに終わった。麗子の夕食の号令があったこともあり、彼は仕方なく一階へと降りていった。


 降りてみると、食卓には炒飯、餃子、麻婆豆腐などの料理が大皿に乗っていた。中華料理である。父の功増は珍しいことに、もう帰ってきていた。


「いただきます」

 建多の声で夕食が始まる。しかし、その声は冴えてはいない。

「どうしたんだ。元気ないな」

 功増が彼に声を掛ける。建多は彼の言葉に、「いや、台風がさ……」と語尾を濁して答えた。


「ああ、台風か」「台風ねえ。ニュースないかしら」

 両親がほとんど同時に反応し、そのうちの麗子がテレビをつけた。


「──萬陽党の森党首は、『これはただの会費であって、賄賂ではない』と説明していますが、政治資金の不正利用であるとして、今後国会で審議が行われる予定です」

 男性のニュースキャスターが政治関係のニュースを伝えている。まもなくしてこれは終わり、今度は台風の予報に入った。


「超大型で猛烈な台風16号は、観測史上最も低い中心気圧を維持しながら、現在フィリピン方面へ西進しています。明日には、九州全域が強風域に入る見込みであり、接近または上陸のおそれもあり、最大級の警戒が必要です」


 彼は緊迫した面持ちで台風情報を伝える。1、2秒して画面が図に切り替わった。


「超大型で猛烈な台風16号は、明日夕方には沖縄に接近し、明日の昼から夜にかけて、勢力を発達させたまま九州に接近、または上陸すると見込まれています。米軍の観測によると、午前9時時点での中心気圧は830hPaであり、これまでに最も低い中心気圧を記録した、昭和54年台風20号の中心気圧870hPaを40hPa近く下回っています──」


 報道が進むと共に、台風の予報円が次々と映されていった。

 暴風域に入る可能性のある地域を示す暴風警戒域は、フィリピンの東半分から台湾、朝鮮半島、そして日本の半分以上を覆いつくしている。

 午後17時推定の中心気圧は815hPaであり、まさしく16号が「狂った」台風であることを如実に示している。


「うわっ、とんでもないな」

「そうね」

 功増が驚きの声を上げる。麗子もそれに同調し、頷いた。


 建多はできる限りテレビの画面と音を頭に入れないように努め、炒飯を頬張った。いつもと同じ作り方で作られているはずなのに、妙に味気ない夕食だった。


「また、気象庁は、『日本が今まで経験したことのないような猛烈な台風であり、今までとは違う最大級の警戒と対策が必要だ』と発表しており、中川総理も会見で国民に注意を促す予定です。また、JR九州など三社は計画運休も視野に入れており──」


 そう発されるニュースキャスターの声は、もはや建多には聞こえていなかった。

 



「ごちそうさまでした」

 建多はそそくさと夕食を終えると、耳障りな音を立てながら急いで食器を片付け、さっさと自室に戻ってしまった。

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