第三話 接近
建多は夢を見ていた。
彼は小学生の頃の愉得都や創樹と遊んでいた。自分だけが高校生の体をしていて、「ケンケン、今日はなんかでっかいな~」と愉得都が笑う。建多はその異常な状況に何の違和感も感じず、彼ら、そして彼の旧友たちとグラウンドでサッカーに興じていた。
空には少し雲があるが、太陽がさんさんと照りつけており、快晴である。
建多は敵チームのクラスメートに追われていた。身体能力は高校生であるにもかかわらず、運動が下手なゆえに彼はなかなか敵を振り切れないでいた。
「建多! パス、パス! こっち!」
「オッケー!」
創樹が建多にパスの号令を出し、彼はそれに応じて創樹の方向へ全力の蹴りをお見舞いした。ボールが回転しながら宙を飛んでいく。日光が目に入り眩しい。
しかし、ボールはあまりにも速すぎたのか、創樹のそばを通り抜け、そのままの勢いでコート外へと走り出していってしまった。壁からボールの当たった音がはね返ってくる。
少し落ち込んだ様子の建多に、創樹が「まあ気にすんなよ。こっちまだ勝ってるしな」と励ましの言葉を掛ける。その言葉に建多は前を向き、まもなく来るであろう敵のボールに備える。
敵チームの一人が、これ見よがしにボールを天高く打ち上げた。
それに応じて建多がふと上を見上げた時であった。
彼は、先ほどまであんなに晴れていた空が、完全に雲に覆い尽くされているのを見た。それも、白い雲ではなく、今にも雨が降ってきそうなほど黒く、積み重なった雲である。
地上はもうすぐ日が沈むほどに暗くなっていた。
「おい!キック来るぞ!」「建多なに上向いてんだよ!」
周りからの掛け声に応じて建多が顔を下に戻したのとほぼ同時に、彼の腕に水滴が落ちた。彼は自然と「雨?」と呟いた。
建多は雨を気にせずにサッカーを続けようとしたが、雨はどんどん激しくなっていき、わずかに十数秒で土砂降りとなった。大粒の雨が容赦なく彼の全身を打ち据える。
あっという間に彼の体はびしょ濡れになってしまった。彼の髪の先から次々と雨滴が垂れ落ちていく。
気づくと、周りにいるはずの創樹や愉得都、クラスメートの姿が全く見えない。皆の走る音も聞こえなくなった。
豪雨はさらに激しくなり、目の前は白く霞み、ほんの20m先も見えそうにない。足元にはすでに靴の半分ほどまで水たまりが広がっている。
激しい雨で息が苦しい。まるで、地上に居ながらにして溺れているようである。酸素を得ようと、建多は下を向き、そして驚いた。
水たまりは、もう膝の上まで来ていたのだ。本当に溺れるのも時間の問題である。
ここに至って、ようやく建多は自分が今夢の中にいることを自覚した。そして、この地獄のような世界から目覚めようと努めた。しかし、目は覚める気配を見せない。
ひとまず、雨のプールから抜け出そうと、建多は高所である校舎の上に行こうと歩みを進める。
その瞬間。
「うわっ!」
建多は泥と化した砂に足を取られ、受身も取れないままで水たまりに背中から突っ込んだ。水中に泥が巻き上がる。
元々運動の下手な建多は、そこから起き上がる術を会得していなかった。
建多は先ほどの通り呼吸をしようと、思わず息を吸ってしまった。
気管に泥水が流れ込み、それを追い返そうと反射的に咳が出る。そしてそれによりさらに多くの水が肺へと流れ込む。吐き出した息が、泡となり水中を上っていく。
彼は腕を精一杯伸ばしたが、それが水上に届くことはなかった。
建多は雨の湖の中で暴れながら、苦痛の中で意識を失った。
「うぅん……ううん……溺れる……」
「建多、建多! 何うなってるの! さっさと起きなさい! もう11時半よ!」
彼の部屋でうめき声を上げながら寝ている建多に、母の麗子が怒鳴る。
建多の、二学期が始まって最初の日曜日は、最悪のコンディションで始まった。
「昨日あんな本読んだからかなぁ……」
彼は目の下に青黒いクマを浮かべながらも、普段通りに身だしなみを整え、リビングへ降りた。テーブルに彼の分の朝ご飯となるはずだった食事が、ラップをかけられた状態で置かれている。
テレビには、ちょうどニュース系のバラエティ番組が映っていた。スーツ姿の司会者が、なにやら芸能人の不倫か何かをまくし立てているようだ。父の功増が座布団に座ってそれを熱心に見ている。
彼は建多が降りてきた方向を振り返ったが、特に何か言葉を掛けることはせず、またテレビに目を向けた。
建多は「はあ……」と長い息を吐きながら、食器からラップを取り外し、それらを電子レンジへと投げるように入れた。
数分後。
レンジで再加熱され、湯気を上げている食器を目の前に、建多はスマートフォンで動画を流しながら、かなり遅めの朝食を始めた。麗子が「食事中にスマホ触るのやめなさいよ」と注意するが、建多は「はーい」と空返事を返すばかりである。
建多は早速ご飯を口に運び始めた。今日のメニューは、白飯と味噌汁、そして牛肉と玉ねぎをタレで炒めた「焼肉定食」の3つだけと、少し質素である。しかし、途中で功増が昼食用の野菜を持ってきたので、彼の「朝食」は意外と充実したものとなった。
「野菜も食べなきゃ、な?」
椅子に座りながら掛けられた功増の声に、建多は皿に並べられたトマトを食べきることで返事した。トマト好きな彼にとっては朝飯前のことである。「やっぱりトマト好きやな。ええことや」と笑う功増。建多は彼の方に顔を向けはしなかったが、得意げになって口角を少し上げた。
もはや昼食となった朝食を食べている最中に、建多はテレビを見てみることにした。そろそろ動画にも飽きてきたからだ。
「エイヤソとコーニズ髙井の仲はこれからどうなっていくのでしょうかねえ。良い関係になることを期待したいです。さて次! 天気のほう、入りましょう!」
さっきテレビに映っていたのと同じ司会者が、言葉に勢いをつけて喋り倒している。彼が一旦話を切ると、最近気象のコーナーでよく出てくる林はやし気象予報士が天気予報を始めた。
「じゃあ林さん。お天気のほうよろしくお願いします」
「――衛星写真を見てみましょう。九州から関西地方はおおむね晴れますが、関東では所々に薄雲がかかっています。東北の太平洋側はもう曇り一色ですね。これは太平洋高気圧、えー、夏に日本に出てくる高気圧ですが。これが弱まってきているからなんですね。今後も3日くらいは、曇りが続くと予想されます。次に、気温の方ですが――」
林予報士は穏やかな口調で身振り手振りを交え、時折模型なども駆使しながら天気予報コーナーを進めていく。それを、建多は横目に見ながら味噌汁をすする。すでに焼肉定食は半分以上無くなり、昼食は後半に入っている。
「さて、お次は台風の情報です。台風16号ですね。この台風は今フィリピンに時速25キロくらいの速さで近づいています。こんな感じですね」
林は天気図を写しながら、台風の雲を模した指し棒を台風の中心に当てた。
「16号は今後も遅めの速度でフィリピン海を進み、日本へ接近してくると思われます。暴風域の半径は300キロくらいで、大型で猛烈な台風です。過去に例を見ないくらい強い台風で、しかも今後も発達していくと思われますから、皆さん、今日のうちから備えておきましょう」
彼は先刻より堅い表情と物言いで、台風情報を解説する。画面の端には、「中心気圧:870hPa 大きさ:大型 強さ:猛烈」というテロップが表示されている。それを見て、功増は少し顔をしかめた。
「台風強すぎない? これ絶対学校休みになるね」
「なるやろうな。嬉しそうやな」
「もちろん! 夏休み始まったばっかでまた休みとか最高」
麗子が友人と遊びに行くために家を出た中、二人は話す。
「いやいや、ここまでやと家吹っ飛ばされるかもしれん。これやばいぞ。父さんと母さんも心配やな。岐阜の山の方に居るからな」
「休みになるならいいや」
眉間にしわを寄せる功増とは対照的に、建多は能天気に言う。
建多はそれから間もなく昼食を終え、自室へ戻った。功増も部屋へ戻り、残っている仕事を片付け始めた。
建多は昨日も読んだ『現代の災害に対する考察』を、おどろおどろしい音楽をかけながら読み始めた。内容と曲調が共調して、彼の好奇心を搔かき立てる。
彼の読んでいるページには、1959年に襲来した伊勢湾台風による悲惨な被害を写した写真とともに、小さな字で解説文が書かれている。それを彼は、わずかに泣き顔らしい無表情で読み進めていった。
建多は本を読みながら、昼食の時の天気予報を思い起こした。
「過去に例を見ないくらい強い台風で、しかも今後も発達していくと思われますから――」
林予報士の優しい口調に似つかわしくない内容に、彼は少し不安になったが、数秒で彼の中の楽観的な価値観がそれを吹き飛ばした。
「休めるならいいじゃねえか。学校無くなったら嬉しいじゃん?」
その価値観は彼の心にそう呼びかけた。人間には、異常が起きた際も大丈夫と考えてしまう厄介な癖があるのだ。
しばらく本を読みふけった後、建多はおもむろにスマートフォンを手に取り、横浜に住んでいる従兄弟、鈴木海徒に電話をかけてみた。
数回の呼び出し音が鳴ったのち、海徒が電話に出た。
「おう、建多じゃん。何かあったの? こんな時間に電話掛けてきて。てか今どき電話? 普通ラインじゃね?」
彼は高めのあっけらかんとした声で喋る。
「いや、別に。何となーく電話しただけ」
「へえ。珍しいね。……ところでさ、次はいつ会えるんだ?」
「母さんに聞いたら、3月だってさ。けっこう先だね。楽しみ」
建多は久しぶりの従兄弟との会話を楽しんでいるようだ。
「そうか、お盆までか……。長なげぇなあ」
「意外とあっという間だったりして」
「あっ、そうだ。まだ生存銃野やってる? 今度遊ぼうぜ」
「それいいね。いつにする?」
たわいもない会話が交わされる。会話は近況報告、つまり成績の話、どこそこへ行った、最近ハマっているもの――などの話題で盛り上がり、5分以上にわたって続いた。台風の話題も出たが、二人とも大丈夫だろうと一蹴した。
「じゃ、ばいばい。元気でね」
「おう、また会おうぜ、建多。じゃあな」
こう言って二人はほぼ同時に電話を切った。建多は名残惜しい気持ちを抱えながらも、宿題に励むことにした。
水曜日に出さなければならない数学の宿題がまだまだ残っている。阿邊先生のことだから怒り狂ったりはしないだろうが、それでも小言を言われるのは嫌だ。建多はそう思いながら勉強机に体を向けた。
同年9月6日、日本標準時15時21分。
北マリアナ諸島から東北東に630km進んだ地点。
見渡す限り水平線の大海原は、迫り来る台風16号により、想像を絶する荒れ具合を見せていた。
普段なら青々としているはずの海は雲にも似たねずみ色に濁り、秒速70mにも達する烈風で激しく泡立っている。もはやほとんど横殴りとなった豪雨は海面に降り注ぎ、さながら大粒の霧が降っているようである。凄まじい低気圧と風により、海面は5m近く上昇していた。
もしそこに船でもいようものなら、たとえそれがタンカーであったとしても、あっという間に海の藻屑と消えていたことだろう。もちろん、台風の圏内に船の姿は一隻もない。鳥の姿は一匹も確認できず、著しい海面の泡立ちによって海中にいるであろう生物の姿も全く見えない。
絶えず雨に叩かれる暖かい海面からは次々と水が蒸発していき、台風に力を与えていく。2027年のフィリピン海の海水温は例年より3℃以上も高く、空へ行く海水の流れはもう止められない。
薄暗く積み重なった黒雲からは、時折まばゆい閃光と共に雷鳴が轟き、半ば夜と化した海を一瞬だけ昼へと変えた。百数本に枝分かれした稲光は、まさに天の怒りを象徴しているかのようであった。
台風は時速20km程度の、台風としてはかなり遅い速さでフィリピン海を西へ西へと歩んでいく。その道中にて水蒸気を吸収し、さらなる力を蓄えていく。
16号は時々、その先にある陸地を見据えるかのように速度を緩めた。それが単なる自然現象の一種なのか、それとも何らかの意思が働いているのかは分からない。
人類にはっきりと分かるのは、この台風が尋常ではない脅威を伴いながら、ゆっくりと、しかし着実に近づいてきているということ。ただ、これだけであった。
16号の進撃は、未だ始まりに過ぎない。
その勢いはどこまで増していくのか。それを知る者は、どこにもいない。