第二十一話 破滅の果てに
2027年9月11日、午前5時39分。
兵庫県神戸市は日の出を迎えた。といっても、神戸の地は現在も分厚い積乱雲の層に覆われており、太陽の光を見ることができる場所はどこにもないのであるが。
現在、風速はかなり落ち着いており、最大瞬間風速ですら70m毎秒を超えることはほぼなかった。また雨量も毎時60mm程度に下がってはいた。
だが気温と湿度は未だ高く、何もせず突っ立っていれば遅くとも2時間後には気分を悪くするほどの悪条件が整っている。ヒトの平熱に匹敵する熱さの海流が、その原因であった。
耐風設計でない建物は既に全部潰れており、今立ち並んでいるのは鉄筋コンクリート造の頑丈な建築ばかりである。
その瀕死の港街に、佐東建多はいる。
体中から塩分の少ない汗を流す彼は、死を避けるために力を尽くしている。隣には母の麗子がいる。彼が半ば無理矢理水を飲ませたおかげで、意識はまだ保たれている。他の避難民の半分ほどは意識を失い、残りは茫然自失と座るかあるいは周囲の人々と言い争いをしている。
「俺の水だ! 返してくれ!」
「私の、水です……」
皆、自分が生き延びるので精一杯なのである。
「ああ、とんでもないことになってしまった」
建多は素直にそう思った。
創樹と愉得都は大丈夫かな。自分はどうなるんだろう。もう台風による直接的な死は来ないだろう。でも、救助が来るまでからだはいけるだろうか?
「塩、塩だ」
混濁してくる思考を何とか巡らせ、水と塩を建多は求めた。幸いにも食糧はリュックに入っている。ナトリウム分の不足により小刻みに震える手でチャックを十秒近くかけて開き、中にあるポテトチップスの袋を取り出す。
袋に手をかけ、横方向に引っ張って破る。が、袋は破れなかった。
「え?」と思わず彼は声を出し、それから彼はもう一度袋を開けようと試みた。しかし、今まで何百回としてきた動作のはずなのに、何回やっても中身を取り出すことは叶わなかった。
彼の熱中症は、予想以上に進んでいたのだ。気づけばパッケージに書いてある文字が読めない。漢字とひらがなとカタカナ、算用数字とアルファベットで書かれているのは分かるのにもかかわらず、意味が分からなくなっている。
恐怖で混乱し始めた頭脳で、彼は学校に来たことまでを思い出した。が、なぜ来たのか、学校の名前は何かを覚えていなかった。視界が波打つ。目の前にある階段がうねっている。頭がぐらぐらと揺れるような強い不快感を覚える。眠気にも似た倦怠感が彼を包み込む。
「あれ……?」
続けて「俺の名前は何だったっけ?」と呟こうとしたところで、建多は意識を失い、後ろに頭から倒れた。硬い音が鳴ると同時に、脳に強烈な衝撃が走る。
いつしか彼の汗は、止まっていた。
同日、午前8時30分。
台風第十六号は、北関東を突貫し、いよいよ福島の土地に足を踏み入れた。上陸から5時間近くが経過し、勢力の弱まりはさらに大きくなっていた。最盛期には中心気圧680hPa、最大瞬間風速毎秒160m、最大一時間雨量400mmの怪物であったこの台風は、今や中心気圧780hPaの猛烈で超大型の台風に過ぎない。その目は、直径100kmほどである。
雲の端は途切れ、直径も2000kmを切っている。奄美諸島や沖縄は既に強風域を脱していた。
とはいえ怪物であることに変わりはなく、この接近を受けた地は最大で毎秒100mにも至る暴風で吹き飛ばされていくのみであった。山間地も沿岸地域も、積乱雲の塊がもたらす圧倒的な風雨によって水の底に沈んでいった。
情報は錯綜していた。
日本政府が機能を停止したため、公的な情報を流す機関は混乱に陥り、とりあえずその場で手に入れている情報を流すという状態に至った。内閣府や気象庁からの情報発信は途絶えた。
まだ無事な青森以北の人々は以南の情報を探ろうとしたが、出ない。気象情報だけは出るには出るのだが、まともに気象情報を発信しているのは日本の機関ではなく、アメリカやその他外国が運営するサイトであった。死者や行方不明者、現地の気象情報に至っては、ほとんど報道がなかった。せいぜいが鳥取や島根、石川や新潟といった日本海側の地域からのものであったが、それもかなり頻度を欠いたものであった。
これにより、外国からの救助隊の大部分は救助に赴くことができないでいた。私的な救助隊の一部には、日本の政府機能が壊滅したのを知って、領海侵犯と領土侵犯を覚悟して沖縄などに発進するものもあったが、大多数は各々が国に留まっていた。
「これ、動いてなくね?」
気象警報・注意報のページを見てみても、全国紫か黒のままである。しかも、ここ数時間の情報の更新が止まっている。SNSを見ても、いつもなら流れるはずの「こんなに雨降ってる」とか「風やばい」とかいった呟きが止まっている。止まっている順番は、沖縄、九州、四国、中国、近畿、関東。
すなわち、台風の来た順である。
現在、大被害を受けていない日本の政令指定都市は札幌市を残して他になかった。最も北にあるからこその僥倖であった。この、強風域にある北海道の中心都市の都市機能は失われておらず、中には生活必需品や娯楽のため、危険な外出を試みる人々もいる。
彼らは思いもしない。まさか、自分たちの住んでいる国の首都が竜巻で消えたなどとは。
北海道の市民は、少しだけ歪んだ日常を送ることが叶った。二重窓を設けた家の中で、わずかに入ってくる風雨の音を聞きながら、スマホやテレビを見たり、ゲームをして暇つぶしをする。それがいつまで続くか分からないにしても、少なくとも、今日だけは、最低限度の文化的な生活を送ることができるのだから、幸せ者であろう。
そして彼らの生活の実現は、台風の軌道によるものでもあった。
午前11時を回り、十六号が仙台市に到達した時、彼はぐるりと向きを変えて東北東の方面へ走り始めたのである。この時、台風の中心気圧は800hPaまで上昇していた。
何にせよ、進路の転向という偶然の出来事により、北海道の人々は致命的な損害を受けずに済むことになったのである。彼らにとっては、この上ない幸福といえよう。
実際、生きている回線を通じて発信された北海道民の声には、ある種の淋しさや罪悪感を含みつつも、喜びがあった。
「俺たちは死ななそうだな、本土の人にはちょっと申し訳ないけど」
「よかった、という思いと、私達だけ生き残っていいのか、という思いと、半々って感じ」
「台風マジ? 最高かよ」
「謎の方向転換で草。でもよかったーキモチエエエ⤴」
これらは、当時SNSに流れた発信の一部である。純粋に自己の安全を祝うものから、不謹慎にも札幌の首都化を匂わすものまで、混淆していた。
同日、正午。
以上に示した人々の悲喜こもごもは露知らず、仙台市を粉砕しながら台風第十六号は日本列島を脱した。
台風の眼前に見えるのは、水平線の端にまで広がる大海原――太平洋。海上移動というのは、陸との摩擦よりはよっぽど負荷が少ない。
こうして台風第十六号は、アメリカ合衆国までの距離8000km以上の長旅を開始した。偏西風に乗って行く旅行は、台風にとってそう「快適」なものではなかった。
何しろ、海水温が低すぎるのである。台風が発達するのに必要な海水温は、最低で27度と言われている。だが十六号が存在している海域の水温は、26度しかない。これでは徐々に勢力は衰退していくしかない。
何にも観測されない咆哮を上げ、渦巻く積乱雲は太平洋上を驀進していく。
――そして、最後にはアメリカ合衆国の地を踏むことに成功したのである。
日本標準時9月14日午前1時40分、日本は台風十六号の強風域から脱出。この6時間ほど前には中国や韓国、台湾、アメリカ、その他北海道などからの救援部隊が到着。沖縄や九州で、壮絶な被害を受けながらも生き延びた合計7万人ほどの人々が救助されたが、これは当時の生存者の五分の一未満の人数に過ぎないと推測されている。東京都心部の生存者は数百人足らずであった。
9月15日午前2時44分、台風十六号は東経180度線を通過。「海神」の名は引き継いだまま、台風からハリケーンとなった(今後の呼称は変更しない)。この時点での中心気圧は880hPaであった(アメリカ国立気象局の公式発表による)。同時にミッドウェー島、ハワイ島などが小規模な被害を受ける。
9月17日午後9時30分、台風十六号はサンフランシスコから北北西に約100km離れたティンバー・コーヴに上陸。この時点での中心気圧は890hPaであった。十六号はサンフランシスコ、サンノゼ、サンタ・ローザといった大都市や周囲の農業地域に歴史的な被害を与えつつ、ほぼ時速40kmほどを保って東進。
9月18日午前5時29分、サクラメントから東へ110km進んだ地点で台風第十六号は温帯低気圧となる。温帯低気圧に変化した時点での中心気圧は935hPa。この時点で、日本やフィリピンでの救助活動は概ね進んでいた。
その後、元・台風十六号であった温帯低気圧はやや南下しながら進むが、シエラネバダ山脈に阻まれ、うまく東へ進むことはできなかった。海からの水蒸気の供給が停止したため、衰弱が著しくなる。
9月20日午前2時11分、温帯低気圧消滅。
台風としての寿命は14日と4時間であり、これは記録されたものの中では十番目の長さであった。また、日本とアメリカの二カ国に上陸した初めての台風となった。




