第二十話 東京殲滅
2027年9月11日、午前2時45分。
東京都。
危険半円に属する日本国の中心地は、今、壊滅しようとしていた。
毎秒100mを超越する空前絶後の空気の激流が、東京市街を殴打する。
激震にも耐えられるように造られている低層の建築物は、しかしこの黒風に太刀打ちできず、五階建てよりも低い建築物の一部は次々と、おもちゃのように倒壊していった。当然、中にいる人々は巻き添えである。
だが、この烈風でさえ、港区や千代田区、新宿区などに林立する高層ビル群を薙ぎ倒すことはできないでいた。もちろん、それらを構成する窓ガラスは例外なく消滅し、中にいる人々の三分の一程度はガラス片を全身に受けるか、体を壁に激突させられるか、外部へ放り出されて落下するかなどして死している。
とはいえ骨組みに異常はなく、奥の方で災害の収まるのを心から祈り、必死の思いで耐えている人は多く存在していた。
しかし、人類への天誅ともいえるこの風雨の化物が、不注意にも人を罰し損ねるわけがなかった。
天罰の準備は、彼らの数十km南、東京湾で既に始まっていた。
東京湾付近で、台風を構成する積乱雲の底が地上に引きずり込まれていく。
それは、急激に発生した地上と上空との気温差を小さくしようとした結果生まれる、上昇気流の顕現であった。
滑らかな形状をした雲の錐は、ものの二十秒程度で地上に辿り着いた。地と繫がった積乱雲の漏斗は、やがて回転を始めた。
そう、竜巻の誕生である。
誕生した十数の竜巻が海水を猛烈な勢いで巻き上げ、空中に撒き散らす。各々の渦の間隔はわずか数百mから3km程度に過ぎない。
それゆえ、竜巻は接触する。接触すれば融合し、より強力な風の渦となる。
台風の咆哮から五分で、横浜から約10km離れた沿岸に幅370mの大渦が完成した。改良藤田スケールではEF3に分類されるだろう高威力の竜巻は、しかし、未だ成長の初期段階に過ぎなかった。
この竜巻はゆらゆらと東京湾を動きながら急激に成長を開始した。その周囲を彷徨う矮小な雲の渦を喰らい、呑み込み、自らの一部とする。さらには上空から連続して降りてくる上昇気流の権化が、彼に力を与えていく。巻き上げられる海水の一部に砂が混じり、空中を舞う。
轟と音を立てながら竜巻は移動を始めた。この時点でこの竜巻はEF5、即ち最強クラスに位置していたが、まだまだ風速の強化は止まらない。無尽蔵の積乱雲が地へ落下して渦に巻き込まれていくのである。
現時点で、緩慢に動く竜巻を、東京都民は一人も捉えられないでいた。当然である。
近隣の気象観測装置は全て破損。人力で観測しようにも、カメラを構えるのはおろか、外に出たとたんに地面から引き剥がされ、空中をあてもなく滑空する羽目になる。
このような過酷な状況で、一体誰が東京湾に現れた異常を認識できようか。否、誰にもできやしないのだ。
咆哮とともに生まれた自ら以外の渦をほぼ全て屠り食べ尽くした幅3.6kmの大渦は、いよいよ加速して北上を開始した。成長途中ではあるものの、中心部の風速は既に毎秒170mという未曾有の数値となっていた。
彼が目指すは、東京。
時速40km以上で海上を駆け抜ける嵐の圧縮体が上陸するまでに、そう時間はかからなかった。
午前3時01分27秒、竜巻は首都の地を踏み締めた。
まず犠牲となったのは、日本有数の国際空港――羽田空港であった。もとより大した防災設備も強靭さも持たない空港の建築は、渦が触れた瞬間に鉄屑となって空中を舞うゴミの一つと化した。まさに、鎧袖一触。
続いて大田区の建築が竜巻の贄となった。海面下に沈む市街地は一切の抵抗を許されず上空へ打ち上げられ、粉砕され、いくらかは数十秒が経ってから再び地上へと瓦礫の雨となって回帰した。
打ち上げられた地域では、新たな死者はほとんど出なかった。皆、数時間前に溺死していたためである。だがその西に広がる中心市街地では、噴石のごとく落下した夥しい数の瓦礫により多数のマンションやビルが損壊し、数百人が新しく死亡する結果となった。
竜巻は街を喰らう度に巨大化していき、大田区を壊滅させた時点では直径5km近くに達していた。もちろん、成長の原因は建築を破壊することではなく、強烈な上昇気流ではあるが。
2分後、竜巻は東京湾沿岸の工業地帯を巻き込み、品川区に到達。工業地帯の石油タンクやLPGタンクは死の間際に大爆発を起こしたが、それがこの烈風の大渦に与えた影響は何もなく、全くの徒労に終わった。
何十年もの時をかけて建設と再開発を繰り返してきた土木作業員や設計士、行政機関の努力は遂に水泡に帰することとなった。毎秒190mを超える異次元の黒風――この時竜巻は不純物を多く含んで文字通りの「黒風」となっていた――は、鉄筋コンクリート造りの高層建築物さえやすやすと基礎からぶち切って粉砕していった。
「ぐゔぇっ」
希望を持って内で座り込んでいた人間は、一瞬恐怖を感じた後には血塗れの挽き肉と化していた。
この破滅と同時に、竜巻の周囲には鉄屑やコンクリート、木材、そして人体の一部が次々と落下している。破片の一部は、10km以上離れている横浜市にまで飛んでいった。
品川駅前に林立する超高層ビルはもれなく彼の餌食となり、駅本体もリニア新幹線の構造もろとも粉砕されて更地と化していった。
竜巻は品川の先に広がる高層ビル街を睨み、進撃を速める。秒速210mの殲滅の風が、港区の、お台場の、浜松町のビル群を滅茶苦茶に破壊し、ミキサーのようにすり潰す。
高級住宅街として知られる白金も同様であり、不並びに建つタワーマンションは根元から三つに砕かれて中の人間もろとも消化される運命を辿った。
大自然の激怒の前には、富豪も貧者も、男も女も、誰もかもが平等に扱われる──全員が殺されるのである。
多量の粉塵を振りまきながら、竜巻は沿岸部を突貫する。海中に走る東京湾アクアラインが持ち上げられ、捩じ切られて最後には大気中に投げ出される。レインボーブリッジは半分原型を保った状態で端部から引き裂かれ、散々に宙を舞わされた末に豊洲駅直上付近に着弾。竜巻を免れていた周囲の高層ビルを薙ぎ倒して橋桁の一部は海中に没した。
一度海に戻った竜巻は、その五分後に浜離宮恩賜庭園に再上陸を果たした。東京随一の繁華街である銀座は跡形もなく吹き飛び更地と化した。庶民には到底手が届かない高価格で販売されていた高級腕時計や宝石などはコンクリートに潰されて破壊され、二度と人の手に渡ることはなくなった。
竜巻は東京タワーをも呑み込んだ。何重にも張り巡らされた鋼鉄の太い網と心柱で支えられ、首都直下地震さえ耐え切るとされるこの赤き鉄塔も、この赫怒の化身、秒速255mの烈風の怪物には無力であった。
破片の猛攻に遭い、中ほどから酷く歪められたタワーは、あまりの頑丈さでうまく捕食されず、鈍速で搔き回された後に渋谷駅近くへ落下した。渋谷の象徴たるハチ公像も、スクランブル交差点も、周囲の商業施設ごと消え失せていた中、ここにぐちゃぐちゃになった東京タワーの死体が渋谷ヒカリエの中層を直撃したことにより、この東京第二の副都心は更に重篤な傷を負うこととなった。
午前3時08分。
築地場外市場を通過した竜巻は、名実ともに日本の中心地である千代田区を蹂躙し始めた。
整然と並ぶ丸の内や霞が関の高層ビルは、幼児が積み木で作った建物を蹴り上げるがごとき様で次々と血祭りに上げられていく。日本存続のため最後まで力を尽くした閣僚や官僚の面々はみな物言わぬ生肉となり、ここに日本国政府は滅亡した。死した総理大臣を含む鉄筋コンクリートの塊は、竜巻から4km弱離れた新宿御苑に向かって撃ち出された。
今や北海道に避難なさった日本国の象徴が住まわれていた皇居も、暴虐の直撃を回避することはできず、周りから延々と落下し続ける破片の雨によりあっけなく消滅した後に、雲の錐本体による二度目の死を与えられた。天に旅立った森林の代わりに、瓦礫がそこを埋め尽くしていく。外壕の水が巻き上げられ、雨と混じって降り注ぐ。
「何!? この揺れ!」
「台風のうえ地震まで来たのかよ!」
特例で開放された企業の超高層ビルに避難していた人々も、予想外の襲撃の犠牲となった。彼らの一部には、黒い錐体が自分たちを襲っていることも分からずに壁ごと外へ投げ出されるものもあった。
秒速250mを超える人類史上初の怪獣の毒牙にかかっては、たとえ震度7を耐え抜く設計の摩天楼でさえ生残することはできない。空前絶後の激烈なる上昇気流は次々と外壁から構造を引き裂き、引き裂いて、最後は中心まで全部蹂躙してビル群を殺戮していった。
千代田区は狭く、それゆえ壊滅までにかかった時間はほんの3分程度であった。
秋葉原の電気街を喰らい尽くした大渦は進路を変えることなく、続いて上野の方面を目指して突き進み始めた。過程で両国国技館は消え去り、数千、数万という家屋が餌食となっていくが、それは彼にとって何の満足にもならないようであった。
レトロ溢れるアメ横も、北の玄関口と謳われる上野駅も、この巨都有数の観光名所である浅草寺も、いまやこの世には存在しない。この周辺でまともに原形を留めているものといえば、数々の地震対策が施された東京スカイツリーくらいであった。しかしそのスカイツリーも、ガラスやアンテナなど骨組み以外の細かい構造は消滅してしまっている。
東京の都心部は完璧に絶命した。残る三大副都心も前述もしたように瀕死であった。新宿の超高層ビル群は骨組みこそ無事だったが、絶えず落下し続ける瓦礫の雨で満身創痍であり、その下に見える繁華街も同様であった。池袋に至っては大竜巻に唯一呑まれなかった小さな渦が池袋駅東口側を嚙み潰し、半ば街の形を留めていない。
午前3時15分。
破滅の渦は千住の街を粉砕しつつ、海と一体化した隅田川と荒川を横断し、進行方向を北西へ曲げて埼玉への進撃を開始した。風速と太さには陰りが見えていたが、そんなことはお構いなしに吶喊して疾駆する。
埼玉で一番目に暴虐の犠牲となったのは川口市であった。これまでと同様の暴力を受けた市街は、為す術もなくコンクリートの悲鳴を上げながら崩壊した。彼に超高層ビルを屠り尽くす力はもう失われており、ビル群は外側だけを剥がされ、骨組みを露出して屹立することとなった。
その後、竜巻は京浜東北線に沿って川口市を北上。密集して建つ下町を喰らいながら3時22分には浦和を破滅へと追い込んだ。が、いよいよ限界が来たのだろう、さいたま新都心を踏み潰そうとしたところで急激に竜巻は衰弱し始めた。かろうじて新都心の端に位置するショッピングモールの屋上を部分的に剥ぎ取ることには成功したものの、空中に投げ飛ばすには至らず、白線の描かれた屋上は200mほど離れた家屋を押しつぶすのみであった。
明らかに風の渦には終わりが見えていた。渦を型作る雲は既に細く、それが描く線も曲線の多い頼りないものに過ぎなかった。見る見る間に土砂を含んだ雲が上空へ回収されていく。
午前3時31分51秒、竜巻はとうとう消滅した。一時間にも満たない、短い生涯であった。
残されたのは、ここ三十分で国家機能と八十万以上の人間とを失った、日本国のかつての心臓だけであった。
台風十六号は、これで目的は果たされたといわんばかりに超高音の咆哮を二、三度上げ、東北地方へ舵を向けた。
現代科学では未だ解明できない謎の大音声を上げる、直径2100kmの積乱雲の塊は、750hPaの中心気圧を伴いながら、時速70kmの高速で歩みを進める。
その単眼は、獲物を殺した歓喜に爛々と輝いているかのようであった。
完結まであと二話です。最後までどうぞお付き合いください!




