第二話 積層
ここから本格的に台風の出番が増えていきます。どうぞお楽しみに。
2027年9月5日、日本標準時9時45分。
誕生から約32時間が経ち、気象庁により「台風16号」と名付けられた台風は、アメリカ合衆国自治領たるサイパン島の近隣を突き進む。この時点で中心気圧は945hPaに達し、直径は600kmを優に超えていた。中心気圧は、ほんの1日で60hPaも低下していた。
過去にはあり得ないほどの勢力を持った台風は、ゆっくりと、しかし着実に日本に近づきつつあった。
サイパン島の人々は東から迫る渦巻く雲の塊の下にあった。
容赦ない横殴りの雨により辺りそこら中が水浸しになり、風速35m/sの暴風が吹き荒れる。
窓ガラスが飛んできた石で割られ、木々の枝もあっけなくへし折られていく。貧困層の住む家など、ものの数時間で屋根の半分を引き剥がされてしまった。家の中は木の葉や雨などの侵入者に荒し回され、惨状を醸し出している。
2メートル以上ある高潮が、沿岸の人々に襲い掛かる。人々の悲鳴が、風と波と雨の音が、島中にこだました。
サン・アントニオに住む、メンドーサ=エイドリアンもその例外ではなかった。家の窓は全て閉め切っているが、それでも大雨と暴風の音はうるさく耳に入ってくる。彼はその音を耳に入れまいと、大音量で音楽を聴き始めた。
彼は2時間ほど前に、妻と娘を昼食の買い物に送り出したばかりである。
しかし、普段なら40分くらいで帰ってくるはずの彼女らが未だに帰ってこない。彼は不安を募らせた。
ふと外のほうへ寄ってみると、窓枠がガタガタと音を立てて揺れている。今まで35年近く生きてきたが、流石に家が揺れるような体験をしたことはなかった。彼は少し勇気を出して、カーテンを開けてみた。
そこには、目を疑うような光景が広がっていた。
窓の前は激しい雨により白く霞み、その奥を目を凝らして見てみると、道中に折れた木の枝や吹き飛ばされてきた植木鉢などの物体がそこら中に散らばっていたのである。しかも、それらの物体は吹き荒れる暴風に押しやられ、ものの数秒で向こうへ消えていってしまう。
自動車や歩行者の類いは、いくら見回しても全く見つからなかった。当然のことである。これほどの風速になると、車ですら横転するものが出始め、人間など簡単に吹き飛ばされてしまうのだから。
メンドーサは考えなしに妻と娘を送り出してしまった自分を責めた。あの時、止めておけばよかったと。
しかし、そんなことを想っている時間はない。現状を何とかしなければ。彼は弾む心臓をやっとのことで抑え、何をすべきか考える。
連絡さえ取れれば、後でまた会えるはずだ。
彼はそう思って、スマートフォンで妻に電話をする。だが不幸にも、何度かけ直しても電話は繋がらない。
脳内に最悪の想定が浮かぶ。
彼の目から、自然と涙が零れた。
その次の瞬間。
一瞬の強大な暴風と共に数個の小石が窓ガラスを割り、家へ飛び込んできた。部屋中に暴風と大雨の嵐が吹き荒れる。幸いにもメンドーサは負傷しなかったが、小石はテレビに当たり、液晶を粉砕した。ヒビだらけの画面は、まだわずかに輝いている。
彼の頭は数秒間混沌の渦中に見舞われていたが、すぐに正気を取り戻した。そして、せめて窓の近くの物だけでも部屋の奥へ移そうと考えた。とりあえずは窓を直すべきだと彼は考え、部屋の奥の工具が入っている棚へ向かった。
数分の探索ののち、彼はガムテープを持ってリビングへ行き、割れた部分をテープで埋め始めた。その最中にも、風雨は容赦なく彼の顔や体を打ち付ける。それでも、妻と娘のため、彼は必死で作業を続ける。
やっとのことでガムテープを貼り終え、メンドーサが安堵のため息をついたその時。
まだテープを貼っていない上の方から平たい小石が突入し、彼の額を直撃した。皮膚が破られ、そこから血が流れる。頭に激痛が走る。
僅かな間に彼は気絶し、数秒後、テープを持った姿勢のままで床に崩れ落ちた。
ようやく返ってきた妻からの電話で鳴り響くスマートフォンの音は、しかし、誰にも聞こえることはなかった。
同日、17時25分。
建多は電車とバスを乗り継ぎし、家へと到着した。35℃にも達する夏の猛暑で、彼の体は汗にまみれている。太陽はこの時間になってもまだ上空で光り輝いており、9月になったとはいえ、まだまだ夏であることを感じさせた。
「あー、暑かったぁ!」
彼はそう言いながら勢いよく家の扉を開けた。続いて、「お母さん、ただいまー」と帰宅の合図を鳴らす。
「おかえりなさい。遅かったわね」
母の麗子が廊下まで迎えに来た。それに「そんなに遅かった?」と建多が返す。何の変哲もない、普通の日常の会話である。
「遅いわよ。……って、建多びしょびしょじゃない。早く着替えてきなさい」
母がそう急かすと、建多は袖で汗を拭った後、面倒くさそうな足取りで服の入っている棚のほうへ行き、朝の時とは打って変わって、緩慢な動きで普段着へと着替えた。英文入りの半袖Tシャツに短パンと、いかにも夏らしい服装である。
建多が着替え終わったのを確認した麗子は、「晩ご飯何にする?」と聞いた。それに対して建多が「唐揚げがいい!」と元気に答える。
麗子は「建多が唐揚げなんて、珍しいわねぇ」と呟きながら、近くのスーパーに買い物に出かけていった。
およそ2時間後。
食卓には山盛りの唐揚げ、サラダ、ご飯などが並び、いかにも成長期の夕食といった感じである。十数分前に帰ってきた父、功増も加わり、食卓を囲んだ。
「いただきます!」
威勢のいい建多の声で夕食が始まった。建多がどんどん唐揚げを食べていく。「ちゃんと野菜も食べてね」という麗子の声も、今の彼には届いていないようである。その状況に、「いっぱい食べるんはええことやな」と功増が笑いながら口をはさむ。
そんな風に建多が夕食を食べまくっているとき、麗子は何となくテレビをつけてみた。
テレビには漫才が映っていたが、彼女は芸能にあまり興味がないようで、すぐにニュース番組に切り替えた。
「あっ、それ見たかったのに」
「コーニズの漫才、めっちゃ面白いんやで」
二人が不平を言うが、麗子は気にしない。
ニュースは、ちょうど天気予報に差し掛かっているようだ。画面には、日本とその周辺が写っている衛星写真と天気予報士が映っている。
「さて、今度は台風の予報です。4日未明に発生しました大型で非常に強い台風16号は、現在勢力を強めながらフィリピン海を時速20km程度で西へ進んでいます。台風は急速な発達を見せており、今後日本への接近が予想されるため、暴風雨への対策が必要となるでしょう――」
予報士が差し棒を持ちながら解説する。
「今年の台風、なんか強いわね」と画面を見ながら麗子が呟く。
「確かに。もう930hPaか。市役所でも台風について言われたなぁ」
「あさってくらいに植木鉢とかしまっといた方がいいかしら」
両親が話し合っている間にも、建多はバクバクと唐揚げを食べ続けている。
「一応非常食とかも買っといた方がいいんかなあ」
「そうね。明日スーパーに買いに行ってくるね」
「ああ。あと、ハザードマップも確認しとかなきゃな」
二人の会話に建多は耳を貸そうともせず、夕食をかきこんでいる。
両親の防災会議《《らしきもの》》は、建多の「ごちそうさまでした!」の声で終わりを告げた。彼の顔は誰が見ても満足しているとわかるほどの笑顔である。その顔を見て、麗子も嬉しそうに笑う。
夕食を終えると、彼は皿をシンクまで運び始めた。建多が皿を運ぶのは、佐東家の慣例である。
建多は皿を運びきったあと、自室に戻った。部屋の時計は8時2分を指している。彼は部屋のドアを閉めるやいなや、床に寝転がって読書を始めた。読んでいるのは、朝学校で読んでいた『現代の災害に対する考察』である。一週間前に買ったこの本は、彼の性分に見事に合致していた。
「意外に思われるかもしれないが、温暖化により、台風の総数は減少していくと考えられる。しかし、そのひとつひとつの台風は強いものとなる――か。面白い」
大半の人間ならタイトルを見ただけで忌避するような本を、時折独り言と笑い声を交えながら読む様は、端から見ると相当奇妙に映っていたことだろう。彼は好きな台風の節を繰り返し読み、本を閉じた。
本を読み終えてから数分後、建多は勉強することにした。そろそろ受験を視野に入れて勉強した方がよいと思っているからだ。彼が目指すのは、兵庫県随一の学力を誇る神戸大学である。学部はまだ決めていないが、たぶん理学部になるだろう。
彼はすっくと立ちあがり、勉強机の椅子に腰を据えた。シャープペンシルと字消しを取り、ノートに問題を解いていく。建多が解いているのは、彼が苦手とする場合の数である。勉強は選択肢を広める、という父、功増の言葉を発奮材料として、彼はペンを走らせる。静かな部屋に、ペンが紙を打つ音が響く。
しかし、20分ほど勉強していると、いまいち勉強がはかどらなくなってきた。先ほどの言葉は、もう効力を失ってしまったようである。合格のためには、高二の時からの勉強が欠かせないと分かってはいるのだが、まだ、何というか、彼には現実感がないのだ。
ペンのスピードはどんどん落ちていき、彼はついに床に投げられたスマートフォンを手にしてしまった。建多は、これは休憩だ、と自分に言い聞かせてゲーム実況の動画を見始めた。
そうして10分程度動画を見ていると、「そろそろお風呂入りなさい」という母の声が聞こえてきた。彼は、これを口実としていったん勉強をやめることにした。彼は1時間くらい勉強した気でいるが、実際の勉強時間はほんの30分程度である。
脱衣所で服を脱ぎ、建多は風呂に入った。まずシャワーで体を流す。シャワーの音とともに、体についている乾いた汗が洗い流されていく感覚が心地よい。
次に彼はゆっくりと浴槽に体を沈めた。彼の口から思わず笑みと共にため息が漏れた。疲れた体に温かいお湯がしみわたる。凝った体もすっかりほぐされたようである。
湯船から上がると、建多は顔と体を石鹸で洗い、最後に、頭を洗った。手にたっぷりシャンプーを出し、泡立て、髪の毛に付ける。汗を多くかいた日には、彼はシャンプーを多めにすることにしている。別にシャンプーの量を多くしたからといって汚れがよく取れるようになるわけではないことは知っているが、こうするとなんとなく気分がいいのだ。
1分程度シャンプーをしみわたらせ、彼は頭を流した。泡が湯と混じって落ちた時に立つ独特の音と共に、頭がどんどん元の黒色を取り戻していく。
体と頭を洗い終わった建多は、すっきりした気分で風呂場を出た。
そして、風呂から上がりパジャマに着替えた彼は、久しぶりに体を動かした疲れからか、布団に入るなり死んだように眠ってしまった。
彼はあっという間に夢の世界へと転送されたのだった。




