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第十八話 西日本大蹂躙

 2027年9月10日、午後7時33分。


 台風第十六号は、相変わらず猛烈な勢いを保ったまま和歌山県南部を通過する。近畿の経済の中心部である京阪神地区は、もはや復興は不可能と思われるほどの大被害を出し、現在進行系で数百万もの人々、そして動植物が命を失いつつあった。

 一方で、台風の目の中にある和歌山県田辺市などの地域は、現在ほぼ風雨もなく、むしろ美しい宵の空が見えていた。近畿の南の端にあるこの地は、数日ぶりにまともに済んだ空を見ることができた。田辺市よりも下った所、本州最南端の地である串本町では、上弦の月を低空に望むことができるほど、綺麗な夜空が実現されていた。

 雲ひとつない空。今、串本町は日本有数の美観を持つ地であるとさえいえる。


 ――その地面が全く変わり果てた姿になっていることを考慮しなければ、であるが。


 数時間前までは台風の目の壁の直下に位置していたこの町は、今や褐色に染められた荒れ地に過ぎない。美景で知られる紀伊山地の木々はそのほぼ全てが根こそぎ引き抜かれ、膨大な量の雨水を吸い込んだ土砂を月光に晒している。

 風速毎秒100m以上という未曾有の暴風に対する耐性を備えていなかった家屋は大部分が消滅。一部の頑丈な建物であっても、原型はとどめていない。森林の近くにあった構造物の中には、数十という巨木の下敷きとなった哀れなコンクリート造りの建築物もあった。

 川も何ら静かとはいえない。上流からどしどし流れてくる水により、近畿や四国などの河川はいずれも茶色に染まり、しかも氾濫しているのである。言うまでもなく、和歌山の川も例外ではなかった。

 


 とはいえ、この町はそれでも幸運であると言わざるを得ないであろう。

 まさに今現在、死に面している230キロメートル北の大都市に比べれば。





 

 

 場所は移る。

 京都府京都市。


 神武天皇以来二千年以上にわたって受け継がれ、発展し続けてきた日本文化を象徴する寺社や城などの建築はもれなく倒壊する憂き目に遭い、そこに保管されていた書物や展示物といった物も同様の運命を辿った。

 金閣寺も、銀閣寺も、清水寺も、京都御所も、二条城も、伏見稲荷大社も、何もかもが大自然のもたらす空前絶後の風雨によってこの世から姿を消した。現代的建築で有名である京都駅ビルは、窓ガラスという窓ガラスを吹き飛ばされ、鋼鉄の骨組みと化して半壊状態に至った。

 人々に日本の歴史を体現するものの数々が消えつつあることを憂う暇はなく、単に死の恐怖に怯えて震えることしかできなかった。


 この大災害を止める方法は、もう、無い。上空数千mから一万m以上までに君臨する、直径2400kmの積乱雲の化身に対して、人類にいったい何ができるというのか。

 日本国政府は既に各国に救助要請を送っていたが、仮に救助隊が到着できたとして、彼らはどうやって生者を見つけられるというのか。台風の通過してきた地域は例外なく瓦礫と木々が折り重なって死んでおり、そこに人間の影は見えないというのに。


 そして、生き残っている者たちの希望も、徐々に削がれつつあった――。

  



 兵庫県神戸市灘区、六甲学園中学校。

 平時から避難場所に指定されていたこの私立中は、現在300人ほどの避難民で満たされている。避難民らは風をまともに受ける教室や廊下、体育館などではなく、比較的安全といえる階段やトイレにて風雨を耐え忍んでいる。幸運なことに、今のところ竜巻の被害も受けていない。

 が、彼らの希望は薄い。

 一に、食糧不足。二に、高温多湿。三に、連絡の寸断である。


「私たち、これからどうなるんだろう……」

「わからないよ……」

 佐東親子をはじめとする避難民らは、この三つに絶望を感じるばかりであった。


 今はとりあえず避難できた。だが今後助かる保証は? 母さんと一緒に三日分の食べ物と水を持ってきたから何日かはしのげるだろう。けれど、これも尽きてしまったら?

 そもそも、こんなに暑くてジメジメしているのに死なない確証があるだろうか――いや、ダメな確率のほうがうんと高いに違いないよな……。

 猛烈な雨と風の音も耳に入れず、建多は独り、これから待ち受ける最悪の運命について考えを巡らせていた。隣に座る母の麗子は、心労と疲労のあまり気絶に近い眠り方をしているようだった。

 両者ともに、体の表面には大量の汗がしみ出していた。気温は30度以上、湿度はほぼ100%。このような状況では、いくら汗をかいても体温はほとんど下がらない。むしろ水分不足を助長するばかりである。じっとりと汗が染みて暗い色になったシャツがべっとりと体に貼り付いて、彼らにえも言われぬ不快感を与える。


 やばいな。頭が疲れてきた。考え過ぎかな? 水は飲んだし、まだ熱中症じゃないはず。

 気分の悪さを疲労しているせいと建多は考えていたが、実のところこれは熱中症の初期症状であった。

 滝のように流れる汗に含まれる水とナトリウム、カリウム分などを補うには、彼の水分摂取量は少ないと言わざるを得ない。麗子はなおさらであり、早々に水分補給をやめたあまりに既にⅡ度の熱中症に陥っていた。

 不幸にも、彼らは体の不調の原因を水分及び塩分の不足に帰結させる思考力を失っていたのである。

 

 




 台風は南海トラフの直上に身を置き、名古屋方面を目がけて時速60km以上の高速で空を駆ける。

 西は台湾、東は樺太までを覆い尽くす水の怪物は、一切とどまるところを知らない。

 その過程で起こるのは、まさしく西日本の大蹂躙であった。


 関西圏の中心部たる大阪市では、最大瞬間風速110mの暴風と、一時間雨量290mmの大豪雨が市街地を袋叩きにしている真っ最中である。

 埋立地や沿岸近くの低地の浸水高は8mにも及び、数十万という家屋は人の住む構造物として崩壊した。避難所と指定される建築物ですら、いくらかは完全に水没した。当然ながら、そこに避難して一定の安堵を得ていた人々は驚き、恐怖し――最後には気管を通して両肺に1mLあたりで数百の細菌を含む水を入れ、苦しみもがきながら命を失うに至った。

 淀川は琵琶湖ともども氾濫を起こし、河川流域を湖に変えた。特に東淀川と淀川に挟み撃ちされた東淀川区や淀川区、摂津市の被害は大きく、浸水高はなんと13m以上であった。これは行政が公開していたハザードマップの予想値を超えた値であった。

 吹田市はハザードマップではほとんど浸水しない、と示されていた地域であったが、実際には過半が洪水を受け、浸水高は最大で10m超過となった。吹田市北にある千里ニュータウンでは、マンションに籠もる多くない人々だけが部屋の奥で襲い来る恐怖と戦っている。残りのほとんどはもう死に絶えていた。


 滋賀県では琵琶湖の増水による浸水害が深刻であった。守谷市や野洲市、八幡市などの琵琶湖の東側に位置する地域には、低地の多いこともあって沿岸10km近くまで琵琶湖の水が押し寄せた。


 奈良以南の地域の被害は、凄惨というほかない。

 和歌山市では毎秒150mという規格外の風により高層建築物さえもが倒壊。根本から無理やり引きちぎられた鉄とコンクリートと少量のタンパク質の塊は、行くあてもなく空中を数秒から数十秒振り回され、最後には地面に激突してそこにあった木々もろとも粉々となっていった。

 奈良でもほとんど同じような惨状が各地で見られた。条里制の名残を残す町並みは軒並み暑い水に沈み、奈良の大仏や平城京跡などの歴史的建造物は京都市のそれらと同じく破滅への路を走ることとなった。


 結果、兵庫県、大阪府、京都府、滋賀県、奈良県、和歌山県の四県二府における死者数は、9月10日午後9時の時点で250万という未曾有の数値となった。

 そして、この時点で息のある人間も、いずれ熱中症と水分不足で結局天国か地獄へ行く破目になるのである。助けなど来る余地もないのだから。

 もっと恐ろしいのは、これほどまでの人間や動物を死に至らしめてきた台風に、衰える兆しが見えてこないところであろう。

 その色は、彼が今まで為してきた殺戮を全く感じさせないほどに、綺麗で、美しく、優雅な白であった。太陽光をことごとく反射することにより実現される、純粋なる白であった。

 その純白の自然の下で、いったい、どれほどの命が終焉を迎えているだろうか。それは数えるに忍びない。


 

 台風第十六号――海神(ハイシェン)は太平洋上を駆けて、いよいよ日本本土への上陸コースに乗った。

 その過程で二千万近くの日本国民を負傷させ、意識を奪い、熱中症へ陥れて、死に至らしめながら。

 彼の見据える先は、中部地方の中心たる名古屋、日本の心臓たる東京──ひいてはその遥か北方に霞む北海道。

 かつて、60年以上前に三重県や愛知県に壊滅的打撃を与えた伊勢湾台風に匹敵する速さで、台風は和歌山県の南を驀進する。

 わずか半日程度で西日本の掃討を終えた雲の塊は、東日本をも叩き潰さんと動き始めたのである。

今後は三日~五日間隔で投稿するように努めますので、どうぞ最後までお付き合いくださいませ。

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