第十六話 西日本、壊滅
<おことわり>
今回には広島の原子爆弾による被害、およびそれに関する施設・建築物に関する描写が含まれますが、筆者にこれらを揶揄したり、軽視したりする意図は、一切ありません。創作上の描写として予めご理解ください。また、前々文の描写に強い抵抗を覚える方は、閲覧を控えてください。
2027年9月10日、午後5時40分(日本標準時)。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)・平壌直轄市、金日成広場。
決して経済状況が豊かとはいえないこの国家の首都にも、台風の魔の手は及んでいた。
北朝鮮を建国した偉大な元帥様と、その跡を継いだ太陽の如き将軍様の肖像画が並ぶこの広場に、今、人はいない。ただ二人の顔を雨風が打つのみである。
広場に面した道路を走る自動車も少なく、街全体がどんよりとした空気に包まれている。フロントガラスに取り付けられたワイパーは、毎秒20mを超える強風と、毎時15mmに達する強雨により、ほとんど意味をなしていない。
「また停電だよ、ハユン。……仕方ないか。台風のときはいつもこうだしな」
太陽の偉業を輝かせる……と歌われた将軍の肖像画も虚しく、人々は電気の切れた家屋に引きこもり、つつましく台風を耐え忍ぶだけであった。
だが、平壌の人々は幸運であると言わざるを得ない。
――日本は、台風16号――海神の憤激により、亡き者とされようとしているのだから。
今日の昼前から、台風第16号は異常な速さで太平洋上を驀進していた。原因はもちろん、偏西風の加速である。
午前8時には時速25km程度だったのが、日没間近の今ではなんと時速60kmにまで加速している。
同時に16号は、日本を滅ぼす確固たる信念を持っているかのように北上を開始。九州沿岸100km程度を沿って進む烈風の魔物に対し、九州や四国は何の抵抗もできずに壊れていく。
太平洋の海は不気味で暗い赤に照らされ、吠え、猛って表面を真っ白に湧き立たせる。空の雲は黒く、時折煌びやかな雷光とともに騷ましい稲妻の轟音が響き渡る。
危険半円の風速は中心から600km離れた地点でも毎秒54mに達し、中国地方以東は壊滅的な被害を被りつつあった。
――広島県広島市。
82年前、世界で初めて核兵器の実戦使用の標的となり、一度廃墟と化したこの都市は、先の原爆による被害が僅少だと思えるほどの大災害に見舞われていた。
毎秒62m、毎時120mmの狂気の雨風が、広島の街を蹂躙していく。
市内を三角洲が通り、北には山が聳える広島市の地形は、台風に対して分が悪すぎた。
ろくに暴風対策もされていない山間部の木造家屋は土砂に潰される以前に暴風によって倒潰し、かろうじて無事であったコンクリート製の建築物も、猛烈な勢いで崩れ落ちてくる圧倒的な質量の土砂と水の塊に覆い尽くされた。中にいる人間は、これまでどおり家ごと圧死するか、そうでなくとも溺死の路を辿った。
斜面に生い茂る木々もろともずり落ちた山の斜面からは、茶色い山肌が痛々しく姿を覗かせている。
凄まじい豪雨により著しく増水した川が、水量に耐えきれず堤防を越えて市街地へとなだれ込む。旧太田川と元安川に挟み撃ちされた原爆記念資料館とその前に広がる平和記念公園は、安寧の欠片もない濁流荒れ狂う地獄と化した。瀬戸内海から壁のように迫り来る高潮と相まって、浸水高は9mを超えた。
幾千万の来訪者に原子爆弾の惨さを伝えてきた様々な資料は、無慈悲な茶色の河川水により浸水し、引きちぎられ、押し流され、他の資料とぶつかり合って壊れていく。
ヒトの落とした叡智の炎によって破壊された旧産業奨励館──原爆ドームは、大自然がもたらした烈風と褐色水の速流を以て二度目の死を与えられ、下部から横に飛ばされるようにして倒壊した。ドームの壁面のひとつは濁流を持ち堪えていた元安橋に激突し、歩道の部分を粉砕してまた海へと流されていった。
台風を楽観視して避難しなかった人々は軒並み土砂水の集団に搔き消され、低層階に避難した人々も同様の運命を辿った。唯一、高層建築物の3階以上の、それも内部に逃れた人だけが、死を免れることができた。窓に面した部分にいた人々は、粉々になった窓ガラスと共に壁や天井に叩きつけられ、意識を失うか頸椎を折るなどして命を落とした。
たとえ適切な避難ができたとしても、運が悪ければ台風の咆哮とともに生まれる竜巻が彼らの体を引き裂く。そして、その「運が悪い」人は三角洲上の市街地に多かった――。
「ママ…… こわいよ……」
旧太田川に面したマンションの5階の一室で、少女が恐怖してつぶやく。
彼女は今、この建築物で最も安全とされるトイレにこもっている。停電しているため、トイレの中を照らすのは懐中電灯だけであり、それが彼女の恐怖心をいっそう搔き立てる。
「りんかちゃん、大丈夫よ。このマンションは鉄骨だから。しっかりしてるの」
涙目の少女を、温和な表情を繕った母親が慰める。しかし少女が緊張の糸を緩めることはない。ぴんと張り詰めた糸は、あと少しで切れてしまいそうだ。
少女の胸に手を当てた母親は、それから少女の背中をぽんぽんと優しく叩き始めた。合間合間に彼女は「安心して」や「大丈夫」といった言葉をかけた。
母親が話しかける最中にも、風雨の音は容赦なく二人の耳に入る。現に、リビングルームの家具はおしなべて暴風により壁にがんじがらめになっており、テレビの液晶は割れている。雨水は廊下の奥深くにまで侵入していて、トイレのドアにも水滴が垂れている有様である。
瞬時にいっそう強い風が吹くと、マンション全体が微細に揺れた。
それでも母親は不安な顔をすることはない。内心にある憂慮をさらけ出せば、愛娘がパニックに陥ることは明らかだったからである。自分は母として、あくまでも娘を心配させるわけにはいかない。
そこには、子孫を守る感情である母性があった。
その時。
二人――否、広島市の沿岸にいた全ての人間は、異様な高音を聞いた。
耳をつんざく、甲高い声のような音。
その音は、ちょうど4秒間広島の街に響き渡り、そしてふいに止んだ。
「ママ、さっきの音なんなの!?」
得体の知れない音波に恐れをなした少女は、目から涙をこぼしながら母親に詰めよった。涙滴が五粒ほど、トイレのマットに落ちて染み込む。
母親は首を横に振って答えなかったが、代わりに彼女をぐっと抱きしめた。
「何があっても、ママが、ママが守るからね」
だが、母親の娘を安心させるための努力は、まもなく最悪の形で水泡に帰すこととなる。
「今度はなに、なんなの!?」
娘が突然叫び、今度こそパニックに陥ってしまった。床にうずくまって号泣する彼女に寄りながら、母親はこれまで聞いたことのない異質の音を聞く。
地上の万物が、文字通り全て巻き上げられていく音。
コンクリートが、ガラスが、木が、レンガが、切り離され互いに衝突し、砕け散る噪音。
竜巻の声である。しかも、速い。音がどんどん大きくなっている。
鉄筋コンクリート造りの建築は、竜巻にも耐えられる。そう知っていた母親は、湧き上がる恐怖心を抑えながら娘に覆いかぶさる。
「ママどうしたの!?」
脊髄反射的に身を挺して子を守る体勢に入った母親だが、それが功を奏すことはなかった。
「竜巻が来るの。でも、このお家は頑丈だから、だい――」
そう言いかけたところで、竜巻がマンションを直撃したのである。
毎秒111mの黒風に耐えられなかったマンションは、上昇気流の荒ぶままに地から引きちぎられ、1階部分だけを残してバラバラに散っていった。
ひび割れて崩れていくコンクリートの塊が親子をぐちゃぐちゃに挽き潰し、血にまみれた肉片へと変貌せしめた。血液はすぐに雨水により希釈され、赤色を失っていった。
台風16号が加速し始めてからのわずか11時間で、広島市民の55%にあたる65万人が死亡した。
広島市から約250km東に位置する神戸市も、まったく無事では済んでいない。
広島よりは被害は軽いものの、最大瞬間風速は80.2m、雨量は毎時80mmを記録している。
このとき、灘区にいる佐東建多は避難所にいた。母の麗子の判断で、家の近くの六甲学園中学校に避難したためである。学校の中には人はそれほどいないにもかかわらず、几帳の準備も間に合っていない。
廊下や教室、体育館は風をまともに受けて危険極まりないため、二人は階段に座って風をやり過ごしている。
避難したのは午後3時10分くらいだったが、その時点でもう木が倒れるほどの風が吹き荒んでいた。雨は強く、高潮は沿岸部の工業地帯やポートアイランドなどを丸呑みにしていった。
「避難しといてよかったね」
「ほんとにねえ。今じゃもう間に合わんよ」
建多と麗子は互いに早めに避難したことに安心していた。父の功増は災害招集がかかっていたため、市役所にいる。
昨日の夕方、「じゃあ行ってくる。くれぐれも死ぬなよ。ははっ」と、いつものように笑いながら、呑気な調子で彼は家を出ていった。二人としては、それが現実とならないよう祈るばかりである。
激しい風が電線を切ったため、市内の9割以上の電力供給が絶たれていた。中学校も例外ではなく、学内は雲を通して暗い赤色に光る夕焼けが、かろうじて室内を照らしている状態である。
「山川さんどうなったんやろ。連絡つかへんねんけど」
「ネット繫がらんやん!」
「おばあちゃん、大丈夫かなぁ……?」
「お母さん、しんどい……」
周りの人々も、口々に不安や倦怠の情を話す。部屋が暗いことは、確実に避難民の精神状態に影響を及ぼしていた。
建多も心臓の拍動がとても速くなっていることを自覚する。問題ない、避難したんだから――と己に説いても、鼓動はまったく遅くなりはしない。脂ぎった汗が顔や体に浮かんで、垂れ落ちる。
災害に興味があるといっても、実際に被害に遭うとなれば話は別である。
「建多、水飲む?」
大地震の初期微動のような細かい揺れが、彼の体全体を揺らした。
母の提案に対して、彼は「うん」と返すので精一杯であった。
同刻、神戸市役所では、招集された職員が徹夜続きで災害対策にあたっていた。一室のホワイトボードには地図が貼られており、避難所の場所をはじめとする各種情報が所狭しと書き込まれている。十台のランタンが、蛍光灯の代わりに室内を照らしている。
窓に面した部屋はもはや使い物にならないので、内部の会議室を臨時に対策本部として使っている状況である。
「避難誘導は不可能、か……」
「洪水は? 高潮はどこまで来ている?」
「住吉川、生田川、妙法寺川など河川の状況はどうなんでしょう」
「通信ができんようじゃ何もわからへんわ。現地まで行くわけにもいかんしな。こっから分かる限りやと、もう高潮が来てるのは確かや」
「北区、西区のニュータウンは大丈夫だと思いますが……」
「だから、わからへん。電話もメールも通じんし」
しかしながら、現在職員ができることはほとんどない。電気は社会の心臓といっても過言ではない現代において、電気抜きでできることはあまりにも少なかったのである。
最後に入ってきた情報は、午後4時半ごろに入ってきた「妙法寺川、生田川、湊川などの河川で急激な増水あり」というものであった。それ以降は一切の通信が途絶えた状態である。
「あぁ暑い」とうめきながら、佐東功増は額の汗を手で拭う。冷房が切れてから、室内は尋常でない蒸し暑さに包まれていた。
そして、その冷房が復活することは――少なくとも1ヶ月は――ない。
彼の前にどっさり積まれた紙の資料が、注意不足で当たった彼の腕によってばらばらと床に落ちていった。
台風第16号は、時速58kmの高速で四国南岸を突き進む。
中心気圧705hPaの大雲の怪獣が、眼下に広がる矮小な都市の数々を睥睨するかのように超高音の咆哮を上げる。
16号の次なる餌食は、関西。
平年の赤道付近よりも熱い海水はどしどしと蒸発していき、16号に喰らい尽くされて台風の一部となる。通常ならば陸との摩擦で衰えるはずの台風は、最盛期とほとんど変わらない圧倒的威容を保ち続けている。
西日本の大蹂躙は、未だ始まりに過ぎない。
関西地方にはまだ、この台風に惨殺されようとしている数百万の人々が、死の恐怖に震えながら耐え忍んでいるのだから。




