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第十五話 広域避難

 2027年9月10日、午後3時。


 フィリピン、沖縄、南九州を風と雨と波で撃滅し、勝利の雄叫びを上げる台風第十六号は、次なる餌食のため、四国を目指して北上する。

 雲の三割ほどが陸地にかかっているにもかかわらず、その勢力には僅かな衰えしか見ることはできない。

 中心気圧710hPa、最大瞬間風速毎秒210m、最大一時間雨量405mmを誇る憤激の化身は、海から絶え間なく蒸発していく水分を喰らい、取り込み進撃していく。


 台風の為すことは、これまでと何ら変わらない。


 重さ数十兆トンに達する自身の一部を豪雨として地へ叩き落とし、家を、車を水没させ、動物を溺死させる。

 異常な気圧差によって人智を超えた極超の烈風を引き起こし、家屋や構造物を人間やペットもろとも瓦礫の塊へ変貌させ、森林を薙ぎ倒し、人を容易く呑み込む白浪を吹き立てる。

 超が付く低気圧をして海水を持ち上げ、6階建てのマンションさえ完全に水没せしめる脅威の高波を作り、沿岸部を覆い尽くして海の一部とする。砂礫やヘドロ、瓦礫をふんだんに含む黒い海水の餌食となった機械や家屋は、もう二度とその機能を取り戻すことはない。


 変わりない台風の暴虐は、今まで南方の地が見舞われてきた惨状と全く同じものを、北九州や四国、中国地方の東部へもたらした。

 ろくに対策もしていなかった人々は鎧袖一触で死に絶え、ひたすら雨と風に打たれる有機物と化した。

 備蓄をしたり、避難所へ行ったりするなどの対策をとった人々も、大半は家ごと叩き潰されたり、弾丸の如く空中を驀進する飛散物に全身を滅多撃ちにされたりして、物言わぬ肉塊となった。

 たとえ命からがら生き延びることができたとしても、電気も、水道も、ガスも、電波も存在しない近代以前の空間に、彼らは取り残される。


 累計死者数は、午後5時の時点で1000万人を超えた。負傷者も含めると、被災者の人数は世界人口の1.0パーセントに達している。

 


 まだ被害を受けていないか、あるいは被害が軽微である地域の人々は、この台風が自らの想像より遥かに狂い切った怪物であることを悟り始めた。

 何しろ、台風が通過してきたほとんど全ての地域との通信が途絶えているのである。今まで日本国が経験してきたどんな災害であっても、被災地からの「声」は、遅くとも翌日には聞こえてきた。

 だが今回はどうか。SNSのトレンドは災害関連で沸き立ってこそいるものの、沖縄や九州といった被災地からの発信がまるでない。現地のテレビ局や新聞社、行政からの報道も、深夜以降消失している。


 当然である。

 状況を伝えるべき人々は、皆生命を失ったか、あるいは失っていなくとも活動不能に陥っているからだ。


 何かがおかしい。

 私は、僕は、俺は、この台風で死ぬのではないか──?


 現実感のない薄ら寒い感情が心に芽生える。

 関西以東の人々に、ゆっくりと、しかしながら確実に、焦燥と絶望が伝染し始めていた。




 佐東建多も、その「感染者」の一人である。一部の人々が実行に移した、東北や北海道への逃避行といった突飛な行動こそしなかったが、少なくとも恐怖──とりわけ死の恐怖──を感じて震えていた。

 日本における死者・行方不明者が推定200万人に達した、というニュースを聞いて、彼はますます恐れの感情を増大させてしまった。窓の外から入ってくる雨風の音も、それに拍車をかけた。

 台風の中心からは未だ900km以上離れているにもかかわらず、神戸市は暴風域に入っている。

 その事実に、彼は台風16号が常識を外れた化け物であることを否が応でも認知せざるを得なかった。

 秒速30mの暴風に乗せられて、大粒の雨が窓を叩く。湿った空気がぶわりと揺れる。

 

 LINEで会話を交わす限り、友人の田邊創樹や奥村愉得都も、台風が心配らしい。彼らは互いに「どうしよう」とか「怖いね」といった言葉をかけ合った。文面に浮かぶ「既読」の文字を見るたびに、建多は安堵しつつも次の言葉を待ちわびた。

 

 そうやってやりとりをしている中で、「嵐の前の静けさ」という言葉を、彼はふいに思い出した。もっとも、既に嵐は来ているのであるが。


 ――もしかしたら、これがあいつらと話し合える最後の時かもしれない。

 彼はこのような嫌な感情を振り払うことができなかった。


 独りでいると余計に不安が募ることに今さら気づいた建多は、リビングに降りることにした。

 いつもなら聞こえるはずの階段が軋む音が、風の音に掻き消されて耳に入らなかった。






 神戸市から500km以上離れた横浜市にいる鈴木剛朗も、気持ちは同じである。

 テレビを見る限り、台風の中心はなんと九州の南にあるという。ここと台風の中心は、概算で1200kmも離れている――。

 意味がわからない。理解できないし、脳が考えることを拒んでいる。


 窓の外に広がる空は、既に分厚く、地学の教科書通りの雨雲に占められている。それほど強くない雨と、いつもより明らかに強い風が戸外を吹いている。とはいえ、建築物に被害が出る風ではまったくない。

 しかし、これが異常なのは、風雨の由来が未だ九州の南(・・・・・・)東に位置する(・・・・・・)台風である(・・・・・)、ということである。

 まだあんなに離れているのにこうなのだから、関東まで来れば一体どうなるのか?


 ――再びの思考停止。予想もできないし、もしできたとしても事実を脳みそが受け入れないだろう。


 どうしようもない。横浜に来るまでに少しでも弱まってくれないか? 運良くそれてくれないか? 

 途中で消えてくれないだろうか? 

 どうにかして、自分が台風を消せないのか?


 台風への恐怖を打ち消すべく生まれた願いの数々は、どんどん非現実的なものへと変わっていった。

 いっそ、自分たちが逃げようか。



「ねえ、ママ」

「なに?」


「逃げようよ、北海道まで。死んじゃうよここままじゃ」

「……え? どういうこと?」


 狂気を孕んだ、しかし妙に現実的な案を、彼は母親に伝えたのであった。


「だから、逃げるの、北海道まで! 台風来るでしょ!」

「大丈夫? 落ち着いて、剛朗」


 大声で訴える彼とは対照的に、母親――鈴木玲那(れいな)は冷静である。


「あのね、台風っていうのはね、北に上ってくると弱くなるものよ。今はとても強いけど、ここに来るころには弱まってる」

 そう口に出しつつも、彼女に確信はない。ただ息子を安心させるために出た言葉である。


「弱まってない‼」

 玲那が言い終わる前に、剛朗は反論していた。もはや脊髄反射の域である。


「避難しなきゃ! 地震がくるときも避難するんだから、台風でも避難していいじゃん!」

 彼は半ばパニックに陥りながら、懸命に母を動かそうとする。

 だが、母は人生経験の浅い息子の言葉に動かされるような女性ではなかった。


「避難するより、家にいたほうが安全よ、剛朗」

「何言ってるの!?」


 母から思いもよらぬ返事をされたことで、彼は動転してしまう。


「こんな家、吹っ飛んじゃうって‼」

「いい? この家は、阡年住宅の鉄筋コンクリート造り。鉄筋コンクリートはね、学校と同じ造りでとても丈夫なの。竜巻が来ても大丈夫なくらい頑丈よ。だいたい、今から避難するほうが危ないし、避難なんかしないで、おうちにいたほうが安全だし」


 母親の説得にもかかわらず、剛朗の気噴はどんどん弱まっていき、ついには泣き出してしまった。


「泣かないで。ママが守ってあげるから。ほら、涙拭いて。おやつにしよっか」


 彼は彼女から渡されたティッシュで涙腺から分泌される液をぬぐったが、しゃっくりに近い嗚咽はしばらく止まらなかった。




 ……。



 

 侵攻が遅い。

 少し速く、あの列島を破滅へ至らしめよう。

 それが終われば、今度は東の大陸だ。


 台風に意志があったなら、この時彼はそう思ったろう。

 


 異変は、気象庁の衛星やその他観測装置にすぐに捉えられた。


 偏西風の異常な加速と、海水温の急上昇。

 台風第16号を、さらに脅威たらしめる二つの要素が発動してしまったのである。


「海水温30℃を記録している海域が、ここ10時間程度で八戸市沿岸あたりまで急速に広がっています。機械の故障でしょうか?」

「いいえ、こちらでも高温の海域が広がっていることが観測されています。また、それに伴って、太平洋に面した地域の気温が明らかに上昇していることも観測されていますし、どうやら故障ではなさそうです」

「了解しました……」


 当初は観測機器の故障を考えた職員らは、どう調査してもこれらが事実であることを数時間で認めざるを得なくなった。


「ぅ……あ……暑い……」

 まだ南九州で命を取り留めている少数の人々は、晩夏で、しかも台風襲来の真っただ中であるというのに体から汗が流れて止まらないことを認識した。

 うだるような、不快極まりない蒸し暑さ。流れる汗が蒸発することなく、ただ衣服に吸収されていく。

 猛烈な風雨が九州全体を席巻する中でも、それは明白に感じて取れた。


 不幸にも、現在九州のほとんどに電気は通っていないし、今後通る見込みもない。

 気温32℃、湿度96%という悲惨な環境を生き延びるには、電気も水道もないという現実は、あまりにも過酷に過ぎた。

 溺死あるいは圧死するまでもなく、生存者は熱中症に陥り始めたのである。

 耳をつんざく台風の叫びを聞きながら、被災者は意識を失い、やがて命をも失っていった。


「えー、同時に偏西風の急な加速も観測されていますね。こちらも故障ではなさそうです」


 上空を吹く偏西風は、台風の速さと進行方向を司る重要な要素である。

 それが加速するということは、台風災害がすぐに起きるということを意味する。



「超大型で猛烈な台風16号は、進路を北西に変え、著しく加速し、勢力を維持しつつ時速50km程度で関東方面に進む見込みです。県外への避難も視野に入れて、命を守る最大限の備えをしてください」

「台風16号 加速し関東へ進む見込み 猛烈な風雨に厳重警戒」

「これは今までに見たことのない、異常な台風です。16号は、空を動く湖といっても過言ではありません。津波から逃げるのと同じく、この台風からもどうか逃げて、生き延びてください」


 同時に報道も加速していく。林 気象予報士が発した「空を動く湖」という言葉は、数時間にわたってSNSのトレンドを飾り続けた。

 


 行政も動き始めた。

 前日の午後9時30分、東京都は災害対策基本法第61条に基づき、JR東日本、東京メトロ、東京都バスなど各種交通機関に希望者の避難の援助を要請。翌日(9月10日)の午前5時から、避難民の輸送を行わせることになった。公共施設は避難民のために全面開放された。また、東京都は都民に沿岸部及び河川付近からの避難を呼びかけ、暴風を防ぐため鉄筋コンクリート構造の建築物に避難することを強く推奨した。

 前々から温められていた広域避難計画が、ついに実行に移されることになったのである。


「荒川の氾濫や高潮によって、江戸川区、江東区など5区については、全域が水没し、水没は1週間以上続くと見られています。早め早めの避難を、できるだけ自主的に行ってただければ幸いです」

 大廣池(おおひろいけ)東京都知事は会見を開き、物腰柔らかな口調で早期避難を都民に呼びかけた。

 宿泊費用は補助されるということで、旅行気分でホテルに泊まろうとする人もいたが、しかし大部分は家に留まるか、近くの避難所に行くことを選んだ。都外へ逃げる人は、23区全域を含めても3万人に達しない。都内で広域避難を行う意思のある人々を入れても、140万人程度にしか増えない。

 見方によっては多いとも言えるだろうが、さすがに少なすぎる。これでは23区民の4分の1にさえ達していない。


 これには都民の油断や怠慢もあったが、もうひとつ要因があった。

 台風の勢力の読み間違いである。

 現在、台風16号の中心気圧は710hPaを保っている。高山病を発症するギリギリの気圧であるが、天気予報では中心気圧は810~815hPa程度とされていた。なんと、実際の値より100hPa以上高い値が報道されていたのである。台風の勢力を衛星画像で測るドボラック法の欠陥が露出してしまっていた。

 これでは正確な判断などできるわけがない。


 だが、それでも慎重な人々は、リュックにありったけの物資を入れて避難を開始した。


「まもなく、1番線に、渋谷行きの避難用臨時列車がまいります」

「本日も東北新幹線をご利用くださいまして、ありがとうございます。この電車は、はやぶさ号、新函館北斗ゆきです」

「このバスは13時10分発、東京駅行きの避難バスです」

 賢明な都民は避難民の輸送手段となった鉄道やバスに乗り、そう遠くないうちに水の底に沈むであろう自宅を離れていく。

 

 既に東京の街には毎秒12m程度のやや強い風が吹き、雨がザーザーと降り始めていた。

 曇天の空を衝く摩天楼の林。

 風に煽られて音を立てる街路樹。

 アスファルトを打って跳ねる雨粒。


「今日も出社かよ……。明日土曜なだけマシか……?」

 破滅の大雲が迫っているのにもかかわらず、社員に出社を迫る企業は少なくない。雨風の吹き下ろす音を聞きながら、数百万人の東京都民は自らの業務に勤しむ。

「確実に水没する」と警告された江東5区でも、事情は変わらなかった。


「おいふざけんなよなんで今日学校なんだよ!?」

 都内の小中学校及び高校はほとんどが臨時休校となったが、一部の私立高では登校させるところもあった。強硬な学校首脳部の為せる業である。


「生徒の皆さんは教室に集まってください」

「えー、警報が出たので、今日の学校はこれで終わりです。家族に連絡する人は携帯を使ってもOKです。では、気をつけて帰ってください。起立」

 ……といっても、正午に大雨警報と暴風警報が発令されたので、どちらにせよ休校となったのだが。



 生徒が自宅へ帰る間にも、台風第16号は加速していく。

 日本国民の不注意を、彼らの死へと変えるべくして台風は動く。

 その速さ、時速55km。


 狂ったような速さの偏西風にうまく乗り、16号は韋駄天台風へと変わろうとしていた。

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