第十二話 滅亡の序曲
前回からかなり間が空いてしまいました。申し訳ございません。
なお、この小説はもう完成している作品を順々に投稿しているものなので、エタることはありませんからその点はご安心ください。
9月9日火曜日11時30分、九州全域に大雨・暴風・高潮警報、沖縄県全域に大雨・暴風・高潮・波浪特別警報が発表。
「数十年に一度の災害」を知らせる特別警報が、沖縄を禍々しい紫色に染めた。
既に沖縄の県庁所在地である那覇では、毎時30mmの激しい雨と秒速20m近い強風が吹いており、外出は激減していた。
数少ない歩行者は役に立たない傘を必死で持ちながら、かがみ気味の姿勢で速歩きをする。
空き缶や吸い殻などのゴミが道を転がり、木の葉が土を滑る。
川は土砂を含み、茶色く濁って増水し始めた。幸いにもまだ氾濫危険水位には達していないが、そうなるのも時間の問題である。
「こちらは、ぼうさいなはしです。那覇市全域に、大雨・洪水・高潮・波浪特別警報が、発令されました。数十年に一度の災害が発生する恐れが、極めて高い状態です。命を守る最大限の対策を――」
強風の中に、防災無線の無機質な声が響き渡る。雑音と反響のせいで大多数の人々は内容を聞き取ることはできなかったが、災害の発生が迫っていることだけは理解できた。
「えーと、持ち出し袋、持ち出し袋……」
「お母さん、台風大丈夫なの?」
「風強くなってきたな……」
市井には不安がる人々の声が広がる。
また、SNSでは「台風16号」「沖縄」「台風」などの台風関連の情報がトレンドインし、利用者に不安と野次馬根性、そして貴重な現地の情報を与えることとなった。
時は3時間ほど遡る。
沖縄から遠く離れた東京都では、台風16号が東京に接近した場合に備えた広域避難計画について、内閣府防災担当の職員が論議を行っていた。
「お手元の資料にあります通り、台風16号は、観測によると中心気圧が815hPaの極めて猛烈な勢力を保っております。これが東京都に接近または上陸すれば、甚大な被害が予測されます。概算だけでも、最悪の想定では、死者10万人、負傷者100万人以上、経済的損害は8兆円を超えると考えられます」
数枚の紙資料をめくりながら、尾田 総務局防災計画担当部長が解説を行う。彼の周囲には、二十人以上の各機関から出席した職員が、資料を注視している。
「既に行政の方からも、住民に避難準備をするなどの注意喚起を行っておりますが、この度の台風災害を鑑みるに、都内だけでの避難では足りない可能性があります。特に江東区及び江戸川区など、沿岸の地域では、高潮と豪雨により全域が水没すると予想されており、また、その他の地域でも、激しい洪水や暴風による各種災害が予想されております」
尾田は粛々と、事務的に話し続ける。
「よって、都民を都外、たとえば北関東まで避難させる、すなわち広域避難を行う必要があると思われます。その実行に際しては、鉄道をはじめとする交通機関による特別運行を行い――」
大規模台風災害に際する都外広域避難。
これが、東京都が至極まじめに考えた策である。
確かに東京は太平洋側に面しており、このまま台風が接近してくればとんでもない被害が起きるのは火を見るより明らかである。もちろん東京は動けないので、住民が動くしかない。
しかし、23区だけで1000万人近くの住民が住んでいるのに、数日間でどうやって避難させるのか。
「江戸川区の財前です。おおむね避難の概要は理解しましたが、資料がありますね。広域避難は台風災害による死者を防ぐに適した策であるとは思いますが、23区の住民全員、全員と言わずとも、かなりの割合の住民を避難させるには、時間は足るでしょうか。資料には自主避難による避難者が200万人程度と見積もられておりますが、それでも公的交通機関を用いた避難としては不足である可能性があるかと――」
尾田が説明を終えたところで、一人の女性職員が質問をする。台風が来るまでは、長く見積もっても3日もない。早急に広域避難情報発令を行わねばならない。
「――また、広域避難情報としては、江東5区のみならず23区の多くの地域、場合によっては全域に発表する必要があるでしょうが、これについてはどうでしょうか」
「広域避難情報は、これを早急に、本日の夕方までには発表し、その後は災害対策基本法に基づいて交通機関に避難協力を仰ぎたく考えております」
長い質問にも、尾田は止まらず回答する。彼も内心、完全な避難は難しいと考えていた。960万人もいる23区民を避難させるのは至難の業といってよい。
しかし、だからといって諦めてはいけない、という思いも、彼には共在していた。都民を守るのが、自分に課せられた使命なのだから。
感情のこもっていないように見える彼は、意外と熱い想いを胸に秘めているのである。
「――広域避難情報発表地域については、いったん、江東5区だけでなく、中央区、港区、品川区といった沿岸の区も含めたいと考えております。高潮は最大8mに達すると見込まれていますから、この沿岸区の住民を避難させ、ホテルや旅館などに泊まっていただければ、人的被害はかなり軽減されます」
「ありがとうございます。諒解しました」
財前が礼をする。
「他に質問のある方はいらっしゃいますでしょうか」
尾田の低い声が、議場に響き渡った。
「建多ぁー! 昼ごはんよーー‼︎」
同日、正午。
神戸市灘区の一戸建てには、母、麗子の怒号が鳴り響いていた。三度の呼びかけで、彼女の顔には少々疲れが見えている。
しかし、寝落ちした建多の眠りは深い。60デシベルほどの音量で部屋に届く彼女の声は、建多を起こすには不足だった。
いよいよ麗子はしびれを切らし、ドスドスと音を立てながら階段を上り始めた。その音は当然、建多の耳にも入ったが、彼の夢見を悪くする程度の効果しかない。
二階まで上った麗子は、勢いよく建太の部屋の扉を開け放つ。あまりの速さに、ドアノブの一方が壁に激突し、壁と共鳴した。それでも建多は起きない。
安楽な顔で眠る建多を前に、麗子はどんどん息を吸い込んでいき、そして。
「起きろおぉぉぉ!!! さっきから何度も言っとるでしょうがあああぁあ!!」
彼女の全力の叫びは、そのままの勢いで建多を叩き起こした。「なになに!?」と驚きの声を上げながら建多が体を起こす。
「……昼ご飯できたわよ。早く下りてきてね」
吐き捨てるように言葉を発し、彼女は部屋を出て行った。
残されたのは、あっけにとられた顔をした建多だけ。
食卓まで下りてきた建多を迎えたのは、朦々と湯気を上げるどんぶりだった。近づいてみると、ラーメンらしい。父の功増は既に家を出ていたので、家にいるのは建多と麗子の二人だけである。
席について十秒ほど待っていると、麗子も着席した。
「いただきます」の号令で、昼食は始まる。
合わせた手を離すやいなや、建多は箸を取って麺をすくい上げた。醤油だしとチャーシュー、葱の混ざった芳香が鼻をつき、食欲をそそる。麺を口に放り込むと、その芳香をそのまま味覚に変えたかのような素晴らしい味が舌に広がった。決して上品な味ではないが、かえってそれが彼の庶民的な味覚に合致している。
「うまい」と自然に声が出た。テレビやスマホは点いていない(麗子が好まない)ので、より一層旨味が感じられる。
彼の高評価に「よかった」と笑顔で返す麗子。食卓が温かい雰囲気に包まれる。
建多はズルズルと音を立てながらラーメンをすすり、チャーシューを噛みちぎっていく。いちいちレンゲに麺を乗せ、口まで運んで食べる麗子とは対象的だ。昼食中に二人の間に興った会話は、学習や友人などに関係するものだけであり、少なかったが、このラーメンの食べ方が二人の会話になっているように見られた。
……。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
22分後、二人は完食した。食卓にある二つのどんぶりにはスープしか残っていない。
12時3分。
神奈川県横浜市鶴見区。
建多のいとこである鈴木海徒は、弟の豪朗と一緒に昼食を作っている最中だ。豪朗の強い要望で、今日の昼食はベーコンとキャベツのペペロンチーノになった。学校は「広域避難の準備」という名目で休みになっており、両親は働きに行っている。
「さっさとニンニクと唐辛子切れよ」
ベーコンの脂で手を濡らしながら、顔だけを豪朗に向けて彼は命ずる。
「わかってるよ」と言いながら、豪朗はニンニクを切る手を速めた。彼の奥には、大量の水泡を出して沸く熱湯が入った鍋が置かれている。
3分も経つと、ニンニクと唐辛子の準備は終わった。
「手洗っとけ。鼻とか目は触るなよ」
言い方は荒いが、豪朗を気遣う海徒。彼の言葉に応じ、豪朗はすぐに手を洗った。いくらかの水が洗っている途中にベーコンへ降りかかるが、海徒は特に気にしない。
ベーコンを切り終わった海徒は石鹼で手を洗い、フライパンにニンニクと唐辛子、ベーコンを放り込んでオリーブオイルを注いだ。火をつけると、数十秒して水分が飛ぶパチパチという音が聞こえてくる。
続けてパスタを鍋に落とす。
この間、豪朗はまな板や包丁を洗っている。鈴木家では、昼食の片付けは二人に任されているためである。
海徒は茹で汁を油と混ぜて乳化し、パスタを絡めた。ニンニクの匂いが湯気に交ざって二人の鼻を衝く。これを皿に盛れば完成だ。
5分後。
「いただきまーす」
そう言い終わらないうちに、豪朗はパスタをフォークに絡め始めた。「おいおい」と海徒が呆れた顔をしたが、彼は気に留めず、笑顔でパスタを口にした。彼は感想も言わずに次々とパスタを口に運んでいく。時折パスタがテーブルに落ち、表面に油のしみを作った。
豪朗を目を細めて見ていた海徒であったが、彼もパスタを食った。
「うまいな」と声が出る。熱気に混ざるニンニクとオリーブオイルの香り、ちょうど良い唐辛子の辛みが素晴らしい。
美味しいものを食べて不機嫌になるのは難しい。ややマナーに欠けた豪朗の食べっぷりに口を出す気にはなれなかった。
コップになみなみと注がれた牛乳を飲み、口を冷やす。牛乳には唐辛子の辛み成分から胃を守る働きがあるし、口が冷えればペペロンチーノの熱さがより際立つ。
豪朗は牛乳を飲み、パスタを食らう。補給の牛乳はまだまだあるので、彼は遠慮しない。
10分程度で、彼の前にある皿は空っぽになってしまった。一方、海徒の皿にはまだ半分ほどの麺が残っている。
食事中の興奮冷めやらぬままに皿を運ぶ豪朗に、海徒は「皿洗いよろしく」と釘を刺した。
18時26分。
沖縄県宮古島市。
現在、宮古島は台風の中心から約440kmの距離にある。通常の台風ならば、家に籠もっていれば被害を受けることはない距離である。
──そう、通常の台風であれば。
眼の壁雲から340kmしか離れていないこの地は、台風の暴力を存分に振るわれている。
最大瞬間風速77.7mに達する颶風が、1時間当り80mmを超える豪雨が、家を、森を、港を駆け抜け、殴打する。
屋根瓦が屋根ごと吹き飛んで近隣家屋のガラスや塀を崩し、空中を道沿いに驀進する小石が車のヘッドライトを叩き割っていく。
平良港で引き上げられている船が風に煽られ、海水と雨水を浴びながら船腹を海上に晒す。
積み上げられたコンテナは風に圧されて不規則に倒壊していき、一部は海に落下し、また一部は他のコンテナに衝突し、凹みを与えた。コンテナの近傍には多くの土嚢が積まれていたが、あっけなく突き崩されてしまっている。
港にはそのほか防潮坂もあったが、全く効果はなかった。
農家が丹精込めて耕し、作物を育ててきた田畑は土を多く含んだ雨水で満たされ、その中で生きていた作物や虫や蛙の類は水上から姿を消した。彼らに生き残る望みは、ない。
木やトタン、倒れた家の一部などにより電柱が倒れ、電線が損傷したため、既に島の全ては停電している。もはや光源は、懐中電灯と太陽光のみである。そして光源の一つである太陽は、まもなく地平線の下へ堕ちてしまう。
ちぎれた電線が、火花を散らしながら空気の激流に流されて西に振れていた。
割れるガラスの耳障りな音が、飛ぶ火花の高音が、転がるコンテナの金属音が、倒壊する家屋の轟音が、台風の放つ超自然的な咆哮が、そして、絶望する人々の金切り声が、恐怖かき立てる滅亡の序曲を奏でる。
日本史上最大にして最悪の激甚災害は、この曲を以てその火蓋を切ったのである。
お読みいただきありがとうございました。次回から、いよいよ日本が本格的な滅亡への道を歩み始めます。




