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第十話 黒風と誤解

この話からいよいよ台風が真の猛威を振るい始めます。

 時は遡る。


 日本標準時、2021年9月8日月曜日、21時53分。


 フィリピンの首都、マニラ。

 このフィリピン有数の大都市は、潰滅の大雲に翻弄されている最中である。


 秒速140mに達する空前絶後の黒風が、森林を、建築物を、薙ぎ倒す。

 木造家屋はもちろん、鉄筋造りの家も基礎だけを残して消失し、7階建てのマンションが傾斜していき、やがて倒壊する。

 全壊の憂き目は免れられた高層ビルも、ガラスというガラスを木っ端微塵に砕かれた後、そこから侵入してくる雨水や瓦礫に室内を満たされ機能を失った。

 自動車が空中を舞い、石が銃弾と化して街路を突撃する。それらは数十秒から数分ののちに、まだ原形を留めている家の壁や構造物、人間などに激突し、厖大(ぼうだい)な運動エネルギーを以て対象を破壊した。

 街中に林立する電柱や看板は空中を飛翔する瓦礫に突き動かされ、ことごとく地面に横倒しになり、最後にはどこかへと飛ばされていった。

 降り注ぐ豪雨は、マニラの排水設備を物ともせずに道を覆い尽くして川を形成した。高潮はいまや10mに達し、沿岸部の低地に位置する家や生物を自らの圧倒的な質量で押し潰して内地に流していく。


 家に籠っていた人々は家ごと叩き潰され、屋外にいた人々は瓦礫や石に体を打ち砕かれ、地下に逃げた人々は毎時200mmを超える狂った雨で溺れ、それぞれ絶命していった。

 高層ビルの内部にいた幸運な者だけが、なんとか一命を取り留めることができた。しかし、マニラ全域の電気が消えた今、懐中電灯なしで朝までを耐え忍ぶのは困難な所業であった。


 これまでに幾多の台風を経験してきたフィリピン人さえ、16号の暴虐から逃れることはできなかったのである。


 豪雨はマニラを満たし、フィリピン海の一部へと変貌せしめた。屹立(きつりつ)する鉄塔と化した高層ビルが、所々から顔を出している。

 国立博物館の、マニラ大聖堂の、サン・アグスティン教会の、由緒ある貴重な展示物や装飾が、瓦礫や砂礫をふんだんに含んだ黒い雨水で埋め尽くされる。

 リサール公園内にある日本庭園では、大木は根元から引きちぎられ、橋は木端微塵に崩れ、共に空前絶後の洪水に載せられてどこかへ流されていった。

 


 太陽が地平線の上に躍り出てもなお、マニラは台風に食われ続けた。国家の中枢も、繁華街も、テレビ局も、観光名所も、一般住宅地も、果ては森林や陸上動物も、おしなべて大自然の憤激の餌食となった。

 その太陽は、数千メートルの高さにわたって緻密に積み重なった積乱雲により、全く見えない。街はまだ真夜中のような暗さに包まれている。

 時々、轟音を鳴らしながら現れる雷の光輝だけが、この地の光源であった。



 日本の児童が起き出す頃であろう6時半には、中心気圧はいよいよ680hPaに達した。現地の気象台は全て台風によって全壊していたため、人類がこの事実を知ることはできない。

 台風の大きさから気圧を判断するドボラック法は、台風16号のような常識外れの台風を想定していない。それゆえ、日本のテレビは「6時における中心気圧は770hPa程度であり――」などと、誤った情報を流してしまった。

 風の強い危険半円では、速度の速さも相まって最大風速は毎秒200mを超え、比較的(・・・)風の弱い可航半円でさえ、毎秒120m以上の風が当たり前に吹いていた。16号は気圧の大きさを考えると小さめの台風であったが、かえってそれが風を強くする要因となってしまっていたのである。

 雲の端はいまや中華人民共和国の福州(フッチュ)市にまで達し、臺灣(たいわん)全土を覆っていた。沖縄の離島である与那国島や石垣島などの土地は、既に強風圏に入っていた。

 台風の中心は、まだ、ルソン島の東部にあるにもかかわらず。





 日本標準時5時55分、日本国気象庁は沖縄県八重山地方、宮古島地方に大雨・暴風警報を発令。

 その20分後には、警報発令域は沖縄全域及び奄美大島まで拡張された。


「5時55分 沖縄県八重山地方、宮古島地方に大雨・暴風警報発令」

「6時20分 沖縄県全域 鹿児島県奄美地方、種子島・屋久島地方に大雨・暴風警報発令」

「超大型の台風16号は猛烈な勢力を保ったまま北北東へ進行しており、本日の午後4時ごろに沖縄に最接近する見込みです」

「マニラの報道機関は軒並み沈黙状態であり、相当の被害が予想されます――」


 テレビや新聞、ネットニュースといったあらゆる報道機関は、しきりに暴風や大雨、土砂災害や洪水、高潮など各種災害に対する対策を呼び掛けた。気象庁は幾度も会見を開き、報道陣、ひいては日本国民に「台風第16号は人類がいまだ経験したことのない史上最大の台風である」と注意を呼び掛けた。

 中川総理大臣までもが、会見を行った。これは全く以て異例の事態であった。

 西日本全域の公立学校は、全て休校することを決定した。私立学校の大半もこれに追従した。建多の通う園仙高校も、また同様であった。



 ……しかし、対照的に、日本国民の心持ちはそれほど緊迫感がなかった。

 確かに、台風16号は意味が分からないくらいに強い台風だ。ニュースやSNSでめちゃくちゃになったフィリピンの状況も、見ることができた。とにかく大変なのだろう。もし日本に来るなら、終わりだ。

 このような思いがあるからこそ、余計に国民は現実感がなく、かつ漠然とした恐怖に苛まれていた。

 学校が休みになった児童や生徒は、みな心の中でくすぶる少々の不安を、休日の楽しみで消火することを試みた。

 国民の大半には「フィリピンは途上国だからああなったのだ。先進国の日本が、まさかの事態に陥ることはないだろう。それに、避難するのも面倒くさいし」といったような、少し高慢で怠惰な想いがあった。

 一度「来る」と言われていた台風が来なかったことも、これに拍車をかけた。


 今まで大丈夫だったということは、これからも大丈夫だということだ。

 ──歴史を見れば、その考えがどれほど愚かなのか、理解できただろうに。

 


 「正常性バイアス」。

 根拠のない楽観は、実に簡単(・・)に人の命を奪う。


 非常識を常識で対処しようとすることが、どれほど危険なことか。

 それを彼ら、彼女らが生命を以て思い知らされる時は、それほど遠くない。




 



 同日、7時11分。


 建多は誰かからも起こされることなく、起床した。閉め切られていないカーテンから、朝日が漏れている。

 光の爽やかさに反して、彼の心には言葉にしがたい鬱屈とした気分があった。

 それが宿題によるのか、受験への緊張によるのか、台風によるのか、はたまた別の何かによるのかは、今の彼には分からない。

 顔だけ洗った後、とりあえず、彼は下に降りることにした。学校はないからもう少し寝ていても良いだろうが、今の彼は寝る気になれなかった。


 目を(こす)りつつリビングに入ると、母の麗子が朝食を作りながら「あっ、建多。今日は早かったわね」と声をかけてきた。建多は「うん。なんでか早く起きちゃった」とだけ返し、椅子に座った。

 しばらくスマートフォンでゲームをしていると、父、功増がパジャマ姿でリビングにやってきた。彼は大きな欠伸をあげて、建多の向かいに座った。

「おはよう」

 建多に一言掛ける彼の表情には、普段通りの楽観的考えが反映されているようである。建多は、呆れともマンネリを感じているとも見える表情で挨拶を返した。

「どうした? 建多。元気ないなあ」と聞く功増に対し、建多は顔を上げて「いや、単に元気が湧かなくて……」と語尾を滲ませて答えた。

「大丈夫か? 熱はないか?」

「ないよないよ。ただ、──」

 心配する父を気遣って返事をしようとしたちょうどその時、「朝ごはんできたわよ。運んでくれる?」と麗子がカウンター越しに声を掛けてきた。


「わかったー」

「今行くわ」

 二人は席を立ち、会話を中断した。



 今日の朝食は、いつもとは変わって洋食だ。トーストにスクランブルエッグ、いくらかのサラダといった献立である。スクランブルエッグから立ち上る新鮮な湯気が、建多の食欲を誘った。


「いただきまーす」

 三人でいつも通り手を合わせ、朝食が始まった。


 合掌が終わるとすぐに、功増がテレビをつけた。画面に映し出されているのは、バラエティー系のニュース番組らしい。


「さあ始まりました『パッチリTV』。今日も色んなニュースをお届けしていきますよ~っ」

 時計の形をしたキャラクターが、明るい口調で視聴者に語り掛けている。L字の情報欄のせいで、番組の画面が少し小さかった。


 朝食は普段通りに進んだ。すなわち、多くの沈黙に、時折三人の会話が興る、というものだ。しかし、今日の沈黙には、少し違いがあった。

 

 警報音である。



「また鳴ったね、父さん」

「そうやな」


 7、8分に一回程度、耳障りな音と共にテロップが浮かび上がるのである。内容は、言うまでもなく台風関係の情報である。

 その尋常でない頻度が、台風16号の異常さを物語っていた。


「まーた鳴ったよ」


 建多は警報音が鳴るたびに、そのことを口に出した。そうしなければ不安だったのだ。台風が否応なく近づいてくるという、その現実への恐れを、家族と共有して減じたかったのである。

 母の料理は素直に美味しかったが、この不安がそれを無味にしようと企んでいるようだった。幸いにも、今のところ母の作った朝食は美味である。


「やっぱ母さんの食事はうまいなあ」


 一方、功増はそんな建多の様子に構わず、次々と食事を口に放り込んでいく。麗子は二人の中間くらいの速度である。功増は、時々建多に笑って話しかけながらも、食事を続けた。生返事ばかり返す息子に対し、彼は少々憂いを覚えたが、スクランブルエッグの美味しさが、それを半ばかき消した。


「雨のほうはどうなノ、森さん?」

 時計が森・気象予報士にわざとらしく首を傾げて訊く。

「えー、九州地方では、明日の朝までの総雨量が1000mmを超えると予想されます。非常に危険な雨量です。四国・中国地方でも、300mmほどの雨量が予想されます。みなさん、命を守る最大級の警戒をしてください。『大事なものが』なんて考えちゃいけません。生きることを最優先にしてください」

 彼の緊迫した口調を聞き、不安げな様子の建多は、功増に次の質問を投げかけた。


「神戸大丈夫? やばくない?」

「大丈夫や。神戸はな、昭和15年に『阪神大水害』っていうめっちゃヤバい水害が起きたんや。三宮(さんのみや)も神戸港も、新開地の方も全部水浸しになったんやで。親に何回も話されたわ」

 雨を恐れていると思しい彼に対し、功増は真剣な表情で語る。


「でもな、」

 彼は一旦ここで言葉を切り、すぐに続きを始めた。「食事中に喋りすぎ」という麗子の苦情にも、「まあまあ、聞いとき」とだけ返答して彼は進める。

「そのおかげで神戸の洪水の対策はすごい進んだんやで。川を改造したりしてなあ。もう、日本でも五本の指に入るんとちゃうんかな、洪水の()なさ。だから安心しい。神戸は沈まへん」

 功増は覇気すら感じさせる口調で言い切った。その顔には、神戸という故郷に対する誇りが見える。


 普段の明朗で楽観的な彼とは打って変わった功増の語りに、建多は圧倒されながらも、「な……なら大丈夫か」とつぶやいた。


 功増の話で安心したのだろう、建多は今までよりもガツガツとトーストを頬張り、スクランブルエッグをすくって食べ始めた。その顔に、先ほどまでの憂慮はほとんど消え去っている。

 功増が、自分の功績だ、とばかりに笑い声を上げる。それを少しあきれ気味に、しかし優しい笑みで見る麗子。


 台風が支配していた佐東家に、平和が戻った。



 

 しかし、功増は大きな勘違いをしていた。

 それは、「台風16号は並大抵(・・・)の雨しか降らせない」ということである。


 残念ながら、台風16号が降らせる雨は、並大抵の雨ではない。


 万物を叩きのめす、壊滅の大豪雨である。


 一家に居座る正常性バイアスが、彼らの命を奪おうと企みつつ、顔を醜く歪めた。

 ――が、不幸なことに彼らは分からない。分かるはずもない。

 正常性バイアスの恐ろしさを。


 そして、日本を滅ぼす、海神の憤激を。




「ごちそうさまでした」

 朝食の終わりを告げる合図がリビングに響いた時には、警報発令域は既に鹿児島県全域と宮崎県の一部にまで拡大していた。

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