イシュド・バノン 前編
私はイシュド・バノン。下級貴族であるバノン男爵家の長男として生まれたが、父は私が1歳になる前に流行病で身罷った。私が幼いこともあり爵位を継ぐことは認められず、バノン男爵という家名は国あずかりとなった。私たち母子を保護し育ててくれたのは人生の全てを教育と学びに捧げてきた父の叔父だった。私はこの大叔父の薫陶を受け、5歳で神童と呼ばれ、7歳の時には天才と言われていた。この当時私は初等教育をほぼ終え自分より10歳ほど年上の人達と共に学ぶことも多かった。それでも自分が劣っているとは思わなかったのでまぁそういうことだろう。その頃、大叔父は王宮で王子の教育係を拝命していた。その大叔父が、私に王子の学友になるように要請してきた。当時、王太子の第一子である第一王子が8歳、第二王子が5歳だったので私は第一王子の御学友かと思ったが私が付き従うのは第二王子のほうだった。
「第一王子は子供らしい子供でいたずらはするがいい子なんだが、第二王子は……どういったらいいのか、まぁ、優秀であることは間違いないんだが、優秀すぎて同い年の者ではなかなか学友が務まらん。気に入らなければ5分で追い返すしな……お前ならもしかしたら気に入るかもしれん。」
大叔父の困ったような顔に絆されて私はその話を了承した。いや、当時大叔父の世話になっていた私たち母子には断るという選択肢はなかった。
最初にあった時驚いたのはその類い稀なる美貌だった。眉目秀麗、容姿端麗、明眸皓歯、閉月羞花と今まで覚えてきた言葉が次々に浮かんだ。さらりとした金色の髪、白磁の肌、柔らかな花びらのような唇、光と共に碧にも蒼にも色を変える双眸。私は束の間言葉を失った。しかし、私も天才の呼び声の高い男、すぐさま正気に戻り臣下の礼を取るべく膝をつこうとした。
「跪いたらお前の頭を蹴ってやる。」
驚いたのはそれがこの国の言葉ではなく遠い異国の言葉だったからなのかその内容なのか今はもう覚えていないが私は咄嗟に立ち上がり、頭を下げた。
「意味は分かるみたいだな、今までのよりは随分ましか。頭を上げこっちを見ろ、ひっぱたくぞ。」
また別の国の言葉で話される。私は頭を上げ、目の前の美少年を見る。5歳にしては大人っぽいとはいえまだまだ幼児の面影を強く残している子供の口から出るとは内容にしても言語にしても信じられなかった。
「聞いて理解できるだけか、話せないのか?」
また別の言語だ。一体この子供はどれだけの国の言葉を操れるのだろうか。私でも5歳の時はここまで完璧ではなかった。
「話せますが、発音が苦手でして。」
私の第一声は王族に対しては随分と失礼だった。返した言語は最後に使われていたササリ語。使う人も少なくこの国では外交官と一部の商人ぐらいしか習得していないはずだ。
「発音は使う分だけうまくなる。今日はササリ語で話すことにしよう。」
第二王子はこともなげにササリ語を使いこなす。発音は私よりずっと上手い。
「かしこまりました。が、たまに間違えますのでご容赦ください。」
どうしても発音が滑らかにはいかないながらもなんとか返す。確かに5歳にしてこれだけの言語を操る才能があれば普通の子供ではお相手が務まらないだろう。
私の態度に満足したのか第二王子は私をまっすぐに見つめ笑顔を見せた。天使のような笑顔のはずが私の背中はなぜか粟立った。
「来いよ。君にいいものを見せてあげる。」
彼に促されて私はついていった。彼が言ったいいものとは、中年の家庭教師を辞めさせるシーンだった。既婚者の家庭教師がどこかの貴族の侍女に渡したラブレターをどこからともなく手に入れそれを音読しながらダメ出しをするという所業で家庭教師は5分で部屋を出て10分後には使用人が彼の辞職を伝えてきた。第二王子が悪魔と呼ばれていると知るのは数日後だった。
その日から私は第二王子、カルスバルト殿下の側近として仕えている。大変な日々だった。10歳になるころには勝手にお忍びで城下を出歩き、私は王族一同から何とかしてくれと泣いて頼まれた。当時12歳の私に何を求めているのか。あの方を御止めできるならやってみろと言いたかったが家臣の一員として逆らうわけにはいかず、けど止めることはできず結果、様々な尻拭いをさせられた。お忍びの最中にはどこからか自分が見所があると思った子供を拾ってくるようになった。
「イシュド、彼にご飯を食べさせてやってくれ。」
カル様――カルスバルト殿下はそう呼ぶよう命令していた――は簡単にそう言ったがなんせ次々に拾ってくるので簡単に王宮にいれることもできず随分困った。城下の一角、スラム街に近い場所に食堂兼宿屋の手ごろな物件を見つけ、王宮で働いていた口の堅い夫婦を雇い、カル様の着替え場所や彼の拾ってくる子供の食事場所として整えると私の負担は随分軽くなった。
私が17歳になった頃、私はカル様の命によって軍隊に入れられた。元々文系の私に武官の修練を要求し、剣の修行をさせ当時私は何とか軍隊についていけるようにはなっていた。――――ついでに言えばカル様は剣や体術においても天賦の才を発揮し、この頃には護衛を務める近衛相手にも互角の勝負をしていた。まぁ、スラムでやっているように卑怯な手も使い放題なら全勝できただろう。
慣れない軍隊での暮らしは大変だったが側近という立場で両陛下や皇太子殿下にカル様の事を押し付けられる日々を思うと天国だった。カル様がお忍び先で拾ってきた子分たちも一緒だったのでその世話には手間がかかったがそれまでの私の教育の賜物で彼らも立派に任務を果たしてくれた。私は何とか軍隊での2年の務めを終えカル様の元へ戻ることになった。
それからもまぁ、大変な日々だった。カル様が王城にいるときは三日に一度は陛下のお召があり、愚痴と泣き言を言われるのには辟易した。
「いっそのこと廃嫡にしてはいかがですか?」
いつだったか私は思わずそういったことがあった。王も王妃も自分の子供の事なのに本気で怯えて
「そんなことをしたらあの子が何をするかわからないじゃないですか!」
などと言っていたが、カル様はああ見えて家族の事は大事にしているのだ。陛下がやったことにむかついたからだと言って外交文書に昔王妃に浮気がばれたときに送った恥ずかしすぎる謝罪文を混ぜたり、いたずらと称して若いころのお王妃が王に送った恋文を本にして出版したりはした。でも他の敵対する人間に対して行ってきたことに比べると罪のないものなのに二人ともビビりすぎだ。
カル様は自分の将来をどう思っているのか私に開かす事はなかったが18歳の誕生日に軍属を希望し、皇太子殿下に跡継ぎができていたこともあって認められカルスバルト第二王子殿下はカルスバルト将軍閣下となった。
それから5年、カル様はお飾りの将軍でいる気はなかったようで数々の戦場で功績をあげ名実ともに将軍となっていた。戦場での個人の能力の高さはもちろんのことだがその悪魔的な戦略と実行力によって勝利をもたらしていた。彼が幼いころから拾っては育ててきた部下たちを親衛隊とし、共に何度も戦に赴き勝利を重ねてきた。長きにわたる隣国との戦争は戦場での勝利と裏工作、外交での化かしあいによって終わりを迎えようとしていた。
今回も重要な砦をいくつか落とし、この戦場での勝利を決定的にした。そしてある日部下から手紙を受け取ると急遽この戦場を出て近くの都市に行くと言い出した。私は反対はしない。無駄なことはしない主義だし、逆らっていいことはない。この戦場での勝敗は決しているし優秀な部下もいる。彼らの一人に任せておけば万事うまくいくだろう。ただ、手紙をもらった時のカル様の笑顔は私を不安にさせる。面倒なことが起る気がする。
「イシュド、お前と親衛隊から10人ほど連れていく。急ぐぞ。」
「私が残って敵と交渉した方が早く終わると思います。親衛隊が御傍にいれば滅多なことは起こらないでしょうし、優秀なものも…」
「いいから準備しろ。お前には真っ先に私の花嫁に合わせてやる。」
ハナヨメ、はなよめ、花嫁。私は頭の中で何回か繰り返してようやく理解した。そして、気絶しそうになった。そんな場合ではない。カル様に婚約者はいない。誰だって彼に彼が望まないことをさせることが不可能なことはわかっている。兄の皇太子殿下のように第二王子として早いうちに婚約させ10代のうちに結婚させるなんてことは考えなかった。だって、怖いもん。王も王妃も皇太子も猫の首に鈴どころかドラゴンの耳にでっかいピアスを開けるようなことをするはずがない。だから、はなよめと言われる人もいないはず。ただ、カル様本人が望むなら多分どんなことをしてでも花嫁にするだろう。私はまだ見ぬ花嫁の平穏を願い、ついでにそんな人ができることでカル様から私への負担が減ることを願った。
その都市に着いたのは夕方を過ぎたころだった。普通ならもうしばらく時間がかかったはずなのにカル様が張り切って飛ばしたせいだ。親衛隊は能力が高いから疲れた様子もないが私は疲れた。朝から飲まず食わずでずっと馬上だ。まずは宿で休みたい。門のそばで見覚えある男が近づいてカル様に何か耳打ちするとカル様の顔色が変わった。珍しい。何か起こる前触れか。
「イシュド、来い!」
カル様の声に私はすぐさま反応した。町中は馬より走ったほうが早い、私はカル様の後を走って追いかけた。20年近い経験の賜物で足だけは速くなった。ついてくる部下たちにも矢継ぎ早に指令を出す。馬の後始末、この辺の情報収集、宿の手配。
カル様は案内に連れられるように町の東へと足を進める。あまり治安が良くない場所のようだ。カル様の心配はあまりしていない。喧嘩になれば格別の強さを発揮する。ただ、あまり大量の血の雨が降るとその後の後始末が大変なのだ。どうか、平穏無事に今日が終わりますように。私はいつものようにあてにならない神様に祈りを捧げた。カル様が足を止めたのは娼館が立ち並ぶ一角だった。
目の前をふらふらと薄汚れた空色のドレスを着た少女が歩いて行く。髪はぼさぼさで裸足の足は土にまみれ手には酒瓶。場末の娼婦でももうちょっと小奇麗にしている。
「ねぇ、オジサン。私明日から娼婦になるの。その前に私の処女貰ってくれない?」
酔っているせいで声の音量調節がいかれているのか周り中に聞こえる声でそういう。そんな変な女を見つめる我が主人の顔が今まで見たことのない笑顔だった。私は思わず瞬きを繰り返す。悪魔が天使の笑顔を浮かべている。
「なんだ、やらしてくれるのかぁ」
娼館からつまみ出されたらしい醜い男が反応した。おいおい、いくら何でもこの男は無いだろう、と私は女に言いたくなった。カル様を案内してきた男の仲間が排除しようと動き出したときにはカル様の剣が抜かれていた。一閃したかにしか見えなかったが男の顔と首に傷が付き剣先は男の下半身に向いている。
「顔を削がれるのと首を切り落とされるのと去勢されるのとどれがいい?選べ!」
声は軽やかで顔は涼やか、こんな時こそ本気なのは私にはわかる。まぁ、男は貴族でも有力者でもなさそうだから尻拭いは楽だろうけどこんな目立つところで血まみれは勘弁してほしい。ちょっと考えて、私は近くでぼんやりしたままの空色ドレスの女の腕を捕まえてカル様へ押しやった。女は自分で立っていることもやっとなぐらい泥酔しているからかふらふらとカル様に寄りかかる。カル様はあっさり剣を手放し女を支えた。私は少しだけ安堵した。カル様が何を考えているかはわからないがこの変な女がこの街に来た理由なのかもしれないという私の勘は正しかったようだ。ただ、この女が何者かは全然わからないが、構うものか他国のスパイだろうが暗殺者だろうが今は何でもいい。カル様が今まで剣を向けていた男を捕らえるように指示を出す。あとで、あの男はどうしたと聞かれたときの保険だ。縛ってその辺の空き家にでも放り込んでおけばいいだろう。
「この辺りで宿屋はどこだ。」
カル様の静かな声がした。見れば女を横抱きにしている。どうやら眠っているように見えるが、首でも絞めて気絶させたのかもしれない。私が目を向けると案内してきた男が動き出す。裏道を少し進むと小さい宿が見える。もうちょっと立派なとこが良かったが近いところを選んだんだろう。
「中にいる全員を追い出せ。」
あっさりとした指示。きっと私への言葉なんだろうな。
「それから、風呂だ。その間にこの街で一番ましなシーツを用意しておいてくれ。」
私は全てが何とかなることなので頷き行動を開始した。まずは全員追い出そう。
カル様は彼女を一階にあった風呂に入れた。薄汚れていたのがましになったし、清潔なシーツにくるまれているのを見るとまだ年若い少女のようだ。カル様が彼女を大事な宝物のように扱っているのを見ると、あれは誰だと不安になる。カル様の女性への扱いは良くて利用、後は馬鹿にするか冷たく扱うか。寄ってくる女性は山ほどいるし適当に浮名を流すこともあるが、あんな顔で女性を見つめることはなかった。カル様は二階の一番いい部屋のベッドに新しいシーツをかけてあるのを見て満足そうに笑い、大事そうに彼女を横たえた。
「お前たちは今日はもう休んでいい。明日の朝までこの建物には近づくなよ。彼女との夜を邪魔したら耳を削ぐぞ。」
機嫌のいい声。多分本気で耳位削ぐ。触らぬ神になんとやら。私はこの町一番の宿屋でぐっすり休むことにする。カル様より立派なところで休むなんて申し訳ない、なんてことは欠片も思わない。彼にずっと尽くすにはたまには休まないとやってられない。カル様は悪魔だからいいけど、こっちは天才とはいえ人間なのだから。
「イシュド、どこへ行く?」
「休んでいいとおっしゃたのでは。」
「お前は別だよ、側近だろ。一階にいて目を配っておいてくれ。ただ、彼女の可愛い声は聴くなよ。耳をつぶしたくなる。」
やっぱりカル様はカル様だった。私は思いっきり音を立てながら階段をおり、他の奴らに明日の朝早めに戻るように指示し、階段の一番下で壁に耳を付けて眠った。目を配る元気は残ってなかった。
ありがとうございます。