サリシュア・レイベル 前編
初投稿です。よろしくお願いします。
地下室の床に四つん這いになった私は文字通りどん底に落ちた気分だった。埃の積もった土床に視線を落としたまま二人の男からの舐るような視線を浴びる。
「二年も庶民として暮らしてた割にはあんまり染まってはいなかったようだな。元侯爵令嬢として売り出すには十分だ。」
初めて会う五十がらみの男が下卑た笑いを浮かべながら言った。
「でしょう。俺は幼馴染ですからよく知ってますが、父親が捕まるまでは厳しい淑女教育を受けてましたからね。そのあたりにいる似非貴族の娼婦とは違いますよ。」
もう一人の男がおもねるように言う。この男の事は私はよく知っている。私の乳母の子で男爵家の三男のカーリス・マットだ。私は今日この男に会うために仕事を休み沐浴をしご飯を我慢して買った新しい下着を身に着けどんな時でも大事に持っていた思い出のドレスを着た。――-まぁ、サイズは随分変わっていたし直したのは自分なので前と同じとは言えないかもだけど。それをこの男は気づきもせずに一緒に来た太ったおやじに差し出したのだ。もと侯爵令嬢のサリシュア・レイベル、今回娼婦として売る女だと言って。
決して治安がいいと言えないこの土地で庶民の女の一人暮らしでは貞操の危機に直面することもある。その時もとっさにつかまれた腕を払いのけ、外に飛び出して助けを呼ぼうとした。なのに、太ったおやじはその体形のくせにこんなことに手慣れているのかあっさりと私を捕まえると口を塞ぎ、腕を背中にねじり上げた。そのまま家の奥へと押し入ると地下室への入り口を見つけそれをカーリスに開けさせるとその中に私を押し込んだ。私は階段をつんのめるようにして降り、そのまま床に手を突く形になった。
太った男は自分が突き飛ばした私の腕を無造作に掴むと顔を見つめ、胸を鷲掴みにした。
「きっっっっっーーーー。」
私はとっさに胸をかばい声にならない悲鳴を上げた。目の前にはとこまでも冷めたおやじのまなざし。
「男慣れはしていないのか。」
「処女ですよ。手紙に書いてありました。ずっとあなたを待っていますって。」
その言葉は確かに手紙に書いたが、それを商売の売り文句に使うなんて信じられない。カーリスは最低だ。おやじの目がきらっと光っている。
「初物か!高く売れそうだ!金持ち相手に高く売るか、オークションで初物を売り出す手もあるな。明日、処女かどうかちゃんと確かめたらお前にボーナスを払ってもいい。」
「ほんとですか!やった!」
カーリスは単純に喜んでいる。幼馴染の初恋の相手の処女をボーナスにするってどうなのよ。体から力が抜けて床に倒れこんでいた私を無視して、おやじは周りを見回している。カーリスを見ると三年前に別れた時とは違う胡乱な目につやのない肌をした男になってた。おやじに何か言われたのか地下室から階段を上って姿を消す。
「さて、ご令嬢。」
太ったおやじは私に話しかける。スケベそうな顔をしているならつけ入るすきもありそうだが、このおやじはあくまで商品を見る目でしか私を見ていない。
「君は娼館に売られて娼婦になる。この街のこんな場所に住んでいるんだから君だって予備知識ぐらいはあるだろうからはっきり言っておく。覚悟を決めてよい娼婦になるなら酷いことはしない。君の処女は大事に売るし、その後も大切に扱う。反抗すればそれなりの対応をこちらもする。一晩ここで覚悟を決めるといい。死にたいならどうぞ、そんな女は買ってもすぐだめになるからね。顔を傷つけても働ける場末の娼館も知っているから問題ない。まぁ、君の生活は辛くなるだろうけどね。明日の昼頃には迎えに来るよ。」
おやじは戻ったカーリスが手にしていた水と食料の入った箱を階段の途中に置いた。結構いいひとじゃんと思ってしまった。なんせ、今朝の食事は水と萎びたリンゴだけだったしお昼は食べてない。もう夕方だし私のお腹は主のこんな状況にもめげずにいつものように空腹を訴えていた。
「じゃあ今日はこれで失礼するよ。明日までに心を決めてくれると助かる。逃げられると困るから外からかんぬきをかけさせてもらうよ。」
おやじは今日一番の笑顔で地下室を後にした。扉が閉まり、かんぬきをかける音がして辺りは真っ暗になった。私は階段の一番下に座り、食料の入った箱から手探りで何かを取り出す。手触りからして多分リンゴだと思われるそれを齧った。朝のより随分と上等。そのまま頭を抱える。どうしてこうなった?猛烈にやり直したい。どこから?決まってる最初からだ。人生を変えるなら両親からだ。
私の母は没落した侯爵家の娘で意地が悪く気位が高く愚か者だった。父はそんな母に取り入り侯爵になった男で、下品で善悪の区別がつかない野心家だった。母は18歳で父と結婚し19歳で私を産むと義務は果たしたとばかりに好きなように生き始めた。綺麗であることに血道をあげ、贅沢に買い物をし、よくわからない男と恋愛を楽しんだ。私は使用人や乳母の手で育てられ五歳までほとんど家族と口を聞いたことがなかった。五歳になると貴族の子女はマナーや礼儀作法を教わりだす。父がやたらに張り切って次々と新しい家庭教師を手配しそれにつられるように母も急に教育熱心になった。最初のうちは母に褒められるのがうれしくて頑張った。ほとんど会ったことのなかった父がご褒美にくれるプレゼントも喜んでた。でも、両親とも私を本当に愛していたわけじゃなかったからだんだんと飽きてきた。一、二年で母が飽き、また自分の事だけになり、三年たつと父のご褒美も無くなった。失望はなかった。両親が屑だってことにはそのころには気が付いていたから。
母は性格が悪く、父は成金。すると使用人はしょっちゅう入れ替わった。おかげで私の周りは色々な人がいることになり正義感に燃えて母に説教する人がいたり、私を可哀想だと同情する人がいたりで両親が問題有なのはわかっていた。ただ、子供の私にはどうすることもできなかっただけ。だから適当に勉強をし、いつもニコニコして使用人に嫌われないように気を付けていた。――たまに私の食事を忘れるような意地悪もいたから。
そんな中で特別だったのが乳母を務め何年も私についていてくれたカーリスの母親だった。彼女はマット男爵家の側室で三男のカーリスを産み、二年後には私と同い年の女の子を産んだ。その子は産まれてすぐに亡くなったらしく彼女は正室に疎まれたこともあってカーリスを連れて私の家で住み込みで働いてくれた。すごくおとなしくて存在感の無い人で母もきっといることを忘れてたから首にならなかったのかもしれない。ずっと一緒にいてくれたというと愛情深く思えるけど、彼女はダンスがうまくいかなくて母に鞭でぶたれても、私の夕食が忘れられてもかばってくれたことも助けてくれた事も無かった。それをしてくれたのはカーリスだった。鞭で打たれ腫れた足を冷やすために泉まで行って冷たい水を汲んで来てくれたり、お腹を空かせた私の為に台所に忍び込んでパンを持ってきてくれたり、自分が貰ったお菓子をくれたりした。私は彼が大好きになった。彼は私の王子様だった。
私が12歳になったころ、カーリスが私の屋敷から去ることになった。王都にある全寮制の学校に通いそこから将来は騎士を目指すためだった。私は悲しくて行かないでほしいと我儘を言った。それでも別れの日が来た。その日の早朝、私は裏庭のリンゴの木の下で彼と初めてのキスをした。それから私は一人になった。周りには使用人がたくさんいたし次々変わる家庭教師もいたけど、私を心配し、気にかけてくれる人はいなかった。だから、私は彼の休みを心待ちにしていた。彼は休暇になるとすぐに私の家に帰ってきてくれた。すぐに使用人を首にしていた母が死んだこともあって私の周りは比較的平穏に過ぎていた。――――母の死因はよくわからないけど体形保持の為食事をとらなかったのが原因だったときいた。
そしてあの日、私が15歳の誕生日を迎え社交界デビューを控えていたあの時、カーリスから手紙を受け取った。文面は今でも覚えている。
『明日の朝、貴女の一番お気に入りのドレスを着て裏庭のリンゴの木の下で待っていてほしい。だれにも内緒で。』
私は眠れぬ夜を過ごしその時一番気に入っていた空色のドレスを着た。今も身に着けているこのドレスだ。裏庭にこっそり向かい――まぁ、私の行動を気にする使用人は一人もいなかったけど、リンゴの木に向かうとカーリスはもう待っていてくれた。
「サリ、綺麗だね。そのドレス本当に似合ってる。」
彼だけが私をサリと呼んだ。――――他に私の名前を呼ぶ人はいなかった。
「会いたかった、カーリス。」
「サリ、僕は騎士見習いに合格した。今の僕じゃ侯爵令嬢とは結婚できないけど、出世して将軍になればそれができる。だから僕は騎士を目指したんだよ、君の為に。」
甘い言葉だった。彼の目は真剣で、私は頬を染めて彼を見つめることしかできなかった。カーリスは私の手を取って跪いた。
「サリシュア・レイベル侯爵令嬢。僕は君の為に何でもする。僕と結婚してください。」
彼の言葉にぼーっとなりながら私は何度も頷き、彼はそのたびに手の甲にキスをしてくれた。いい思い出だった今日までは。
それからしばらくして私の生活は激変した。父が逮捕された。領地や屋敷は国の物になり国に治める罰金やら税金の為にあるとあらゆるものが売り出された。使用人の中で私の事を気にかけてくれる人は誰もいなかったし、カーリスの母親もいつの間にか消えていた――多分私の持ってた宝飾品と一緒に。絶体絶命の状況の中で屋敷の中の書類をひっくり返して何とかなる道を探していた私に幸運が舞い降りた。会った事も無い母の兄名義の家を見つけたのだ。そこは侯爵家の物ではなかったために国に取り上げられる事も無く、父の物でもなかったため差し押さえられてもいなかった。私はその幸運に感謝し、とるものもとりあえず、ほぼ身一つで屋敷を出た――思い出のドレスだけはバッグに詰め込んでた。
ここがその場所。地方都市のひとつで、戦場が近いため兵士や傭兵も多く治安はあまりよろしくない。その中心街からちょっと離れた割合と落ち着いた場所にこの家はあった。20年も放置してあったはずと覚悟してきたのに意外ときれいでびっくりした。家の中を調べたら父の字で書いた書類が出てきて理解できた。いざという時の隠れ家に使うためにわざわざ死んだ母の兄の名前で4年前にリフォームしてた。ここでも神様に感謝。ろくな家具は置いてなかったけど一階にリビングと台所、二階に寝室が二つそして私がいる地下室、というこじんまりした家だが女一人が暮らすには十分すぎる。
あれから二年、私はここで生活しながら働き何とか生活をしてる。はじめはどうしていいかわからずに何日もご飯さえままならないことも多く、プライドを捨て物乞いまがいの事までした。今は洗濯婦として働いている。あちこちお得意さんもいるし、食べるのには困らなくなった。――正直言うともっと他に仕事があると思ってた。一応五歳からの十年間、結構な家庭教師がついてあれこれ勉強してきた。読み書きや計算、外国語も扱えるしダンスや礼儀作法だってできる。だけどこんな街にはそんな需要は無いし、どっかの商家に雇ってもらうには紹介状がいる。当時私は16歳でそんなコネもなかった。手っ取り早くお金を手に入れるには酌婦か娼婦、後は洗濯婦か掃除婦って感じだった。当時、婚約者がいると思い込んでた私は酌婦や娼婦は問題外、後は掃除より洗濯のほうが好きだったからかな。ドレスの手入れの仕方や大量の洗濯物のやり方は使用人の仕事を手伝ったときに覚えてたから若干の自信もあったしね。嘆く暇もなく体を酷使して食べて眠る毎日を過ごし今日まで何とか生きてきた。
それで、十日ほど前、私はプロポーズの日以来ずっと会っていなかった婚約者から迎えに行きますの手紙をもらい。――半年ぶりだった。うれしい、ずっと待ってました。と返事を書き今日この日を迎えたわけだ。まさか迎えに行きますが娼館に売られることとは思ってもみなかった。夕飯を抜いて買った新しい下着とか、洗濯のお得意さんに聞きながらやっとサイズを直したこのドレスとか全くの無駄だったね。
娼婦になる決心か――――――正直今まで考えたことがないわけじゃない。汚い傭兵に無理やりやられそうになったときとか、本当にお金がないときとか、カーリスからの手紙が途絶えた時とかには本気で考えた。お得意さんの一軒はこの街でも大きな娼館で、そこでは娼婦たちの特別な日に着る勝負服の手入れなんかも請け負っているから知り合いも多い。中でも売れっ妓のミミさんとは仲良くしてもらっている。だからあのおやじが言ったこともよくわかる。覚悟を決めた良い娼婦は背筋を伸ばして生きている。ミミさんはこのタイプで、嫌な男は断るしそれを店も咎めたりはしないし、客を選べるから暴力を振るう客や金払いの悪い客はいない。逆にグズグズと下ばかり向いているような娼婦はいい客が付かないしそうなるとケチな客でも暴力男でも相手をすることになり、体に傷があることも多くなって、ますますいい客は寄って来なくなる。そうなると高級な娼館からどんどんと場末の娼館へと移っていく。金額も安くなるから稼ぐためには多くの客を相手にしなくてはならなくてどんどん悪循環にはまってゆく。そんなことをたった二年でも何回も見てきた。だから、覚悟が大事なのだ。娼婦になる覚悟か娼婦にならない覚悟か・・・
「よし、決めた。」
私は誰もいない地下室で大きな声を上げた。誰も聞いてないけど自分で声を出して決意すると覚悟が決まった気がした。
「娼婦にはなる。――――――――――ただし、処女は渡さない!!」
私は決心した。娼婦になる覚悟は決めた。この状況から逃げても無駄。ここでは一応家があって最初のうちは家財道具を売ってお金になったから生活ができた。ここを逃げ他の町に移ったら住むところもないしお金もない。生きるためには住み込みの仕事を探すしかないけどよっぽど運がよくないとそんな仕事は見つからない。結局娼婦になるならあのおやじのほうがましな気がする。ご飯を置いて行ってくれるぐらいには親切だし、間違ったことは言ってないしね。不安は一杯だけどミミさんやほかの娼婦の人でも明るく元気な人はいるし、中には幸せな結婚をした人も、お金をためて商売を始めた人もいる。生きてゆくために必要なら私はやるし、できる。ただ。純潔は別だ。暗がりで襲われて爪を二枚も剥がして抵抗したり――次の日からの仕事は地獄だった。食料を買うお金がなく裕福そうな家の裏でたまたま捨てられたドレスを見つけて持ってきたり――売ってパンになった。バカだった今ならジャガイモを買う同じ金額でたくさん買える。風邪をひいても薬も買えずにベッドで一人白骨化して発見の恐怖と戦ったり――カーリス以外誰にも住所は教えてない。色々しながらこの純潔は守ってきた。それは初恋の婚約者に捧げて幸せな日を迎えるためでボーナスの為じゃない。だから処女だけは渡さない。私の自由にさせてもらう。そして私はそれを底が見えないぐらい汚い臭くてドロドロのどぶ川に捨てようと思う。
そう決めたなら行動を開始しようと私は立ち上がった。耳を澄ませても何の物音もしない。おやじも馬鹿もこの家からは出て行ったみたい。私はおやじが置いていった小さなランプを手に取り奥へ向かう。ただ土を掘って木材で補強しただけのこの地下室には脱出用の小さな穴が開いている。何が入っているかわからない埃まみれの瓶が並んでいる棚を動かしその裏にある穴を目指す。暗がりにあるし穴の位置も目立たないように配慮されているためかおやじは気が付かなかったみたい。私はその穴をくぐり、はしごを上って階段下の物置に出ようとして動かした棚にあった瓶を手に取った――景気付けに一杯飲むのもありかなと思って。台所で瓶を開けると――これって4年前からの物?それとも20年前?私はそのままラッパ飲みをした。
「んっっっ。」
とろりとした濃厚な液体がのどに入っていくと芳醇な香りが口と鼻に広がる。
「美味しい!!」
私は初めてお酒を飲んだ。今まではそんな余裕もなかったし、美味しいものとも知らず飲もうと思った事も無かった。私は瓶から直接ではなくちゃんとコップに移して飲む。木でできたコップではわかりずらいが色は多分赤。飲んだことがないから断言はできないけどこれは赤ワイン。以前の生活で使っていたようなワイングラスにいれるときっと綺麗なんだろうなと思った。コップに入ったのを飲み干すと、別のにも興味がわいて扉のかんぬきを外して地下室に戻ると埃まみれの瓶をもう二本持ってきた。二本目は失敗。一本目のほうが美味しい。私はコップに最初の瓶のワインを入れて口直しする。三本目に挑戦。今までとは違う色と香り。戸惑ったのは一瞬で勢いよくコップをあおる。今までとは違う刺激に思わずむせた。頭がホワッとしてきた。何故か楽しくなってきた。さあ、行かなければ。私は地下室の入り口に昼には戻ると書置きを残し、三本目を手に取り外に出る。一緒に乾杯する私の処女を捧げるどぶ川を探しに行かなきゃ。出来ればうんと酷いのがいい。これからの娼婦生活であれより酷い人はいないと思えるぐらい。おっさんがいいかしら、それとも脂ぎってる人?恐ろしい顔した傭兵とか、禿とかデブとかかな。考えると楽しくなってきてくすくす笑いが止まらない。私は自分の外見――成長したために膝丈になった空色のドレスは埃と土にまみれていたし頑張ってハーフアップに整えた髪はグズグズに乱れていた――には気にも留めずに勢いよく玄関を出た。
ありがとうございました。