一粒の光
自らの体が空気を切り裂く音。鼓膜では風の雄叫びが始終付きまとっている。
瞳では上下左右の識別もつかないまま、俺は暗がりに落ちていた。
しかし、視界だけではなく、突然の意識の断絶。
気がついて体を起こしたそこは、月明かり程度の明かりに照らされていた。
「よお、やっとお目覚かい」
うすぼんやりとした光りの中、俺にそう話かけてきたのは、中年ぐらいの男だった。
「いったい、ここはどこだ」
「ヒヒヒッ、地獄さ、ここは」
禿げた中年はキイチだと名乗って握手を求めてきた。だが、俺は白色で滲んでいる周囲を見渡した。
「地獄……ここが、か?」
五円玉の穴を広くしたような場所だった。外周の縁の幅は二メートル、今こうして俺とキイチはそこに立っているのだが、ほのかな光が届かないぽっかりとした真っ暗闇が、中央下あたりに陣取っていて、深い闇の虚空を思わせていた。
「そうさ。いや、俺達が勝手にそう呼んでいるだけ、か」
「……うん?」
俺は疑惑にとんだ顔をしてキイチを見つめる。
「見えるだろ。あの中央のくぼみ。あそこの光りすら届かねぇ真っ暗な闇さ。底はあるが中身は混沌に埋もれた住民どもがたむろしてやがる。だが、やつらもそのままで治まる気はねえ。俺たちと入れ代わりたくて、なんども壁を伝ってここまで登ってこようとしやがる。いわば上と下との永遠の争いだ。終わることなく、ただ少しマシな空間を求めて、互いに領地争いを繰り広げさせる。これが地獄でなくてなんなんだ?」
キイチは面白げに下卑た笑いを上げる。
「ここから抜け出せないのか。食い物とかはどこから?」
「無理だね。ああ? 食い物ぉ? そもそもここでは死ぬこともないんだ。腹が減って餓死することはねえよ。常に小腹が空いているような状態なだけだ」
「そうなのか」
「それで、お前さん、現世で何をしたんだ?」
「現世でって?」
呆れた声を隠しもせずキイチが付け足した。
「お前さん、自分が死んだことをわかっていないのかい。死ななきゃ地獄には来れないだろうに」
俺は愕然とした。そうだ、死ななければこんなところに。
瞬間――交差点で自分が車に跳ねられる光景がフラッシュバックした。
ああ、俺はあのときに死んだんだ。
彼女を殺して逃げていた、あの時に。
「それで、どうなんだい?」
煮え切らない俺の様子に、苛立つようにキイチは尋ねる。
「女を一人殺した」
そうだ。ここは俺に相応しい場所じゃないか。なんだ、そうか。
俺は急な脱力感に襲われ、全てを投げ捨てたい気分になっていた。
「そうかい。俺はよ、窃盗、放火殺人、暴行傷害、へっへっへっあとは何だっけなあ」
俺はキイチを無視してその場にうずくまった。もう何も考えたくなかった。ただ、胸の中の虚空に全てを投げ出したかった。
「寝るのは名前を教えてからにしろよ」
「……洋二」
俺は目を閉じて、思考をまどろみにふけさせる。キイチの裸足で歩いていく音が響いた。
「どうだった、あいつ」
「洋二ってんだが、どうにも感じが悪いな」
「突き落とすか」
「いや、もう少し様子を見てみようぜ」
かすかに聞こえるキイチと彼らの声。だが、俺にはもうどうでもよかった。
俺が地獄に落ちて数日が経った晩――現実の時間感覚で言うならば――のことだった。不審な音が響いていた。鼻で息を吐く音だ。かなり荒い。
俺は見張り番だったので、辺りの様子を伺ってみる。ここ最近二度ほど、下の連中の襲撃にあった。キイチが言っていた争いだ。
しかし、今回は壁を伝っているにしては、音の距離感が近づくこともなく、離れることもなかった。
ただずっと、短い息遣いと低い雄叫びのようなものが混じるだけだ。誰かが下で何かをやっているようだ。
ふと近くでのそっと頭が動いた。就寝中の多勢の中、起きたのはキイチだった。舌打ちをして下をねめつける。
「てめー、うるせえんだよ。なにやってんだ」
キイチは怒鳴った後、小便を穴に撒き散らした。
「ギャハハハハ。いいもんだろ。黄金のスコールだぜ」
下からの音が止まった。キイチの顔がにやりとする。その瞬間、またもハッハッという音が下から聞こえた。
「てめーふざけんじゃねえぞ!!」
キイチの声など気にもとめず、下では別々の声のやりとりが聞こえ始めた。どうやら、息を荒げていた人物に話しかけているらしい。
このまま収まりがつけばいいが。
一瞬の静寂。
かと思った次の拍子――爆笑の嵐が下で沸き起こった。
「わかった、わかった。今から下りていって一人一人ぶち殺してやるからな」
キイチがわめいた。すると、次々と就寝中だった仲間が立ち上がる。額に傷のある一人の人物がキイチの目の前に来た。この場を取り仕切っている頭だった。
キイチが同調を促すように、怒りの心情を頭に訴える。
「聞いてくだせえ。夕霧の旦那。あいつら、ここを奪えないもんだから、こんな卑怯な手段にでやがったんですよ。信じられますかい。頭がどうかしてるとしか思えませんぜ。あんな下種ども見たことが……」
夕霧は拳を振り上げて何度もキイチを殴り始めた。俺には意味がわからかったし、キイチにしてもまったくそうだろう。鼻梁から鼻血をたらして、顔面が赤く染まっていく。
「うるせえのはお前なんだよ」
キイチは何度も弱々しく濁音混じりに謝っていたが、夕霧は容赦がなかった。キイチが動かなくなったあとに、その後、何度も腹に蹴りをぶちこんだ。
肩で息を切らして、夕霧はよたよた歩き、やっと横這いになって眠りに入った。周りもそれに従った。俺はキイチの様子を見てみたが、ひどい有様だった。
いくら再生能力があるからといっても、今度は死ねないことが恐怖となっていた。自由がなければ、意識があるのは無駄そのものだ。
ああ、男の荒い鼻息がまた下から聞こえだした。あいつはいったい何をやっているんだろうか。
俺は甲高い声に起こされた。妙に縁の辺りで騒がしい。
「やめてくれ。落とさないでくれ、なっ頼む、お願いだ」
年配の老人の声だ。
「夕霧さんの命令なんだ、よっ!!」
「うわああああああーー!!」
断末魔だった。時間を追うごとに声量が小さくなって、荒っぽく叩きつける音。
落としたやつは笑っていた。そいつらは数人だった。
他には、残りの連中が、五、六人寝ていたが、おそらく演技だろう。俺もそうだから。 怖くなった。初めて突き落とされるというものが分かった。胃が締め付けられる。俺もいつか落とされるのだろうか。嫌だ。起きたら、夕霧に媚びを売ればいいのだろうか。そしたら、奴は俺に何を要求するのだろうか。それもまた怖かった。
俺は天上を見上げた。俺は上から落ちてきたのだ。だとしたら、上に登ればここから抜け出せるのではないだろうか。
「なにしてんだ。洋二?」
キイチが不思議そうにたずねてくる。
俺は壁の状態を確認する。滑らかではないがかすかに凹凸がある。
「ここを登れば、出られるんじゃないか」
「はっ、あほかお前は。出られるわけーねだろ。昔、お前と同じこと考えていたやつがいたが……」
唇に手を当てたキイチは真剣な顔をしていたが、途端に口がほころんだ。
「途中で落っこちて下に真っ逆さま!! ここに入られるだけ幸わせなのによ、馬鹿な奴だったぜ」
げらげら笑うキイチに俺は疑問を持った。
「そいつはどんなやつだった? それからは?」
「ああん? そうだなあ……名前は雀とかいうふざけた名前のくせに、鷹みたいに目がぎらついているやつだったなあ。それから? 知るわけねーだろ、その後なんて。奴はもう闇の住人なんだからな」
俺はここに来て初めて人間に興味を抱いた。そいつは今ごろどうしているのだろうか。真っ暗闇の中で何を考えているのだろうか。
「下はそんなに不幸なのか?」
俺は下に降りたことがない。なにもわからない。
「いや、俺は落ちたことがねえからな。だが、考えてみろ。真っ暗闇だぜ。人間の精神が耐えられるもんじゃねえよ。人間は光を求めちまうもんだしな」
「そうか、悪人なのにか」
「人間の本質だよ。本質」
キイチは笑って真理めいたことを言った。かなり、インチキ臭い哲学者ぶりに、俺は笑った。キイチも気をよくして笑った。
馬鹿馬鹿しい。
中央の穴ぐらをじっと俺は見つめている。
縁に立っていても見えない。
しかし、下からはどうなのだろうか。逆光は俺達の姿を隠してしまうが、光の存在自体は彼らにはよく知覚できるのではないだろうか。彼らにとっては、月白のような、このうすぼんやりとした、太陽と比べるまでもない、この儚い光が、希望となっているのだろうか。光の中にいるのは薄汚い連中だというのに。
見えるはずのないものが見えた。縁の下の壁に青白い腕。俺が声を上げるまでもなく、誰かが叫んだ。
「襲撃だ!!」
縁の住人たちが全員下を覗いている。俺が見える範囲でも三人。さらに、後続があるようで声をかけあっている。
「お前ら、配置について蹴り落とせ。一人たりとも上がらせるんじゃねえぞ」
夕霧の一声によって、全員の顔から緊張感がともなう。
俺の目の前で縁のあたりに指がかかった。俺はそれを引き離す。殷々とした叫びのあと体がひしゃげる音。嫌なものだったが、何度かの経験は俺の罪悪感を薄れさせていた。
下で励ましの声が聞こえる。
「あきらめるんじゃねえ。最後まで踏ん張れ。あいつのために」
影の中に潜んでいるそいつが、いったいなんのことを言っているのか、俺にはわからなかった。わからないまま、また引っ掛けてきた指を引き剥がす。絶叫。ひしゃげる音。絶叫。ひしゃげる音。絶叫。ひしゃげる音。
訳がわからなくなってきた。俺は何をしている。何のために奴らを落としている。
「おい、こっちに応援をよこせ」
五メートルほど離れた場所で、複数の手が縁にたかっていた。仲間が踏みしだいたりしているようだが、なかなかうまい具合にいっていない。
相手は一点突破にかけたらしい。
俺はその場で立ちすくんでいたが、周りの連中はそっちに行ってしまった。一部分を除いて、ずいぶんと騒ぎが収まったように感じる。俺の皮膚の感覚が遠い。これが夢だと思ってしまうのは何故だろうか。
ヒタと指と何かが付着する音。俺はその音で、背中に怖気がはしった。それから、いつかに聞いた、荒い呼吸音。
俺は言い知れぬ恐怖を抱いて、震え混じりに下を眺めた。
そいつはすぐそばの縁につかまり、二の腕を曲げて、こちらに顔を覗かせていた。
俺とそいつの視線が合わさる。
鋭い眼光、それはまるで鷹のようで、妥協という光がなかった。
殺される、と思った。こいつに俺は殺されるんだ、と思った。俺はゴミクズだ。畜生以下だ。
筋骨隆々の男が俺を弱虫にした。
「何やってる!! そいつを落とせ」
夕霧が怒鳴った。
知らない。もう、あんたが勝手にやってくれ。俺はもう子供のようにめそめそ泣きたい。あんたも嫌だし、この男も嫌だ。
「どけっ、カス!!」
夕霧が俺を突き飛ばして、あの男の前に陣取った。男は片腕を縁の上に乗せて、後は下半身を打ち上げるのみだった。
夕霧が男の顔を踏み抜こうとした。顔面の中央部あたりだろうか。しかし、男は難無くひょいとかわしてしまった。それから、夕霧の浮足をつかんで、一気に下へ引きずり降ろした。全く躊躇いがなかった。
俺は夕霧の目を見た。大きく見開かれたまま、一言も発せず、彼は落ちていった。暗い暗い、深く深くの闇へ、人形みたいに落ちていった。
俺は――目の前に、筋肉質な男が立つのを黙ってじっと見つめていた。
だって、何をすりゃあいいんだ。夕霧は下へ真っ逆さまだし、他の連中もこっちに来ない。
男の目は鋭くて、体格がよくて、俺はなにをされても、文句など言えない。自分から落ちろと言われれば、俺は落ちる。たったそれだけだ。
男の手が動いた。
――壁に向かって。
なぜか、その男が馬鹿に思えた。
今、先ほど、この男が、俺の、引いては他の連中の命運すら握っていたとうのに、意味がわからない。
俺は近づこうとした。その男に。邪魔立てをするためではない。声をかけようとした反動だ。
すると、鷹のような眼光がさらに鋭くなり、俺は一歩も動けなくなった。手の甲の血管が浮き彫りにさせ、奴は壁をよじ登っていく。
男の行動は馬鹿げていた。俺もそれを夢見ていたはずなのに、実際に男がそうしているのを見て、自分がなんとも馬鹿馬鹿しいことを考えていたことがわかった。
歓声が上がった。俺たちからではない。下の住人たちからだ。
「雀、頑張れよー、落ちてくんじゃねえぞ」
「お前は、俺たちの希望だ」
「雀!! 俺たちの分まで、本物の光を――」
彼らがそう言って、次々と壁から手を放して、自ら落ちていった。これ以上ないくらいの満面の笑みだった。地獄に相応しくない穏やかな表情だった。彼らはお互いに健闘を讃えあって、残った俺たちは何一つわからなかった。彼らは何を考えていたのか。
男が暗がりに消えていく。燐光のような淡い光も届かない上部へ消えていく。
何だ、これは。
いったい、何なんだ、これは。
もう、ずっとまともに寝ていない。地獄に来てから月日という感覚は麻痺していたが、あの男が登っていくのを見て、生前の世界なら何日経ったのだろうと、やたらに考えている自分がいる。
縁の上でうろうろして、自分でも落ち着きがないのはわかっている。
だが、どうしようもない。
心の中で焦燥が拡がり、いったいあの男はどうしているのだろうか、今はどのあたりにいるのだろうかと、そればっかりが俺の頭の中で浮かんでは消えて、浮かんでは消えて、浮かんでは消えて、俺は気が狂っている。地獄に来て、こんなにも心苦しいことはなかった。嫌なことは眠りに任せて考えないようにすることができた、誰かと喋ることで不安も紛らわすこともできた、だが今はだめだ。頭から追い払えない。あいつのことが。雀のことが。
「よお、元気なさそうじゃねえか。洋二」
キイチが俺の隣に座った。ここのところ機嫌がいい。夕霧が去った後の後釜を担ったからか。元々、人付合いがいい奴だし、周りの奴も快くキイチに従った。
俺は天上を見上げる。見えもしない誰かを思って。
「なあ、あいつどうしたと思う。俺はずっと聞き耳立ててるんだが、落ちてきた気配がしないんだ。あいつ、ひょっとしてここから抜け出したのかな」
キイチが微苦笑を浮かべた。やれやれとでも言いたげだ。
「また、雀か? んなわけねーだろ。お前がこっくりこっくりしている間に落ちたんだよ。ここから抜け出した奴なんざいるわけがねえよ」
「そうか」
納得した。なのに俺は天上を見つめる。俺は何かを期待している。そんな俺の物分かりの良さ以上のものを。
「襲撃だ!!」
誰かが、叫んだ。キイチの目付きが変わる。俺もゆっくり立ち上がり、撃退に加わろうとする。
「ああ、いい。お前は無理すんな。ここんところ一睡もしてないんだろ。それに数がめちゃくちゃ少ないからな」
キイチがニカッと笑う。月光のような光加減に映し出されるは二人。一人は面識がないが、残る一人は見知った顔だった。
「おい、キイチ、なにボケッとしてやがるさっさと俺を引き上げろ」
夕霧が縁のふちに手をかけて歯を剥きだしにする。
「おやおや、誰かと思えば夕霧さんじゃないですか。しかし、う〜ん、聞けませんよ」
「お前、誰に向かって口聞いてんだ」
「夕霧にだよ。もう、お前の時代は終わったんだ、よ!!」
何度となくキイチが夕霧を蹴りつけて、顔面を血だらけにして落とした。
残る一人はへつらうかのような笑みを浮かべて、自ら手を離し消えていった。
俺はそれからも天井を見上げていた。キイチはお手上げ宣言をしてから何も言わない。俺がどれだけ正常から遠ざかっても、あいつからは遠ざかれない。俺はまだちゃんと聞いていない。あいつが落っこちる音を。今、思えば、下の住民も俺と同じかもしれない。だから、夕霧に従って襲撃してこないのかもしれない。
皆が眠りにつく。見張り番はいつも俺が買ってでている。ずっと起きているのだから、他の誰かがする必要性はない。
しかし、俺の意識は限界に近づいていた。眠らないといっても、体は疲れている。意識が薄れる。ほんの少しだけ、意識を麻痺させよう。
ガコッ!! ギィィイイイ!!
俺は飛び上がった。今まで聞いたことがない音だ。何だろうか。俺は天井を見る。何の変哲もない暗闇に一粒の光があった。
俺の口は半開きだった。美しかった。あの光が俺を馬鹿にさせる。鋭利な刃物のように、尖った光の輪だ。闇を照らすのではなく、闇を切り裂く光。
「キイチ、起きろ!!」
俺はキイチの体を揺さぶる。キイチがぼやけた声をだしているとき、また先ほど聞いた重々しい音がする。光が弱くなった。闇に呑まれていく。
「おい……どうしたってんだ」
キイチがまぶたをこすって俺に聞いた。
「光が見えたんだ……本物の光が……」
俺は頭上を見上げていた。
「まだ言っているのかよ。そんなのあるわけねーだろ」
しかし、俺にはあの光こそが全てだった。真実だった。暗闇の向こうにある光。そこに俺の心は奪われていた。
凹凸のある壁に手をかけて、その感触を確かめる。今にもはやりだす気持ちを抑えて、俺の頭の中で光への階段が出来上がっていた。ここはもう地獄ではない。
369(ミロク)/ひかり
眩しくて眼を開けてられない♪
けど、その先をどうにか見てみたい♪
あなたは何も見せてくれない♪
けど、暗い時も何処かに触れたい♪
何もかもが白く染まるほど♪
僕を照らす光は明るく♪
逆光にぼやける未来の輪郭♪
徐々に近づく♪ そこに近づく♪