『現場に女性が増えるとねぇ』!?
「現場に女性が増えるとどうしてもねぇ」
尊敬するカガ先生は、かけているメガネのブリッジを押しながら言い放った。今となっては、『尊敬していた』の方が正しいか。
「ニェール医学校もうまくやればよかったのにねぇ。入試要綱に最初から書いておけばよかった話なんだよ。そうすればなんの問題にもならなかったのに」
スライドガラスを顕微鏡に挟み込みながら、ねぇ、とカガ先生が繰り返す話に硬直しているのは私、医学部6年生のマコである。「えぇ〜、そうなんですね〜」となんとか言葉を紡ぐ。貼り付けておいた笑顔が崩れそうになる。マコは実習で疲れた放課後に、お世話になっている研究室に癒しを求めに来たが、癒しどころではなかった。
カガ先生は医療現場がいかに人手が足りないか、女性が増えたら困ることについて話し続けている。死んだ方の細胞や組織を顕微鏡で詳しく観察し死因や病気の機序を探求する、いわゆる病理という学問のニェール大学病理研究室では彼は中堅の立ち位置の先生だ。そんな先生に意見できるほど学生の私は胆力がない。笑顔でその場をやり過ごすしかなかった。
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「もうほんっとうに疲れた、ショックだし…」
マコはテラス席の円形のテーブルに突っ伏しながら震えた声で言った。
「私も又聞きだけどショックだな。まさかカガ先生がそんなこと言うなんて」
マコの愚痴を聞くのは決まって同学年のミサキだ。最近学内にオープンしたドリンクショップのフレッシュグレープフルーツジュースをストローで飲み干した後にマコは続ける。
「なんでよりによって私に話すかな!目の前にいる私が女だって、わかって、言ってんのかって!ほんとにガックリ来たし、一気に株下がったよ…尊敬してたのにな」
「やっぱり中年男性ともなるとそう言う考えの人多いよね〜。でもいいじゃんマコ、話わかってくれる人がこんなにいるって、ひとりじゃないよ」
ミサキが見せてくれたのは、ミサキのスマホ画面に映る私のソイッター画面だった。ソイッターは手軽に文章を投稿できるサービスで、マルコという名前でマコが最近始めたのだ。ミサキは数少ない私のアカウントを知っている友達である。
「こうやって文字にするとどこかの誰かが共感してくれるっていい時代だよね。私はマコと違って読み専だけどさ。ほら、マコが愚痴った内容、けっこうシェアされていいねついてるよ。おかしいのはやっぱカガ先生だって」
「え、ほんとだ!なんか途中から先生と話してたら、もしかして私が間違ってるのかなって思ってきちゃって、モヤモヤしちゃって…でも文字にしてみてよかった、うう、泣ける…」
涙をにじませながらマコがテーブルに突っ伏していると、スマホの振動がテーブルに伝わってマコの頬を震えさせた。
「あ、なんかソイッターにメッセージ来てる。誰だろ」
マコは目を見張った。
「え、めっちゃ嬉しい…ついについにフォローしてもらえた!」
マコはミサキの肩に手を置きながら椅子の上で飛び跳ねた。
「誰だれ?」
「インガンって人。なんか女性差別のこととか発信してて素敵だと思ってフォローしたんだよね。まさかフォローし返してもらえるなんて…今日の嫌なこと全部吹っ飛んだ」
『インガンさんからのメッセージが届いています』という通知欄を汗ばんだ指で押した。