この世界では王太子は馬鹿だと決まっている
七代前の国王時代あたりだっただろうか。
王太子たちが、ある時期を境に恋愛脳症候群を患うようになった。
その相手というのは、全て、男を誑かすことに特化した身分の低い阿婆擦れどもである。彼らの婚約者は選び抜かれた才色兼備な女性達だというのに、王立学園入学後から皆一様に様子がおかしくなるのだ。最終的に、王太子は自らの強い意志を貫き、国王から廃嫡されるのだが、その度に後継者争いが勃発し、国力及び中央集権力は着実に下がっていっている。
この決まりきった出来事たちには妙に共通点が多く、国に不利益な事が多いことから、きっと何かの呪いに違いないと密かに私は疑っているのだ。
ところで私はパルメザン公爵の長女モッツァレラである。私の名前は重要ではない。ここで重要な事は、婚約者が一人いる事、それがなんとその王太子である事。その上、明日には王立学園の入学式が予定されている。
彼とは幼い頃から何度か会った記憶があり、悪くはない仲だったはずだ。そんな彼もまた、歴代王太子と同じく何処の馬の骨とも知れぬ女の餌食になるのだと思うと、今から入学が気が重くてならない。
しかし、一度浮気した男は必ずまた浮気するというではないか。結婚前に浮気性が発覚したのならこれ幸いと別れるべきではないか。
我が家が王家と繋がりをもつことは、確実に起こる婚約破棄によって一人娘に傷をつけてまで必要なことであろうか。とはいえ、王族の婚約者に選ばれるのは、永く続く我が一族でも数える程だ。すなわち父公爵は必ず破棄される婚約を不必要だと認めることができない。
なぜ私が婚約者に選ばれたのか、それは、家柄や血筋ももちろんの事だが、きっと私自身の素行も大きく関係しているはずだ。ならば必ず浮気する男などと結婚したくないと父に申し上げたが、なんと失礼な事を申すか、と叱られてからは婚約に関して何も言うことができていない。
***
「やっばーい!遅刻遅刻ゥ!」
静かな会場に響き渡ったのは何とも軽快な少女の声であった。
それは長い学園長の話に夢うつつだった私を覚醒させるには十分な衝撃だった。
ヤッバーイ、とは不明な単語ではあるが、遅刻だと叫んだ割には誰かが会場に入ってくる様子はない。
辺りを見れば皆の視線が集まっているのは丁度真ん中の列の少女であった。
どうやら彼女も夢の中にいたようだが未だ瞳は閉じられている。寝言と片付けるにはあまりにも不可思議であった。
しばし沈黙の後、聞き慣れた声がどこからかそれを破った。
「君は!」
逞しく長い腕でどうにかこうにか列を越え、端からようやく中心へ辿り着いたのは正しく我が婚約者であった。
「なんて平等に人と接することが出来るんだ!好きだ!」
と少女を抱きしめたのだ。
そこでようやく我に返った周りがざわざわとし始めた。あれは誰だ、素敵、気が違っているのか、最初のイベントシーンだ、などと様々な声が行き交う。収拾のつかなくなった状況に際し、
「ひとまず入学式はこれにて終了とする。各自、既に配布している書類を確認しておくように。」
奇しくもそれが学園長の長話に終止符を打ったのだった。
***
―ギィィ…
「失礼致します。」
ノックをした後、こうべを垂れ、開かれた扉へ許可を求める。
「本日は先日の入学での言葉の真意を伺いたく。」
「ほう。良い、顔を上げよ。久しぶりであるな、モッツァレラ殿。」
ここ、寮棟の最奥に存在する王太子所有の部屋は、宮殿の一部屋を丸ごと移したようなもので、代々王太子に受け継がれている伝統的な寮部屋だ。学園長室よりも豪奢であるのは間違いないだろう。
大きなソファに大仰に腰かけているのはこの部屋の主、彼の偉大な現国王の嫡男様である。
許可を受けて顔を上げると、すぐに壁続きの扉が不自然に少し開いているのが目に入った。
本来の用がある金髪の男の方へ視線を向けるとこちらは制服のベルトが外れている。
すぐに嫌な予感を察し、言葉を返すより先にその扉に向かうと、王太子殿下は人並外れた瞬発力で大きな跳躍をして半開きの扉の前に立ちはだかった。その際に履物が足元に落ちたのには気づいていないらしい。
「勝手に人の部屋に入ろうとは、無礼だ。」
至極真っ当である。しかし、おあつらえむきの怪しげな部屋や行動に、過ぎる一つの考えを確信するためには、私も譲るわけにはいかない。
「あっ!」
「えっ。」
驚いた振りをして足元に落ちた履物を指さすと、王太子殿下は足元を見てまんまと慌て、カチャカチャと履物をずり上げた。
その隙に素早く部屋の中に入ると、驚きの光景がひろがっていた。
一人の女子生徒がベッドに寝かされていたのだ。制服はきちんと着用している。ほとんどの人間が外す第一ボタンもしっかり留めてある徹底ぶりだ。
「殿下、これは。」
まさか、浮気性にとどまらず、強姦未遂までしているとはとんだ性犯罪者ではないか。
いや、本当に未遂なのだろうか。
「彼女は入学式で疲れてしまったようなのだ。」
ズボンを手で押えながら気まずそうに目を逸らしている。
「まさか、入学式からこの状態なのですか?」
目の前の男の危険性に考えが及び、思わず後ずさる。
出口に鍵を掛けていないことを確認し、武器になるようなものは無いかと周りを見渡すが見当たらない。
「いや、今来たところだが、遅刻しそうになっていたところを助けたのだ。」
しどろもどろになっていてもはや意味の通る文章になっていない。意思疎通は不可能と判断し、直ぐに逃げるべきだと私の本能が警鐘を鳴らしていた。
「なるほど。では私はこれで。」
「待ってくれ!」
華麗な回れ右で大きく踏み出したが、右腕を掴まれてしまった。
「キャア!」
極度の緊張状態にあった私は、思わぬ刺激が錯乱への引き金となった。
「イヤ!!」
「待って、落ち着いてくれ!」
男はよりわたしの腕に力を込めて、さらには私の口を塞ごうとする。
「嫌ァ!離して!!」
私は頭や空いた手を振り乱し、足を使っての攻撃を試みる。
「すまない!一旦落ち着こう!」
さらに私の肩に触れようとしたので、ますますパニックになった。
「触らないで!!変態、くたばれ!!」
遂には彼の腕に閉じ込められて口を塞がれてしまった。万事休すとはこのことだ。
「グッ」
もはや叫び声を上げることも叶わず、喉の奥から情けない唸り声が漏れた。
「おまえを害するつもりはない。手荒な真似をしてすまないが、騒がれると困るので静かにしていてくれないか。」
「…。」
真摯にこちらを見つめる男の、思いの外澄んだ双眸がやけに印象的で腹が立った。
ややあって、私が頷いたのを確認して彼は手を離した。
解放された私は大きく深呼吸をして乱れた髪を手でおさえる。
「はぁ。…こちらの女性は一体何ですの?」
この男を信用した訳では無いが、ひとまずすぐに身に危険が及ぶことはないと判断して目の前の疑問を解決することに頭を切り替えた。
先ほどの錯乱などなかったかように澄ました声で変質者を仰ぎ見る。
「彼女は私の部屋に二日前に押しかけてきた。すぐに意識を失った。」
変質者、もとい王太子殿下はベッドを一瞥して投げやりに言った。
「なるほど、まるで彼女が悪いかのような言い分ですわね。」
「え、私が悪いのか?」
「自分で彼女が気に入ったと宣言していたじゃありませんか。」
入学式での出来事だ。あれだけ強烈な出来事をよく忘れられるものだと感心する。
「あ、いや、あれはその、気づいたら口から飛び出していたんだ。いや、しかし、絶対にそう思うはずは…。だが…。」
目が泳いでいる。そわそわと落ち着きがなくなり、部屋をウロウロと歩き出し、棚に置いてある手頃な小物どもを弄り始めた。
「幸いなことにあれが殿下だと気付いた人間はごく少数のようですが、少なくとも私は父上に婚約解消についての請願書を送りましたわ。」
動かしていた手を止め、硝子玉のように美しい碧眼から射られた視線が私に刺さった。
「…婚約破棄するつもりなのか?」
「もちろんでございます。」
淀みなく応えた私に、殿下は眉根を寄せ、存外きっぱりと言いきった。
「それは困る。」
「なにゆえ。」
「なぜなら、その、なんというか、悪評とかが…。」
殿下は手に小さな骨董品を持ったまま視線を床に下げる。
まあ、何と正直なのでしょう。素敵。
「愚かな。」
「え?」
ぱっと顔を上げた表情の間抜けさ具合は脱帽ものであるが、今は脳内に写生していられない。
「いずれにせよ、彼女の意向は確認なさいましたか?」
依然ベッドに寝かされている少女に意志確認をすることは可能なのか疑問が残るが。
「いや…。何しろ入学式の後からずっとこの状態なのだよ。」
殿下は眉尻を下げて首をふる。
「本人の意向なしでの婚約は、現在違法ですわよ。絶対王政は終わったのです。おかげで貴方は自由にお手洗いに行けるでしょう?」
とはいえ、未だに王族ならいくらでも情報を改ざんしそうなものであるが。
「結婚するとまでは言っていないが。お手洗い?」
いまいち理解していない様子の殿下にひとつ溜息を吐いて、思わず諭すような口調になる。
「貴方の叔父上は朝から晩まで予定が決められていて、排泄の時間は勿論、衆人環視の中で1日を過ごしたようですわ。現代史で習われなかったのです?」
私の物言いについに腹を立てたのか、王太子はムッとなって言い返した。
「歴史など習って何になるのだ!私が歴史を作るのだぞ!」
「間違いありませんわね。ところで、女性が倒れてから、医師に診せましたの?」
「いや、その、何というか、女性を部屋に連れ込んでいると思われるのはまずいのではないかと思って。」
自らの発言をあまりに軽く流された事に少なからぬ衝撃を受けた様子だが、直ぐに切り替えることだけは出来るようだ。
「あら、そこまで考えられる認識があるなんて。とはいえ、医者に診せない限りは、話が進展しませんわ。それとも、もう殺してしまいましたか?」
「何をいうか!女子供を手に掛けるなど男の恥だ!」
「志は立派ですわね。2日も倒れた人間を放置していたとは思えませんわ。」
「しかし、おまえがここにいるならば、医師を呼んでも良い頃合いか。」
王太子は二度手を叩いた。
どこからかぬっと背の高い男が現れ、流れるように傅いた。
「イエス、ユアハイネス」
「医師を呼べ。彼女を診せる。」
「アブソリュートリー」
男は意気揚々と扉を開けて出て行った。
一体どこから。やはり、王族は王族である。
開け放しの扉から男が廊下を曲がるところまでぼんやりと見送ると、ふと我に返り、
「さて、私はこれで。」
簡易的な礼を示して続いて部屋を出ていく。
「いや待ってくれ、おまえがいなくては誤解を招くではないか。」
殿下が存外に喚き立てるので向き直る。
「誤解では無いじゃありません?」
大衆の前で愛を告白したのは周知の事実である。
私の言葉を受けて殿下の瞳が瞬いた。
「む、確かにそうか。」
「では。」
考え込むような殿下の姿に、これ以上何かを言われては堪らないとばかりに早歩く。
「あ、ちょっと。」
王太子が慌てて手を伸ばした先に触れたのは、彼女の後ろ髪の毛先ばかりであった。
静まった部屋の中で、公爵令嬢の突然の来訪に、慌てておまるを隠して以来緩んだままのベルトを静かに締め直したのだった。
***
本日は改めて王太子の部屋に呼び出された。
しかし、私の為した数々の助言に対してお礼をするような真っ当な人間性は持ち合わせていないだろうと考え、また面倒なことに巻き込まれないことを祈りながら扉を叩いた。
「失礼いたします。モッツァレラでございます。」
「入れ。」
王太子の声と共に開かれた扉を視線で見送る。
「よい、面をあげよ。先日、おまえに言われた通り、彼女を医者に診せた。」
今日の王太子はきちんとベルトを締めているようだった。
優雅に紅茶を嗜んでいる余裕まで見せつけている。
「ああ、この間の娘。」
ちらりとテーブルに目を向けると御茶請けは色とりどりのチョコレート。
私は妙に味のつけられたチョコレートは好まない。この王子とはどこまでも気が合わなそうだ。
「うむ。」
―ズズ。
「それで、彼女は目を覚ましましたか?」
―フゥ…。コト。
「それが、彼女は今昏睡状態にあるらしいが、健康状態は良好で、体温が高いということ以外、目立った不調はないらしい。このまま目覚めを待つしかないということだ。」
―ズズ。
「なるほど。それで、なぜ私をお呼びに?」
「ふむ、あれから私は、ひょっとして彼女のことが好きなのかと考えた。そして一度も会話したことがない女を好きになるはずはないという結論に至った。」
「なるほど。」
「そこで、おまえとの婚約破棄の件、なかったことにして欲しいのだ。」
「まあ、殿下、素晴らしいですわ。歴代王太子の為せなかった、正常な結論を導き出したのは。呪いはこれで解除されたのですね、完璧です。女性を立たせたまま紅茶を嗜み続ける人間だなんてとても。」
―ゴトッ。
王太子は、先程まで優雅に飲んでいたカップを乱暴に置き、勢いよく立ち上がった。
私は思わず半歩下がる。
「呪い?私は呪われていたのか?道理で勝手に体が動いたのか。そうか、これで晴れておまえと結婚できるな!」
握手せんばかりの勢いだ。
「何をおっしゃっているのです?殿下と私の婚約解消の件はとっくに国王の元に渡って先日認可されたはずですわ。」
王太子は、私の言葉を聞くと、しばし固まり、鎮火された炭のようにプスプスと萎れてしまった。
「では、彼女と結婚するしかないのか…。」
「私は殿下のそういうところが嫌いですわ。」
私が顔を背けると殿下は眉間に皺を寄せた。
「嫌い?一体どこが嫌いなのだ。」
「私でも彼女でもどっちでも構わないとも取れる、女性を蔑ろにするような発言をする所です。」
「私は彼女との関係に始末をつけたのだ。婚約破棄に値するような疑いは最早無いだろう。…すまないが、私にこれ以上の改善を求めないでくれ。現状が精一杯なのに、あれこれ改善しろと言われると混乱する。」
殿下は眉間を揉みはじめたが、頭を抱えたいのはこちらの方である。
「殿下の、現状で手一杯という主張は、言い訳及び逃げですわ。婚約者がいる身で、それ以外の女との関係を明瞭にすることは当然の行いです。自慢げに言うことではありません。それよりもご自身の発言や態度についてもっと鑑みるべきですわ。」
「どっちでも構わないことは無い。言い訳、確かにその通りかもしれないが、出来ないという事が事実としてあるのだから少なくとも今はどうしようもないではないか。」
「本当に出来ないのかという話ですわ、殿下。」
「そもそも、本当に私に出来ないかどうかは他人に分かるはずもなく、逃げだと断定するのは困難なはずだ。」
「ですが、可能な限り客観的に考えると、多くの人ができている中で、飛び抜けて劣等なわけでは無い貴方が、他人への配慮をすることが出来ないと考える方が不自然ですわ。」
「おまえは他者への配慮を私に求めているのか?人には得手不得手があるのだから、多くの人にできるからと言って平凡な人間が必ずできるはずだと考えるのは少し乱暴ではないか。」
「私には、貴方が自分を正当化、つまり自分の立場が悪くならないように言い訳を探しているとしか思えないのですわ。」
「そう思うのであればおまえの考えを変えさせる事は難しいであろうし、これ以上の議論は不要ではないかと思う。」
「そのように言ってしまえばほとんどの事物が意味を成さない事になってしまいますわ。それぞれ意見が違う中で妥協点を見つけるのが人間として重要なのではないですか。」
「おまえに人間について説かれる筋合いはない。私にとっての妥協点は先ほど示したように、最低限無関係の人に不利益を被らせないという事が精一杯だ。それ以上の、例えば自己中心的である点などの改善は難しい。」
「それは私にとっては納得し難いです。無関係な人に不利益を被らせないということは全ての人が備えることであって前提事項ですわ。国の将来を担う殿下には、それよりも前進している目標が必要です。」
「それは何度も申したように、現状で手一杯な私にはこれより前進した目標は厳しい。現状に対応してからではダメなのか。」
「いけませんわ。私たちには多くの時間はありません。このペースでは、殿下が即位して国が滅びるのに一月もいらないでしょう。国民としてそれを指を咥えて見ている訳には行きませんわ。」
「私にその能力が無いのであれば他の人間に代わりに務めて貰えばよいでは無いか。」
「…そのように考えるのですね。」
王太子の言葉に、私はこれまでの人生で最も大きな溜め息をついた。この男に期待するということがどれほど愚かな事か、何よりも良く理解出来た。
「殿下。後継者の決定は私ではどうにもできませんから、私ではなく、陛下に申し上げてくださいませ。しかし、殿下の申し上げた事は、廃嫡された歴代王太子が代々行ってきたことと同じことで、呪いを解いたことにはなりませんが。」
「呪いなど、そのように不確かなものは知らぬ。私は私の最も大切なことが守られればそれで良い。しかし、なるほどおまえの言うことは尤もだ。では父上に申し上げた後に進捗をまた連絡しよう。下がれ。」
「はぁ、失礼いたしますわ。」
***
またある時の昼下がり。
「父上は私からそのように申し出て貰えるのであれば、それは十分に幸運な事だ、と申された。」
「殿下の能力をご存知の上で、申し出が無ければ譲位なさろうというお考えでしたのね。ご立派だわ、国を滅ぼすつもりだったのかしら。」
「そういうことで、私は王太子ではなくただの王子となった為、おまえと結婚する必要は1ミクロンも無くなったということだ。」
「有り難き幸せにございます。」
「何故感謝するのか。無礼な。」
「殿下からのお言葉を頂けることが全て国民の幸せにございます。」
「今までは至極当然の顔で我が玉音を受け取っていたのに、ここに来て突然感謝するのはおかしな話ではないか。」
「ところで、殿下の麗しき花嫁は目を覚ましなさいましたか?」
「花嫁?もしかして、ミレイの事か。彼女は直ぐに体調を戻して自主退学したぞ。」
「それは妙ですわね。この学校に特待生として通学する以上、自主退学は認められないのでは?」
例の事件の際、調べた学生簿には、特待生制度を利用していて、爵位などを持っていないといった旨が書かれていた。
「いや、彼女は記憶を取り戻したとか何とか言ってトイレなるものを作るのだそうだ。」
「なるほど、やるべきことを見つけて自主退学するのはこの国の美学ですものね。」
なんだかへんちくりんな美学のような気はするが、実際に、よく自らの退学について自慢している親戚は私の身近にもいる。
「その通りだ。」
「では、いつ結婚なされるのです?」
“といれ”とかいうものを作った後?それとも殿下が卒業した後?
「いや、彼女と結婚はしないつもりだ。」
殿下は真っ直ぐ私の目を見てキッパリと言いきった。
「はあ、そうですか。良き相手が見つかることをお祈りしています。では。」
「いや、待て、何故帰ろうとする。下がる許可を出していない。」
「あら失礼致しました。」
じっと見つめられてなんだか居心地が悪かった。
「つまり、私が申したいのは、やはりおまえと結婚したいということなのだ。」
「何故でしょうか、陛下?妙ですね。何かがおかしい。」
「そう勘ぐるな。つまり、おまえが好きなのだ。そういう事だ。」
殿下の顔は明後日の方向を向いていたので、いまいちどういう感情なのか掴めなかった。
「なるほど。私は殿下に好意を抱いたことは一度も無いのですが、それについてはどうお考えですか。」
「残念だが、身分制がこの国で適用されている限り、おまえの気持ちは考慮されない。」
殿下の肩をすくめる動作が、やたらに胃をムカムカとさせた。
「やっぱりそういう所が嫌いですわ。」
「無礼であるぞ、控えよ。」
「それにしても、今どきは恋愛結婚が主流だと言うのに、殿下がそれをしないのは、殿下の気になさる世間体として良くないのでは?」
「そうなのか。ならば恋愛結婚だということにすればよいではないか。」
「はあ、なるほど、そうですね。」
「では、その為にはおまえが私を好きになる必要がある。」
「存外まともな案ですね。ですが不可能です。代案が必要です。」
「ほとんどお互いを知らないのに、不可能と断ずるのはまだ早いのではないか?」
「まさにその通りです。ほとんどお互いを知らないのに、好意を持つのは不自然です。」
「自然か不自然かはこの際どうでもよいであろう。好きという感情は常によく分からないものなのだから。」
「一理ありますが、私に権利が無いわけでは御座いません。無理に結婚させるというのであれば、訴訟致します。」
「だから、無理にとは言っておらんだろう。ただ、おまえが私に好意を持つ為に恋人関係になる必要があるのだ。」
「なるほど、形から入ろうということですか。」
「仮にも王子と交際したという事実があれば、おまえにも箔が付こう。不利益は無いはずだが。」
「私の精神衛生上においては不利益だらけですわね。大体、仮に私が男性だとして、花嫁を選ぶなら殿下のお下がりなど御免被りたいと考えますが。実際のところいかがなのでしょうか。」
「失礼な。嫌だと言うなら仕方がない、これは命令だ。結婚は命令しないが、恋人関係は命令だ。よいか。」
「あらあら、命令であれば仕方がありません。御意。」
「ふむ、ではまず、身体的接触をすべきだ。」
「拒否します、殿下。」
「何故だ。」
「段階を踏まずに身体的接触をされることほど女性にとって不快なことはありません。」
「そうなのか、では何をするのだ。」
「今どき、男女の対等な関係が流行りです。まず口調から揃えましょう。」
「それは、なにか矛盾していないか?関係自体が命令なのに。」
「でも、対等な関係の方がより近く感じられるでしょ?ねえ、ダーリン。」
「そんな急に。」
「うわ、アナタ臭うわ。不潔、別れましょ。」
「何故だ!嫌だ!俺は臭くない!別れたくない!」
「いいえ、さようなら。」
「…おい、どういうことだ。別れてしまったぞ。」
「ええ、残念です。関係が終わってしまいましたね。」
「では何度でも命令するのみだ!もう一度命令をするぞ。今からおまえは私の恋人だ。」
「はあ、そうですか。仕方ありませんね、よろしくお願いします、ホースディア殿。」
「む、よろしく、モッツァレラ殿。」
「あ、しまった!父に呼ばれているのを忘れていました。恋人ごっこはもうおしまいです。では。」
「ごっこ遊びではない!…とはいえ、公爵殿に呼ばれてしまったのでは仕方がないな。もう下がってよいぞ、ってあれ、もういない。」
その後、私の認可された筈の誓願書は謎の勢力によって握り潰され、王子の婚約としては異例の早さで、今週末には正式な花嫁としての発表があるとのことだ。結婚式は学園を卒業した後に行われる予定となった。
***
「やはり私の意志は無視ですわね。今時流行らないわ。」
「おまえがいつも言う、今時の結婚、は先を行き過ぎていると思うのだが。」
「あら、殿下遅れてらっしゃいますのね。ところであの少女以外に気になる少女はいらっしゃいませんの?」
「なぜそんなことをおまえに言われなきゃならないのだ!」
「あら、ごめんなさい。でもできたら必ず教えてくださいね。まだ間に合います。」
「できるわけがなかろう!それにもう間に合わぬ。」
「まあそうカッカしないでくださいな。冗談ですよ。一部。」
「おまえの言うことは時々わからぬ。」
「まあ。殿下ならお分かりになるかと思って申しているのですが…。」
「分からぬ!おまえの言うことはおかしい!」
「おかしいとは何ですか、文法だって間違っちゃいませんわ、私、ネイティブですよ。正統な血筋だから貴方の婚約者なのではないですか。」
「文法の話などしておらぬ、おまえの常識は私とは少し違うようなのだ。」
「イヤだ、当たり前じゃありませんか、王族と同じ常識でたまるものですか。」
「何を申すか、不敬だ不敬!」
「あらあら、ご機嫌を直してくださいな。ほらお綺麗なかんばせが台無しですわよ。」
「むむ…。おまえにはいつも上手く丸め込まれているような気がして納得いかない。」
「そんなことないですわ。私殿下よりも身分が低いですから。」
「当たり前だ、私より身分の高い者はこの学園にはおらぬ。」
「でしょう?」
「うむ、ところで相談なのだが…。」
「はあ、なんでございましょう。」
「正式な花嫁内定になったのだがら接吻の一つや二つ、十くらいよいのではないか?」
「あらやだ、それは結婚式の夜、初夜にすることですわ。」
「そうなのか?でも今日中庭で接吻をしている男女を見たぞ。」
「その方達はもう結婚しているのですわ。」
「いや、それはおかしい。学園の規則では在学中の婚姻は認められていない。」
「余計な事を…。殿下のように貴いお方では無いのですからある程度はあるのでしょう。しかし殿下は違いますわ。」
「そうなのか。父上に頼めば許可をくださるだろうか。」
「そのように取るに足らない事で、王の手を煩わせてはいけませんわ。」
「取るに足らぬ事とは何か!おまえと私の大事な未来に関わるだろう!」
「ええ、未来に関わりますからいけません。」
「いや、今のうちから親睦を深めておくべきだ!陰謀渦巻く王宮においては、夫婦の絆が何よりの武器となろう。」
「殿下に継承権はないのですから、その危険は少ないのでは?でも、一理ありますわね。間違いなく現国王の血を継ぐただ一人でいらっしゃいますものね。…それにしても何だか殿下、最近知恵を付けてきて面白くありませんわ。私はもう諦めるしか無いのかしら。」
「何を諦めるのか。」
「嫌ね、殿下との結婚ですわ。」
「なに、もう決まっているのだから諦める必要がどこにある?」
「あら、語弊がありましたわ。結婚を拒否する事を諦めるという事ですわ。」
「なに!そんなに私との結婚が嫌なのか。」
「ん、そうですわね。イヤですわ。」
「何ゆえそれほど。」
「なんと申せば良いでしょうか。
…私、自分が一番でないと納得できないのです。貴方が最初に抱きとめたのは別の女、貴方が最初にベッドに寝かせたのは別の女、貴方が最初に愛を説いたのは別の女。二番目だなんて我慢なりません。十年もただ一人の婚約者候補として居たのに、無関係な女に惹かれるような貴方の事ですから、結婚したとて貴方の心は愛人ファーストなのでしょう。私の存在はあってないようなものですわ。そんな屈辱、耐えられません。」
既に少なからず屈辱は受けたが、この男との結婚生活に比べればきっとかわいいものなのだろう。そう思うのだからやはり、モッツァレラは望まれない結婚を認めることが出来ない。
「そのような言い方をされると、まるで私の心が欲しいかのように聞こえる。」
王子は切なげに眉根を寄せた。
「あら難聴ですか?」
「なに?私は難聴などではない。おまえの美しい鈴のような声は今まさに私の心を震わせている。」
王子の手が、押し黙る彼女に伸ばされて微かに触れる。するりと滑るような絹肌はごく僅かに朱を纏ったように見えた。
「すみませんが、今日は私失礼させていただきますわ。」
しかし、唐突に立ち上がった彼女から、表情を確認する事は難しかった。
「モッツァレラ…。」
王子の手は行き場を失って空を切り、切なげに名を呼ぶ声は彼女の小さくなった後ろ姿を追うことも出来ず、ただ静かな部屋を漂うばかりなのであった。