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跡を追ったその先に

作者: 宝来雪

 ガラガラ、と薄汚れたシャッターを上げる。夕日がガレージの中に橙と黒のコントラストを描き出していた。


 ここは義父との思い出の場所。思い出をなぞる事があまりにも辛くて、予定をぎゅうぎゅうに詰めて働いても、そう簡単にその思い出に蓋をすることは出来ない。

 この悲しみを乗り越える術を、私は知らない。


 一周忌を終えて、義父はもう居ないという事実を再度認識させられた。飲み込めないリアルの苦しみをどうにかして誤魔化そうと、久しぶりにここに来てみた。


 箱の中の時間は止まっていた。

 黒いツヤ消しボンネットを開けてみると、指にわずかな埃がついた。

 ガレージの蛍光灯のスイッチを押すと、鮮やかな橙色は、黄ばんだ白い光が明滅しながら塗りつぶした。ごちゃごちゃとした工具と、数々の部品。漂ってくるのは有機溶剤の刺激臭とオイルの懐かしい香りだった。それは初めて義父と会った時の雰囲気によく似ていて、心臓がぎゅうっと締め付けられた。


 一年間も放置したままの車を整備していると、ふと走りたくなった。タイヤの空気圧、エンジンオイルと点検を終え、最後に給油口も開く。うん、つい嗅いでしまうようなガソリンの香りのまま。これなら大丈夫かな? ドアを開けると、運転席にはまだ染み付いたタバコの香りが漂っていた。鍵を差し込んでイグニッションキーを回してみる。エンジンが回り出し、下品な改造車とは全く異なる、洗練された重低音が体全体に響いてきた。


 簡単に工具を片付ける途中、天候が気になって、ガレージから空を見上げた。外は既に暗闇に包まれて、無数の星が空を覆っていた。雨が降ることはなさそうだ。コンディションはバッチリだ。

 

 そういえば義父は、エンジンをかけた後、アクセルを踏んで大げさに吹かすのが好きだった。ある程度回すと痺れるような音がする。それが最高にいいと言っていた。


 ハンドルの質感、アクセルの重み、無骨な手触りのダッシュボード、くたびれたレース用のシート。全てが変わらずにそこに残っていて、一瞬義父が助手席に乗ってくるような錯覚に陥る。

 車を外へ出して、ガレージに鍵をかけてから、ブランクを取り戻すようにゆっくりと走る。懐かしむようにハンドルを握って街中を巡っていった。


 ドライブスルーで簡単に腹を満たして、深夜帯になるのを待つ。

 午後10時になったのを見計らって、車の通りが少なくなった街中を走らせる。空気が澄んでいるのだろうか。山に向かうほどに空の星がどんどん明るさを増していて、プラネタリウムでしか見たことがないぐらいに輝いていた。

 革製のシフトノブを何度も何度も握って感覚を手に馴染ませる。久しぶりのドライブで、思いのほか緊張しているのだろうか。峠に差し掛かると、義父と見た時と何一つ変わらぬ森林が、ヘッドライトに照らされて迫ってくる。

 

 そういえば、最初に連れられてきた時は、景色を見る余裕なんてなかったなと、荒れていた頃の自分を思い出した。

 その時の私は大人が嫌いだった。何かと決めつけ、大人が楽をするルールに縛り付けて、磨くという目的で私たちの自尊心を削り取って行く。そんな大人に納得できない私は、意味もなくただただ、反発をしていた。

 人に迷惑のかかることだけはしなかった。しかし、いつまで主張を曲げず従わない私は、それだけで不良として扱われた。 もう訳がわからなかった。

 考え方が同じじゃなきゃダメなのか。不良の様に私は人様に迷惑なんてかけていない。ただ意思を曲げないだけで反社会的なレッテルを貼られるなんて......

 当然のごとく、気が立っていた私は義父にも突っかかった。話しかけてくる義父を無視したり、反発したり。うんざりした私は、ある夏の夜、ふらっと外へ行こうとした。とにかく、一人になりたかったのだ。


「そんなしけた顔すんなよ......。よし、わかった、そんなに外行きたいならいいとこに連れてってやる」

 

 義父は、悪い顔でニッと笑うと、私を無理やり車に押し込んで、そのまま夜の峠のドライブへ連れ出した。


「舌噛まねぇように気をつけろよ」


 義父はそう一言だけ忠告した。

 義父の表情が少年のようになった。素早くクラッチを踏み、ギアを上げる。

 突然、体がシートに沈み込み、外の景色のディテールが線になって、後ろに流れていく。開いた窓から吹き込む風は一層強くなって、山独特の香りを運んでくる。加速していくこの車から切り替わるように、聞いたことのない痺れる爆音が体を震わせた。さらに増していく加速感に、身の危険を感じて思わず叫んだ。


「早く止めてよ、バカじゃないの!?」


 あっという間に高速道路の法定速度を超えて、メーター針は完全に右を向いてしまった。


「気にすんな、こういう楽しみもあるんだよ、ここは誰も来やしねぇ。何も言われねぇよ」


 義父は、その速度のままカーブに差しかかろうとする。


「ブレーキ踏んでってば!」


 悲鳴混じりにそういうと、義父は大丈夫だ、まぁ見てなぁ、と気の抜けた言葉を返してきた。義父は得意げにドヤ顔を決めると、突然ブレーキを踏んだ。慣性で体がガクンとシートに埋まる。

 私は恐ろしさのあまり目をつぶった。キュルキュルと激しく音を響き、何かが焼ける異臭が鼻をつく。

 目を開けて見ると、本来なら横にあるはずのガードレールが、ヘッドライトに照らされながら、左に高速で流れていた。滑りながら進む車体、立ち上る白煙、鳴り響くエンジン。そして年不相応の生き生きとした義父の顔に、何故だかとても惹かれたのだ。


 私は最初、車に興味がなかった。ただの移動手段であると思っていたからだ。そんな私に、義父は車を使った遊びを教えてくれた。


 それから峠を走る事は私と義父を繋ぐ、共通の趣味になった。それは、確かに絆と言えるものになっていったのだった。


 思いのほか、速度が出ない。早く走らせてくれと言わんばかりにエンジンが唸った。

 やっぱり追いつけないや、もっと......もっと教えて欲しかったなぁ、と義父に愚痴っても、その思いは峠の闇に溶けていき、届くことはない。


 VTEC特有のエンジンサウンドをかき鳴らして、峠を登っていく。あぁ、やっぱり楽しい。でも、いつも居たはずの助手席には誰もいない。あるべきものがなくなったような喪失感は、どうすれば良いのだろう。私にはわからないよ......


 運転を教えてもらいながら走ったことを思い出す。今私にできるのはなぞること。真夏の夜、ここを毎晩走った思い出だけだ。最初の登りは義父で。次は私、次の登りは私で、下りは義父。


 免許を取る前から走った事は誰にも言えない、義父との秘密。


 縦横無尽にハイビームが暗い山林を斬り裂く。最初のうちは恐怖しか抱かなかった風は、今ではミントのような爽快感を感じるようになっていた。


 この先はカーブだ。もう頭には峠全体のコースは染み付いている。ブレーキを踏み、車重を前に乗せる。それからコーナー手前でハンドルを切る。ギアをローにしてから、メーターを見ながら吹かし、クラッチを離す。一連の動作は、リズムを刻むドラマーのように正確で、早かった。しかし、義父には及ばない。慣れ親しんだ流れるような動作も、まだ粗雑な模造品にに過ぎないのだ。


 長い直線に差し掛かる。クラッチを切り、どれぐらい出せるか試してみようと、アクセルを踏み込んだ。正規品のノーマルメーターでは振り切れてしまう速度を出して、駆け抜ける。


 事あるごとに義父を思い出して、ほろりと涙が溢れそうになった。目の前が少しだけ滲んだ。スピードを落としてゆっくりと走らせる。


 その時だった。バックミラーに映る青白いLEDの双眸が近づいてきて、私の車の横を抜いていった。ここを走り始めてから一度も遭遇したことがない、他の人の車だ。


「昔はよく他の車も走っててな、よく張り合ったもんよ」


 義父は私が走れるようになった頃、そういっていた。お前にも見せてやりたかったよ、と。彼らはそれぞれに車をチューニングして、お気に入りの車で夜の峠を競い合った。

 それは非日常的な、スリリングな楽しみ......


 すうっと目の前のカーブをグリップで抜けて行く。ヘッドライトに照らされた、パールホワイトのスポーツカーは加速し、テールランプが少しずつ遠のいていく。

 日産のエンブレムに、かっこいいエアロ、白の車体を際立たせるカーボンのボンネットとウイング。

 義父のシビックタイプRは、走るために様々なものを削ぎ落としていて、少し古臭いデザインのエアロに、若干不釣り合いなウイングに、ツヤ消しブラックボディ。前後のホイールは別々であり、この異様な無骨さはかっこいいとまでは言えないと思う。


 でも、この無骨さが、私は凄く好きだ。


 義父が手塩にかけて組み上げたマシンで負けられない、負けたくない、と対抗心が芽生えてくる。涙を袖で雑に拭うと、ギアを3速に入れる。メーターが縮めたバネのように右に振れる。エンジン音が切り替わり、血の気が引くような爆発的な加速によって、その距離を詰めて行く。


 白のスポーツカーのスペックはシビックより高そうだった。追いついてもあっという間に離されてしまう。しかし、峠が下に差し掛かると、極限まで軽量化して、計算され尽くした車体は、大きなアドバンテージになる。直線では追い抜かされるけれど、ヘアピンカーブで距離を詰めて、離されないように食らいついて行く。カーブに進入して前に出た後は、抜かれまいと、不慣れなヒール&トゥで、立ち上がりに差をつける。


 初めてのレースは、脳が沸騰するぐらいに中毒性があった。車に神経が張り巡らされて、体と同化しているような未知の感覚が、気がつくと芽生えていた。


 峠を下りきると、最後の直線で追いつかれてしまい、レースはほぼ同着だった。けど、それは義父と走った時よりスリリングで、凄く興奮することだった。まだ全身の血が熱い気がする。少し余力で走り、車を路肩に止める頃には、悲しくなくなっていた。


 ガラスが入っていない窓から、爽やかな夜風が前髪をさらさらと揺らした。体の支配権が奪われるぐらいには満ち足りていて、シートに体全てを預ける。


 運転をやめると、また思い出してしまった。義父と走った大切な思い出。かぶりを振って、紛らわすと、相手の運転席のドアがゆっくりと開いた。フリル袖のトップスに、ホットパンツを履いた女の子だ。


 そのまま彼女はこちらへ歩いてきて、

「ねぇ、お兄......お姉さんだったのか、えへへ。すごいねあのドリフト」


 にへらっ、と笑いながら目線を合わせてきた。そういうあなたも女の子でしょ。と言いたかったけれど、ふと、こみ上げるものは我慢出来なかった。


 法的にはいけない遊び。けれど、私が外の世界と繋がれるのはドリフトのおかげだ。そして、それを教えてくれた義父のおかげなのだ。

 それはこうやって深夜の峠で、出会いを生んでくれた。


 何から何までありがとう、お父さん......


「ちょっ!? ど、どうしたのお姉さん!? ってうわ、お姉さん格好......」


 滲んだ視界でもわかるぐらいに動揺した彼女を見て、涙を拭って自分の姿を確認する。

 胸元の開いたゆるゆるの半袖ジャージに、オイルが沢山こびりついている。髪はボサボサで、化粧もしてない。本当にすごい格好だった。加えて目元は真っ赤に違いない。こんな酷い格好は見られてしまった。夕食がドライブスルーで本当に良かったと思う。


「あはは、気づかなかったなぁ、すごい格好......」


 オロオロし始める名前も知らない彼女の目を見ながら、大丈夫、なんでもないの、と言って私は、二つの感情が混じった暖かい涙を流した。

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