本日の商品 争いのない世界
聖女、彼女を言い表すのに相応しい言葉はこれしかないだろう。不幸を恨まず、困難から逃げず、神への祈りと感謝、人々への慈しみを忘れない。今は苦しくても神に祈り、努力を続ければ何時か幸福が訪れると、彼女は心から信じ、引き取った孤児達へ教えていた。
「シスターレヴィ。凄い雨だね」
「畑、大丈夫かなぁ?」
彼女、レヴィが暮らす国は土地も痩せ、唯一産業になりえる鉱山から採れるのも一山幾らの粗悪な鉱石ばかり。だが、それが幸いして戦争が続く大陸で貧しいながらも平穏に生きていた。国が存在する場所からして戦略的な価値は極めて低く、物流の拠点にも軍事的拠点にもなりえないコストばかりが掛かる場所。だから無視されていた。
「もし。雨宿りをお願いしたいのですが」
そんな国に彼は現れた。土砂降りの中、開けるたびに軋む扉をノックする音。困っている人が居れば迷わず手を差し伸べる、そんな彼女は迷う事無く彼を招き入れる。
「どうもどうも。私はネペンテス商会に所属する商人なのですが、新しい市場の下見に行く途中で迷ってしまいましてね」
「まあ、それは大変でしたね。どうぞ此方で火にお当たりください」
白い仕立ての良いスーツに顔を隠す目玉の書かれた黒い布。見るからに怪しい姿の商人に誰も警戒することはなく、そろそろ数が減ってきている薪を燃やして火を熾す。雨漏りが目立つ教会内を暖かい光が優しく照らし始めた。
「いやいや、本当にお世話になりました」
「いえ、困ったときはお互い様ですから」
雨が上がり、丁寧にお辞儀をしながら商人は教会を去っていく。その姿を笑顔で見送るレヴィ。彼女は決して美しいわけではない。醜くはないが地味で平凡な顔つきで、だからこそ質の悪い男に目を付けられる事も無かった。貧すれば鈍するというが、悪徳貴族が多いこの国で教会が立っているのは有能ではないが悪人でもない貴族の領地。だからこそ、戦乱が続く大陸の貧しい国であっても彼女達は手を取り合って生きてこられ、それを彼女は神へ、人へ、全てに感謝している。
「ねぇ、シスター! これ、あの人の忘れ物だよ。届けて来るね」
遊びに行こうとした子供が見付けたのは金細工の施されたネクタイピン。この様な国ならば普通は盗まれるものだが、善良なレヴィによって善良に育てられた子供達に盗むという考えは浮かばない。無邪気な顔で商人が向かった方向へと走り出していった。
「悪い人に見付からないと良いけど……」
レヴィは人の善良さを信じているが、常に人が正しくあれる訳ではないとも知っている。だからこそ金細工のネクタイピンを奪おうと悪心を起こす人が居ないかと心配するも、運良く子供は商人に追いついた。
「おや、有難う。坊やは良い子だね。……何かお礼がしたいな」
「別に要らないよ? だって人に親切にするのは良い事だもん」
「なら、私も親切にしましょう。お礼とは関係ない、個人的な親切ですよ」
自らの申し出に笑顔で返事をする少年に商人は屈んで視線を合わせ、優しい声で頭を撫でる。最後にそのうち贈り物が何か分かる、そう言って彼は去っていった。
「あらあら、気を使わせてしまったのでしょうか? 贈り物など結構ですのに」
話を聞いたレヴィは困りながらも善行に対する誠実な商人の対応に嬉しさが込み上げる。こんな世の中でも決して捨てたものではないと、この日改めて思う事が出来た。
「神よ、感謝致します」
数日前から続く大雨で畑がグチャグチャになり、今期の収穫は期待出来ないものの貧しいのは昔から、皆で力を合わせて乗り越えようと子どもたちに言い聞かせ、彼女の言葉に誰も不安を抱かない。そして収穫期、奇跡が起きた。
「わあ! こんな立派な野菜見たことないよ!」
「こっちも美味しそう!」
「あれほどまでに荒れていた畑が……感謝致します」
目の前に広がるのは瑞々しい野菜が豊富に生った野菜畑。これこそ神の奇跡だと祈りを捧げようとした時、畑の一角に見慣れぬ案山子が立っているのを見付ける。白いスーツを着て顔に布を張り付けた、商人にそっくりの格好をした案山子。彼が言っていたお礼が何を示すのか、この時になって理解したレヴィは神と彼に祈りを捧げ、喜んで収穫する子供達に言い聞かせる。
「皆、これは私達だけで独占して良い物ではありません。一人一人の量は少なくなっても、皆で分け合いましょう」
誰も不平を言わない。レヴィ達は収穫した野菜を同じく貧しい皆に分け与え、町の人々は半信半疑ながらも祈りを捧げる。次の年、この国全土で大豊作が起きた。だが、神が守っているかのように略奪に来た者達に天災が降り掛かり去って行く。その場所には必ず商人を模した案山子が立っていた。
「あの方はきっと神の使いだったのですね」
今日もレヴィが祈り続け、彼女を中心に多くの者が助け合う。貧しくても清く正しく生きれば良い事が有ると信じながら。他所の国では戦争が激化する中、この国だけは相変わらず平和が続いていた。
そんなある日の事、長らく続いた戦争による疲弊で多くの国が困窮し始め、よその大陸の国が漁夫の利を狙い始めた頃の事、大した稼ぎにならなくともそれ以外に仕事がない者達が崩落などの危険と隣り合わせの採掘作業をやっている時の事であった。
「……ん? なんだこれは……金だっ!!」
最近、採掘量が減っていると探鉱主に言われ焦っている男が鶴嘴を振るうとキラキラ光る物体、金が出現する。彼の声に反応した仲間が同じ場所を掘れば次々に現れる金。金の大鉱脈が発見された。
当然、今まで無価値だったこの国に攻める価値が出てくれば、群がる者達が現れる。金鉱を奪おうと攻めてくる隣国、国を乗っ取ろうとする貴族。だが、全て奇跡の様な事が続いて失敗する。商人の案山子は当然存在していた。皆、思ったのだ。私達の祈りが通じたのだと。……自分達は神に選ばれし民なのだと。
「皆さん、その様な考えはいけません。私達は確かに満たされ始めました。ですが、嘗ての私達以上に貧しい方々は確かに存在するのです。全ての人々の幸福を祈りましょう」
傲慢を戒め、神への祈りが打算的な物になってはならない、レヴィはそう言って回る。傲慢になっていた者たちは邪険に扱うも、真摯に祈る彼女の態度に改め、どうにか他国の者達も救って欲しいと神に祈る。人が自分だけでなく他の者全員を思いやる。そんな美しい心が広がりだすが……戦争は止まない。レヴィが居る国を除き、戦火は消えようとしない。
多くの命が失われ、多くの涙が流れる。それを心から痛み、神への祈りを続けるレヴィ。子供達も、彼女をよく知る者達もそれに倣い祈りを捧げていたある日、あの日の様な土砂降り続きの晩に商人が現れた。
「私が神の使いですって? 妙な事を言いますが、貴女がそう思い気が済むのならばお祈りなさい。……私も商人ですし、お客様の願いは叶えたいと思いますから」
「では、この世から争いを無くして下さい。全ての者が天寿を全う出来る事を願います」
「……ええ、了解いたしました」
丁寧な口調で深々と頭を下げる商人。レヴィが祈りの最中に瞬きをした時、彼の姿は消えていた。
「ああ、神よ! 私の祈りが届かん事を……」
翌日、彼女の願いは叶えられる事になる。その日は収穫の日であり、年を重ねる毎により大きく美味しい野菜が沢山出来ていた。それがこの国だけではなく、全世界で起きていたのだが流石にレヴィには分からない。
「あれ? 刃がボロボロなのかしら?」
瑞々しい果実を手に取ってハサミで蔓を切ろうとするが刃が通らない。疑問に思って刃を見ても古くは有るが切れないほどでは無いに関わらずだ。
「シスター! こっちも切れないよー!」
「こんなに美味しそうなのにな……」
一人が柔らかく美味しそうな野菜を手に取り、思わず齧り付く。だが、手でから伝わってくる感触も歯を立てたときの感触も柔らかいにも関わらず食べる事が出来なかった。口を離した時、歯形さえもついていなかったのだ。
「まだ神様が食べてはいけないと言っているのでしょう。では皆さん、汗をかいて喉が渇いたでしょう。手を洗って水を飲みましょうか」
「はーい」
この事態にも意味があるのだとレヴィは言い聞かせ、皆水瓶へと向かっていく。だが、どれほど水を掬おうとしても一滴すら掬えない。さすがに苛立ち手を突っ込もうとした子が居たが何故か手が通らない。飲もうとしても一滴すら口の中に入らなかった。
それがこの国だけでなく、全世界で起きていた。草を食べようとした草食獣も、その草食獣を襲おうとした肉食獣も、食べたい相手に傷一つ付けられない。池の水も飛び散る飛沫すら口の中に入ってこない。飢えと渇きが世界に蔓延するが、それでも不思議と死ぬ者は居なかった。
そう。皆、本来の寿命を全うするまで飢えと渇きに苦しみながら生き続けるのだ。どれほど死を望んでも、死ぬ事は許されないまま……。
「生きる事は食べる事、食べる事は殺す事。さてさて、お客様の願い通りに皆が天寿を全うできますよぉっ!! 大地を駆ける獣も空を舞う虫も海を泳ぐ魚も水の中の微生物も大地に根差す植物も人もっ! 貴女の願いが叶って私も幸いですともお客様ぁ!! あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ!!」