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アッシュ達が食堂へ向かおうと1階へ降りた時、驚くべき光景が広がっていた。
「な、なんだこれ…」
そこには大行列ができていたのである。
「これって何なのですか?」
レイラが受付にいたセリーヌに訊ねた。
「大浴場が一度に十数人しか入れないので、お風呂待ちの方々です。街の方達も宿泊せずに大浴場だけ利用しにくる方も大勢いらっしゃって、特に女性が多いのです」
セリーヌからの返答を聞いたところで、レイラは納得した。
ここの風呂を知ってしまったら、もう桶にお湯を溜めて身体を拭くなどという行為では満足できなくなるだろう。それに、石鹸や洗髪剤やトリートメントの効果は女性にとっては魅力的すぎた。
「男性のお客様は風呂を利用される方が結構少なく、利用されたとしても短い時間で出て来られるので込み合うことはないのですが…女性のお客様はかなりの人数が利用されて、しかも皆、出て来られるまでが長いので、このような長蛇の列になってしまってます」
その後、男風呂の利用状況によっては、男性の利用を一時中断し、男風呂の方も女風呂として開放して一気に人数を捌いていったりしていると、セリーヌは付け加えていた。
その後も更に、風呂を利用しようとやってきた街の女性客が受付に来たため、アッシュ達は邪魔をしては悪いと思い、受付横の扉から食堂へと足を踏み入れた。
宿の食堂は、まだ営業を開始したばかりの時間だというのに大勢の客で賑わっていた。
服装からしても、冒険者だけでなく街に住む人々も多くいる。それは、この食堂の料理が人気であるという証明にもなっていた。
給仕の女の子に空いているテーブルへ案内されたアッシュ達は、シエナに言われた通りに部屋の鍵を給仕へ見せた。
給仕は、コップに水を注ぎ終わると忙しいにも関わらず、礼儀正しくゆっくりとお辞儀をして厨房の方へと向かっていった。
料理が来るまでの間、アッシュは食堂にいる人々や、その人々が注文している料理を見渡してみた。
給仕は3人いて、その全てが年若い女の子であり、忙しそうに料理を運んだり接客をしているが、その接客はとても丁寧であり、その表情は皆、とても楽しそうにいきいきとした表情であった。
冒険者風の客達は、常連であるのか給仕の女の子の名前をまるで友達かのように何度も呼んでは、酒の追加注文をしている。
街人と思われる客達も同様に、料理や酒を楽しんでいた。
少しの違いがあるとすれば、冒険者の注文している料理や酒は、この世界で一般的な料理や酒が主なのに対して、街人の注文している料理は、シエナのオリジナル料理や見た事もない珍しいお酒であった。
しばらくすると、アッシュ達の料理が運ばれてきた。
運ばれてきた料理は、とても美味しそうであり、アッシュは口の中が唾液で溢れるのが止められなかった。
「う、うま!なんだこれ!?」
ハンバーグを一口食べたアッシュは、驚きの大声を出してしまう。
「このグラタンってのも、凄く美味しい!シチューを焼いた料理なのかな?」
アッシュほどではないが、レイラもそれなりの声量で驚いてしまった。
そんな2人の様子を、他の客達は微笑ましく眺めるのであった。
その後も、2人はテーブルの上に置かれている料理を、お互いに交換し合って食べあい、存分に料理を楽しむのであった。
「兄ちゃん達、初めて見る顔だな。冒険者か?」
アッシュ達が料理を食べていると、1人の中年の冒険者の男性が、アッシュ達に話しかけてきた。
先ほどのアッシュ達の反応で、気になっていたようである。
「はい、今日この街に着いたばかりの新米冒険者です。なるべく迷惑をかけないように頑張っていきますので、何かありましたら、是非、ご指導の方をよろしくお願いします」
アッシュに任せるとトラブルになる可能性があったので、レイラがすかさず対応をする。
基本、冒険者はパーティを組んだりしない限りは商売敵である。
なので、今と同様な絡みは牽制の意味合いもあったりすることが多い。
アッシュはもちろん、牽制だと思って突っかかろうとしていたが、宿内の雰囲気から、ただの親切な世話好きな人と判断をしたレイラが、この宿に着いてから見てきたシエナや他の従業員に倣って、丁寧な受け答えをしたのであった。
それが功を制したのか、中年の男性はアッシュ達の事が気に入ったようであった。
「よくテミンの街へ来てくれた。俺達は歓迎するぜ。何かわからない事があれば何でも聞いてくれ」
そう言ってアッシュ達を歓迎してくれた男の後ろには、更に3人の男達が立っていて、皆笑顔でアッシュ達を迎え入れてくれたのであった。
「坊主、酒飲めるか?これは俺の奢りだ」
男の1人が手に持っていたエールの入ったジョッキをアッシュに手渡す。レイラが対応しなければ、突っかかろうとしていたアッシュは顔を赤くし、内心焦りながらもお礼を言って受け取った。
「嬢ちゃんも、酒は飲めるか?この宿には女性向けのジュースのような甘い酒もあって、どれも美味いぞ。俺のオススメはこの『梅酒』ってやつだ。興味あるんだったらこれも奢るぜ」
男はメニューを開いて梅酒の絵をレイラに見せ、レイラの返答を聞く前に、近くを通りかかった給仕に梅酒を注文した。
梅酒が席に届けられ、レイラは男にお礼を言って梅酒を飲んでみる。
「わ、甘くて美味しい。酒精は強いみたいだけど、それを感じない飲みやすさだわ」
男がそうだろう、と笑顔で喜んでいる。
その後も、男達はアッシュ達とテーブルをくっつけてテミンの街での冒険者のルールであったり、街の近くの良い狩場などの話をして、盛り上がっていた。
その楽しそうな光景は、他の冒険者達も引き寄せ、食堂はまるで宴会のように和気藹々と盛り上がり、アッシュ達は「思い切ってこの宿に宿泊することにして、本当に良かった」と心の中で思ったのであった。
シエナは厨房で調理をしていたが、たまに聞こえてくる笑い声の中にアッシュやレイラの笑い声も混ざっているのを聞き、皆と仲良くなれている事を喜んだ。
常連のお客様達も、皆良い人達ばかりである事の幸運に、感謝と愛を込めて、今日も一日美味しい料理を作るのであった。
その後、アッシュ達は常連の冒険者がオススメするという酒場に連れていかれ、しこたまお酒を飲まされるのであった。
アッシュ達が宿に戻った時には、その日の宿の全ての営業は終了しており、宿の中は静かであった。
なるべく足音を立てないように、静かに自分達の宿泊している部屋まで戻り、鍵を開けて部屋の中へと入る。
「皆、良い人達だったね」
部屋に入り、窓の方へ歩いていきながらレイラは呟いた。
「あぁ、この街に来て本当に良かった…明日から、今日教わった場所で素材の採取とかモンスターの狩りをやって、冒険者として頑張ろうな!」
ダンジョンに挑むには、まだまだ実力不足であるので、まずは薬草や道具を作る為の素材の採取・弱いモンスターの討伐などを行って、少しずつ冒険者としてのランクとレベルを上げていこうと、アッシュはやる気になっていた。
「それにしても…料理、凄く美味しかったね」
「あぁ、あんなに美味い飯は初めて食べた…。また、この宿に泊まれるようにしっかり稼がないとな」
寝やすい恰好まで服を脱ぎながら答え、アッシュはベッドに腰かけたのであるが、硬いと思っていたそのベッドの柔らかさに驚き、思わず飛びのいてしまった。
「な、なんだこれ…このベッド柔らかいぞ…」
ベッドのマットレスは、基本はどの宿も硬いのである。
しかし、マットレスも手作りをしたシエナは、なるべく柔らかい素材でマットレスを作り上げたのであった。
柔らかすぎると逆に体に悪いと思い、それなりの硬さにはしているのだが、それでもこのベッドは柔らかく、宿泊していった客達は驚いているのである。
そして、ベッドに掛かっていた布団も、見た目に反してかなり軽く、しかし温かかった。
布団もシエナの手作りである。
以前鳥型のモンスターが大量に発生した時があり、その時に討伐した鳥型モンスターから毟った羽根を捨てようとしていた冒険者などから、シエナが譲り受け掻き集めて作った自慢の羽毛布団である。
羽毛布団の他にも、枕やダウンジャケットっぽい物も作っていて、枕はそのまま利用しているのだが、ダウンジャケットは、まだこの世界の人にはお披露目していないのであった。
窓を開けた後、レイラはアッシュに近寄って一緒に羽毛布団の肌触りなどを確かめた。
「すごいね。これ、何でできてるんだろ?」
アッシュの隣で、羽毛布団の素材をレイラが考えている時、窓の外から気持ちの良いそよ風が入り込んできた。
その風に乗せられて、石鹸の良い香りのするレイラにアッシュは衝動を抑えきれず、思わずレイラに抱き付いてしまう。
突然アッシュに抱かれ驚いたレイラであるが、嫌がる素振りなどは一切見せず、むしろ嬉しそうであった。
そして2人は重心をベッドの方へとずらし、そのまま一緒のベッドへと倒れ込んだのであった。
「さて、明日も早いし寝るとしますか」
自室の机で、何やら怪しげな道具を作成中だったシエナは、その作業を中断して自分のベッドへ潜り込んで目を閉じた。
「おやすみなさい…」
誰に言うわけでもないが、シエナは『いただきます』、『ごちそうさまでした』、『おやすみなさい』の言葉は必ず言うようにしているのである。
シエナが就寝の言葉を口にした丁度その時、どこからともなく甘い声が聞こえてきた。
「?」
なんだろう。そう思って起き上がり、開けたままにしていた窓から下を覗き込むと、自分の部屋の斜め下にある窓の開けられていた部屋から、再度甘い声が聞こえてきた。
(あの部屋は7号室…アッシュ様とレイラ様の……ふふ、若いっていいなぁ)
シエナの実年齢はアッシュ達よりも若いので突っ込みどころはあるが、記憶が残っている前世を含めると、シエナの年齢はアッシュ達の遥か何倍にもなっているのである。
微笑みながら、シエナは自分の部屋の窓をそっと閉じ、再度布団に潜り込みながらある考え事をした。
(やっぱり、ダブルベッドの部屋は用意した方がいいのかなぁ?)と…
翌日、アッシュ達は盛大に大寝坊をした。
早朝に起きて、朝食を済ませたら朝一で冒険者ギルドに向かおうと思っていたのに、寝る前に行った行為と、ベッドのあまりの寝心地の良さに、爆睡してしまったのである。
宿屋シエナの朝食の時間は、朝の9時までであり、チェックアウトの時間は10時までとなっている。
しかし、アッシュ達が目覚めたのは、すでに正午を回った頃であり、チェックアウトの時刻もとっくに過ぎてしまっている。
チェックアウトが遅れてしまった謝罪をしてすぐに宿を出なければ追加料金を取られるかもしれない、そうなると、手持ちのお金が不足しているので払う事ができない。
そう考えたアッシュ達はかなり焦っていた。
バタバタと出立の準備を終わらせ、部屋を飛び出て1階の受付へと向かう。
(ゆうべはお楽しみでしたね)
受付にいたシエナは、思わず出かけた台詞を飲み込み、ただ一言「おはようございます」と挨拶をしたのであった。
「遅れてごめんなさい!今すぐ出ますのでどうか追加料金だけは!!」
アッシュが懇願するように謝罪をする。
シエナはきょとんとした表情をした後、笑顔で答えた。
「大丈夫です。少々遅れた程度で追加料金など取ったりしないのでご安心くださいませ」
アッシュ達がホッとため息をついていると、シエナは葉っぱで作られた包みを取り出して、アッシュに手渡した。
「朝食を食べそこなってしまっているので、お腹が空いてると思います。握り飯と今朝の余り物のおかずではございますが、お弁当に致しました。良かったら食べてください」
どこまでもこの少女は客に優しいサービスをするのだろう、とアッシュ達は思った。
包みを受け取り、宿を出た2人は、一度宿の方へ振り返った。
「ご宿泊ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
そこには、宿屋シエナの看板を背に、笑顔で深々とお辞儀をする少女の姿があったのだった。