お部屋へご案内致します
「食堂の準備は私がいなくても、もう片付くから、私がアッシュ様達をお部屋に案内しますね」
シエナは、セリーヌに向かってそう言った。
「よろしくお願いします。部屋は7号室で準備しました」
そう答えながら、セリーヌはシエナに7号室の鍵を手渡す。
部屋の鍵には白色の札が付いていて、その札にはこの世界での数字の7に該当する数字が刻まれていた。
「では、お部屋へご案内させていただきます。お部屋は2階にございます7号室となっております。お荷物を運ばせていただきますので、お預かりしてもよろしいでしょうか?」
少ない荷物ではあるが、アッシュはその申し出を断った。
冒険者の持つ荷物は、その冒険者にとっての全財産である。
いくら宿側がサービスの一環として荷物運びを買って出たとしても、ほんの少しの間とはいえ、自分の全財産を他人に預ける訳にはいかない。冒険者の常識である。
先ほどの服の洗浄に関しては、脱衣中であり、不意打ちに近いシエナの申し出であった為、勢いでそのまま任せてしまったが、落ち着いている状態であればおそらく断っていたであろう。
しかし、今更この少女が盗みを働く訳がないし、そもそも人に喜んでもらう為に色々なサービスを模索して頑張っているのだから、ここは冒険者の常識で計るべきではなかったのだ。と、断った後で気づいたアッシュは少し後悔したのであった。
その時シエナは、荷物運びのサービスは、やはりやらない方が良いのかな、と考えながら階段を上っていた。
今までこの宿に宿泊をした冒険者のほとんどは、荷物運びを断っていたからである。
しかし、喜んで任せてくれたお客様だって存在したのは事実であった。
2階へ上るまでの短い時間で、シエナは荷物運びの申し出のサービスは続けてみようと意思を固めていた。断られる可能性は高くとも、サービスをしなくする理由にする必要はない。
断られた時はその時であり、任せてくれたお客様には少しでも楽をしてもらえれば良いと判断したのであった。
2階に上がって廊下を少し進んだところで、シエナは足を止めた。
アッシュ達の宿泊をする7号室前に到着したからである。
宿屋シエナには、全部で13部屋の客室と、予備客室が12部屋の合計25部屋が用意されている。
2階には1人部屋、2人部屋、4人部屋が各4部屋ずつ用意されていて、3階に存在する少し広めの予備客室の12部屋は、基本は泊まりこみで働く従業員専用の部屋となっている。
2階の客室が満室の時だけ、使用されていない空き部屋を客室として利用しているのである。
3階の一番奥には、従業員専用の共有スペースである広い部屋があり、その共有部屋の更に奥にある小さな部屋が、シエナ専用の部屋となっている。
そして、1階に1部屋だけ存在する大きな客室は、この宿が建てられてから2年ちょっとの間、今まで誰も宿泊したことのないスイートルームとなっていたのであった。
スイートルームは、あった方が良いのではないかと思ったシエナが設置した部屋であり、その部屋の間取りは、日本のマンションの一室の様な間取りで作った為、一家族が丸々生活できるような部屋となっている。
部屋と言うよりは、もはや家である。
もちろん、料金は他の部屋とは比べ物にならないくらい高く設定してあるので、宿泊するとすれば貴族くらいであるが、そもそも貴族はこのような宿には足を運ばないのであった。
このスイートルームにだけ、客室専用の風呂が設置されていて、その風呂は当然、檜で作られているのであった。
他にも、スイートルームにはシエナ自慢のいくつかのサービスの仕掛けがあるのだが、いつ、このサービスが使用できるのかわからない為、シエナはいっそのこと、このスイートルームを従業員用の部屋にしようかとも考えているのであった。特に、一番の目玉である仕掛けは、寒い季節である冬に大いに役に立つのである。
本当は、3階にスイートルームを作りたかったのであるが、風呂とその仕掛けの構造上、1階に作らざるを得なかったのだった。
2階にある、2人部屋の客室である7号室の鍵を開け、シエナはアッシュ達を部屋の中へ案内をした。
「広っ!これで2人部屋!?」
レイラが驚きの声を挙げた。今まで自分達が宿泊してきたどの宿よりも、広い部屋だったからである。
アッシュ達が今まで宿泊してきた宿は、そこまで大きくないベッドと、小さい貴重品入れ、そして服をかける為の棚が申し訳程度に置いてある手狭な部屋ばかりであった。
しかし、この部屋は下手をすると3~4人部屋なのではないかという広さがあり、ベッドもやたらと分厚く、そして大きかった。
窓際にはテーブルと椅子が置かれているが、貴重品入れや服をかける為の棚が見当たらない、シエナから部屋の鍵を受け取った後にアッシュがそう思っていると、シエナが壁についていた取っ手のようなものに手をかけて、壁をスライドさせて開いたのであった。
「これはクローゼットと言って、簡単に説明しますと、タンスを壁の中へ収納した物です」
クローゼットの中は空洞になっていて、貴重品入れはその中に収納してあった。
貴重品入れは、部屋の鍵で開け閉めができるようになっている。
「なるほど、これならタンスや棚を直接部屋に置かないから、それだけ広く見えるのか」
アッシュが感心していると、シエナが窓際のテーブルに置いてあった薄い本を3冊持ってきた。
「食堂も、まもなく営業開始時間となります。夕食のメニューはこちらのメニューとなってます」
そう言って、シエナはアッシュにメニューの本を手渡した。
アッシュが本を開いて中を見ると、そこには料理の絵が描かれていた。写真のない世界なのでシエナの手描きではあるが、かなりリアルに描かれている為、それだけで、その料理がどういう料理なのかがわかるようになっている。
アッシュは文字を読む事ができない為、理解ができなかったが、絵の下には料理名とその料理の値段、そしてその料理に使われてる具材や、何をメインに作られてる料理なのかの説明が書かれていた。
「今御覧いただいてるメニューの中から、お好きな料理を1品お選びくださいませ。このメニューの中のこのページまでの料理が宿泊料金に含まれてる料理になります」
「え!?このメニューから自由に選べるのか!?」
今までそんなシステムを使ってる宿など、少なくとも自分が宿泊した宿にはどこにもなかったと、アッシュは驚いた。
食事付きの宿泊は、基本的には宿側が勝手に決めている料理しか出してこない。それも、そこまで量も多くなく味も悪い事が多い。
アッシュ達は知らないが、まともな宿だと料理が2~3種類用意されていて、その中からどれかを選ぶタイプの宿も存在する。そして、シエナはほぼ全ての料理から選択が可能にしていたのであった。
メニューの最後の方にあるページは、材料費がかなり嵩んでいる料理を集めている為、そのページにある料理は選ぶ事ができないが、それでもかなりの料理が選択できるようになっている。
「料理の種類によっては、白米かパンのどちらかを選ぶ事もできます。また、どの料理にも必ず付いてきますスープとサラダも何種類か用意してますので、お好きな物をお選びくださいませ」
「わー、どれも美味しそう。…ねぇ、この『みそスープ』って何?」
アッシュと一緒にメニューを覗き込んでいたレイラが、スープの1つに疑問を持った。
メニューには、みそスープと書いてはいるが要するに味噌汁である。
「そちらは『味噌』という、大豆でできた調味料で作られたスープとなっております。味噌はどこの国にも存在しない私オリジナルの調味料でして、大変美味しい物なのですが、見た目や作り方を知った人達はあまり食べようとは思わないようでして…それを使って作られたこの味噌し…みそスープも見た目が濁っているので、実はあまり注文された事のないスープとなってます…」
説明を始めた瞬間はいきいきと嬉しそうな表情だったのに関わらず、説明の途中から、特に何故か言い直した辺りらへんから表情が暗くなってしまったシエナであった。
シエナは、味噌と醤油がこの世界には存在していない事に絶望していた。
日本人にとって、味噌と醤油は切っても切り離せない大切な調味料である。そして、前世が日本人であるシエナにとっても、それは同じことであった。
しかし、ないのであれば作れば良い。そう考えたシエナは、前世の食の知識に関してを、頭をフル回転させ、麹菌の作り方から味噌の発酵方法、醤油の作り方を思い出し、作り上げたのだった。
日本とは気候も環境も違う為、若干違う風味にはなってしまってはいるが、いつの日か完全再現をさせて、味噌と醤油をこの世界に広めてやるんだ、とシエナは燃えていた。
「ぇっと…私、スープはこのミネストローネっていうトマトのスープにしよっと…」
「…俺は普通にコンソメスープにしよう…」
しかし無慈悲にも、2人は味噌汁を選ぶ事はなかったので、シエナはがっくりと項垂れるのであった。
(おいしいのに…)
シエナは、自分が再現した地球の料理や技術は、『シエナの考案』と称していた。
昔は、再現をした際には『異国の料理・技術』と言おうと思っていたのであるが、「それは何と言う国名で、どこにあるのか」と、興味を持つ人間が現れるとも限らなかったので、この世に存在しない国を探させてしまうくらいなら、最初から自分が考え出した自分の考案と発表した方が後腐れがないと判断したのである。
それに、この世界に自分以外で地球の事を知っている人間はいないのだから、別に問題ないだろうとも考えていた。
その後も、2人はメニューを見てどれを食べるか悩みに悩んでいた。
アッシュ達を特に悩ませていたのが、メニューに載っている見たことも聞いたこともない数々の料理だった。
メニューには、この世界の代表的な料理ももちろんあるが、メニューの半分以上が地球の再現料理で埋められているのである。
材料や調味料の関係で、完全再現には至ってない料理も複数存在はしているが、味や見た目は、ほぼ地球の料理と一緒である。
アッシュが「これはちょっと食べてみたいな」と少しだけ興味を持った料理は、『カレーライス』であり、これはこの世界で希少で高価なスパイスを大量に使った料理であった為、かなり高価な、メニューの最後の方にあるページの選択不可の有料料理であった。
もちろん、アッシュがカレーライスに興味を持ったのは、言うまでもなく値段が最高値だったからである。
「この料理はどういう料理なんだ?」
アッシュが肉系が載っているページの料理の1つを指差した。
「そちらは、ミノタウロスの肉とオークの肉の合挽肉で作る『ハンバーグ』と言う料理です。ミンチにした肉と、玉ねぎやパン粉、卵などいくつかの材料を練り混ぜて焼き上げた肉料理です。通常、硬くて食べにくいミノタウロスの肉ですが、ミンチにしている為柔らかくなっている上に、混ぜたオークの肉の脂によって口の中で溶け、非常に食べやすい美味しい料理となってます」
シエナのその説明に、アッシュの喉がごくりと鳴る。
他にも、アッシュは肉系の料理の質問を繰り返し、悩んだ結果、ハンバーグを選択したのであった。
文字を読むことができるレイラは、料理がどういう具材を使っているか、どういう料理なのかのメニューに書かれている説明が読めた為、本当に具体的な事が知りたい時以外はシエナに質問はしなかった。
麺類系に興味があったのか、パスタやラーメンやうどんについての質問が多くあり、シエナがその質問に詳しく答えたのだが、レイラによる味のイメージがうまく想像できなかった為か麺類は断念していた。
「決めた。この『グラタン』って料理にしようっと」
レイラも悩んだ末、ずっと気になっていたグラタンを選んだのであった。
「こちらのメニューは飲み物とデザートのメニューでございます。飲み物は水とお茶は無料ですが、ジュースやお酒は別途料金が発生致します。デザートも有料となっております」
そう伝えながら、シエナはもう一冊のメニューを今度はレイラに手渡した。
アッシュ達にはお酒やデザートを注文できるだけのお金は残ってないので、そのメニューはただ眺めるだけとなってしまったが、メニューを見るだけでも十分楽しめたようだった。
「こちらは朝食のメニューになってますので、後で御覧くださいませ」
最後に残っていたメニューの本は、朝食メニューであった。
「それでは、オーダーを確認致します。アッシュ様は、白米・ハンバーグ・レタスときゅうりのサラダ・コンソメスープ、でお間違いないですね?」
「あぁ、間違いない」
「レイラ様は、パン・グラタン・ポテトサラダ・ミネストローネ、でお間違いないですね?」
「はい、間違いありません」
「お食事は、お部屋と食堂、どちらでされますか?」
「え?部屋でも食事ができるのか?」
シエナの質問に、アッシュが驚く。
「はい、お部屋でもお食事が可能で、料理は従業員が運んでまいります。ただ、お部屋での食事となりますと、追加注文などが受け付けられなくなるのでご注意くださいませ」
「あ~…いや、いいや。食堂で食べるよ」
追加注文ができる余裕はないので、別に部屋で食べてもよかったが、アッシュはこの街の住人や冒険者がどのような感じなのかを確認するのもあわせて、食堂で食事をする事にしたのであった。
「ご注文の料理はあらかじめ伝えますので、食堂で再度ご注文いただく必要はございません。代わりに、食堂へ着きましたら、食堂にいます給仕に部屋の鍵をお見せくださいませ。それでは、失礼致します」
そう言って、お辞儀をした後にシエナは部屋から出ていった。
残されたアッシュ達は、護身用のナイフ以外の荷物を貴重品入れに収納し、少しだけ休憩をしてから食堂へ向かうのだった。