宿屋シエナの日常とその従業員②
シエナが1階に降り食堂のドアを開けると、テーブルを拭いて営業開始の準備をしている女の子の姿があった。
「あ、シエナちゃん。おはよう」
「おはよう、リアラちゃん。今日も一日頑張ろうね」
シエナは、リアラと同じようにテーブルに逆さまに積まれた椅子を床に置いて、テーブルの上を拭き始めた。
リアラ・キャスベル。緑色の髪に茶色の眼の13歳の女の子。宿屋シエナのすぐ近くで両親と暮らしており、自宅から通っており、主に食堂の給仕を担当している。
シエナと同い年の女の子で、シャルロットの被害に遭いやすい最後の1人である。
シエナと違って年相応の成長を遂げている可愛らしい女の子であり、リアラの両親は、大切に育てている娘に言い寄りそうな男や、主にシャルロットを払い退ける為に数日に一度は食堂にご飯を食べにくる。
シャルロットはリアラの両親を苦手としているので、リアラにはあまり手を出そうとはしない。
しかし、シエナが冒険に出掛けたりして数日間不在にしている時などは、それまでシエナで我慢していたシャルロットが、我慢できずにリアラに対してセクハラを行う事もあるのであった。
シエナとリアラは食堂の営業開始準備を進め、手分けして作業を分担していく。
ある程度の作業が終わったところで、シエナは厨房の方を覗き込み、何も問題が発生していないのを確認すると、リアラに合図を出す。
リアラは宿屋の受付側のドアを開けて受付にいる女の子に声を掛けた。
「メリッサちゃん。もうまもなく準備完了だよ」
受付にいたメリッサと呼ばれた女の子はコクリと頷いた。
メリッサ・アスタディール。灰色の髪に灰色の眼をした14歳の女の子。宿屋シエナの主に午前の受付を担当している。
14歳とまだ未成年ではあるが、体付きはすでにその辺の成人女性よりも成熟しており、シャルロットの射程圏外である。
リアラと同じく自宅から通っていて、昼過ぎ辺りまで限定で働くアルバイトのような従業員である。
口数が少なく、少しミステリアスな雰囲気のある少女だが、セリーヌと同じく人気の高い少女で、常連と付近の住人による宿屋シエナ内の女性従業員の見た目ランキング第2位である。
見た目ランキングの第1位はセリーヌとなっているが、本当に一番人気があるのはアンリエットであった。が、アンリエットは人妻であり、従業員ではないので、そのランキングからは除外されているのである。
これまでで紹介されたのが、宿屋シエナで働く従業員全員である。
皆、一癖も二癖もありそうな人物であり、特に1人がおかしな人物ではあるが、それぞれがシエナに恩を感じている事があり、シエナの為に日々頑張っている。
シエナも、逆に皆が助けてくれるからこそ、自分がこの世界で夢であった宿が経営できていると感じている。お互いがお互いを助け合えるのが、宿屋シエナの良いところなのであった(1人を除く)。
シエナ達は、食堂の開店準備を終えると宿屋側の出入り口と、直接外に繋がる出入り口の両方の扉を開けて食堂の営業を開始した。
朝の食堂は、そこまで外からの客が来るわけではない。これが商業特化の2番街区であるならばかなりの客が来るのだろうが、ほとんどが住宅街である3番街区ではそこまでの来客は見込めないのである。
しかし、それでも3番街区の中にある数少ない朝から開いている食堂という事で、来店する者も少なからずいる。
そのほとんどが独り身であるか、早朝からの仕事で家族に朝食を作ってもらえない者達ばかりであった。
開店直後はちらほらとそう言った者達が来店しては、朝食を食べていき、大体1時間ほど経った頃から宿に宿泊している冒険者達が降りてきて、朝食を食べ始める。
宿屋シエナで多いのが、朝食付きで宿泊を頼んでいるにも関わらず、ベッドの寝心地が良すぎて寝坊をしてしまい、朝食を食いっぱぐれる者が大勢いる事である。
シエナは、前日から宿泊をしているルクス一行がきちんと起きてこれるのかどうかを心配した。
大体は初めて宿泊をする客が、そういった寝坊をしやすいのであった。
しかし、そのシエナの心配も杞憂に終わり、ルクスとティレルとケイトは、受付にいたメリッサに声を掛けてから食堂へと入ってきた。
ルクス。金髪碧眼の15歳の男性。
今は冒険者風の恰好をしているが、それは仮の姿であり、本当の姿はヴィシュクス王国の第一王子である。
本名は、ルシウス・アルド・ヴィシュクスであり、シエナも見惚れてしまうほどの美形である。が、王子として不自由なく育てられてきた為、思った事をすぐに口に出してしまい、ルクスの事を王子だと知らない人間を怒らせてしまう事が多々ある。
現在は王である父からの命により、お忍びで王都の周囲の村や町の様子を見て周っているのであった。
ティレル・ブライト。グレーの髪に黒色の眼をしている32歳の男性。外ではルクスのお目付け役であり、王宮にいる間は剣の指南役でもある。
普段はあまり口を開かないが、訓練となると人が変わったかのように張り切るタイプである。
ルクスの口の軽さに悩まされる事が多いが、ルクスの理解者の1人として、ルクスから信頼されている。
ケイト・ウィリアム。金髪に金色の眼をした21歳の女性。ティレルと同じく外でのルクスのお目付け役である。
ルクスの理解者の1人であり、ルクスからも信頼されているのだが、たまにルクス以上の我儘ぶりを発揮する事があり、ルクスとティレルを悩ませる事がある。
美味しそうで珍しい食べ物に興味があり、特に甘い物に目がない女性である。
「おはようございます。ゆうべは良く眠れましたか?」
シエナがルクス達をテーブルに案内をしながら質問すると、ルクスは笑顔で「非常によく眠れた」と答えた。
シエナはそれは良かったです。と、優しく微笑むとコップに水を注いでルクス達の前に置いていく。
「ご注文がお決まりでしたら、お伺い致します」
シエナがそう聞くと、ケイトが代表して朝食を注文していった。
シエナはオーダーを繰り返して確認をすると、一礼をしてから厨房の方へと歩いていく。
「シエナも、他の娘もそうだけど、皆すごく丁寧だよな」
ルクスはシエナの背中を見ながら呟いた。宿屋シエナ内では、メリッサのように少し寡黙な少女もいるが、基本的に全員丁寧な対応である。他の宿や食堂では見た事がないような接客だった。
それはシエナによる日本式接客術の、教育の賜物であるが、日本では当たり前の接客でも、海外では過剰すぎるのである。
「下手すると、その辺の貴族の館のメイドよりも丁寧なんじゃないかしら?」
ケイトもルクスと同じ感想を持っていて、この宿屋の接客術には目を見張るものがあった。
「でも、今はそれよりも美味しいご飯だわ。昨日の夕食もとても美味しかったから朝食だって期待が持てるわよね」
ケイトはルクスが持ちかけてきた話題を放り投げると、朝食が席に届けられるのを今か今かと待ち構えるのであった。
そんなケイトの様子に、ティレルはやれやれと言った感じで肩を竦めるのであった。
ルクス達は朝食を食べ終わると、受付にいたメリッサに部屋の鍵を預け、街へと出かけていった。
これからテミンの街の中を色々と見て周り、変わった事がないかなどを調べるのである。
シエナは朝の食堂の営業が終わり、ある程度の食堂の後片付けを終えると、残りの後片付けをリアラに任せて店先の掃除を始めた。
すれ違う人々に元気良く「おはようございます」と挨拶をすると、いつものように返ってくる「いつも元気だね」や「精がでるね」の返事にシエナは嬉しくなる。
しばらくすると、食堂の後片付けを終えたリアラが宿の中から出てきた。
「それじゃあ、一旦帰るね。また夕方」
リアラはシエナに手を振ってすぐ近くにある自宅へと帰っていく。リアラは朝と夜の2回に分けて出勤をしてくれているのであった。
主に給仕担当な為に、昼間はすることがないから帰っているともいえるのだが、わざわざ2回出勤してくれるリアラにシエナは常々感謝していた。
掃除をしながら、何度も宿の出入り口の上に飾られている看板を眺めては、シエナは嬉しそうな表情をする。
「よし、今日も一日頑張りますか!」
シエナはそう呟くと、宿の中へと戻っていった。
しかし、その呟きとは裏腹に、食堂の営業と掃除を終えたシエナは午前の間はする事がなくなってしまった。
誰かを手伝おうにも、皆自分のやるべき事はしっかりと行うので、手を貸す余地がほとんどなかったのである。
昼食を食べた後はアルバと遊びに行く予定なので、シエナはそれまで少し買い物に出かけることにした。
「せっかくだから、2番街区の方に行こっかな?」
買い物カゴを手に持ち、シエナは東に位置する2番街区の方へと歩きだした。
2番街区の市場に到着をしたシエナは、珍しい食材や丁度食べごろになっている食材がないかを見て周った。
旬の食材で良さそうなのがあればその日の従業員の夕食にするも良いし、大量に入荷できるのであれば、夜の食堂のメニューに臨時で加えることができる。
珍しい食材を見つけることができれば、その食材がきっかけで思い出される料理もある。
シエナにとって、食材の買い物はまさに生きがいなのであった。
「あ!こ、これは…っ!」
シエナは驚きに目を見開いて、長細い食材を手に取った。
「おう、シエナちゃん!らっしゃい。あ~…それは最近見つかったらしい自然薯でな。切ったところから出てくる液体がネバネバしてて触れた場所が痒くなるし、無理矢理入荷させられたけどどう扱って良いかわからねぇから困ってんだ」
シエナが手に持つ自然薯に対して、青果店の主人が説明をする。
しかし、困り顔の主人とは裏腹に、シエナは心底嬉しそうな表情をして、プルプルと体を震わせて喜んでいた。
「や…」
「や…?」
「やったぁー!久しぶりに!久しぶりにとろろご飯が食べられるぅー!!」
シエナは嬉しさのあまりに両手を挙げて、大声を出して喜ぶ。
シエナの手にしていた自然薯と呼ばれる食材、それは日本で主に山芋と呼ばれる食材であった。
「おじさん!この山芋あるだけ全部ください!!」
シエナは、すぐに山芋を全て買い占めようとする。多く購入できれば、臨時で夜の食堂にとろろご飯を追加する気満々なのであった。
「おぉ、全部買ってくれるとはありがたい!俺もどう扱ったら良いかわからなかったからそこまで多くは入荷してないけど、それでも全く売れないと思ってたからな」
青果店の主人も嬉しそうにシエナの持つ買い物カゴに10本の山芋を入れていく。
シエナは「10本かぁ…ちょっと少ないなぁ…」と残念がる表情をしたが、それでも、山芋が手に入った喜びの方が大きかった為、すぐに笑顔に戻った。
「しかし、これ山芋っていうのか?」
「呼び方は自然薯でも自然生でも薯蕷でも長芋でもなんでも大丈夫ですよ。私は山芋って呼び方が一番好きですが」
シエナは山芋の代金を支払いながら、嬉しそうに何度もカゴの中を覗き込む。
「今度、また入荷する機会があればもうちょっと多く入荷しとくよ。シエナちゃんもこの山芋の調理方法とか広めといてくれよな」
青果店の主人がそういうと、シエナは元気よく「うん!」と頷いた。
「やった!やった!とろろご飯が食べられるぅ。ど~しよっかなぁ~?やっぱりせっかくだから麦飯でも炊こうかなぁ?」
シエナはスキップをしながら、とろろご飯の事ばかりを考える。
この世界に生まれてから初めてのとろろご飯である。嬉しくないわけがない。
前世でも、山芋を使った料理は好物であった。
特に、麦とろろ飯はかなりの好物であり、これに沢庵と豚汁があれば最高だとシエナは思っている。
日本と違い、衛生面での不安が残るこの世界では、食べたくても食べれない料理は沢山存在している。
その中の筆頭が、卵かけご飯と寿司や刺身である。
生卵は菌が怖すぎて食べる事ができず、生魚も寄生虫が怖すぎて食べる事ができない。
せっかくの美味しい物も、衛生面のせいで食べる事ができない環境に絶望してる中、まるで卵かけご飯のようにして食べる事ができるとろろご飯は、まさにシエナにとっての救いの手であった。
「これでカツオ出汁とかあれば最高なんだけどなぁ…カツオ節ってどうやって作るんだろ…?ただカビさせるだけじゃダメだよね…?」
前世でカツオ節の作り方の勉強をうっかり忘れていたシエナは、せめてこの調子で椎茸がこの世界で発見されれば良いのにと願うのであった。
「あれ?シエナ。どうしたの?そんなに嬉しそうにスキップなんてして」
シエナがとろろ飯の事を考えてスキップをしていると、横からシエナと同じように買い物カゴを持った少女に話しかけられた。
「あ、ディータ!ねぇねぇ、あのねあのね、うふふふふ」
シエナはこの後に「なんでもな~い」とは言わずに、話しかけてきた親友に山芋のすばらしさを語ったのであった。
ディータ・エルシオン。蒼い髪で蒼い眼をしている11歳の女の子。
2番街区に数多く存在する宿の中で、格安なのにサービスが良いと人気の高い宿屋の娘であり、シエナの親友である。
ほぼ毎日を、実家の宿屋の手伝いをして過ごす真面目な少女で、月に一度、シエナと休みを合わせて遊びに出掛けるのが何よりの楽しみな少女である。
シエナの2歳年下であるが、体の成長具合はシエナよりも進んでいて、2人が並んで歩くと、ディータの方がお姉さんに見えるのであった。むしろ、シエナの体の成長が遅いだけである。
ディータは午前の宿の手伝いを終えて、おつかいで市場へと繰り出していた。
おつかいに出掛けると、それなりの頻度でシエナと出会えるのがたまらなく嬉しい。
ディータもまだまだ友達と遊びたい盛りの子供なのであった。
長いようで短いシエナの語った山芋のすばらしさを、ディータは右耳から左耳へとそのまま聞き流し、お土産として1本の山芋を手渡されて困惑してしまっていた。
「いや、調理方法わかんないから、貰っても困るよ」
ディータはせっかくのシエナからのプレゼントであったが、そのまま返却をする。
「ん~…じゃあ、今度食べにきてよ。美味しい山芋料理ご馳走するね」
「うん、でも、あの納豆みたいな物だったら絶対お断りだからね!」
親友にも拒否されてしまう納豆に、シエナは少し泣きたくなるのであった。
それから少しの間だけ、シエナはディータと雑談をしてから帰路へと着いた。
この街で暮らし始めてから、シエナは幸せ一杯である。
たまにひどい失敗をしてしまう事もあるが、周りの人間が助けてくれるこの街が大好きであった。
シエナは、自分の宿の看板が目に入ると、嬉しさに駆け出す。
「ただいま戻りました!」
そして、満面の笑みでそこで働く仲間たちに挨拶をするのであった。




