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時間

 兄の千歳が好きだ。

 異腹弟でありながら、千早の事を兄として守り、愛してくれた。

 千早はそんな兄の力になりたい、と勉学と鍛練に励み国王となった兄を支える王弟、王の懐刀と称される存在になり、そうなれた千早を兄が誇りに思ってくれている事が、千早の誇りだ。

 直属部隊のみんなが好きだ。

 年齢はバラバラ、性格もバラバラ、けれど不思議とみんな息が合っていて、千早が危難に陥ると即座に力を貸して助けてくれる。主と臣下としての関係ながらも、家族や兄弟を築けた事は千早の喜びだ。

 千歳とみんなで過ごす時間は、何よりも幸福な時だ。

 それは、ずっと続いていくものだと、何も疑う事なく信じていた。

 それは、千早だけでなく、千歳もみんなも同じだっだろう。

 それを壊す発端となるのが自分だなんて、千早は夢にも思っていなかった。


「どういう……事……だ……?」

 直葉は千早の口から放たれた言葉の意味をはかりかねて、そう問い返すのが精一杯だった。

「それは道々話すさ。とにかくまずはここから出るぞ」

 直葉の手を取り、千早は万那と百合に今から出る、と目で合図する。二人がそれに頷き返すと、直葉と共に部屋から出た。

 誰もいない廊下を足音をたてないように、気をつけながら歩く。誰にも見つからないように、柱の影に身を寄せて、そろりと顔を出して辺りの様子をうかがった。

「今なら大丈夫だな。一気に抜けるぞ」

 走ると足音が響くので、足早に歩を進めながら四人は王宮の外を目指す。そんななか、直葉は先程の話の続きを、千早に求めた。

 確か、道々話すという事になっていたはずだ。

「ああ、そうだったな」

 千早はどこからどう話すべきか迷ったが、時間がないのもあり、簡単な前提と要点のみを話す事にした。

「僕達は、この王宮の中で兄と弟として、国王と臣下として、過ごしていた」

 父が崩御してからの千歳の治世は、感嘆に値するものだった。

 格式や家柄に囚われず、金品や賄賂になびく事もせず、力と才あるものを広く登用し、その能力を国と民に充分に還元出来るよう法や規律を定め直した。

 千早の王弟直属部隊も、そうした形で集められた人材だ。

 すべて上手くいっていると、これから、この国は歴史の中でも類を見ないほど最上の統治がされると、千早は、王たる兄の姿に確信を抱いていた。

 あの日、あんな事が起こるまで。

 その日は、空を見上げるだけで無意識に微笑んでしまうほどの晴天だった。

 千早は千歳と共に火急に奏上したいことがあるという臣下と、王の間にて対面していた。

 その臣下は代々王家に仕えてきた家の出身で、まだ先王が存命の折から国王に仕えた有能な臣下であり、千歳の治世を迎えてからもその辣腕を大いに発揮してくれている、千早にとっても信用のおける人物だった。

 だから、千早はもちろん千歳も疑いもしなかったのだ、急ぎそして内密に王だけにお話したい事があるゆえ、王弟には席をはずしてもらいたいと言われた時も、ほんの少し戸惑いこそしたが、そういう事もあるかと千早は王の間からさして躊躇いもせず出たのだ。

 王の間の扉を閉めて、話が終わるまでどうしようか、と思案した時、それは起こった。

 千早は閉めたばかりの扉を蹴破るつもりで開けた。開けながら兄の名を叫んでいたような気がするが、よく覚えていない。

 ただ兄が驚いた表情で玉座から腰をうかせ、臣下が目許を険しくさせ懐から短剣を取り出して腰だめに構えた時、臣下が何をしようとしているのかは、分かった。

 千早の想像通りに、臣下は王を弑するために玉座への階段を駆け上がろうとしていた。

 千早の頭はその時、自分がどうするべきかなどと論理的に動きはしなかった。ただ兄を守らなければ、それ以外の事は頭になく、そして、その思いのままに行動した。

 臣下の前に回り込み、兄を庇ってその身に短剣を受けたのだ。

 服を染める大量の赤と、痛みを感じる事もなく冷えていく体に、千早は己の死を確信した。

 直属部隊の皆が王の間に入ってくるのが霞む視界のなかに見えた。表情はよく分からなかったが、そんなに離れてもいないのに遥か遠くから発しているかのように聞こえる。

 最後に見えたのは、窓から見えた蒼穹と、自分そっくりな顔を青ざめさせ何かを叫びながらこちらに手を伸ばす、千歳の唯一自分とは違う黒真珠の瞳。

 兄を守れた。

 自分の危険予知の異能で。

 その事に、この上ない幸福と安堵を感じ、千早の意識はそこで途切れた。

 一度は。

 千早は再び目覚めた、自分が短剣を受けた王の間で。

 千早を刺した臣下はその場で殺されたようで、斬られた死体が、王の間の隅にごみ同然に打ち捨てられていた。自分の血で赤く染まった服を軽くはだけて見てみると、死んだと確信した傷は痕だけが残り止血もされていない。何が起こったのか分からずに混乱する千早を抱きしめる千歳と歓喜する直属部隊。

 けれど、千早はその姿が、ひどくいびつなものに見えてならなかった。

 良かった良かった、と繰り返す兄に何があったのか問おうとした千早の耳許に、その言葉は落とされた。

「止める事が出来て良かった」

 止める、何を?まさか……。

 千早がそうであるように、千歳にも異能がある。

 しかし、千歳は生まれてから一度として、その異能を使用した事はなかった。それは使ってはいけない異能だったからだ。

 万物の法則に逆らい、定められた秩序を捻じ曲げる、使う事を許されない、使ってしまえば人として犯してはならない領域に踏み入る事を意味する禁忌の異能。

 だから、この異能は使うことなく人生を終えるのだと、それが正しく、当たり前の事だと、千歳自身がそう語っていた。それなのに。

 千早は信じられないという思いで、兄の目を見た。

 黒真珠の瞳。理知的で聡明で、曇る事もなく歪む事もなく、真っすぐ正道だけを見てきた瞳が、壊れていた。間違っている事を、間違っていないのだと確信して。

 千早は自分の危険予知の異能で、千歳を救う事が出来た、と思っていた。その思い違いの、なんと罪深い事か。

 千早は救うどころか、災禍を呼び込み、千歳の心を禁忌に染め上げ、堕としてしまった。

 千歳に使わせてはいけない異能を使わせてしまった。

 千歳の異能は時を止める異能、千早はその異能により死に逝くはずだった命の時間を止められたのだ。


「呼吸は出来る。心臓も音を刻んでいる。疲れれば眠っちまうし、傷を負えば血が流れ痛みも感じる。けど僕の命の時間は、止まっている」

「疑うわけじゃないが、確証は?」

「僕は死ねないんだ」

 生きる事は、死に向かう事だ。生と死は背中合わせの真逆のものではなく、隣り合わせのついとなるもの。 

 しかし、千早の時間は止められた。

「千歳に時間を止められてから、僕は何度も死のうとした。けど死ねなかった。時間を止められた僕の命は生きている人間が皆そうであるように、死へと時を進めない。老いる事もないだろうな」

 喉を切り裂いても。心臓を貫いても。毒を呷っても。王宮の頂きから飛び降りても。燃え盛る火の中に飛び込んでも。濁流の中に身を投げても。

 どれほどに血が流れても。のたうちまわるほどの痛みを感じても。余りの苦しみに意識を失っても。

 千早は死ねなかった。命の時間は止まったままで、けして進みはしなかったのだ。

「戻り森で熊に獣変化した私と始めて会った時に、食べに来たのかって言ったのは」

「いっそ食われて体がなくなれば死ねるかなって思ったんだよ」

 直葉は熊ではなく、異族だったため無理だったが。

 今まで黙ったままだった百合が口を開いた。その表情は荒れ狂う感情を必死に抑え込む者のそれ。

「千歳様の願いは大切な人がいる者なら誰もが望む事です。事実、わたくし達もそれを望みました」

 死なないでほしい。逝かないでほしい。一緒にいてほしい。一緒にいたい。時よ、どうか止まってくれ。

 ただ百合達の場合は、それを叶える事の出来る人間が、異能がいた。

「間違った事をしているとか禁忌だとか、そんな事ちっとも思わなかった。陛下も俺達も殿下が死ぬのがいやだった」

 あの時の万那達には、千早がこのまま死んでしまう事こそが間違いであり禁忌であり、許されざる事だったから。

 だから死に逝くはずだった千早の閉ざされた目が開いた時は、本当に嬉しかった。千早もきっと喜んでいると、そう思っていた。その時、千早がどんな顔をしていたか、見てもいなかったのに。

「僕が時を止められた事に苦しんでいる事は、僕が何度も死のうとする事から千歳達も気づいてた。だからか、千歳は壊れた心でとんでもない結論を出しちまった」

 止められた命に苦しむのなら、新たに命を与えればいい。

「よりにもよって、この人界の祖神たる神獣の魂、神獣の霊宝を手に入れて僕の命を完全に蘇らせようってな」

 もちろん千早はやめてくれと頼んだ。いるかも分からない神獣なんて探してどうする。仮に見つける事が出来たとしても、それだけは駄目だ、この人界で生きる者がこの人界の祖神の魂を我欲のために利用するなどあってはならない、と何度も何度も訴えた。 

 しかし、千歳の心にその思いは届かなかった。

 千歳は千早の命を救えば全て元通りになるのだ、と盲信していた。それ以外の事など彼には何一つ届かなくなっていた。当の千早の言葉すら。

「だから僕は王宮から逃げ出したんだ。僕がいなくなりさえすれば、少なくともこれ以上は千歳を禁忌に穢さずに済むと思った」

 千早だった死にたいわけじゃない。千歳や直属部隊の皆と、もっとずっと生きていたかった。今もそれは変わらないし、むしろ強くなった気がする。

 だが、そのために千歳達が手を汚すのは耐えられない。

 千早は千歳達に正しく生きていてほしい。神獣の霊宝を手に入れて千早に命を与えるなんて、叶わない、叶えてはいけない願いを叶えようとするよりも、正しく生きていく事を叶えてほしい。

 それは千早には、もう叶える事のできない事だから。

「……ごめん」

「なんだよ?いきなり」

 もうすぐ王宮内を抜けて外の庭園につながる門も近いという場所まで来たところでの、直葉の突然の謝罪に千早は思わず足を止めた。

「私は自分の事ばかりだった。千早がなにか理不尽を強いられて逃げ続けているなら、それに対して怒りをぶつければいいと単純にそう思っていた」

「それは僕がお前の境遇に対して、怒ればいいって言ったからだろ?」

 異族である直葉がいわれのない差別を受け、差別される事を当たり前の事として受けいれている事を知った時、千早は差別した者に怒りを覚えると同時に、直葉にも差別された事を怒れと言ったのだ。

「そうじゃなくて……私は千早が戻り森を出ると言い出した時、それを隠れ蓑にして自分の願いを優先しようとした」

 理不尽を強いられたら怒れと千早が言ったのに、なぜ千早はそうせずにただ逃げようとするのか。逃げないで怒ればいいのに、そうすれば、もしかしたら……。

「まだ千早と一緒にいられるかもしれない、と、私は思っていた」

「直葉……」

 自分の事ばかりだった。千早が何か抱え込んでいるのを知っていると言いながら、本当は何も知らなくて知ろうとしていなくて、ただ自分が千早と一緒にいたい、とそればかり考えていた。

 だから千歳達が死に逝こうとした千早の時間を止めた気持ちも、神獣の霊宝を手に入れて千早に新たな命を与えて完全に蘇生させたいという思いも、分かる気がした。

 どんな形でも千早に生きていてほしいから。 

 けれど、それは千早の望みではなく、そんな形で新たな命を手にいれたとしたら、千早は今度こそ本当に死んでしまうのだろう。

 ならば、直葉は千早の願いのために動こう。千早を思いながら自分の事ばかり考えていたぶんも、今度は千早のために。

「私は千早の願いのために頑張るよ」

「もちろん、わたくしもです」

「俺も」

 それで千早との別れを迎える事になっても、それが身を切られるより辛くても、今まで自分の願いばかりを優先してきたから、今度は千早の願いのために。

「直葉、百合、万那」

 三人は泣き出しそうな顔で、笑ってくれた。酷い事をしていると思う。直葉達が自分の事ばかりだと言うのなら、千早だって自分の事ばかりだ。

 それがどんなに間違っていたとしても、それでもと、こんなに千早の生を望んでくれている人達がいるのに。それは千歳も変わらなくて、千早だって死にたいわけではないけれど。

 それでも、やはり千早は千歳達が禁忌に穢れてしまうのはどうしても嫌で、だから己の願いを変えられない。全ての始まりは千早で、歯車を狂わせたのは千早で、皆は巻き込まれたに過ぎないのに。

 特に何も関係なかったはずの直葉には、どう謝罪すればいいのかも分からない。それなのに千早が今彼女にしてやれる事は、無事に戻り森に帰してやるくらいだ。

「とにかく、今はここから逃げる事を」

「そうさせるわけにはいかないんだよねー」

 割って入った声に四人は一様に前方に顔を向ける。

 千早達がこれ以上進むのを阻むように佇むのは、億斗と十夏だ。

 先回りされていたのか、と千早は拳を握る。

「意外と簡単に捕まえられたね。そっちにはー百合ちゃんがいるのに」

 百合は悔しげに顔を歪める。 

 百合の異能は千里眼だ。距離に限界こそあるが、遥か遠くまで見る事が出来る。百合の異能があれば億斗達に見つかるどころか、誰の目にも止まる事なく安全に王宮から出る事が可能だっただろう。

 それもあくまで通常であればだが。

 王宮から逃げ出した千早を探すため、百合はこのところ異能を多用していた。そのため、霊力が枯渇しており今は異能が全く使えない状態にあるのだ。

「千早くんには悪いけどー、大人しく捕まってもらうね。そっちの白い女の子も今度は待遇悪くなるけど、自業自得だから」

「百合、万那。お前達は王の勅命に逆らったとして反逆罪だ。少し手荒くいかせてもらうぞ」

 十夏が異能で霊力を武器化した大剣を構えるのに、千早も腰に差していた剣の柄に手をやる。直葉も獣変化しようと腰を低くした時、それは飛び込んできた。

 嵐かと思うほどの豪風だ、しかも何故か色を纏った。その風は億斗達の背後にあった外の庭園へとつながる門を押し破り、億斗達はとっさに風から逃れるために横へと跳んだ。

 豪風はそのまま吹き抜けて行くのではなく千早達の目前でしばし渦を巻きながら吹きだまる。そうしている間に風の中から三つの影が躍り出てきて、風は四方八方へと四散した。

「ったく、酷い乗り心地だったぜ」

「文句言わないでよ。これだけの数を集めるのどれだけ大変だったと思ってるの」

 数という言葉に辺りをを見まわせば、豪風の正体が分かった。

 それは鳥だった。しかも数十羽、数百羽では利かないほどの数の。

「直葉、千早、さっきぶりだな」

 この場の空気を完全に読めていない男が穏やかに笑い、片手を上げている。

「閑芽じゃねぇが、お前らもさっきぶりだな。借りを返しに来たぜ」

 鳥と共に現われたのは、棗、柊、閑芽の三人だった。 

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