神獣
千早はおそるおそる歩み寄る。手を伸ばしかけて、相手が神獣と名乗った事を思い出し引っ込めようとするが、神獣の方から手にすり寄ってきた。
「直葉……なのか?」
「そうだよ。千早」
耳に馴染んだ声と口調に、千早は手から力を抜く。けれど直葉の傷を心配して詰め寄った。
「お前、傷は大丈夫なのか?」
「平気だ。私には神獣の霊宝がある」
人界とそこに生きる命を創造した神獣。その魂である神獣の霊宝は、それを宿す直葉が受けた傷を完全に癒やしていた。
千歳がその事実に反応した。掌から血が滲むほどに強く剣を握りしめて、彼は直葉に斬りかかる。
「神獣……神獣の霊宝をよこせ!」
だが千歳の剣は直葉に届く事はなく、鋭い一閃に叩き落とされる。
千早が自分の剣で、千歳の剣の刀身を打ち据えたのだ。
「させねぇよ」
「神獣の霊宝があればお前を助けられるんだ、千早!」
「言っただろ。俺はお前の助けは望まない」
それに神獣の霊宝が直葉の魂であるなら、尚更。そんなものでの助けは要らない。
「それでも千歳、どうしても俺を助けたいと思うなら誉めてくれよ」
王である千歳を助け支えられる王弟である事が千早の誇りだ。
「お前の命を守って偉かったって」
千早のした事は、千歳を傷つけて苦しめて壊して狂わせた。けれど、それだけではなかった。そう言ってくれ。
千早は千歳の命を守る事が出来た、千歳にそれを言わせる事は何よりも残酷なのだろうが、千早は千歳にこそ言ってほしい。
それが千早を助ける事になるんだ。
千早は、あの日以来はじめて、兄に笑ってみせる。それは明るく幸福そうな笑顔とは言えなかったが、作ったものではない笑みだ。
「千早……」
千歳の狂った熱にうかされ曇り歪んでいた瞳の奥から、その熱を打ち消す雫が湧き出てくる。その雫が千歳の瞳を洗い流し、輝く黒真珠の瞳が千早を映し出す。
やっと千歳に心が届いたのだ、と千早は直感した。なら今はそれだけでいい。
何事か口にしようとしては音にする事が出来ず泣きそうになる千歳に、もう一度静かに微笑み、首を左右に振った。
今は、お前に心が届いただけでいい。だから、いつかいつか、いつでもいいから、いつの日にか言ってくれ。
お前を助けて、偉かった、と。
千早は直葉に向き直り改めてその姿を見つめた。
「本当に神獣なんだな」
「ああ。……黙っていてすまなかった」
「バカ。そういう事は黙ってるのが当然だろ。それに千歳達はお前の魂をほしがってたんだから黙ってて正解だ」
申し訳ないと頭を垂れる直葉に、千早は苦笑する。千歳や億斗達は神獣の霊宝を求めていて、千早はそれが嫌で王宮から逃げ出したのに、その神獣と千早がめぐり会っていたとは。縁というのは不可思議なものだ。
「気まぐれだったんだ。人の世に降りたのは」
人界とそこに生きる命を神々から与えられた力で創造して幾星霜。日が何度昇り沈んで、月が幾度満ちて欠けたか、それを数えるのも遥か昔にどうでもよくなるほどに長い長い歳月が過ぎた頃、ふと、それもいいか、となんとなく人の世に降りたのだ。
神獣の姿と神力を封じて、異族の幼い子どもとして。
人界も人も不思議だった。同じように創造したはずなのに、場所によって家の形や暮らしかたに差異がある。そして人は、異族をあからさまに嫌悪して差別し罵詈雑言をあびせ石を投げてくる者もいれば、傷つき倒れているところを拾い手当てを施し、家族として暖かく迎えいれてくれる者もいる。
なんて不思議で不条理で、愛おしいのか。
「私は人界を人を愛したよ。創造してよかった、と心からそう思った」
気まぐれで降りたはずの人界は、いつしか家族と生きる家になっていた。仮にも神の籍にある者がなんたる様だと、同じく神たる同胞が今の直葉を目にしたら、呆れかえることだろう。
でも後悔はしていない。ただ創造して見守るだけだったら、知り得なかった。
幸せも悲しみも楽しさも苦しさも、そして、ただひとりの誰かと一緒にいたいとこんなに強く思う事も。
「私は千早と一緒にいたい、千早に生きていてほしい、そのためなら私の魂を、神獣の霊宝を差しだしてもいい」
「言っただろ。いらないって」
千早だって直葉と一緒にいたい、直葉と生きていたい、けれど直葉の魂を差しだしてもらう事など、望んでいない。
「直葉が尊い祖神だからだけじゃないぞ。僕は直葉の魂だから、いらないんだ」
一緒に生きていたいと望んだ相手の魂だからこそ、いらない。それに約束したはずだ。直葉は千早の願いを叶える、そのために行動する、と。
「僕の願いは、この止められた命に正しい時間を。叶えてくれるか、僕が愛した神獣よ」
千早に応えるかのように直葉の額にある真珠の一角が燐光を放ち、それは白金の蛍火となって二人を包む。
「仮にも我は神の座にありし命を創造した者。叶えよう私が愛した人の子よ」
膝をついた千早は直葉の首に腕をまわして、その頬に寄り添った。
どれだけ一緒にいたくても、どれだけ一緒に生きていたくても、いつか離れなければならない、そう思っていたのに。今こうして最期の時を迎える瞬間まで、直葉の側にいる事ができる。
「幸せだな」
周りを壊して狂わせて逃げ出して、拾われて救われて戦って、魂の縁を綴り続けて、愛した者の温もりをこの腕に抱いていられる。
僕は幸せだ。だから、この命を正しい時間に。いつか、未来で、綴った魂の縁を手繰り寄せて、君と一緒に生きていけるように。
「すぐは」
最期に目印を刻むかのように愛した者の名を呼び、千早はゆっくりと目を閉じた。
これより五日後、国中に訃報が広がる。
王弟殿下、逝去。
その姿を衆目に見せる事はなかったが、国王の懐刀として広く知られていた王弟の葬祭は国をあげて行われ、兄である国王、王弟直属部隊も葬列に並んだ。
王弟、その名は露草千早。