始まりの出逢い
はじめて小説を投稿させて頂きます。
いや、小説と呼ぶのも烏滸がましい稚拙な言葉の寄せ集めに等しいモノですが、気力とメンタルが続く限り書いていきたいと思います。
よろしければお読み下さい。
逃げなくては。
黒髪を結い上げた髪紐がほどけようとも、足がもつれて無様に地に転がろうとも、気にしなかった。気にする余裕もなかった。
逃げなくては。
ただ、その思いだけがこの身を動かした。
慣れ親しんだあの場所から、愛していたあの人たちのもとから、何も言わずに去ってどれくらい経ったのか?
いや、自分はあの場所から、あの人たちから、逃げ出して来たのだから、何か言っていけるはずもないのだ。
逃げたかった、わけではない。あの場所にいる事を嫌だと思ってはいなかったし、あの人たちの事は本当に大切だった。けれど、だからこそ、逃げなくてはならなかった。
一体、どうしてこんな事になってしまったのか?何を間違えてしまったのか?何が間違いだったのか?
銀色の一閃。蒼穹と緋色。暗転した世界。黒真珠の瞳。
ああ、本当に間違いはなんだったのか?
それすらも分からないままだったけれど、逃げなくてはいけない。それだけは確かだとそう思ったから。あの場所を出て、あとは闇雲にただ少しでも遠くへと、この世界に誰も辿り着けない果ての場所があるならば、そこに行きたいと。
そうして今いるのは右も左も木々に覆われた深い森の中。緑の匂いが濃く漂い、空を隠すかのように伸びた枝の隙間からは、太陽の光が柱のように柔らかな草の大地へと届いていた。
ここは何処なんだろうか?あの場所から遠く離れているのは間違いない。だが、遠くへ、ただ遠くへと、それだけを思って来たため、自分がどんな道を通ってどんな場所に辿り着いたのか、まるで把握出来ていない事に今になってようやく気づいた。
そうやって逃げようとする思いとは別の事に意識を向けたせいか、自分の体がとうに限界を越えている事も分かってしまった。そして、一度分かってしまえばあとはもうどうしようもなかった。
膝から力が抜け、体は重力に従い前へと倒れこんでしまう。
「……駄目……だ。……まだ……倒れ……る……わけ……に……は……」
這ってでも前に進まねばと、体を動かそうとするがちっとも言うことをきかず、指先が意味もなく大地を掻くばかりだ。
その時だった。耳が音を捉えたのは。
一定の感覚で繰り返される音。足音だ。しかもかなり体重を感じさせる音である。そして、それは段々とこちらに近づいてくる。
一体、何の足音だ?逃げたほうがいいのか?そう思いはしたが、体はやはり動いてはくれない。
そうしているうちに、足音はもうすぐそこまで来ていた。
草を踏む音が聞こえたので、足音の正体を確かめようと、目だけを動かしてみれば、視界に入ったのは白い毛に覆われた大きな足だった。
そのまま目線を上へとやれば、動物の全体像が見えてその正体も分かった。
熊……?
熊だった。ただし毛の色が青空に浮かぶ雲と同じ色の熊だ。
白い熊なんて見るの始めてだな。
熊の色といったら黒か茶色だと思っていたが、白もいたのか。そういえば、北の、人が住めないくらいに寒い土地にはいるんだったか?
どちらにしろ、東のこの国にはいないはずの白い熊。そんな熊がなんでこんな森にいるのかなんて考える余裕もなく、ただ吐息をこぼすように、独白も同然に呟いた。
「僕を、食いに来たのか……」
食われてもいいと思った。食われてしまえば、それはただ逃げ続けるよりも簡単に今、自分が抱えている事を終わりに出来る。
それなら、いっそ食ってくれ。
体の力を抜いて、召し上がれと伝えるために熊をみやる。視界に紗がかかり始めている。気絶しかけているようだ。
「人間なんか私は食べない」
ああ、耳もおかしくなり始めている。
熊が女の声で喋りやがった……。
そう思ったのを最後に、とうとう意識が途絶えた。
「……ん……う」
なんだ?僕は今どうなっている?
指先を動かして、触れた感触を確かめる。
暖かい。そして柔らかい。布団か?
やけに重い瞼を半ば無理矢理開けば、そこには……
「白……」
白い布団?いや、毛皮?ちょっと待て、この白、どこかで見たような……
「……ん」
白が突然動いた。いや、それよりも声を発した!?
どういう事だ?と確認する暇もなく、自分に覆い被さっていたらしい白はゆっくりと身を起こすようにして顔を見せた。
そう、顔があった。丸い小さな耳に、黒の鼻。白みを帯びた金の瞳。そして白雲色の体毛。
「熊……!」
間違いない。あの熊だ。
気絶寸前だったためか、耳がおかしくなって熊が言葉を話す、などというあり得ない幻聴を聞いたのを覚えている。
今になってみれば、かなり恥ずかしい……もといメルヘンな幻聴である。自分で思っているより色々とヤバい状態だったのかもしれない。
「悪い。寝てた」
「いや、こっちも寝てたし謝らなくていい」
「そうか」
ん……んん?あれ?今、僕は誰と会話したんだ?
恐る恐る、声のしたほうに視線をやると、そこには立ち上がり人間が寝起きにするように伸びをする、白い熊がいる。
その熊は見られている事に気づいたのか、振り返り、器用に首をかしげてみせた。
「どうした?」
「……っつ!熊が喋ったあああぁぁあ!?」
「反応が遅い。ツッコミもありきたりだ」
真顔で普通に、ダメ出しくらった。……熊に。
「それともうひとつ。私は熊じゃない」
「あたりまえだ。喋る熊なんかいてたまるか!」
ガバリと上体を起こし、今度は全力でツッコミをいれた。
「そういう事じゃない」
スルーされた。
仮名、熊……自己申告によると違うらしいさんが、仕方ないとばかりに息をつく。仕草がいちいち人間じみている。
「論より証拠。百聞は一見にしかず、か」
見ていろとばかりに、熊は姿勢を正した。その姿が瞬きひとつの間に一気に小さくなったかと思えば、跳ね上がるようにして大きくなる。
そしてそこにいたのは、足首まで伸びる長い白雲色の髪に、白みを帯びた金の瞳の可愛らしい面差しをした美少女だった。
ただ呆然とその姿に目を丸くしていると、美少女は得意げに胸を張る。
「これで分かっただろう?私が熊じゃないって!」
「……ああ、よく分かった。お前は熊じゃない。そもそも普通熊は人の言葉も話さないし、ましてや人間になったりなんかしない。分かったから、だから…服を着ろ!!」
「む、忘れてた」
「忘れるなよ!人間として女として、そこは忘れるなよ!」
一糸纏わぬ美少女は、白い肌をさらしたままの自分の姿を気にもしていない。
「ところでお前、名はなんというんだ?」
「この状況で自己紹介タイム?!」
こ れ以上美少女の裸体を見るまいとして、手近にあった布団を頭からかぶり背を向けているというこの状況でする事はそれなのか?いや、絶対違う!
「私は神地直葉だ」
こちらの常識的な心の抵抗は、全スルーされている。
「千早だ!……露草千早!」
「千早か。よろしくな」
直葉は声を弾ませて挨拶してくる。
しかし、千早に未だ裸身の美少女と挨拶出来るほどのコミュニケーション能力は存在しておらず、また少しの間眠っただけでは到底たまりにたまった疲労は回復しきれていなかったので、彼はまたもや気絶するはめになったのだ。
この世界には3種類の存在がある。
ひとつは、只人。特に何の能力も持たない、世界に最も多く存在する普通の人間。
ひとつは、異能。霊力を有し、その霊力で術を使う。そのため国の神事、祭事、儀式などを司る神官や巫女になる者、もしくは軍に入り国の剣として戦い守護する道を選ぶ者が多い。一説によると天上から降りて来た神と人が交わり生まれた者たちの血をひく者たちとされている。
ひとつは、異族。霊力ではなく通力を有し、人としての姿ともうひとつ、獣の姿を持つ。こちらは天上から降りて来た獣の姿を持つ神と人が交わり生まれた者たちの血をひく者たちという説がある。
千早は、ゆるりと重い瞼を開く。
なんだかとても恐ろしい夢を見た気がする。
「白い熊が実は熊じゃなくて……毛皮を脱いだら美少女に変身して、でも裸だから台無しで僕気絶……」
頭が混乱している。何を言っているのか自分でもわからない。
「直葉は熊だが、ただの熊じゃない。異族の熊だ」
そうか。直葉は異族だったのか。なら熊の姿をしているのも納得がいく。異族は人と獣、ふたつの姿を持つのだから。
しかし、こんな当たり前の事も思いつかず喋る熊だと思いこんで混乱するなんて。
「想像以上に疲れてるのか?」
「一日に二回も気絶するくらいだからな。疲れてると思うぞ。それに何日もまともに食べてないんじゃないか?」
暗緑色の跳ねた短い髪に浅黒い肌の男が、千早の顔を心配そうに覗きこんでくる。
その顔は精悍という言葉が一番しっくりくるもので、体躯も大柄で、纏っている白いシャツと黒いベストにズボンの上からでも、しっかりと筋肉がついているのがよく分かった。
時に、女性に間違われる程に端正な顔と筋肉がつきにくい体質なのか、鍛えても鍛えても細身な千早からすれば羨ましいくらいに男らしい。身長も標準よりずっと高い。
別に妬んではいない。そう……でかすぎだろ縮め!!なんて思っていない。
あ?僕の身長?標準だよ!ちゃんと標準にとどいてるよ!……四捨五入すればギリギリ!!
というか、この人は誰?そして僕はまた相手が誰かも分からないまま、会話してたのか。
一応、逃亡中の身であるというのに。疲れているからとはいっても気をゆるめ過ぎだろう、僕。
「さっきは直葉が悪かったな。いくら異族とはいえ、いきなり獣身から人身に戻ったら驚かれるから気をつけるように言ってるんだか」
「違う!!」
カラリと笑う男の謝罪は、ものすごく的外れだった。
「いや、驚いたから完全には違わないけど!でも違う!獣身から人身になることより、そうなった時に、はは、は、裸な事を気にして!」
「なんだ、そっちなのか?」
「なんで、意外だな、みたいな顔してんだよ!?」
「いやいや、そんな事はないぞ。そうだよな、うん。君くらいの年頃なら裸のほうが気になるよな。いや、気がつかなくて悪かった」
「いや、そうだけど。そんな認識はすごく嫌だ!!」
「いやー、若いな!」
「年齢そんなに変わんないだろ!親指立てて、超イイ笑顔でそんな事言わないでくれ!どちらかといえば嫌な思いをしたはずなんだが、僕!!」
「女性の裸を見ておいて、嫌な思いをしたと君が言うのはどうなんだ?」
「いや、まともな事を言っているように思えるけど、これまでの会話からして、なんだかただ僕が追いつめられてるだけじゃね!?」
そして、これまでの会話で今まで何度「いや」という言葉を使っただろう?いや、そんな事はどうでもいい。ああ、また言ってしまった。この状況を変えるために話を変えよう。うん、そうしよう。それがいい。
「あ、俺の名前は居杉閑芽だ」
「お前が変えるのかよ!」
「君の名前は直葉から聞いてるから言わなくてもいいぞ」
「……そうですか」
千早はとうとう匙を投げた。
参った。負けた。降参だ。この男に突っ込みは意味をなさない。
「閑芽との会話は流れに逆らうな、流れに流されろ」
ひょこりと部屋のドアから顔を見せたのは、直葉だ。白のシェフコートだが、今度はちゃんと服を着ている。それが普通なんだが。しかし、なぜシェフコート?
千早の視線に気づいた直葉は自らの纏うシェフコートに触れる。
「これは私の仕事着だ」
「……仕事?ここは店でもやってるのか?」
「ああ、少し変わっているがな」
「変わって……?」
直葉に変わって答えたのは閑芽だ。よく見てみれば、彼の服装はウェイターだ。
「やっているのは喫茶店だ。レストランともいえるかな」
喫茶店、レストラン?普通に思えるが、どこが変わっていえるのだろうか。
千早の疑問に直葉と閑芽は笑って答える。
「うちの店は只人は例え貴族王族、この国の王であっても入れない」
「喫茶レストラン清樹。ここは異能異族専門の店だからな」
喫茶レストラン。それはつまり食べ物を食べれる場所、ならば……
「ご飯を下さい」
千早はベッドの上に正座して手を付き頭を下げた。
直葉と閑芽は千早の土下座にポカンとしたものの、食べ物は出してくれた。
しばらく何も食べていないのなら、固形物を口にするのはきついだろうと、スープを。
「野菜を細かく刻んでいれてある。これくらい体に入ると思うが、無理はしなくていい。食べられる分だけ食べればいいから」
直葉はそう気遣ってくれたが、それは無用の心配になった。
千早はスープをペロリと完食してしまったからだ。いや、食べるというよりも飲むという表現のほうが正しいかもしれない。
千早はスープをゴクゴクと飲みきってしまった。
こちらのほうが間違いなく真実に近い。
それほどまでに千早は空腹だったのだが、それ以上に直葉の作ったスープが美味だったというのも理由にある。
「いい食べっぷりというか飲みっぷりだったなー」
ニコニコ笑いながら閑芽はテキパキと給仕をしてくれる。その所作は完璧で、スープ皿を下げるところから食後のお茶を出すところまで流れるような動きだった。
「このお茶も美味しい……!」
白いティーカップを満たすのは、湯気と芳香が漂う透き通った紅褐色。それが舌と喉を通れば、スッキリとした甘みが口内に広がる。
「千早がお茶うまいって、出てきたらどうだ?胡乃実」
直葉が開いたままのドアに向かって呼びかけると、ソロリと誰かがほんの少しだけ顔を覗かせる。それは少女だった。大きな薄水色の瞳が怯えるように揺れている。
胡乃実と呼ばれた少女は、千早と目が合うと結われている蒼の髪を尻尾のように跳ねさせて、ドアの向こうへと姿を隠してしまう。
「あの子は……?」
「ああ、胡乃実だ!」
閑芽は力一杯、笑顔全開で答えた。
しかし、答えにはなっていない。
千早はちゃんと答えをくれる相手に、あの胡乃実という少女について、改めて問い直した。
「紗羅胡乃実。私よりひとつ年下の15歳で、清樹のウェイトレス兼ドリンク担当だ。ウチのドリンク類は全て胡乃実が淹れている」
直葉はきちんと答えてくれた。
けれども、あの態度は一体どういうことなのか?千早は胡乃実に対して何かした覚えはないのだが。ドアの方を一瞥してみるが、胡乃実は姿を隠したままだ。気配は遠ざかっていないので、逃げるまではしていないようだが。
「隠れてないで出て来たらどうだ?胡乃実」
直葉が呼びかけてみても、返事はなく沈黙のみが返ってくる。
溜め息混じりに直葉はドアへと歩み寄り、その向こうへと手を伸ばす。
「こうしてても仕方ないだろう。お前、千早がここにいる間そうやって、ずっと姿を隠したまま過ごすつもりか?」
「で、でも……」
はじめて胡乃実の声を聞いた。細い、震えを帯びた声だ。
そんなに怖いのか?もしかして千早に覚えがないだけで、寝ている間に何か彼女を怯えさせるような真似をしてしまったのか?
「どれだけ恥ずかしがり屋なんだ!お前は!」
「って恥ずかしいだけかよ!!」
「はい、ごめんなさい!!」
千早の声に驚いたのか、胡乃実が姿を表した。
身を固くし、気をつけ状態ではあるが。
小柄な少女だ。耳の上と下、左右にふたつずつ、全部で四つにわけて結われた癖のない髪。
黒のワンピースは襟や袖口が繊細なレースで飾られ、その上から纏っているエプロンと頭に乗せられたヘッドドレスにはフリルがたっぷりだ。
「おー、やっと出てきたか。胡乃実」
閑芽が声をかけると、音がする勢いでその背後に駆けていき、また身を隠した。
すげぇ速さだ……。
「シャイスピード、レベル3といったところか?」
胡乃実に続いて室内に戻ってきた直葉は、呆れたように呟く。
「シャイスピード!?レベル3?」
「さっきも言ったが、胡乃実は極度の恥ずかしがり屋だ。その為、知らない人に会うとものすごい速さで身を隠せるところまで逃げていく。それがシャイスピードで恥ずかしさが強ければ強いほどレベルの数が増していく。千早に対しては、お前が寝ている間に顔を見ていたから、レベル3と低いほうというわけだ」
「丁寧な説明どうもありがとう!でもこれでレベル低いほうなのか!?そんなんで客商売大丈夫なのか?」
「それなら心配ないぞ。なあ、胡乃実」
閑芽の言葉に少しだけ顔を見せて胡乃実はコクリと、控えめではあるが確かに頷く。
「清樹には限られた客しか来ないからな」
そういえば、さっき言っていた。ここは只人はけして入れない。異能と異族しか来れない場所。
「そもそも清樹のあるこの森は、戻り森と呼ばれる森。森に入っても、気づいたら森の外へと戻ってしまう事から、そう呼ばれるようになった」
直葉は千早の顔に自らの顔を近づける。その白金の瞳が千早の露草色の瞳をとらえた。
「さて、ここで問おう。この戻りの森から外へと戻されることなく、森の中に入って来た君は一体何者なのか?」
「何者って……」
「惚けるな。少なくとも君はこの辺りに住んでいる人間じゃない。来ている服を見れば分かる」
直葉は千早の服を、指先でつまみ上げる。
「簡素なのは見た目だけ。布地も糸もかなりの上物だ。このくらいのものは地方の豪族や領主の一族でも、そうそう手に入れられるものじゃない。王都に住む貴族、もしくは王族に連なる者でなければな」
千早は拳を握る。
ここで全てを明かすわけにはいかない。ここが王都から遠く離れた戻りの森がある辺境の地方であっても、まだ足りない。
千早は逃げなげればならない。逃げ続けなければならないのだ。
「重ねて問おう。露草千早、君は何者だ?」
直葉は追求する。
しかし、それは千早を責めているわけでも追いつめているわけではない。
心配してくれているのだ。直葉はもちろん、閑芽も胡乃実も。
だから、だから千早は、
「……言えない」
答える事ができなかった。
言ってしまえば巻き込む事になってしまう。助けてもらっておいて、いや助けてもらったからこそ、何も言わない事が、千早に出来る最大限の礼だった。
「けれど誓う。僕は貴方たちに害を与える気は毛頭ない。戻り森で異能や異族相手に客商売をしている事を知られるのが困るというなら口外しない。そして、世話になっておいて礼も出来ないのは申し訳ないが、叶うなら僕をこのまま行かせて欲しい」
千早はどうあっても逃げ続けなければならないのだ。
「僕は……見つかるわけにはいかないんだ…!」
まるで、血を吐くかのような言葉だった。
直葉と閑芽は千早のその様に顔を見合わせる。すると今まで黙っていた胡乃実が口を開いた。
「……何か当ては、あるんですか?」
千早は答えない。それが答えだった。
「ならひとまず清樹にいるっていうのはどうだ?」
閑芽の言葉に、千早は目を瞠る。
「でも、それは……」
「要するに、見つからなければいいんだろう?それなら、この戻り森の中にいるのが一番確実だと思うけどな」
確かに、戻り森は中に入る事ができず外へと戻されてしまう森だ。だがしかし、それでも安全とは言い切れない。もし、見つかってしまえば確実に直葉たちを巻き込んでしまう。
躊躇いを見せる千早に、直葉は「それなら」と提案をした。
「当てが見つかるまでっていうのはどうだ?見たところ千早は計画なしにこの辺りまで来たようだし、金もそろそろ底をつきはじめてるんじゃないか?そのままここを出たらまたどこかで倒れるぞ」
千早は言葉につまる。
当てはともかくとして、金に関してはどうにかしたいと思っていたのだ。
逃げ続けるにも先立つものは必要で、足が重くて財布が軽いのは、あまり嬉しいとは言えない。
「清樹を手伝ってくれるなら、バイト代くらいだすぞ?」
抜け目なく、閑芽が誘いをかけた。
「……金が貯まるまで、頼めるか?」
とりあえず、それくらいの間なら大丈夫だろう。
もし、見つかると少しでも感じたら即座に逃げ出せば、直葉たちに害が及ぶこともないはずだ。
それに、やはり金はあったほうがいい。
世知辛いが、それは世界の真理なのだ。
直葉が、右手を差し出す。
「改めて、ようこそ清樹へ。露草千早」
「まあ、よろしく」
千早は、差し出された右手を握った。
千早は、仕事をはじめた。
文字通り、はじめて仕事をはじめた。
食事を作るどころか、厨房の中にさえ入ったことのない千早が出来たことといえば、訪れた客を空いてる席まで案内すること、洗い終わった食器類を片付ける事くらいだった。
閑芽や直葉はそれ以外の仕事も覚えさせようと、新人教育にいそしんだのだが結果はふるわず、とりあえず今は失敗しない事のみをやらせようという、苦い結論を出さざるを得なかった。
この結論に反して、新人教育を受ける側であった千早の意欲は十分であったのが、結論の味を更に苦いものにした。
彼はいっそ憐れみを覚えるほどに、厨房での仕事を知らなかった。
そう、才能がないのではなく、知らない。慣れていないと言ってもいいだろう。
「やはり、普通の家の人間じゃないな。礼儀作法は言う事無しなのに、常識がない部分がある」
千早がこれを聞いたとしたら、男の前で平然と全裸のままでいられる女に、常識がないなどと言われたくない、と抗議しただろうが生憎と千早はこの場にいないので、直葉の中で千早は常識がない、という結論が出てしまった。
直葉は、千早が使っていたベッドを整えながら彼のここ数日の仕事ぶりを振り返る。
客に対する礼儀は文句無し。所作や立ち居振舞いもきちんと教育されたのがよく分かるものだった。
しかし、包丁の持ち方や食器の洗い方はまるで知らなかった。野菜を切ってくれと頼んだ時、包丁を両手で持ち高々と掲げ振り降ろしたのには、本気で肝が冷えた。
あれは野菜を切るというよりは斬ろうとしていた。包丁は刀と化していた。
今思い出しても、本気で怖い。
「直葉」
呼び掛けられた方向へと振り向けば、閑芽が無言で手に持っていた物を広げた。
それは千早がもともと着ていた、あのやたら上質な服だった。
「ここ、見てくれ」
閑芽が示したのは、服の裏地に小さく縫い付けられた刺繍模様。
その模様はこの国にいる者なら、誰もが知っている模様だ。
「王家の紋章……」
それはこの国においてもっとも高貴な血族、王族であることを証だてる紋章だ。
「そりゃ、どこかの地方の領主の一族か王都あたりの貴族かも知れないって疑いはあったけど」
「王家の血族とはまた、随分な当たりを引き当てたもんだな。直葉」
「当たりと言える状況なのか?」
「失敗のほうがまだ目立つが、努力家だ。慣れないどころか、知らないに等しい厨房仕事を少しでも覚えようとしている。十分当たりだよ」
この男は……。
呑気と呆れるべきか豪胆と誉めるべきか。
判断に迷うところだ。
「あ。それと常識がないのは直葉も同じだと思うぞ」
閑芽は一体、いつから直葉の話を聞いていたのか。まあ、それはいい。今はそれよりも言いたい事がある。
「閑芽にだけは言われたくない」
直葉は話が通じない事の多い天然大男に、はっきりと告げた。




