一、水遁の術失敗ナリ
高二の夏休みが終わる、八月三十一日の朝。
俺は使い慣れた竹筒を手に、近所でもオカルトスポットと評判の小さな沼に向かった。ここなら誰にも見つかる心配がないからだ。
ポリタンクに汲んだ綺麗な水と、タオルや着替えを入れたリュックを木陰に隠し、準備万端。
「よし、今日こそ水遁の術をマスターするぞ!」
夏休み中の苛酷な忍者修行も、本日が最終日。この野外訓練が集大成となる。きっとじっちゃんも、草葉の陰から俺を見守ってくれていることだろう。
気合いも充分に、青緑なアオミドロの集落にトプンと片足をお邪魔する。
当然服装はイカス漆黒の忍装束……ではない。いくら忍者末裔の俺とて、さすがにこのご時世、人目を気にする程度の嗜みはある。万が一誰かに見つかっても不審者扱いされないよう、普通のTシャツ&半パン姿だ。
まあこの沼に入ろうという時点で、既に不審者扱いは確定なのだけれど……。
「予想通り、水温はさほど低くないな。このぬめりが若干気になるが、まあ藻類にはミネラルやアミノ酸などの美肌成分が含まれているというし……よし、行くぞッ!」
大丈夫、俺ならやれる。
例えこの沼が『生首沼』と呼ばれていて、戦国時代討ち死にした武者たちのシャレコウベが大量に沈んでいて、近寄る者は残忍な魔王――当時の阿隈城城主――により沼底へ引きずり込まれる、なんて噂があるとしても……。
ゾクリ。
何やら不穏な気配を感じ、俺はそろりと振り向いた。しかしそこには、苔生し寂れ切った阿隈城の城壁がそそり立つばかり。念のため周囲を見渡してみるも、沼の周辺に人気は無く、鬱蒼と繁る雑木林の草木がそよ吹く風にさざめいている。
「な、何をビビってるんだ俺は。単なる沼じゃないか。陸水学上、沼とは水深五メートル以下の天然水域を指す……五メートルなら、オレの身長の二.八四倍か……」
俺は一旦片足を引き抜き、スニーカーをちゃぷちゃぷ言わせながら荷物置き場へ引き返した。念のため、細いロープを近くの木にくくりつけ、その先を命綱として腹に巻き付ける。
「忍を名乗る者とはいえ、未だ修行中の身。用心に越したことなし。では、今度こそッ」
覚悟を決めて両足を生温い水に浸し、口に竹筒を咥え、いざ実践訓練スタートざぶん!
……ぷくぷく。
……ぷくぷく。
……ぷくぷく。
修業とは得てして地味なものである。
俺はじっちゃんから託された秘伝書及び『着衣泳』のサイトで学んだ、浮き過ぎず沈み過ぎない、もっとも楽なポーズをとる。目標はこのままの体勢を一時間キープ。
目を閉じ、耳を澄ませ、周囲へと神経を尖らせる……ものの、しだいに緊張感は無くなっていく。じわじわと身体が冷え、頭の働きも鈍くなる。
まあ実際に諜報活動をしている訳でもなし、追手がいる訳でもなし。
訓練とは所詮こんなもの……と余裕をぶっこいた刹那。
(――ッ?)
忍び耳が、一つの気配をキャッチした。
数百メートル向こうで、ざくざくと砂利を踏みしだく足音。阿隈城の堀を越え、石垣を伝い、迷いない足取りで真っ直ぐこの沼へ向かってくる。
(……マズイ、見つかるッ!)
俺は腹にくくりつけた縄をすかさず解いた。そして速やかに沼の奥へ移動する。
慌てて沼から出るのは愚の骨頂。相手の歩行スピードから換算するに、全身アオミドロな姿で水際に上がった瞬間のご対面は確実。それならば、このまま隠れ続けた方が無難……いや、むしろ訓練としては最高の展開じゃないか。
若干の不安要素は、沼へと垂れる不自然なロープと、水面からポツンと飛び出た竹筒。しかしそれらが見つかったとして、さすがにこのご時世、誰かが水遁の術を練習しているとは思うまい……。
内心ドキドキしながら待つこと数分。
やってきた謎の人物は、何をするでもなくぼんやりと沼岸に佇んでいた。俺の緊張はマックスへ。竹筒はヒーフーと怪しい音を立てている。
しかしその人物には、俺(竹筒)の姿など映っていなかったようだ。
「はあああぁっ……」
という深い溜息が、生温い水面越しに聴こえた。なんだか聞き覚えのある声だ。
思い切って忍び眼を開くと、澱んだ水の向こうに小柄な少女らしきシルエットが視えた。やはり間違いない。
阿隈城の跡取り娘、阿隈真央。
俺の幼馴染であり、学校のクラスメイト。そして俺が忍として将来仕えることになる人物。
しかし真央が、なぜこの場所へ……。
「ごめんなさい、お父さん。勝手にこんなことするわたしを、どうか許してください……」
全身が、一気に粟立った。
真央は現在父親と二人暮らしをしている。その事実を踏まえて、今の台詞を解釈したなら。
(……まるで、遺言みたいじゃないか?)
最悪の想像に、心臓がドクドクと嫌な音を立てる。
俺にとって真央は『守るべき姫君』でありつつも、どこか掴みどころの無い存在だった。
素で小学生に間違えられるほど童顔な容姿は、たぶん磨けば光る程度には整っているはず。なのに常にもさっとしたお下げヘアで、レンズの厚い瓶底眼鏡をかけて、人目を避けるように暮らしている。
そして俺自身も、キッチリ避けられている。
だからここ数年、ほとんど会話らしい会話をしてこなかったのだが、よもや自殺を図るほどの悩みを抱えていたとは……。
いや最近では阿隈城を訪れる観光客も減っていて、家計は火の車という噂も……。
ネガティブな想像が頭の中をぐるぐる回る。
いつここを飛び出そうかと真剣にタイミングを計っていた、そのとき。
「ごめんなさい、うちにはもう、あなたたちにご飯を買ってあげる余裕がないの。ここで幸せに暮らしてね……さよなら、ピラ君、ニアちゃん!」
ボチャン、ボチャン。
……。
……。
――待て待て、今何つったよおい!
何か来る、ものっそい勢いでこっち泳いでくる! めっさ腹空かした感じで!
(うごぼぁあああああ――ッ!!)
気付けば俺は竹筒を放り出し、死に物狂いで岸を目指していた。しかし長時間の潜水で体力は既に限界、ばたつかせる腕も足も鉛のように重い。焦ってもがくほどに水面が遠くなっていく。
ああ、沈む……。
俺はここでピラニアの餌になり、シャレコウベの仲間になるのか……。
真央と小春(妹)の花嫁姿を見届けることなく終わるのか……。
「――亮たん、亮たん!」
遠くから真央の叫び声が聴こえる。中学に上がるまで俺を呼んでいた昔のあだ名で。
ったく、あいつ、あれだけ「亮太君と呼べ」って言ったのに……。
まあ、最後に聴けたのがそれってのも、悪くないか……。
そんなことを考えながら沼底へ沈んでいく俺の耳に、鬱陶しげな低い声が届いた。
『……何じゃ、煩いの』
と同時に、澱んだ沼の中が眩い光に包まれた。
(なんだ……身体が浮いてる……?)
風呂に沈めたアヒルの玩具が、一気に浮き上がるような感覚だった。重力という地球の意思へ逆らい、俺の身体は空中に飛び出す。
ザパァアンッ!
激しい水しぶき。待ち望んだ空気を吸い込み、代わりに泥水をマーライオンのごとく吐き出し続けた俺は、しばらくの間気付かなかった。
自分の身体が、ふわふわと宙に浮いていることを。
「亮たん! ……と、アナタは……?」
身長百四十七センチの真央が、随分と下の方から俺を見上げている……いや俺じゃなく、俺の背後にいる何者かに目を奪われている。
『ほぅ、余の姿が視えるとは。さてはお主、阿隈の娘か?』
背中越しに、怖気を誘う低い声が響いた。確かに沼底で聞いた声だ。しかし声の主を確かめたくとも、振り向くどころか身じろぎ一つ取れない。
俺はこの状況を、本能的に理解した。
きっと今の俺は半死半生の身。俺を生かすも殺すも、全てはこの人物のさじ加減ひとつなのだと。
「お願いです、亮たんを返して!」
いつもぽやんとした真央が、見たことも無い必死の形相で叫ぶ。背後の人物はククッと喉を鳴らして笑い、さも楽しげに語りかけた。
『それではひとつ問おう。正直に答えたならば、この男児を返してやらなくもない。さて……お主が落としたのは、この金の鎧兜か? 銀細工の刀か? それとも……まぬけにも余の住処で溺れた、この童貞男児か?』
いくらなんでも、その紹介は無い……ッ!
内心悶絶する俺を尻目に、真央が叫ぶ。
「違います、わたしが落としたのは、ピラ君とニアちゃんです!」
――この正直者めがッ!
心は激しく突っ込むというのに、唇からは泥臭い泡しか出て来ない。背後からはクツクツと不気味な笑い声が聴こえる。
セオリー通りならば、真央が取り戻すのはピラ君とニアちゃん。そして俺はこのまま沼のシャレコウベに仲間入り……かと思いきや。
「だけど、返して欲しいのは亮たんです! わたしの大事なひとなんです、お願いします!」
真央……。
なんだろ、今俺ちょっと感動してる……。
『よかろう。お主の望み、叶えてやらんでもない。無論、見返り無しでとは言わんがの』
そこまで言って、不思議な声の主は俺の身体を解放した。
乱暴に投げ出され草の上に転がった俺は、ゲホゲホと激しく咳き込む。慌てて駆け寄った真央に支えられてなんとか上半身を起こし、俺は初めて声の主を見た。
木漏れ日を受けて煌めくその姿は、例えるならば――戦場の天使。
漆黒の長髪を風に揺らめかせ、眩しげに眼を細める若武者。美しい金の鎧兜を纏い、腰には銀細工の刀。そして中性的なその面立ちは、天使のごとく美しかった。
神々しいその姿に、俺は言葉を失い、ただ茫然と見入るばかり。
しかし真央は冷静だった。泥まみれな俺の背中を擦りながら、気丈にもその若武者に問いかける。
「あの、もしやアナタは、三代目阿隈家当主、真様では……?」
すると若武者は、品定めするかような眼差しをふっと緩めた。切れ長の眼に好奇の輝きを浮かべ、薄い唇の端を微かに持ち上げる。
『ほぅ、余の名を知っておったか』
「もちろんです! あの『阿隈合戦図屏風』に描かれた、美しいお姿そのままですし……でもまさか、こうして直接お会いできるなんて」
真央は夢心地といった口調でそこまで告げ、突然ビクンと身体を震わせた。沼の上にふわふわ浮いていたはずの若武者が、いつの間にか俺たちの傍に降り立っていたからだ。
俺はその足に立派な臑当と、漆黒の鎖甲懸を発見し、「幽霊にも足はあるのかー」なんて呑気なことを考える。
その傍らでは真央が……なぜか若武者に迫られていた。
若武者は、手甲に覆われた指先を、真央のふっくらした頬へと伸ばす。真央がお尻歩きでじりじりと後退するも、その魔手からは逃れられない。触れられた瞬間、白い頬は一気にバラ色に染まる。
俺はゴシゴシと眼を擦った。真央のスタイルはいつも通り、トレードマークのもっさりお下げに瓶底眼鏡。着ている服は、AKUMAのロゴ入りTシャツ(たぶんキッズサイズ)に、くたびれた中学ジャージ。当然、色気など皆無だ。
なのに今の真央は、なぜか物凄く可憐な乙女に映る。
「あ、あの、真様……?」
『お主の名は何と申す?』
「真央です。真様の〝真〟に、中央の〝央〟で……」
『真央か。なるほど、慕わしく思うわけじゃな。余は戦地において〝真王〟と呼ばれておった』
若武者は不敵な笑みを浮かべながら、整い過ぎた顔を真央に近づける。唇を半開きにし、うっとりと見つめ返す真央。
……そろそろ俺、止めた方がいいんだろうか?
そう考えた矢先、若武者はふっと微笑んで、こう告げた。
『お主の身体ならば、扱いやすそうだ――』
アッ、と思ったときにはもう遅かった。
真と名乗ったその若武者の姿は影も形も無く、真央は気を失ってコテンと倒れてしまった。
……こうして真央は、ご先祖様に取り憑かれたのだった。