風花
花の夢を見た。
真っ白に透き通る様な、はかない花。
風が吹くと危なげに揺れ、
強く、甘い香りを漂わせる。
アトリエには油絵具の独特の匂いが充満している。
初めての人は、必ず顔をしかめる匂い。
絵を職とする私達にとっては、当たり前の匂い。
だから、
「夏峯さん、香水でも着けてるんですか?」
みたいな事を言われると、筆を取り落としてしまうのである。
私は助手の市松を睨みながら筆を拾った。
「市松君、こんなひどい匂いの香水は無いよ。」
「ふぇ?……でも夏峯さんから、もの凄く良い匂いしますよ。」
市松は首を捻っている。
君の鼻がおかしくなったんじゃないのか?と、私は手に鼻を近付けた。
強烈に甘い香り。
脳の芯まで酔わせる様な。
眩暈がして、足元がふらつく。
よろめきかけた所を、市松に支えられた。
「大丈夫ですか?」
「うん……本当に、凄い匂い。」
壁につかまり、ようやく一人で立つ。
「香水じゃないんですか?」
「あんな匂いの香水は持ってない。」
私は、先程まで描き進めていた自分の絵を眺めた。
真っ白な床の上に咲く、真っ白な花。
夢に出てきた美しい光景。
まさか――
「馬鹿馬鹿しい。」
私は仕事を切り上げ、家に帰る事にした。
お風呂に入ればこの匂いも消えるし、なにより昨日から寝ていない。
ゆっくり眠れば、また明日から絵が描ける……。
「あの」
唐突に、腕を引かれた。
思わず転びそうになる所を、ぎりぎりで耐える。
安堵の息を吐く間もなく、私は叫んだ
「なにすんのよ!?」
瞬間後悔した。
黒ずくめの男は、どの世界においても不幸を呼ぶものである。
男は、眉をひそめて言った。
「……不吉な匂いがするね。」
不吉の匂いって、何?
まさかこの匂いフェロモンじゃないだろうな。
黒ずくめフェロモン。違うか。
「服に香水ぶちまけちゃったんで」
男は構わずに言った。
「君は『風の花』を視たんだね。」
花。
そんな馬鹿な……。
言葉を失った私に、不幸を呼ぶ黒ずくめは冷たく言った。
「君は花に魅入られている。今のままだったら、君は死んでしまうよ。僕はそういうのを
扱ってる『棘』って者だ。ボランティアでよかったら力になるよ。」
何、そういうのって。
『風の花』は、普段は眼に見えない種子の状態で空を舞っている。
この種子が人間に寄生すると、
宿主の脳に入り込み、体中に根を張り、その人間を種子に変える。
状態で言えば、花の夢を視て、香りが体からするようになり、最後には消えてなくなって
しまう。
「……で、私は今なんか根が張られていると。」
「そう。」
「馬鹿馬鹿しい。」
私はベンチから立ち上がった。
「嘘吐くならもっと立派な嘘を吐きなさいな黒ずくめ。何処の真人間がそんな事信じる
の?」
「じゃあ他にどう説明つけるの。」
「……し、心霊現象。」
「あんまり変わらないけど。」
私が口籠もると、棘は何かを指差した。
近くにあった、小さな花屋。
沢山の花達が、所狭しと並べられている。
「あれが何だっていうの?」
私の言葉に、棘はため息を吐いた。
「君は、あれを見ても美しいと思えないだろ?」
綺麗な花を見ても、
晴れ渡る空を見ても、
『風の花』の姿がちらつく。
背筋が寒い。
「魅入られてる、って事……?」
棘は、頷いた。
「その『魅了』から解放される事が、『風の花』から解放される唯一の手段だ。
『花』よりも美しいと思えるものを、視る。」
棘は立ち上がった。
にっこりと、笑顔を浮かべる。
「僕が手伝えるのはここまでだ。
残念ながら、美意識は人によって様々だからね。
美しいと思うものは、同一では有りえない。」
棘は、コートを翻した。
「君が、見つけるものなんだ。」
建物は住居でなければ意味が無い。
夕暮れは太陽が沈むだけ。
夜景は只の電気の光。
森は木が集まったものでしかなく、
山に至っては尚更だ。
私は、ふらふらと街を歩いていた。
数日間、色々な物を視た。
歴史ある建築物、景色の穴場、有名なホテルの最上階。
でも、『風の花』よりも美しい物なんて無かった。
透けるような白。
花弁の美しいライン。
はかなげな花の動き。
世界は、あんな変な花に負けてしまう程醜かったのだろうか。
この世界に住む私ごときの心も魅せられ無い程に。
――こんなに醜い世界に生きるなら、死んだほうがマシなんだろうか。
――死んで、より多くの人々に『風の花』を見せて。
――世界の醜さを、気付かせる方が。
気が付くと、アトリエの前に来ていた。
――最後に、絵の整理でもしよう。
私はドアを開けた。
描きかけの『風の花』の絵が立て掛けてある。
その横に、見覚えの無い絵が飾られていた。
私の物ではない、力強いタッチの風景画。
「市松君……?」
「ふぁい」
気の抜けた声が聞こえた。
足の下から。
「市松君……、何で君は此処で寝てるんだい?」
ゆっくりと足をどけると、市松は眠たそうに目をこすった。
「夏峯さんが中々来なかったからですよー……。徹夜で一枚描いちゃいました。」
嬉しそうな、笑顔。
私は、目を逸らした。
何かを美しいと感じなければ、絵など描けない。
私は……。
「市松君……私は君にはもう、絵を教えられなく」
「それは駄目ですよ。」
速答。
市松は、満足そうに笑った。
「俺は、夏峯さんに弟子入り出来て本当に良かったと思います。
貴女の絵に出会うまでは、俺は世界を嫌ってたから。」
世界は美しくなんかない。
むしろ、醜い。
この世界に住む者であれば、
誰もが知っている事。
「でも、夏峯さんの切り取る世界は、とても綺麗なんだ。」
世界は、貴女の視る世界は、美しい。
「俺も視たいんです。貴女が視ている世界を……」
そのまま、規則正しい寝息をたて始めた市松の頭を、私は抱き締めた。
目の前が、ぼやけている。
涙が流れていた。
世界は、美しい。
「ありがとう……」