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追放された宮廷花師が辺境の荒野に花を咲かせたら、王都の庭園だけが枯れ続けているようです

作者: 歩人
掲載日:2026/03/12

 その朝、王城の大庭園から色が消えた。


 わたしが知ったのは、ずいぶん後になってからのことだ。百年もの間、四季を問わず咲き誇り、『花の王都』の象徴とまで謳われたあの庭が——たった一夜で、灰色の茎だけになったのだと。

 宮廷の庭師たちが懸命に水を撒いたらしい。肥料を入れ替え、土を掘り返し、新しい苗を植えたとも聞いた。

 けれど花は応えなかった。

 王妃陛下が灰色の庭園を窓から眺めて、こう呟いたそうだ。


「……あの子が、泣いている」


 花ではなく——花を愛した、ひとりの少女のことを思って。


 でも、ごめんなさい。わたしはもう泣いていません。

 だって今、わたしの目の前には——風に揺れる一面の花畑があるのだから。


 これは、追放された宮廷花師の、小さな花の物語。



 一ヶ月と少し前のことを、思い出す。——辺境に来て三ヶ月が経った今、あの日のことを。


 宮廷の大広間。冷たい石の床に跪くわたしの前で、オスカー王弟殿下は退屈そうに言い放った。


「婚約は破棄する。花を飾るだけの令嬢は不要だ」


 殿下の隣には、見知らぬ令嬢が腕を絡ませていた。新しい寵姫——名前すら知らない。殿下の移り気は今に始まったことではないから、驚きはなかった。

 ただ、次の言葉だけは。


「庭園の予算は軍に回す。花師の職も廃止だ。不要な出費を削るのは当然だろう」


 ——庭園の、予算を。


 息が詰まった。

 あの庭を守って十年。毎朝日が昇る前に起きて、花の声を聴いた。どの子が水を欲しがっているか、どの子が日陰を好むか。千を超える花たちの、一つひとつを。

 そして——隣国への花束。白薔薇しろばらを束ねるとき、わたしはいつも友好の祈りを込めた。わたしの加護を通して、受け取った人には「温かさ」が伝わる。言葉よりも確かな、花言葉の外交。十年間、ブリューテン王国と隣国の同盟が揺らがなかったのは、あの花束があったからだ。

 けれど殿下は、そのことを知らない。花言葉が貴族の必修教養であることくらい、ご存じのはずだ。けれど殿下にとって花束はただの「飾り」——花言葉など女子供の遊び、くらいにしか思っていない。花が言葉を持つことも、花に心があることも。


「何か言うことは」


 殿下が尋ねた。眉ひとつ動かさず、まるで書類の決裁でもするように。

 わたしは立ち上がった。膝が少し震えていたけれど、声は——不思議と落ち着いていた。


「……一つだけ、よろしいですか」


 殿下が顎をしゃくる。


「庭園の花に、お別れをさせてください」


 許可が下りたのは、花に興味がないからだろう。わたしにではなく、新しい令嬢に笑いかけながら、殿下は手を振った。

 花は殿下の目には映らない。十年前も、今も、これからも。




 大庭園は、いつもと変わらず美しかった。


 正門を抜けると、両脇に白薔薇の並木道。その奥に色とりどりのダリア、アネモネ、クロッカス。噴水の周りにはラベンダーが紫の絨毯を敷き詰めて、甘い香りが風に乗る。

 わたしには、その全てが——光って見えていた。


 金色こんじきの光。


 花たちの感情が、色のオーラとなって瞳に映る。わたしだけに与えられた加護——『花のはなのこえ』。

 金色は幸せ。花たちは今、満ち足りていた。水も日差しも十分で、毎日わたしが話しかけている。だから、金色に輝いている。


 わたしは膝をついて、一番近くの白薔薇に触れた。


「……ごめんね」


 花弁がそっとわたしの指に寄り添う。


「もう、お世話できなくなるの」


 金色のオーラが、揺らいだ。

 じわりと——青に変わっていく。

 寂しい。花が泣いている。

 その青い光が、白薔薇から隣のダリアへ、ダリアからアネモネへ、アネモネからラベンダーへ。波紋のように広がって、庭園全体が青い光に包まれた。


 千の花が、一斉に泣いていた。


 涙がこぼれそうになった。でも——泣いたら、花たちがもっと悲しむ。

 わたしは微笑んだ。精一杯の微笑みで、花たちに語りかけた。


「大丈夫。あなたたちは強い子だから。わたしがいなくても、きっと——」


 ……きっと、大丈夫。

 そう言いたかった。でも声にならなかった。花は正直だから。嘘をつけば、花には伝わってしまう。

 わたしがいなくなったら、この庭は——。


 首を振った。考えても仕方のないことだった。


 わたしは最後に、庭園の中央に咲いていた一本の白薔薇を手折った。

 ずっと大切に育ててきた、外交の象徴。

 その花弁に唇を寄せて、囁く。


「ありがとう。十年間、ずっと」


 白薔薇のオーラが——青から、白に変わった。

 白は、感謝。

 花がわたしに、ありがとうと言っている。


 王城を出るとき、振り返らなかった。

 振り返ったら、きっと歩けなくなるから。




 辺境領ヴィントフェルト。


 馬車から降りたわたしを迎えたのは、見渡す限りの荒野だった。


 灰色の岩と、乾いた土。風が容赦なく吹きつけて、髪に絡まっていた花弁が攫われていく。北の辺境——「花の王都」からはるか遠い、花のない大地。

 追放先として指定された場所。二度と王都の土を踏むなという、殿下からの最後の命令。


 見渡す限りの灰色の中に、花の気配はひとつもない。加護が何も感じ取れない。まるで世界から色だけが抜け落ちたような——そんな場所だった。


「……フローラ・ブルーメンタールか」


 低い声がした。

 振り向くと、大きな男が立っていた。傷だらけの手。武骨な体格。軍人上がりだと一目で分かる。表情は岩のように硬いが——目だけが、どこか優しかった。


「ギルバート・ヴィントフェルト。ここの領主だ」


「フローラです。……お世話になります」


 頭を下げると、ギルバート様は不思議そうにわたしを見た。


「宮廷花師だったんだろう。こんな荒れ地に何をしに来た」


「花を咲かせに」


「は?」


 ギルバート様は、明らかに呆れた顔をした。


「花なんか咲くわけない。この土地は死んでる。風は強いし、土は乾いてるし、岩だらけだ。十年住んでるが、草一本まともに生えたことがない」


 わたしは荒野の端に歩いていって、膝をつき、土に手を触れた。

 冷たい。乾いている。でも——死んではいない。


 目を閉じると、かすかに感じる。土の奥深くに眠っている、小さな小さな生命の気配。花の声は聴こえないけれど——土の声なら、少しだけ。

 この土は、花を待っている。ずっと長い間、誰かが種を蒔いてくれるのを待っていた。


「……ここに、花を咲かせましょう」


「聞いてたか? 無理だと——」


「大丈夫です」


 わたしは振り返って、微笑んだ。


「花は、愛してあげれば咲きます。どんな場所でも」


 ギルバート様は腕を組んで、鼻で笑った。

 でも——止めはしなかった。




 翌日から、わたしの新しい暮らしが始まった。


 まず、土を調べた。指で掘り返し、匂いを嗅ぎ、舌の先でほんの少し味をみる。王都の庭師時代に覚えた、土の読み方。

 アルカリに傾いているけれど、それほど悪くない。水さえあれば——いいえ、風よけさえ作れば、花は育つ。


 ギルバート様の屋敷の裏手に、風を遮る石壁があった。ここなら直接風が当たらない。日当たりも悪くない。

 わたしは鞄から取り出した種を、一つひとつ丁寧に土に埋めた。王都を出るとき、庭園から密かに持ち出した種たち。白薔薇、ラベンダー、勿忘草わすれなぐさ、ヒナギク。わたしの大切な友達。


「お願いね。新しいお家だけど、ここで元気に育ってね」


 種に話しかけながら、加護の力をそっと注ぐ。花を枯らすことはできないけれど、生命力を分け与えることはできる。荒れた土地でも、わたしの愛があれば——きっと。


 水は井戸から汲んだ。何度も何度も往復して、小さな花壇に水を撒く。腕が痛くなっても、足がふらついても、手を止めなかった。

 日が暮れるまで。

 夕焼けが荒野を赤く染めて、ようやく柄杓ひしゃくを置いた。掌に豆ができていた。宮廷では手袋をしていたから、こんなことは初めてだ。


 屋敷に戻ると、ギルバート様がぶっきらぼうに夕食を出してくれた。硬いパンと、豆のスープ。王都の食事とは雲泥の差だけれど、一日中土をいじった体には沁みた。


「……何も出ないぞ」


「はい?」


「芽なんか出ない。期待するだけ無駄だ」


「そうでしょうか」


 わたしは微笑んだ。


「花は、信じてくれる人のところに咲きますから」


 ギルバート様は何か言いかけて、口を閉じた。そして黙ってスープのおかわりをよそってくれた。

 不器用な優しさだと思った。言葉にはしないけれど、行動で示す人。花に少し似ている。




 七日目の朝。


 目が覚めて、いつものように花壇へ向かう。まだ暗い。東の空がうっすら白んでいるだけ。

 石壁の陰の花壇に辿り着いて——息を飲んだ。


 小さな緑。


 乾いた灰色の土の隙間から、ほんの数ミリ、緑色の芽が顔を出していた。

 わたしは膝をついて、目を凝らす。加護が反応する。かすかな、本当にかすかな——金色の光。


 芽が、幸せだと言っている。


「……おはよう」


 涙が出た。今度は我慢しなかった。嬉しくて、嬉しくて——指先で芽に触れると、金色の光がほんの少し強くなった。


「おはよう。ようこそ、ヴィントフェルトへ」


 小さな緑は、わたしに向かって背を伸ばすようにゆっくりと揺れた。朝の光を浴びて、金色のオーラがきらきらと瞬く。

 こんな小さな芽なのに——こんなにも力強い。荒野の土を押し上げて、世界に顔を出した。それだけで、どれほどの勇気がいったことだろう。


「……出てる」


 背後から、低い声。振り向くと、ギルバート様が立っていた。朝の見回りの途中なのだろう。剣を腰に佩いたまま、小さな芽を凝視している。

 硬い表情は変わらない。けれどその目が——少し、見開かれていた。


「はい。出ましたね」


 わたしが笑うと、ギルバート様はしばらく黙った。芽と、わたしの顔を交互に見て。


「……水、持ってきてやる」


 そう言って、踵を返した。

 すぐに大きな桶を抱えて戻ってきたギルバート様は、花壇の端にそれを置いて、ぼそりと言った。


「井戸からここまで遠いだろう。毎朝ここに置いておく」


「ギルバート様——」


「……仕事のついでだ」


 耳の先が、ほんの少し赤かった。

 わたしは桶の水を柄杓に汲んで、芽にそっとかけた。金色の光が、ふわりと広がる。


「ありがとうございます。この子も喜んでいます」


「子って……芽だろ」


「わたしにとっては、子供みたいなものです」


 ギルバート様は理解できないという顔をしたけれど——翌朝も、桶は花壇の端に置かれていた。

 その翌日も。

 毎朝欠かさず。




 二週目。芽は順調に育って、小さな葉をつけた。


 わたしは毎日、花壇を少しずつ広げていった。石壁の陰から始まって、日当たりのいい南側へ。風よけの柵をギルバート様が作ってくれた。「余った木材があった」と、ぶっきらぼうに言いながら。

 余った木材にしては、やけに綺麗に削られていたけれど——黙っておいた。


 花の声を聴きながら、一つひとつ世話をする。


「この子は日当たりが好きね。もう少し南に移しましょう」


 ラベンダーの苗をそっと植え替える。かすかな金色のオーラが、ぱっと明るくなった。


「この子は風が苦手。柵の内側がいいわ」


 勿忘草の芽を風よけの近くに移す。青みがかっていたオーラが、安心したように薄い金色に変わった。

 花と話しながら、花壇を歩く。しゃがんで、立って、また膝をつく。その繰り返しが——不思議と、幸せだった。王城の大庭園を管理していた頃とは違う。あの頃は千の花を一人で世話する責任の重さに、時々押しつぶされそうになったけれど。

 今はただ、目の前の小さな命と向き合っている。それだけでいい。


 三週目に入ると、白薔薇の蕾が膨らみ始めた。

 わたしが花壇に向かって話しかけていると、小さな足音が聞こえた。


「おねえちゃん、何してるの?」


 領民の子供だった。五歳くらいの女の子が、大きな瞳でわたしを見上げている。


「お花の、お世話をしているの」


「おはな? あの緑の?」


「もうすぐ咲くのよ。ほら、ここ——蕾がついているでしょう?」


 女の子の目がまん丸になった。この辺境で花を見たことがないのだろう。灰色の大地しか知らない子供にとって、緑は——奇跡に等しい。


「きれい……!」


 女の子が蕾にそっと触れた。その瞬間、白薔薇のオーラがきらりと輝いた。白——感謝の色。花も、触れてもらえて嬉しいのだ。


「ねえねえ、あたしもおみずやっていい?」


「もちろん。やさしく、ね」


 小さな手に柄杓を持たせてあげると、女の子は真剣な顔で水をかけた。水が少し多すぎたけれど、花壇の花たちは金色に揺れている。大丈夫、嬉しいってよ。

 その日から、この子は毎日花壇に来るようになった。友達を連れて。子供たちの笑い声が花壇に響くと、花のオーラがひときわ明るく輝く。花は人の声が好きなのだ。


 四週目。

 ギルバート様が花壇の前にしゃがみ込んでいるのを見かけた。


「ギルバート様?」


「……やり方、これで合ってるか」


 見ると——大きな傷だらけの手で、不器用に水をやっていた。柄杓を持つ手が緊張でこわばっている。花壇の兵士に号令をかけるような顔で、慎重に水をかけている。

 戦場で剣を振るっていたその手が、今は花に水を注いでいる。なんだか、胸の奥がきゅっとなった。


「上手ですよ」


 わたしは横に座って、微笑んだ。


「花が喜んでいます」


 花壇のオーラが金色に光っている。嘘ではない。花は本当に喜んでいた。

 ——いいえ、それだけではない。ギルバート様が水をやるたびに、花たちのオーラがいっそう深い金色に揺れた。この人の手には、温もりがある——花がそう教えてくれた。人の頭上にオーラは見えないけれど、花を通じてなら感じ取れる。ぶっきらぼうな言葉の奥にある、不器用な優しさを。

 ギルバート様は不器用に頷いて、また水をやった。さっきより少し、手つきが柔らかくなった気がした。




 一ヶ月が経つ頃には、花壇は小さな花畑と呼べるものになっていた。


 白薔薇が最初に咲いた。まだ王都の庭園ほど大輪ではないけれど——荒野に咲く一輪の白薔薇は、それだけで奇跡だった。

 朝日を浴びて輝く白い花弁。その周りに、金色のオーラが大きく広がっている。幸せだよ、とこの子は言っている。ここに咲けて幸せだよ、と。

 次にラベンダー。紫の小さな花が風に揺れて、甘い香りが辺境の空気を変えた。


 ギルバート様の屋敷に、花の香りが届くようになった。

 窓を開けると、ラベンダーの香り。ある朝、ギルバート様が窓辺に立って、目を閉じて風の匂いを嗅いでいるのを見かけた。硬い軍人の表情に、ほんの少しの柔らかさが加わった——ような気がする。

 声をかけたら、慌てて窓を閉めてしまったけれど。


 二ヶ月。花畑は屋敷の裏手から丘の斜面へと広がっていった。


 ある朝、領民の女性が幼い息子を抱いて訪ねてきた。子供が風邪を引いたのだという。辺境には薬師がいない。

 わたしはラベンダーとカモミールを摘んで、花に話しかけながら薬草茶を淹れた。花の加護をそっと注ぐ——治す力はないけれど、花が持つ癒しを分けてあげることはできる。

 温かい茶を飲んだ子供は、翌日には元気に花壇を走り回っていた。母親が泣きながら「ありがとうございます」と頭を下げてくれた。

 その日から、花壇を訪ねる領民が増えた。切り花を欲しいという人もいれば、ただ花畑の中を歩きたいという人もいた。辺境の人たちは花に慣れていない。けれど花の前では誰もが——少しだけ、柔らかい顔になった。

 ギルバート様はいつの間にか、花壇の柵を新しく作り直してくれていた。訪れる人が増えたから、踏み荒らされないように。何も言わずに——朝起きたら柵が新しくなっていた。不器用な人の、不器用な気遣い。


 わたしは毎日、花と話をした。

 朝起きて、「おはよう」と声をかける。水をやりながら、「今日はいい天気ね」と囁く。枯れかけの花があれば、「大丈夫、わたしがいるから」と加護の力を注ぐ。蕾を見つければ、「もうすぐだね、楽しみにしてるよ」と励ます。

 花のオーラはいつも金色だった。幸せの金色。


 時々、青くなる子がいる。寂しがり屋の勿忘草わすれなぐさは、わたしがそばにいないと青くなってしまう。


「ごめんね、ちょっと遠くの花壇に行ってただけよ」


 触れると、青が金に戻る。寂しかったの、と小さな花が言っている。


「ふふ、甘えん坊さん」


 風の強い日は心配で、何度も花壇を見に行った。柵が倒れていないか、花が折れていないか。辺境の風は容赦がない。けれど白薔薇の垣根が風を受け止めてくれるようになってからは、内側の花たちは守られるようになった。

 花が花を守る。まるで家族のように。


 こうして——荒野は少しずつ、色を取り戻していった。

 灰色だった景色に、緑が点々と広がる。小さな点が線になり、線が面になっていく。毎日少しずつ。急がなくていい。花には花の時間がある。




 三ヶ月目。


 花畑は丘を覆い尽くしていた。白薔薇の垣根が風よけになり、その内側にラベンダーの紫、ヒナギクの白、勿忘草の青。色とりどりの花が辺境の丘を彩って、遠くからでもそれと分かるほどの景色になった。


 旅人が立ち止まるようになった。


「これは……花畑か? こんな辺境に?」


 噂が広がるのは早かった。「北の荒野に花が咲いている」「辺境に花師の令嬢が来てから、あの土地が変わった」——いつしか人々は、この場所を『花の辺境はなのへんきょう』と呼ぶようになった。


 花を買いたいという商人も現れた。辺境の花は珍しく、王都では高値がつくらしい。ギルバート様が交易の話をまとめてくれた。


「花が……金になるとは、思わなかった」


 ギルバート様が、少し驚いたような顔で言った。


「花には力があります。人を笑顔にする力が」


「……そうかもな」


 あの日——「花なんか咲くわけない」と鼻で笑い、腕を組んでわたしを見下ろしていた人が。

 今は花に水をやり、花壇の柵を直し、花を守る風よけを作ってくれる。毎朝の桶は一度も欠かしたことがない。花の名前を覚え、蕾に目を細め、風の強い日には誰よりも早く花壇を見に来る。

 変わった。この人は、確かに変わった。花が変えたのだ——いいえ、この人の中にもともとあった優しさを、花が引き出したのだ。


 ある夕暮れ。花畑の見回りを終えて戻ろうとしたとき、ギルバート様が花壇の前にしゃがみ込んでいた。


 勿忘草の前で。


 大きな手で、そっと花弁に触れている。兵士の手が、赤子を扱うように。その仕草があまりにも真剣で——わたしは思わず足を止めた。


「……名前、教えてくれ。あの青い花の」


 わたしに気づいて、ギルバート様は慌てて手を引いた。


勿忘草わすれなぐさです」


「わすれなぐさ」


 ギルバート様が、花の名前を繰り返した。初めて聞く言葉を、大切にするように。唇が小さく動いて、もう一度「わすれなぐさ」と呟いている。


「花言葉は——」


 わたしは少し迷って、でも正直に言った。花は正直だから、わたしも正直でいたい。


「『私を忘れないで』」


 ギルバート様の耳が、夕日よりも赤くなった。

 そっぽを向いて、立ち上がって、大股で屋敷に戻っていく。


「ぎ、ギルバート様?」


「……なんでもない」


 ぶっきらぼうな背中が、いつもより少し早足だった。


 わたしは勿忘草を見下ろした。小さな青い花が、風に揺れている。

 オーラは——金色。幸せの金色。


「あなたも、嬉しいの?」


 花は答えない。けれど、金色の光が少しだけ強くなった気がした。




 そんな穏やかな日々が続くと思っていた。


 けれど——王都が、わたしを放っておいてはくれなかった。


 花の辺境の噂は、王都にも届いていたらしい。そして同時に——王城の大庭園が枯れたまま戻らないこと。隣国への外交花束が用意できず、十年続いた同盟の更新交渉が暗礁に乗り上げていること。

 どれほどの庭師を集めても、あの庭園に花は咲かなかった。水を撒いても、肥料を変えても、新しい苗を植えても。花は——愛されていなければ、根づかない。


 それらが一つの線で繋がったとき、王弟オスカー殿下は辺境へ馬を走らせた。




 その日は、風の穏やかな午後だった。


 わたしは花畑の真ん中で、花冠を編んでいた。ヒナギクと勿忘草を交互に編み込んで、領民の子供たちにあげる約束をしていた。

 花たちのオーラは金色。風は優しく、日差しは温かい。完璧な午後——のはずだった。


 馬蹄の音が聞こえた。

 顔を上げると——王家の紋章が入った馬車が、砂埃を上げて近づいてくる。


 花畑のオーラが、一瞬で変わった。

 金色が——赤に。

 花たちが怒っている。いや、警告している。危険が来る、と。


 馬車が止まり、扉が開いた。


「——は?」


 オスカー殿下が、花畑を見て固まっていた。

 荒野だったはずの辺境に広がる、一面の花。白薔薇、ラベンダー、ヒナギク、勿忘草。王都の大庭園にも匹敵する——いや、オーラの輝きはそれ以上の花畑。


「お前……こんな力が、あったのか」


「お久しぶりです、殿下」


 わたしは立ち上がり、静かに頭を下げた。


「こんな辺境に花畑を——いや、そんなことはどうでもいい」


 殿下が一歩、わたしに近づく。花畑を踏みしめて。足元のラベンダーがぐしゃりと潰れた。赤いオーラが、怒りのように燃え上がる。


「戻ってこい、フローラ。庭園を元に戻せ」


 命令口調。花に興味がないのに、花の価値を失って初めて——花師を求める。

 あの頃と、何も変わっていない。


「庭園が枯れたのは、お前が手入れをしなかったからだろう。隣国は花束がないことに苛立っている。同盟が危ういのだ。早く戻って——」


「殿下」


 わたしは静かに、けれどはっきりと遮った。


「枯れた花を叱る人は、いつも水をやり忘れた人です」


 殿下の眉が跳ね上がった。


「何だと?」


「花は十年間、殿下のお庭で咲いていました。毎日水をやり、声をかけ、愛情を注いで——わたしがそうしていたから、咲いていたのです」


 風が吹いた。花畑が揺れる。赤いオーラが波のようにうねっている。


「花は正直です。愛されなければ、枯れるだけ」


 殿下の顔が歪んだ。怒り——ではない。もっと深い、焦りに似た何か。


「ふざけるな。お前は宮廷花師だ。命令だ、戻れ」


「わたしはもう宮廷花師ではありません。殿下が解任なさったのですから」


「ならば改めて任命する。婚約も——」


「お断りします」


 わたしは——一歩も退かなかった。


 足元に咲いていた黒いいばらに手を伸ばす。

 外交においては宣戦布告——使用禁忌とされる花。宮廷花師なら誰でも知っている。わたしも十年間、決してこの花には触れなかった。

 けれど、わたしはもう宮廷花師ではない。

 これは国と国の話ではなく——わたし個人の言葉だ。花師として持ちうる最も強い決別の意志を、この一輪に込める。

 棘が指に刺さって、小さな血の珠が浮かんだ。けれど構わない。

 一輪の黒い茨を手折って、殿下に差し出す。


「この花を、殿下に差し上げます」


「茨……? 花ではないだろう、こんなもの」


「花言葉があります」


 殿下が受け取った——その瞬間。


 わたしの加護が、花言葉に込められた感情を殿下に伝えた。

 決別——もう二度と、戻ることはない。あなたとの縁は、ここで終わる。


 殿下の顔色が変わった。胸を押さえて、よろめく。


「なんだ、この——冷たい……」


「花の言葉です。わたしの言葉ではなく、花の。花は嘘をつきません」


 殿下が茨を握りしめた。棘が掌を刺す。赤い血が滴って——黒い茨は、一本の棘だけを残して、殿下の手の中で崩れた。


「お——お前!」


「さようなら、殿下」


 わたしは振り返らなかった。

 花畑を歩いて、奥へ。花たちの間へ。

 赤かったオーラが——白に変わっていく。感謝の白。花たちが、わたしの選択を祝福してくれている。


 背後で殿下が何か叫んでいた。けれどその声は、花畑を渡る風にかき消されて、もう聞こえなかった。




 殿下が帰った後、ギルバート様が花畑にやってきた。


「……大丈夫か」


「はい。大丈夫です」


 嘘ではなかった。足は少し震えていたけれど——心は、凪いでいた。

 殿下に踏まれたラベンダーに加護の力を注ぐ。折れた茎がゆっくりと持ち直していく。大丈夫、まだ生きている。


「あの男、何を言ってた」


「戻れ、と」


「で?」


「お断りしました」


 ギルバート様が——笑った。口の端がほんの少し上がっただけの、分かりにくい笑みだけれど。わたしにはもう分かる。この人の笑顔は、いつもとても小さい。


「そうか」


 たった三文字。けれどその声は、温かかった。




 数日後の昼下がり。


 花畑の丘の上で、わたしは花冠を編んでいた。先日の騒ぎで中断してしまったものの続き。ヒナギクと勿忘草の花冠。


 背後に気配を感じた。


 振り向くと——ギルバート様が立っていた。いつもの武骨な佇まい。けれど今日は少し違う。右手が背中に隠されていて、表情がどこか——落ち着かない。

 落ち着かない、というか。見たことがないくらい、緊張している。


「……ギルバート様?」


「その……」


 ギルバート様が、背中に隠していた右手を前に出した。

 握られていたのは——一輪のヒナギク。少し茎が曲がっていて、花弁が一枚欠けている。不器用に摘んだのだろう。大きな手で、潰さないように、けれど落とさないように、そっと握っている。


「……花を、贈りたいんだが」


「まあ」


 わたしは目を丸くした。


「どなたに?」


 ギルバート様の耳が真っ赤になった。口が何度か開閉して、ようやく絞り出すように。


「……お前に」


 心臓が跳ねた。


「ど——どんな花がいいか分からなかった。だから、その——花言葉で、『ずっとここにいてほしい』って意味の花を、選びたかったんだが……」


 ギルバート様は困ったように眉を寄せた。


「……結局、どれがそうなのか分からなくて。一番近くに咲いてた花を摘んだ」


 わたしは、ギルバート様が差し出したヒナギクを見つめた。

 少し不恰好で、茎が曲がっていて、花弁が一枚足りない。

 けれどオーラは——金色。こんなに明るい金色は、見たことがない。王都の大庭園の千の花が束になっても、この一輪には敵わない。


 花が、幸せだと叫んでいる。


 涙がこぼれた。

 悲しいのではない。寂しいのでもない。嬉しくて——嬉しくて——。


「ヒナギクです」


「は?」


「その花の名前。ヒナギクです」


 わたしはギルバート様の手から、そっとヒナギクを受け取った。

 指先が触れた。大きな、傷だらけの、温かい手。


「花言葉は——」


 涙で声が震えた。でも、ちゃんと伝えたかった。


「『あなたと同じ気持ちです』」


 ギルバート様が、石のように固まった。耳どころか、首まで赤い。


「……偶然だ」


「偶然ですか」


「たまたまだ。近くに咲いてたから——」


「ギルバート様」


 わたしは涙を拭いて、笑った。多分、この辺境に来てから一番の笑顔で。


「花は正直です」


 その言葉に、ギルバート様は——何も返せなかった。

 ただ赤い顔で、そっぽを向いて。


「……うるさい」


 小さな声で、そう言った。

 それきり、二人とも黙った。花畑を渡る風の音だけが、しばらくの間、わたしたちの間を満たしていた。


 その瞬間——花畑の全ての花が、一斉に金色に輝いた。


 丘を覆い尽くす花たちが、まるで祝福するように。白薔薇も、ラベンダーも、勿忘草も、ヒナギクも。一面の金色が、辺境の空を照らしていた。

 わたしにしか見えない光。けれど、ギルバート様にも——花畑がいつもより輝いて見えたのではないかと思う。


「……何だこれは」


「花が喜んでいるんです」


「なんで」


「さあ。なんででしょうね」


 わたしはヒナギクを髪に挿した。一枚花弁が足りない、不恰好な小さい花。

 王都のどんな宝石より——綺麗だった。




 後日。


 辺境の花畑から、隣国へ新しい花束が届けられた。白薔薇の花束——友好と同盟の願いを込めて。わたしの加護が乗った花束を受け取った隣国の王は、温かい笑顔で同盟の更新に応じたという。


 外交は、王都ではなく——辺境から、再び動き始めた。

 花の辺境の名は、隣国にまで知れ渡ることになる。


 そして王都の大庭園は——二度と、元には戻らなかった。


 枯れた花を叱る人の庭に、花はもう咲かない。

 花は正直だから。

 お読みいただきありがとうございます。歩人ホビットです。


 この作品は「スローライフ重視のざまぁ」という構造で書きました。追放も断罪も大切ですが、一番書きたかったのは辺境で花畑を育てるフローラの日常です。荒野の土に種を蒔いて、水をやって、芽が出るのを待つ。その繰り返しの中に、確かな幸せがある——そんなお話にしたかったのです。


 もう一つの見どころは、ギルバートの変化です。「花なんか咲くわけない」と鼻で笑った男が、花に水をやるようになり、花の名前を聞くようになり、最後には花を贈ろうとする。しかも花言葉が分からないまま摘んだヒナギクが、偶然にも「あなたと同じ気持ちです」だった——花は正直、ということですね。不器用な人の不器用な愛情が、一番花に伝わるのかもしれません。


 花言葉は物語の言語として使いました。白薔薇の友好、黒い茨の決別、勿忘草の「私を忘れないで」、ヒナギクの「あなたと同じ気持ちです」。声に出さなくても、花が全てを語ってくれる。フローラにとって花は言葉であり、友であり、家族なのです。


 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズは一話完結の短編集です。

 他の作品もぜひお楽しみください。


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― 新着の感想 ―
スノードロップでも送ってやればいい。希望、慰めが花言葉だ、さぞ嬉しかろうよ
庭師と花師の関係性はどうなっているんだろう。 庭師で長年下積みをしてから花師になるんだろうか。 それなら複数の庭師の中には花師一歩手前の庭師がいる事になるけど、なぜ花を生やすことが出来ないんだろうか。…
『草一本まともに生えたことがない』地に暮らすニンゲンが、何を食べて生きているのか、とても気になります…… それとも、フローラが種を植えた荒野の他に耕作ができる土地があったのでしょうか?
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