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偽聖女の黙劇(モノローグ)〜滅びの国を救うため、私は笑って裏切ります

第1話 祈らぬ聖女


 滅びの国〈エストリア〉の空は、いつも灰色をしていた。

 聖都リヴィアの神殿に差しこむ陽光さえ、まるで煤をかぶった硝子を通したように鈍く、どんな祈りもそこには届かないように見えた。


 リシェル=ルヴァンは、祭壇の前でひざまずいていた。

 背中に垂れる金糸の髪は、聖油で固められ、光を拒むように静かに揺れている。

 彼女の前には大理石の神像。だが、彼女はもう長く、その像に祈りを捧げてはいなかった。


 「……神は、私たちを見放したのですね」


 囁いた声は、蝋燭の火のように小さく震えていた。


 神官長セリウスが、重い足音を響かせて近づく。

 「リシェル、民はまだあなたの祈りを信じている。神の声を……」


 「聞こえません。何度呼んでも、もう何も答えてはくださらないんです」


 その言葉は、神官長の胸に鋭い針のように刺さった。

 神の声を聞く者――それが“聖女”の定義であった。

 だが彼女は、半年以上も沈黙を続けている。


 戦争が始まって三年。

 飢えと疫病が国を覆い、聖なる水は枯れ、神殿は焼け落ちた村人たちの避難所になっていた。

 リシェルのもとに届くのは、祈りではなく嘆きばかり。


 「このままでは国が滅びます」

 「神は何をしておられるのです」

 「聖女様、どうか奇跡を!」


 彼女は答えられなかった。

 夜ごとに神像の前で膝を折り、声が枯れるまで祈った。

 だが、返ってくるのは無音。

 神の沈黙だけが、彼女の祈りを覆っていた。


 その夜、リシェルは自室の窓辺に立ち、外を見つめていた。

 空には赤い閃光。遠くの戦場で火薬が炸裂する音が、夜風にまぎれて届く。


 「……もう、誰も助けてくれないのですね」


 唇をかすかに噛み、彼女は静かに決意する。

 翌朝、会議の場で、神官たちを前に告げた。


 「わたしを敵国へ送りなさい」


 その瞬間、石造りの広間に冷たい衝撃が走った。

 「何を――言っているのですか!」

 老神官たちは顔を蒼白にし、椅子がきしむ音が重なった。

 「敵国グラナードに向かうなど自殺行為です! あなたはこの国の象徴なのですよ!」


 しかし、リシェルの瞳は澄んでいた。

 恐れも迷いもない、凍てついた光。


 「和平の道を探ります。戦を止めることができるのなら、聖女の名などどうでもいい」


 「だが、あなたが捕らえられれば、神の信仰そのものが――」


 「……構いません。私が悪女と呼ばれても、この国が救われるなら」


 言葉のひとつひとつが、刀のように鋭く響いた。

 沈黙。

 やがて、神官長セリウスが目を伏せたまま言う。


 「あなたが本気で言っているのなら……止める資格は、私にはないのかもしれません」


 その晩、彼女の傍らには、ひとりの青年がいた。

 護衛騎士カイ=アルデン。

 黒髪に浅い傷の残る頬、鍛えられた腕。彼は幼い頃から神殿で育ち、リシェルの影の護衛として仕えてきた。


 「本当に行くのか、リシェル様」


 月光の下、彼の声は低く、揺れていた。

 「敵国の捕虜になれば、何をされるかわからない。和平なんて名ばかりの口実だ。あなたを殺して“神の奇跡を奪った”と、奴らは喧伝するだろう」


 リシェルは微笑んだ。

 その笑顔は、痛いほど美しく、そして壊れかけていた。


 「それでもいいの。私の命ひとつで、何千もの人が救われるなら」


 カイは拳を握りしめ、唇をかむ。

 「俺は……あなたを守るために剣を取ったんです。死なせるためじゃない」


 「ありがとう、カイ。でも、私はもう“聖女”ではないの。祈れない者が、どうして神の名を騙れるの?」


 リシェルの声が、どこか遠くを見ているようだった。

 「だったらせめて、人として、最後の祈りをこの手で叶えたい」


 翌朝、曇天の下、聖女の馬車が出立した。

 見送る人々は沈黙し、誰も声をかけなかった。

 リシェルは白いヴェールを被り、窓越しに神殿を振り返る。

 そこに見えるのは、もう何もない灰色の国。

 幼い日の記憶――花畑で笑い合った孤児たちは、皆もういない。


 馬車が揺れるたび、リシェルの胸の奥で何かが崩れていった。

 神を失い、国を背負い、それでも歩かなければならない。

 カイが馬上から振り返り、短く告げる。


 「リシェル様。俺があなたを必ず守ります。どんな地獄に堕ちても」


 その言葉に、リシェルは一瞬だけ目を細めた。

 まるで、それが最後の約束であることを知っているかのように。


 国境を越えた瞬間、風の匂いが変わった。

 砂混じりの熱風。異国の土。

 そこから始まるのは“祈りの旅”ではなく、“欺きの演劇”だった。


 ――和平の使者として彼女が出向いたはずの地で、待っていたのは処刑台だった。


 グラナード王都。

 宮廷の前庭に引き出されたリシェルは、鎖につながれたままひざまずく。

 観衆の罵声。石が飛ぶ。

 「偽りの聖女め!」

 「神の名を騙る魔女!」

 血がにじむ額を上げると、玉座の上で若き王が冷たく彼女を見下ろしていた。


 「我が国に降る災いの元凶……貴様が“祈らぬ聖女”か」


 リシェルは答えず、ただ微笑んだ。

 「王よ。もしあなたが神を信じるのなら、どうか――剣をお納めください」


 「命乞いか?」


 「いいえ。ただ、祈りをやめた者が、あなたを裁く資格はないと伝えに来ただけです」


 その瞬間、ざわめきが広がった。

 王の瞳が揺れたのを、誰も見逃さなかった。


 彼女の声は不思議と澄んでいた。

 戦場の轟音の中でも、聞こえるほどに。

 そして、彼女の言葉が誰かの心に届いた時、世界は少しだけ静まった。


 カイが剣を抜き、叫ぶ。

 「リシェル様を放せ!」


 彼は血路を開き、王の護衛たちを薙ぎ払う。

 鋼の音、悲鳴、血。

 リシェルは立ち上がり、彼の背中を見つめていた。


 「どうして……あなたまで巻き込むの」


 「お前を守るために生まれた。それだけは譲れない」


 その言葉に、リシェルの頬を涙が伝った。

 誰のために祈るでもなく、誰に届くでもない――

 それでも彼女の中で、ようやく“祈り”が息を吹き返していた。


 彼女は天を仰ぐ。

 灰色の空が、かすかに裂け、光が降る。

 それは奇跡ではなかった。ただの天候の気まぐれ。

 けれど、人々は息を呑み、誰かが囁いた。


 「……神が、戻られた?」


 その瞬間、リシェルは微笑み、囁いた。


 「いいえ。神はずっと、ここにいたのです」


 剣が閃き、視界が白く染まる。

 リシェルの身体が崩れ落ちるのを見て、カイは叫んだ。

 だが、彼女の唇は穏やかに動いていた。

 「ありがとう……あなたの祈りで、ようやく、私……」


 言葉は風に溶けた。

 灰のような光が空へ昇り、聖都から遠く離れた地にも届いた。

 翌日、エストリアとグラナードは停戦を宣言した。

 理由は誰にもわからなかった。

 ただ、“祈らぬ聖女”が最後に見せた微笑みを、人々は奇跡と呼んだ。



第2話 花嫁は仮面をつけて


 月は薄く欠け、夜会の庭に白い縁取りだけを残していた。

 敵国グラナードの将、ジード卿の屋敷。ふたつの大戦で積み上げた勲功が、そのまま石壁の高さになったような、重たい造りだ。薔薇が咲き誇り、噴水は音を立てている。けれど、この屋敷の水は戦地から運ばれた勝者の水で、飲むたびに誰かの声が喉に引っかかる気がした。


 リシェルは仮面をつけていた。

 白磁の半面。目元だけを覆う薄い仮面は、夜会の礼装のひとつとして配られたが、彼女にとっては呼吸の仕方まで記憶から切り離すための道具だった。仮面の内側に湿った息がたまる。指先は静かに扇を開き、閉じる。仕草は練習どおり。笑みは、痛みの縁だけを残す。


 楽団が弦を弾き、絹擦れが波のように広がる。

 貴族たちの視線は、珍しい飾り物を見るように彼女を撫でた。

 噂はもう回っている。

 ジード卿の新しい愛妾。

 どこかの祈り子のなれの果て。

 白い手袋の下には、祈りの痕が見えるらしい――。


 銀盤の上でグラスが触れ合う乾いた音を合図に、ジードが現れる。

 黒い軍装の上に外套。肩章の金糸が、炎のように揺れた。背は高く、歩幅は一定。彼が一歩進むたび、談笑がひと呼吸遅れて静かになる。戦場で鍛えた身体は細くはないのに、影の落とし方は妙に繊細で、そこだけ寒かった。


 「歓迎しよう、白仮面の姫君」


 彼は軽く会釈し、差し出したのは一輪の白い薔薇。

 棘は丁寧に抜かれている。代わりに、茎の根元に結び目。軍人が使う種別の、素早い結び。何度も手にした者の癖が、そこに残っている。


 「恐れ入ります、将軍閣下」


 リシェルは杯を持ち、微笑を作る。

 それは演技の笑顔。

 唇に載せた酒精の重たさが、心のどこかを麻痺させてくれるのを待つみたいに。


 彼の視線は、仮面ではなく手元に落ちた。

 白手袋ごしでも隠しきれない、指の節の硬さ。

 祈りで石床に触れ続けた者だけが持つ、骨の角度。


 「祈りの手に、刃の跡がある。君は神の使いではない」


 囁きは音楽よりも低く、耳だけを震わせた。

 リシェルの胸が、反射でひとつ大きく波打つ。

 けれど表情は崩さない。

 扇を少しだけ上げ、笑みを線のように細くする。


 「国が違えば、祈りの形も違います。こちらでは、祈りは刃より役に立つのでしょう?」


 「刃は嘘を切る。祈りは嘘を覆う。どちらも戦では重宝される」


 彼の瞳は笑っていなかった。

 その奥にあるものは、冷たい判断だけではない。焼け跡の匂い、兵の最後の眼差し、進軍の夜に折られた名もなき墓標――そうしたものを、静かに背負って押し黙る重さ。

 リシェルは視線を逸らさなかった。逸らした瞬間に、仮面の下の自分がどこかへ零れ落ちてしまいそうで怖かった。


 「踊るかね?」


 差し出された手は、戦場で剣を包んだ同じ手。

 彼女は乗った。踊りは仕事であり、嘘の第一段。

 円舞曲。三拍子。歩幅を合わせ、回転する。

 天井のシャンデリアが、逆さの星座みたいに目を刺す。


 一周、二周。足は迷いなく進む。

 彼の掌の熱が、手袋越しに伝わる。

 汗はない。鼓動は落ち着いていた。

 彼は、彼女の震えだけを確かめるように、余計な力を加えない。

 敵に対しての優しさではない。

 ただ、踊りが美しくなる距離を探しているだけだと、彼女は思った。


 「噂で聞いている。君は神を裏切ったと」


 「裏切るほど、神は近くにいませんでした」


 「では、誰を裏切った?」


 「私を信じた人たち。だから、私を信じないでください」


 足元でドレスが翻る。掌の内で息が浅くなり、背筋の内側で言葉が凍る。

 彼女の今夜の目的はひとつ。

 帝国軍の次の侵攻経路と時刻。

 その情報は、屋敷のどこか――地下の作戦室にある。


 曲が終わる。拍手が巻き起こる。

 ジードは手を離さず、彼女の耳もとに短く告げた。


 「庭の東、月桂樹の陰で、夜風をひと口どうだ」


 招きは見せかけのやさしさか、罠か。

 どちらにせよ、行く理由はある。

 彼について歩く。

 石畳の上に夜露が降り、靴底に冷たい。

 月桂の葉が擦れる音が、ひそひそ話に似ている。


 「ここなら、扇の影に隠れずに話せる」


 彼は距離をとった。

 近すぎない。遠すぎない。

 その立ち方は、弓兵の射線と同じ計算でできている。

 彼は彼女の仮面を指で示し、軽く顎を引いた。


 「外してほしいとは言わない。だが、仮面の下の顔が笑っていないことだけは、見える」


 「笑って見える仮面を用意できて、よかったです」


 「仮面は花嫁のためにある。君が選んだ題は、よく似合っている」


 どきり、と心臓が指先まで跳ねた。

 題――花嫁。

 この夜会の最後に、彼女は「新しい契約」の署名に立ち会う役を与えられている。契約の文言は隠されているが、名ばかりの婚礼に似た儀式だと噂されている。

 花嫁の仮面は、誓いを偽るための道具。

 飾り立てられた嘘は、戦に勝つための布陣のひとつ。


 「君は、どちらの地図をポケットに入れている?」


 彼の言葉が、夜気の中で乾いた。

 リシェルは扇を閉じ、胸もとに軽く添える。

 地図――地下室の壁にかかる作戦地図を折りたたみ、複写して持ち出すつもりでいた。

 そのことを彼は、初日から知っている目をしている。


 「私が何かを盗むと思うのですね」


「盗めるなら、盗むといい。見せかけより、本物を持つ者のほうが、交渉で強い」



 彼はそう言うと、踵を返した。

 扉へ戻る。

 それが許しなのか挑発なのか、彼女にはわからない。

 ただ、胸の内で遅れて芽生えたうずきが、少しだけ熱を持った。


 深夜、屋敷が眠りに沈むころ。

 リシェルは白い仮面を机に置き、灯りを落とした部屋の片隅で衣装を脱ぎ替える。

 濃紺の簡素なドレス。裾を短く詰め、動きやすいよう糸を引く。

 カーテンの影に潜り、窓の留め金を外す。

 外気が撫でてきて、肌が粟立つ。

 庭を横切る衛兵の足音は、数を重ねるほど規則正しくなる。

 この屋敷の警備は、眠気より習慣で動いている。


 廊下に出る。

 暗闇よりも、暗闇を知っている者の歩き方で歩く。

 足音を吸う厚い絨毯、壁に掛かる狩りの絵。

 鹿の目は、夜に合わせて黒く広がっている。

 角の手前で止まり、蝋煙の向きで人の気配を読む。

 息は浅く、長く。

 祈りの姿勢は取らない。取れば、膝が震える。


 地下へ下りる階段の扉は、鉄。

 指で触れると、冷たさが骨に刺さる。

 鍵穴の周りに、新しい傷。今日の昼間に付いたばかりのような、光っている切り口。

 鍵は二重。ひとつは回転式、ひとつは押し込み式。

 夜会の前、彼女は給仕に紛れて鍵の束を見た。

 真鍮に刻印。獅子の紋。

 それを複製できるほどの余裕は、今の彼女にはない。


 ならば、別の鍵を使う。

 人の習慣という名の鍵。

 彼女は扉の前で、囁き声を作った。


 「持ち場の交代です。将軍の命で確認」


 すぐには返事がない。

 中には衛兵が二人。

 ひとりは若い。もう一人は、古い傷がある。

 休む姿勢を変えたとき、床板がきしむ。

 彼らは言葉より音で答えている。


 「開けてください。名札はここに」


 扉の隙間から札を差し入れる。

 そこに書かれた名は、昼間に聞き取った給仕長の甥の名。

 数息ののち、鍵が外れる音。

 扉がわずかに開いた瞬間、リシェルは身を滑らせ、衛兵の前腕を取って押し下げた。

 驚きの声より速く、蝋燭の火を指先で弾いて落とす。

 闇が濃くなる。

 彼女は囁いた。


 「静かに。火事になります」


 衛兵の動きが止まる。暗闇は人の勇気より早く広がる。

 彼女はその間に通路へ身を滑らせ、扉をそっと閉めた。

 内側からかけられる閂を、半分だけ戻す。

 彼らは気づかない。暗闇の中、火を探すのに精一杯だ。


 地下室は、石と紙の匂いがした。

 地図は壁いっぱいに貼られ、細い赤糸が河川や街道に沿って結び目を作っている。

 書記官が使う机には、乾きかけのインクと、黒曜石の文鎮。

窓はない。息の音が自分のものかさえ怪しくなる。


 リシェルは震える指を抑え、地図の端を巻き取る。

 古い地図は音を立てる。これを折って持ち出せば、廊下で紙の匂いがして、誰かの鼻に引っかかる。

 複写だ。

 彼女は薄紙を拡げ、炭粉の袋を指で潰した。

 指先が黒く染まる。

 赤糸の結び目を、位置で覚える。

 北の森、三日月の浅瀬、斜面に白い岩。

 自分にしかわからない目印で、薄紙の裏に印を打つ。

 数字は書かない。言葉も書かない。ただ、点と短い線。

 祈りを失ってから、彼女が手に入れたやり方。

 神が見ないなら、せめて誰にも読めない地図を作る。


 そのとき。

 背に、柔らかな気配が差した。


 「続けるといい」


 ジードの声。

 振り返ると、彼は灯火をひとつ、手に持っていた。

 驚きはしない。彼がここに来ることは、最初から算段にあったのだろう。

 彼の目は暗闇に慣れていて、光よりも影の形を見ている目だった。


 「見張りは」


 「眠っている。君が落とした火が、ちょうど良い子守歌になった」


 「私を捕らえないのですね」


 「捕らえることは簡単だ。君を信じることは難しい。戦で難しいほうを選ぶと、長く続く」


 彼は机の隅に火を置き、地図を見上げる。

 赤糸の交点、河川の屈曲、橋梁の位置。

 彼が見ているのは、攻める道ではなく、退く道だ。

 そこに気づいた瞬間、リシェルは言葉を飲んだ。


 「なぜ、退路を」


 「攻めることは、誰でもできる。退くとき、人は本性を見せる。国もまた」


 彼は彼女に薄紙を指し示した。

 「書け。だが、君の国に渡すのは俺だ」


 「敵に手紙を託すほど、私の祈りは強くありません」


 「祈りではない。取引だ。君がこの薄紙に、橋の弱い石の並びを書けば、俺はかわりに、無意味な虐殺を一つ減らす」


 喉が熱くなる。

 彼は何者なのだろう。

 勝者の顔をして、敗者の数を数えている。

 兵を動かす手で、亡骸の重さを量っている。

 戦の真ん中で、静かに均衡を測っている。


 「君は誰の花嫁になる?」


 彼の問いは唐突で、けれど今夜の題にぴたりとはまった。

 花嫁は仮面をつけている。

 誓いの言葉を、誰にも聞かれないように。


 「国のものです。私は私ではありません」


 「ならば、誓いを交わす相手は俺ではない。俺にできるのは、君の仮面が割れないように、夜明けまで持っておくことくらいだ」


 彼は手袋を外し、仮面をそっと持ち上げた。

 顔に触れない。目元を覆っていた白磁は、汗で曇り、光をぼかしている。

 彼はそれを、自分の胸ポケットに収めた。


 「返して」


 「夜明けに。花嫁は顔を見せて誓うからな」


 彼は笑わない。けれど、言葉には微かに熱があった。

 それが憎らしく、救いに似ていて、リシェルは目を閉じる。

 薄紙に点と線を置く指が、ふいに軽くなった。

 誰かに重さを分けてもらうことを、ずっと忘れていた。


 屋敷の鐘が二度、遠くで鳴った。

 夜会は終わる。契約の儀が始まる。

 彼らは部屋を出る前に、言葉をひとつずつ置いた。

 彼は退路の印を。

 彼女は橋の欠け石の印を。

 それぞれが相手の命を、少しだけ軽くする印。


 広間には再び灯が灯り、赤い絨毯の先に机が据えられている。

 文官が巻紙を持ち、証人が並ぶ。

 ジードの名の隣に、空白。

 そこに、白仮面の花嫁の名が書かれるのだ。

 愛妾という飾りを、契約の印にするつもりだろう。

 国と国の間に、人の名をはさみ、血の味を薄めるやり方。


 「リシェル嬢」


 文官が示した羽根ペンが、目の前に差し出される。

 彼女は一歩、前へ出た。

 視線が刺さる。

 賛美ではない。好奇でもない。

 祈りに飢えた目。

 奇跡という劇を待ち望む客席の暗がり。


 彼女は羽根ペンを持たなかった。

 代わりに、両手を胸の前で合わせた。

 久しく取らなかった祈りの姿勢。

 膝が少し、震える。

 呼吸は浅く。

 目は、台の上の契約文の上で静まる。


 「祈りたい」


 誰かが息を呑む。

 彼女は言葉を続けた。


 「この署名が、誰かの血を薄め、明日の葬列を一つ減らすのなら、私は名を差し出します。でも、違うなら、私はここで仮面を割ります」


 静寂。

 弦が一本、間違って鳴り、それがすべての音だった。

 彼女はジードを見た。

 彼の目は、わずかに細められている。計算の目ではない。

 人の重さを測る目。


 「俺は軍の将として誓う。この契約に、今夜奪う命はない」


 「明日は」


 「明日を生かすために、今夜を繋ぐ」


 その答えが嘘であっても、彼は嘘を重ねるために、今夜ここに立っている。

 リシェルは羽根ペンを取った。

 けれど、名は書かなかった。

 代わりに、一筆。

 点と、短い線。

 彼女にしか読めない誓い。


 ざわめきが走る。

 文官が血の気を引かせ、抗議の声を上げかけたとき、ジードが手で制した。


 「花嫁は仮面をつける。名がなくとも、誓いは立つ」


 署名台が片づけられ、楽団が再び音を重ねる。

 誰も理解しないまま儀は進むが、それが夜会の正しいやり方だ。

 真実は、いつも音楽に溶かされる。


 儀が終わり、賓客が散り、廊下に冷たい風が走る。

 彼女はひとり、窓辺に立ち尽くした。

 胸ポケットから、ジードが白い仮面を取り出して差し出す。

 彼女は受け取らず、ただそれを見つめた。


 「返して、とは言いません。仮面がないほうが、今夜は少しだけ呼吸が楽ですから」


 「君は、よく笑う人間だったのか」


 「もともと、笑い方を祈りで覚えたので」


 「君を信じないことなら、俺にもできる」


 彼は淡く言い、窓を開けた。

 外の空気は、刃の背のように冷たい。

 庭の暗がりで、鳥籠が小さく揺れる。

 軍鳩。

 彼はひとつの籠の蓋を開け、細い脚に、小さな筒を付けた。


 「君の薄紙を、どちらへ飛ばす?」


 「選べないので、空へ」


 「なら、風が決める」


 鳥は跳ね、羽ばたき、夜空に紛れた。

 誰の国でもない空へ。

 誰の祈りでもない風へ。

 彼女の指先から離れていく点と線が、誰かの明日を少しだけ変えるなら、それでよかった。


 部屋を出るとき、彼女は初めて自分から彼を呼んだ。


 「ジード様」


 背が、わずかに止まる。

 振り返った彼の顔には、影が深く落ちていた。


 「どうか、誰も私を信じませんように」


 彼は答えず、ただ頷いた。

 それは約束ではない。

 誓いでもない。

 けれど、彼の沈黙は、彼女の祈りの形とよく似ていた。


 夜が明ける。

 東の空が薄くほどけ、遠くの街並みに色が戻る。

 仮面のない頬に朝の光が差し、目を細める。

 この屋敷の水が今日も噴き、薔薇は音もなく咲く。

 彼女の胸の奥で、ひび割れの縁が少しだけ温かい。


 カイのことを思い出す。

 彼はどこにいるのだろう。

 あの誓いは、まだ胸にあるだろうか。

 彼女が帰るべき名前は、まだ彼の中で呼ばれているだろうか。

 答えは風の向こう。

 花嫁は仮面をつけて、今日も嘘を誓う。

 その嘘が、ひとりしか救えないとしても――それでも、救える誰かのために。


 廊下を歩く足取りは、昨夜よりも静かだった。

 祈りを言葉にしないまま、彼女は次の扉へ向かう。

 扉の向こうにあるのは、書庫。

 そこに眠る報告書の束に、名もなき兵の手紙が挟まっていることを、彼女はまだ知らない。

 その手紙を読み、ひとつの行軍を止める方法を見つけ、誰かの朝食の湯気を守ることを、彼女はまだ知らない。


 ただひとつだけ、今、知っている。

 祈りは神に向けるものではなく、信じられない自分に向けて、嘘の上からそっとかける薄布みたいなものだということ。

 破れそうな薄布の下で、人はやっと眠れる。

 眠れるあいだに、夜は少しだけ長くなり、朝は少しだけ遅れてくる。


 彼女は歩く。

 花嫁は仮面をつけて。

 それでも、頬に朝が触れるたび、わずかに仮面は透けていく。

 名のない誓いは、点と線で書かれた地図みたいに、今日の彼女を導く。

 誰にも読めない、誰かのための道しるべ。


 どうか、誰も私を信じませんように。

 どうか、誰かひとりだけが、生き延びますように。


 窓辺で、軍鳩が戻ってきた。

 足の筒は空のまま。

 それでも、羽根には細い砂の粉が付いていた。

 砂は、北の森の手前の斜面にしかない色。

 風は、確かにそこを通ったのだ。


 彼女は息を吐き、仮面を胸に抱いた。

 仮面のない顔は、誰のものでもない。

 仮面を抱く腕は、誰かの命の重さに似ている。

 その重みを知っている者だけが、今日の嘘を最後まで運べる。


 花嫁は、扉を開ける。

 次の嘘へ。

 次の誓いへ。

 次の、誰かの朝食の湯気へ。


 戦はまだ続く。

 けれど、祈らぬ聖女の胸の奥で、細い糸が一つ、音を立てて結ばれた。




第3話 沈黙の祈り


 朝の鐘が三度鳴った。屋敷の中庭に並ぶ衛兵が一斉に踵を打ち、空気に硬い音が走った。

 その音は、誰かの一日を分ける合図だった。今日という日の前と後ろを、はっきり切り分けてしまう刃の音。


 密書を運ぶ少年が捕らえられた、と最初に聞いたのは、台所で水差しを受け取った時だった。

 給仕の少女が唇を噛み、目だけで合図を送った。合図は短く、それだけで十分だった。

 リシェルは頷かず、感情も動かさず、水差しを持って廊下へ出る。足元に置かれた布に、薄く土の色が乗っている。昨夜、誰かが外を走った土だ。少年は庭の端で捕まったのだろう。月桂樹の影。砂利が深い場所。


 水差しは重かった。だが、その重さは腕より先に胸に沈む。

 彼女は部屋へ戻り、扉を閉め、窓辺に置かれた白い仮面を見た。昨日の夜会の名残。

 仮面の内側には、汗による曇りが薄く乾いて残っている。人の体温は消えるのに時間がかかる。祈りは、もっと時間がかかる。


 廊下の先から、男の怒号と、子どもの声がもつれた音がした。

 扉を開けてはいけない、と頭は言った。

 開けてしまえ、と胸が言った。

 彼女は鍵を回し、間に立った。


 少年は小柄で、髪が泥にまみれていた。両の手は背に縛られ、肩は細く震えている。

 衛兵に押し立てられ、引きずられるように進む。

 視線がぶつかったとき、少年の目が一瞬だけ大きくなった。

 彼は知っている目をしていた。神殿の前で並んで食を受けていた孤児たちの目と同じ、飢えと期待の交じった目。

 リシェルは、頷かなかった。

 頷いてしまえば、ここですべてが終わると知っていたから。


 屋敷の中央の回廊には、裁きの場が急ごしらえで設えられた。

 机、椅子、証文、羽根ペン。どれもが足りない道具を無理に揃えたみたいに不揃いで、しかし形だけは整っている。戦の裁判はいつも早い。人が死ぬ前に、形だけでも真実を用意しなければならないからだ。


 リシェルは席に座らされた。両の手は縛られていない。逃げる場所がないと、だれもが信じているからだ。

 少年は彼女から少し離れた場所で膝をついた。口を布で塞がれている。

 その布の結び目だけが、やけに整っていて、ジードが結ぶ結びに似ていた。形は同じでも意味は違う。


 扉が開く音が広がり、ジードが入ってきた。

 黒い軍装。肩章の金糸は朝の光で鈍く光る。

 彼の歩幅は一定で、足音は薄い。重い身体が軽い影を落とすとき、人は迷っている。彼の影は少し揺れていた。


 「密書を運ぶ少年が捕らえられた。内容は……橋の石列と、退路の標。反逆の疑いがある」


 文官が読み上げる声は乾いていて、紙の端がかさかさ言った。

 ジードの視線は少年とリシェルの間を一度だけ往復した。

 彼は机の端に両手を置き、低く言った。


 「君が本当に敵を救いたいのか、それとも誰かを裏切りたいのか、わからない」


 リシェルは笑った。

 それは誰かを刺すためではなく、自分の胸に当てるための笑いだった。

 「どちらも同じです。救うには裏切るしかない」


 場がわずかにざわついた。

 「聖女の言葉ではない」と誰かが呟く。

 聖女の言葉とは、決まっている。美しくて、遠回しで、誰の血も濡らさない。

 今の彼女が口にする言葉は、血で湿っていて、短い。


 ジードは目を細めた。

 「君の沈黙が、祈りだと?」


 「祈りは誰にも届きません。でも、届かない祈りこそ、誰にも壊せないものです」


 文官が羽根ペンを持ち上げる。判決文に何かを書きつける前の、淡い躊躇。

 ジードが手で制した。


 「裁きはすぐに下す。だが、質問をひとつだけ。君は昨夜、軍鳩を飛ばしたな」


 少年の肩が跳ねた。

 リシェルは否定しない。

 肯定もしない。

 沈黙は嘘より重い。嘘は軽くて、すぐに落ちる。


 「鳩は戻った。筒は空だった」


 「風が決める、そう仰いました」


 「うむ。風は、ときどき、こちらの思いとは逆に吹く」


 ジードの声に混じるのは、怒りではない。疲労と、選び続けてきた者の鈍い痛み。

 彼は机から離れ、少年の前に膝をついた。

 「名は」


 布ごしに、くぐもった音が漏れる。

 衛兵が布を外す。

 少年は喉をからし、か細い声で言った。

 「ノエ。ノエ=ファルン」


 「誰の命で動いた」


 少年はリシェルを見ないようにして、じっと一点を見つめた。

 それは、嘘をつく人間の目ではなく、嘘を守る人間の目だった。

 「市場の石工の親方が、橋の石が欠けてるって。直さないと馬車が落ちるって。俺、知らせに……」


 衛兵が鼻で笑う。

 嘲りはいつだって簡単に用意できる。

 ジードはその笑いを睨みで止めた。


 「橋の石の並び。退路の標。市場の親方がそんな言葉を使うか?」


 少年は唇を噛み、血の味に顔をしかめた。

 リシェルは、胸の奥で小さく点が弾けるのを感じた。

 彼女の書く点と線。誰にも読めないはずの印。

 その意味に、少年は触れてしまった。触れたのは忠誠ではなく、善意の形をした偶然かもしれない。


 裁判という名の儀式は、ここで形を変える。

 ジードは立ち上がり、短く言った。

 「少年は牢へ。女は――」


 彼の声が一瞬途切れた。

 その隙間に、朝の光が床の上を移動した。

 たったそれだけのことで、彼の命令は違う形になった。


 「女は、夕刻に処刑する」


 場がざわめく。

 リシェルは、細く息を吐いた。胸が動いたのはそれだけだった。

 彼女は笑わなかった。もう笑う必要がなかった。

 沈黙は、すでに言葉より多くのことを伝えてしまったから。


 地下の独房は、石の匂いが濃かった。

 窓は小さく、月がなければ夜も昼も区別しにくい。

 今は昼で、けれど光は細い。

 壁に残る刻みは、囚人たちが数えた日数の跡だ。

 一本、一本。

 途中で途切れている線が多い。

 終わりまで刻める人間は少ない。


 リシェルは床に座り、膝を抱えた。

 祈りの姿勢を取ることは、できなかった。

 膝をつけば、昔の自分が呼び覚まされる気がした。

 その自分は、まだ神を信じていて、まだ世界を怖がっていなかった。


 「カイ」


 名前は声にせず、息に混ぜた。

 彼がどこにいるのか、わからない。

 彼が自分をどう見ているのか、もっとわからない。

 あの純粋な瞳に、今の自分は映るのか。

 映るとしても、それはきっと、彼が守ろうとしていた形とは違う。


 夜の匂いが早くやって来た。

 窓の外にはまだ昼が残っているのに、独房の中だけ夜が落ちている。

 ひとつの場所が時間を先に進めることがある。誰かのために、早く夜が来る。

 誰かのために、朝が遅くなる。


 月は薄く、壁を一枚舐めるだけの光を落とした。

 その光の中に、彼女は仮面の影を見た。

 白い仮面は手元にない。遠くのどこかで、別の胸と一緒に呼吸している。

 それでも、仮面はいつでも顔に戻って来る。

 人前に出る時、愛妾でいる時、聖女であったふりをする時、彼女は仮面をかぶる。

 沈黙は仮面の裏側を埋める布だ。

 布は汗で湿り、呼吸で温まり、最後は剥がれてしまう。


 鎖の擦れる音がして、扉の前の影が揺れた。

 小さな影。

 少年だ。

 衛兵が扉の格子から彼を押しやる。

 「こっちを見るな」


 少年は言われた通りに目を伏せたが、瞼の薄さは目の向きを隠せない。

 彼は見ていた。

 何かを見つけようとしていた。

 彼女に、助けてほしいとは言わなかった。

 言えば終わることを、あの年で知っている。


 「大丈夫です」

 リシェルは口の形だけで言った。

 声にしない。

 音になった瞬間に、誰かが奪えるから。

 沈黙は、奪えない。


 彼女は独房の床に指を滑らせ、舞い込んだ灰を集めた。

 指の先で、灰を点にする。線にする。

 壁の小さな割れ目に、粉の色を置く。

 少年の視線が、指の先を追った。

 彼にはそれが、何かの地図に見えたかもしれない。

 でも、それは地図ではない。

 祈りだ。

 点は人で、線は息で、交点は選択で、欠けは喪失だ。

 誰にも読めない祈りの字。


 「どうか、この嘘が、誰かを救いますように」


 彼女は唇だけでそう言い、目を閉じた。

 耳の奥で、昔の鐘の音が遠くに鳴った気がした。

 神殿の鐘の音は、今はもう鳴らない。

 神殿は、避難所になる途中で焼けてしまった。

 最後に鳴った鐘の響きだけが、彼女の耳に残っている。


 夕刻。

 外の空は、血の色にはならなかった。

 雲が低く、鈍い灰色で、日暮れは世界を冷やす冷水のように落ちてきた。

 独房の扉が開き、衛兵が二人入って来る。

 彼らは彼女を乱暴には扱わなかった。

 乱暴に扱うほど、彼らは彼女を知らない。

 知らない者には、優しくも残酷にも、同じ距離がある。


 中庭には人が集まっていた。

 木製の台。柱。縄。

 儀式の道具はどれも簡素で、しかし目的の形には忠実だった。

 ジードがいた。

 彼の視線は、最初だけ彼女を捉え、すぐにそれを外した。

 指揮官の目は、個人から目を逸らすことが仕事の半分だ。


 「最後に言葉は」


 文官が尋ねる。

 リシェルは首を横に振った。

 言葉は誰かのものだ。

 沈黙は自分のものだ。


 縄が下ろされる。

 柱に背を押しつけられ、縄が手首に回る。

 皮膚に麻のささくれが刺さる。

 痛みは、説明のいらない真実だ。

 その真実だけが、まだ彼女の味方をしていた。


 群衆の中から、ひとつ小さな音が立つ。

 誰かが息を呑んだ音。

 別の誰かが泣き始める寸前の、喉の震え。

 遠くで、鳥の羽音がした。

 翼が空気を切って、一と二。

 その数え方は、昨夜の軍鳩と同じだった。


 ジードが手を上げた。

 処刑の合図。

 彼の指は震えなかった。

 震えるのは、彼の目の奥だけだ。


 そのとき、中庭の端で衛兵が叫んだ。

 「火だ!」


 人だかりの後ろにある倉庫の屋根から、薄い煙が上がっていた。

 火柱ではない。

 けれど、乾いた季節に煙はすぐ噂になる。

 「消火だ!」

 命令が走り、兵がばらける。

 人の群れは、簡単に形を変える。

 彼らは火を怖がる。

 自分の家が焼けたことのある者は、火から先に逃げる。


 縄を締める役の兵が、手を離した。

 リシェルは動かなかった。

 逃げることは、計画に含まれていない。

 計画の中にあるのは、一つだけ。

 少年を、今夜だけは、牢から出すこと。

 火の騒ぎと、兵の人手をそちらへ持って行くこと。

 そのための沈黙。

 そのための裁判。

そのための処刑の舞台。


 人影が揺れ、視界の端で白いものが跳ねた。

 仮面。

 ジードの胸ポケットから抜け、地に落ちる。

 彼はそれに気づかないふりをした。

 拾うほど、彼は自分の役割に忠実ではない。


 「縄を外せ」


 ジードが低く言った。

 文官が驚き、顔を上げる。

 「しかし将軍、処刑命令は――」


 「外せ。今は火だ。女は逃げない」


 言い切る声には、彼の確信があった。

 リシェルは逃げない。

 逃げられないのではない。

 逃げないと、彼は知っている。

 彼女がそれを選ぶことを、見ていたから。


 縄が外される。

 首筋に残る麻の痕が、風に触れてしみた。

 ジードは彼女を一度も見ないまま、命じた。

 「彼女を独房に戻せ。火の騒ぎが収まるまで」


 衛兵が肩に手を置く。

 歩きながら、彼女は小さな声で、しかしはっきりと言った。

 「ありがとうございます」


 ジードは答えなかった。

 沈黙は、彼のものにもなっていた。


 独房に戻される途中、通路の陰から影が走った。

 少年だ。

 兵二人が追い、すれ違いざまに肩がぶつかる。

 少年は転び、すぐに立ち上がった。

 彼は走り方を知っている。

 自分の足と床との距離を知っている。

 転んでも立ち上がれる者は、逃げ切る。

 兵は火のほうへ視線を奪われ、追う足が鈍った。


 リシェルは、目を閉じた。

 点がひとつ、線から外れていく。

 それだけで、祈りは形になる。


 夜。

 火の騒ぎは小さく鎮まり、倉庫の屋根だけが黒くなった。

 誰が火をつけたのか、誰も知らないことになっていた。

 「油が漏れていた」

 「台所の者が不注意を」

 嘘は、すぐに共同のものになる。

 共同の嘘ほど、強いものはない。

 そこには誰の罪も載らない。

 皆の罪が、均等に薄まる。


 独房の窓から見える空は、星が少なかった。

 雲が薄く漂い、月は輪郭をぼかしている。

 静かな夜だった。

 静かであることが、かえって鈍く痛い夜。


 足音が近づき、扉の前で止まった。

 鍵が回る。

 扉が開く。

 ジードがひとりで入って来た。

 灯火は持たない。

 暗闇に目が慣れている。


 「助けられなかった命の数を、毎晩数える」


 彼は誰にも向けずに言った。

 「数えるほど、眠れなくなる。眠れないほど、翌日、さらに助けられない」


 リシェルは答えなかった。

 沈黙は、自分の持ち物だと再確認する。

 彼は壁を見た。

 灰でつけられた点と線。

 指を触れず、ただ見る。


 「君の祈りは、誰にも届かない。だからこそ、壊れない」


 「それでも、今夜ひとり、届いたかもしれません」


 「そうだな」


 彼は短く言い、扉へ向かった。

 出て行く寸前に、振り返った。


 「明朝、君を移送する。ここではない、もっと硬い場所へ」


 「処刑は」


 「処刑は、先送りだ。火事のせいで手続きが乱れた」


 彼の声は乾いていて、しかしそこにかすかな温度があった。

 それは暖炉の火ではない。

 野営の時に兵が囲む、短い火の温度。

 消えるとき、少しだけ強くなってから消える、あの火。


 扉が閉まる。

 鍵が回る音は、以前より静かだった。

 静かさは、時に約束に似る。


 彼女は窓辺に膝を寄せ、月に背を向けて座った。

 昔の祈りを思い出そうとしたが、言葉が出てこなかった。

 代わりに、胸の中で点と線を結び直す。

 少年の名前。ノエ。

 橋の欠け石。

 退路の標。

 カイの瞳。

 ジードの沈黙。

 それらを順に並べ、細い糸で結ぶ。

 糸は脆い。けれど、誰にも切れないところに結べば、しばらくは持つ。


 夜明け前、鳥の声が遠くでした。

 軍鳩ではない。

 ただの鳥。

 ただの朝の音。

 ただ、彼女の胸にそれが届いた。

 沈黙は届かないはずなのに、届いた。


 「どうか、この嘘が、誰かを救いますように」


 彼女はもう一度だけ、唇の形で言った。

 その唇にはもう、笑いの形は残っていなかった。

 代わりに、ほんの少しだけ強い線が刻まれていた。

 生きるための線。

 裏切るための線。

 救うための線。


 機械のように正確な足音が近づいてくる。

 移送の朝だ。

 扉が開く。

 光が差す。

 彼女は立ち上がる。

 祈りはしない。

 沈黙を連れて行く。

 沈黙は重くない。

 軽いから、どこにでも持って行ける。


 ――そのとき、外で騒ぎが起こった。

 叫び声。馬のいななき。金属のぶつかる音。

 遠くの門で、誰かが争っている。


 衛兵が振り向いた隙に、ジードが現れた。

 彼は息を乱さず、短く命じた。

 「今は動くな。門は囮だ」


 彼の目は夜をまだ入れている。

 その目がリシェルを射抜く。

 「君の沈黙に、俺は乗る。乗った以上、最後まで降りない」


 リシェルは頷かなかった。

 ただ、目を閉じた。

 沈黙はふたり分になった。

 祈りは、まだ届かない。

 けれど、届かないまま、形を変える。


 朝が来る。

 薄い光が世界の縁からこぼれる。

 今日の光は灰色で、しかし冷たすぎない。

 リシェルは歩き出す。

 沈黙を胸に、点と線を掌に。

 救うための裏切りは、まだ終わらない。

 終わらないものだけが、ひとを生かすときがある。


 どうか、この嘘が、誰かを救いますように。

 どうか、沈黙の祈りが、壊れずにここまで届きますように。


 彼女は、次の扉の向こうへ進んだ。





第4話 断罪の聖堂


 公開裁判の朝は、やけに静かだった。

 風がない。雲もない。鐘楼の影が石畳にまっすぐ落ちて、誰かの意志みたいに動かなかった。


 鎖の音が、最初の合図になった。

 両手を前で束ねられたリシェルは、衛兵に囲まれて聖堂前の広場を歩く。石畳の継ぎ目に砂がたまっていて、底の薄い靴を噛んだ。歩幅を合わせるたび、鎖がこすれ、音が朝の空気を裂いた。


 人々はその音を合図に、罵りを重ねた。

 「売国の聖女」

 「神を穢した悪女」

 投げられた石は、彼女を正確に狙いはしなかった。狙いはいつも、顔より少し下、胸のあたりへ浅く外れて落ちた。誰も直接は殺さない。その卑怯さが、彼女の皮膚にだけは正直だった。


 彼女は笑った。声は出さない。唇だけだ。

 笑いの形を作るのに、祈りは要らなかった。むしろ祈りがないぶん、形ははっきりしている。自分の嘘がどこから始まって、どこへ向かっているのか、彼女だけは知っていた。


 聖堂の扉は大きく、厚い。古い戦で一度焼けて、別の街から運ばれた木で作り直されたと聞く。表面に刻まれた聖句は、焦げた跡の上から金箔でなぞられていた。嘘は、いつだって美しい。


 中へ入ると、冷気が頬を撫でた。

 薄暗い身廊。信徒席はすでに満ち、人々の息が白くまじって流れる。高窓から差す光が真っ直ぐで、埃が光の粒になった。祭壇の後ろに大きな十字紋があり、その前に壇が置かれている。今日はそこで、彼女に名前を与え直す儀式が行われる。聖女ではなく、裏切り者として。


 壇上に立つ司教メリオルは、白の法衣に紫の帯。輪飾りを肩にかけ、細い指に古い指輪をしていた。指輪の石の中央に刻まれた紋は、彼女が地下書庫の帳面で見た印と同じ。献納と徴収の印。神の名のもとに集められた食糧が、どこへ消えたのかを示す印でもある。


 「彼女の罪は、祈りを偽ったことにある」


 最初の言葉は、それだけだった。

 冷たく、短く、正しく響いた。正しさほど、人を傷つけるものはない。


 胸の内側で、何かが弾けた。

 唇が震え、喉の奥で固まっていた言葉が、刃のように外へ出た。


 「いいえ、偽ったのは神の方よ」


 その瞬間、聖堂が震えた。

 誰かが立ち上がり、誰かが座り込み、遠くの席で椅子が倒れる音がした。鈍い雷鳴を中に閉じこめたみたいに、石の壁が低く鳴った。高窓の鳩が飛び立ち、羽音が二度、三度。


 メリオルは眉ひとつ動かさず、手を上げて沈静を促した。

 「神を冒涜するか」


 「あなたがたが、神の名でやってきたことを、私は知っています。祈りを見世物にし、奇跡を商品にした。聖なる水は干上がり、残った滴は兵士の喉へだけ注がれた。祈りは帳面に書きつけられ、値札がついた。神は沈黙したわ。あなたがたが大きな声でしゃべり続けたから」


 彼女の声は震えていた。けれど、震えは弱さではなかった。石の上に描く細い線のように、正確だった。


 文官が巻物を広げ、異端審問の条文を読み上げ始めた。

 「聖職にある者が祈りを拒むこと……」

 「神の権能を疑うこと……」

 文字は冷たい。冷たいものだけが、炎のそばに長く置いておける。


 人々の視線が針になって、彼女の肌に刺さる。

 最前列には兵士の列、さらにその後ろに街の女たちが立っていた。目を真っすぐ上げる母親の目が、彼女の目と重なる。そこに涙はない。涙を流す時間はすでに、生活のどこかに組み込まれて、今日は別の用事に使われている。


 「彼女を断罪することが、神の栄光となる」

 メリオルの声は、長く続く儀式に慣れた声だった。

 「民の心を惑わせ、敵に密書を渡し、聖なる誓いを穢した。罪は明白である」


 祭壇の横で、ジードが黙って立っていた。

 軍装の黒が、聖堂の影と溶け合い、目だけが暗がりの中で光った。

 彼の瞳は揺れていない。揺れていたのは彼の呼吸で、わずかに遅れて胸が上下していた。


 「将軍」

 メリオルが視線だけを送る。

 「軍としての見解を」


 「裁きは教会の権限だ」

 ジードは短く答えた。

 「軍は秩序を保つ」


 「では秩序のために、彼女をここで終わらせよう」


 メリオルの言葉に合わせ、衛兵が彼女の近くへ寄る。鎖が引かれ、金具が床を擦る音が、聖堂の音楽よりもよく響いた。


 リシェルは両手を軽く上げ、群衆へ向けて半歩だけ踏み出した。

 自分の靴音が、広い空間にひとつだけ響く。

 「私は祈りをやめました。神が沈黙したから。あなたたちの子どもが泣いていて、パンが足りなくて、誰も手を伸ばせない夜に、神は何も言わなかった。だから私は、別のことばで祈ることにした。嘘で」


 どよめきが走る。

 「嘘で祈る?」

 「開き直りだ」


 「違うわ」

 リシェルは首を振る。

 「嘘は、誰かが生き延びるまでの橋よ。本当の橋が落ちたとき、板切れを繋いで渡るみたいに。私は嘘で渡したの。渡した先に、一人でも朝が来るように」


 最前列の女がひとり、胸の前で手を合わせた。

 それは祈りではない。子どもを庇う時に無意識に取る姿勢だ。

 彼女の指は強く、短く、爪に土が残っている。昨日も働いた手。


 メリオルは、彼女の言葉にかぶせるように、聖句を唱えた。

 「神は真実である。嘘は、悪魔の舌である」


 「なら、あなたがたの帳面に書かれた数字は、何の舌?」

 リシェルは祭壇の横、箱に置かれた数冊の帳簿を顎で示した。

 「あれは誰のための祈り? 兵の人数、徴収した麦、燃えた村の数。数字はいつも、神の名の下で増えた。減ったのは、子どもの靴の数よ」


 メリオルの指が、指輪の上で固く組まれた。

 彼はそれをほどき、壇の上の杯に触れた。

 杯の中の水が揺れ、光を震わせた。

 「言葉は要らぬ。お前の罪は、お前自身が証した」


 「罪なら、私ひとりのものでいい」

 彼女は静かに言った。

「ただ、その前に、ひとつだけ」


 彼女は顔を上げ、天窓の光を正面から受けた。

 瞼の裏に白い熱が広がる。

 何度も練習したわけではない。ただ、言葉は朝の石畳のように用意されていた。


 「いいえ、偽ったのは神の方よ。神の名で、人が人を支配するために使った神。沈黙のふりをして、都合のいい声だけを増幅した神。私はその神を偽りだと言う。私の神は、今も黙っている。それでも、私が嘘で橋を渡す間だけ、目を瞑っていてくれる神よ」


 しん、と音が消えた。

 空気が一度、薄くなり、聖堂の中にいた全員が同時に息を吸った。

 メリオルが手を上げる。

 「断罪を宣言する」


 その瞬間、聖歌隊の席から、一本の声が立ち上がった。

 誰の命令でもない、低い旋律。

 幼子を寝かしつける時に歌う歌と同じ速さで、母音が連なっていく。

 続いて、別の席から。さらに別の席から。

 歌は聖歌ではなかった。言葉はない。旋律だけ。

 それは昨夜、彼女が独房の灰で結んだ点と線から生まれた、読めない祈りの写しだった。


 「やめろ」

 文官が叫ぶ。

 ジードが手で兵を制した。

 「剣を抜くな。歌は武器ではない」


 歌は広がり、石壁に当たって丸くなった。

 それは反抗ではなく、静けさを呼ぶ声だった。

 罵るべき言葉を忘れさせ、投げるはずの石を握り直させる声。

 人の怒りの角を少しだけ丸くする声だった。


 「茶番だ」

 メリオルは言い、杖で壇を打った。

 「騒乱を扇動し、信仰を侮辱する。死刑を以て償わせる。今ここで」


 縄が運ばれてくる。

 柱の前に台が置かれ、儀は早口で進む。

 ジードが一歩、前へ出た。

 「教会の規定では、判決の執行には司教会の連署が要るはずだ」


 「ここは戦時だ」

 メリオルは即座に返す。

 「連署は免除される」


 「戦時の規定でも、転教と異端の区別はつける。彼女が異端者なら神学の弁論を許す義務がある」


 「弁論? 今のが弁論だ。神を偽りと言い切った」


 ジードは口を閉じた。

 彼の目は、彼自身の中で戦っている。

 秩序を守ることと、人を守ること。

 同じ言葉に見えて、違う場面で反対に転ぶ二枚の札。


 リシェルは呼吸を整えた。

 喉の奥に、固いものがひとつある。吐き出せない。飲み込めない。

 それが、今日の祈りの芯だった。


 「泣かないのか」

 隣に立つ衛兵が小声で言った。

 「ここまできて」


 「泣くのは他の誰かの役目よ。私はその時間を買うためにここにいる」


 彼は答えなかった。

 縄が彼女の手首に回る。麻のささくれが皮膚に食い込み、痛みが遅れて到着する。

 痛みは嘘ではない。痛みだけが、最初から最後まで自分のものだ。


 「最後に弁明を許す」

 メリオルの声が落ちてきた。

 「神と民の前に」


 リシェルは頷き、壇の縁に立った。

 背後にステンドグラス。青い破片が光を細かく分け、彼女の肩に散らした。

 彼女は群衆を見た。最前列の女、遠くの兵、扉の陰の少年。

 少年。ノエ。

 彼は人波の影から顔を半分だけ出し、目で必死に何かを伝えようとしていた。

 逃げろ、ではない。助けて、でもない。

 見て、だった。


 「私は祈りを偽った」

 彼女は言った。

 「だから私を裁きなさい。裁くことで、子どもたちの朝が一つでも守られるなら、喜んで」


 「そして」

 彼女は続けた。

 「偽った神に、最後のお願いを」


 メリオルが鼻で笑う音が聞こえた。

 それでも彼女は頭を下げた。

 祈りの姿勢。ひざが震える。

 半年ぶりに取る姿勢は、身体の奥に眠っていた痛みを起こした。


 「どうか、この嘘が、誰かを救いますように」


 静寂。

 やがて、メリオルの杖が壇を打つ音が落ちた。

 「判決。死刑」


 その瞬間、鐘楼が鳴った。

 誰も引いていないはずの鐘が、二度、三度、四度。

 音は濁っていた。古い傷が鳴らす音。

 聖堂の外で、砂塵が上がる。

 遠い門へ向かって、列が動く。

 避難だ。

 女たちが小さく、しかし迷いなく動き、子どもを抱え、荷を持ち、列になって橋へ向かった。

 歌は止まらない。歌は足音になった。


 ジードが視線で彼女に問う。

 彼女は頷かなかった。ただ、目を閉じた。

 嘘は、終わっていない。

 公開裁判は、人々の視線をここへ釘付けにするための舞台。

 その間に、南門の兵を鐘で引き離し、北の橋を空ける段取り。

 彼女は自分の罪を確定させることで、出口に人を流す。

 鐘を鳴らしたのは、誰か。

 彼女は知っているが、言わない。

 それを言った瞬間に、嘘は他人のものになってしまうから。


 メリオルは苛立ちを隠さなかった。

「鐘を止めろ。誰が鐘楼にいる」


 返事はなかった。

 兵が動こうとして、ジードに肩を掴まれた。

 「外へ兵を出すな。群衆が崩れる」


 「将軍」


 「秩序を保つと言った」


 ふたりの視線がぶつかる。

 宗教と軍。どちらが大きいかではなく、どちらが今、動いたときにより壊れるか。

 ジードはわかっていた。動けば火は広がる。止まれば嘘は通る。


 縄がまた引かれる。

 彼女は前へ出る。

 壇の端、空気が高くなる場所。

 台の上に足を載せる。

 そこから見えるのは、扉の向こうの空。浅い青。

 幼い日に寝そべって見上げた、聖堂裏の草地の空と同じ色。


 「リシェル」


 名を呼ぶ声がした。

 群衆のどこからか。

 耳の内側で響き、胸の底で止まる。

 振り向いてはいけない声。

 振り向けばすべてが終わる声。

 カイの声。


 振り向かなかった。

 彼にだけは、嘘の形を見せたくなかった。

 彼はまっすぐな人間だ。彼のまっすぐさが、今日だけは邪魔だ。

 だから彼女は、彼のために、まっすぐ立った。


 縄が首に触れる。

 麻は冷たい。汗で温かくなる前に、台は蹴られるはずだ。

 息を吸う。浅く。

 最後の祈りを声にしない。

 声にした祈りは奪われる。沈黙は奪われない。


 「待て」


 ジードの声が落ちた。

 彼は壇に近づき、メリオルの前に立った。

 「記録を取る。処刑の前に、司教の署名と、立会人の名を」


 「何のために」


 「将来、誰かがこの日の意味を問う。記録がなければ、神はまた黙る」


 メリオルは舌打ちし、羽根ペンをとった。

 指輪が光り、石の中央の刻印が、午前の光でくっきり浮いた。

 その瞬間、聖堂の扉が強い風で鳴り、羽根ペンの先が紙の脇へ滑った。

 インクが法衣の裾にひとしずく落ち、紫の帯を黒く汚した。

 美しいものが汚れると、嘘は少しだけ弱くなる。


 「将軍」

 メリオルが低く言う。

 「手短に」


 ジードは頷かず、リシェルのほうを一度だけ見た。

 彼の目に、迷いはなかった。迷いは彼の中で役目を終えたのだ。

 「執行を、日没まで延期する」


 「誰の権限で」


「秩序のために。外で列が崩れている。子が踏まれる」



 メリオルは息を吸い、言葉を飲み込んだ。

 彼がここで将軍を叱責すれば、聖堂の中だけが秩序を保ち、外で秩序が死ぬ。それは彼の望む信仰ではなかった。

 彼は杖を打った。

 「日没まで」


 縄がゆるむ。

 彼女は台から降ろされ、柱にもたせかけられる。

 膝が笑い、すぐに立てなくなる。

 笑いは涙と同じだ。形が違うだけ。


 「戻れ」

 ジードが兵に命じる。

 「人払いだ。ここは閉める」


 人が流れ、聖堂の扉が重く閉じられる。

 静かになる。

 彼は近づき、彼女にだけ聞こえる声で言った。

 「鐘は三度で止める手はずだった。四度鳴ったのは、誰の判断だ」


 「風の判断です」

 彼女は笑った。


 「君は俺を嘘で巻き込んだ」

 「あなたは自分で乗った」


 短い沈黙。

 ふたりの間を、冷たい光が通る。

 ジードは懐から白いものを取り出した。仮面。

 擦り傷が増え、角が欠けている。

 「返す。今の顔は、仮面がなくても立っている」


 彼女は受け取らず、ただ目を伏せた。

 「今は要りません。夕暮れまで、私は素顔で嘘をつきます」


 「夕暮れは長くならない。陽は決まった速さで落ちる」


 「それでも、誰かの歩幅は、それに追いつかない」


 ジードは頷いた。

 「南門は閉じた。北の橋は今、空いた。お前の嘘は、橋になった」


 彼女は目を閉じた。

 胸の中で、点と線が別の形に結び直される。

 ノエの足。母親の腕。兵の視線。司教の指輪。将軍の沈黙。

 そのすべてが一本の糸になり、夕暮れまでの時間を縫い止める。


 扉の外で、風が立った。

 遠くの鐘が、今度は正しく一度だけ鳴る。

 日が傾いた。

 日没までは、短い。

 短いが、足りる。

 足りないもののほうが、人はよく働く。


 再び、人々が戻ってくる前に、メリオルが祭壇の上で何かを整えている音がした。

 巻物の位置、杯の角度、聖書の開き。

 美しさを整えることで、彼は神を呼ぼうとする。

 呼べる神と、黙った神。

 どちらも彼には必要だ。


 「司教様」

 リシェルは声をかけた。

 「私を殺しても、沈黙は終わりません」


 「沈黙は罪だ」

 彼は振り向かず言った。

 「神は言葉によって世界を作られた」


 「では、あなたの言葉で、今日救われる子の数を言って」


 メリオルの手が止まった。

 短い間。

 やがて、手を再び動かした。

 「それは神の御心にある」


 「あなたの帳面にはないのね」


 返事はなかった。


 聖堂の扉が再び開くころ、空は金から灰に変わり始めていた。

 人が戻り、席が埋まり、息が重なってゆく。

 日没まで、あとわずか。

 嘘は細くなり、糸はきしむ。

 それでも、切れなかった。

 北の橋で、小さな靴が数足、石の上を渡る音が、ここまで届いた気がした。


 「執行だ」

 メリオルが言う。

 ジードは目を閉じ、開いた。

 兵が動く。縄が持ち上がる。

 リシェルは自ら一歩、台に上がった。

 震えは止まっていた。

 その代わり、手のひらに小さな痛みが残っている。

 先ほど柱に押し当てられた時にささくれが刺さった痕。

 痛みは生きている証拠だ。証拠は、嘘に耐える。


 群衆の隙間で、カイの影が揺れた。

 彼は剣に手を伸ばしていない。

 彼は彼女を見ていた。

 何も言わない。

 彼が沈黙できるのは、彼女がここに立っているからだ。

 彼が叫ぶのは、彼女が倒れたときだ。

 だから、彼女は立つ。


 縄が首に触れる。

 夕陽がステンドグラスの青を赤に変え、彼女の頬に沈んだ。

 彼女は目を閉じた。

 心の奥で、祈りが形を取った。

 沈黙の祈り。

 届かない祈り。

 届かないから、壊れない祈り。


 「どうか、この嘘が、誰かを救いますように」


 台が揺れた。

 その瞬間、鐘楼がもう一度だけ鳴った。

 五度目。

 予定になかった数。

 聖堂の外で、誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが倒れた。

 そして、北の橋で、最後の一組の足音が、石から土へ移る音がした。


 縄は締まらなかった。

 ジードの手が、台の支えを押さえていた。

 無表情。

 彼は声を出さない。

 彼は彼女を見ない。

 ただ、支えを押さえ続ける。

 「秩序のために」

 彼は口に動かさず言い、兵に向かって短く命じた。

 「混乱だ。解散」


 メリオルが杖を振り上げた。

 「将軍!」


 「司教」

 ジードは初めて彼を直視した。

 「これ以上は、神の名ではなく、人の名で行われる」


 沈黙。

 長い、重い沈黙。

 それは、今日いちばん強い祈りになった。


 縄が外される。

 彼女は膝から崩れ、台の上に掌をついた。

 木のささくれが割れて、血がにじんだ。

 その血の赤は、夕陽の赤より暗かった。

 暗い赤は、夜に似ている。

 夜は長い。

 でも、終わる。


 「連れて行け」

 ジードが言う。

 「独房ではない。聖堂裏の控えへ。日が完全に落ちるまで」


 兵が従う。

 人々は解散し、歌は消え、聖堂には足音と埃の匂いだけが残った。

 メリオルは祭壇の前に立ち尽くし、指輪を握りしめていた。

 彼もまた、沈黙しか持っていなかった。


 控え室は狭い。

 窓は小さく、空は薄い紫。

 彼女は木椅子に座り、両手を膝に置く。

 指先には血。

 傷は浅い。

 浅い傷ほど、長く痛む。


 扉が開き、ジードが入った。

 彼は何も言わず、机に白い布を置く。

 布には、点と線が描かれている。

 彼女が灰でよく描く印と同じ、読めない地図。

 「北の橋、通過。子ども十九。女十五。老人七」


 彼女は目を閉じた。

 涙は出なかった。

 泣くのは、他の誰かの役目だ。


 「この先は、別の嘘が要る」

 ジードが言った。

 「君は明日、別の名前で立つ。今夜のことは記録に残るが、顔は仮面で消える」


 「その嘘を、あなたは憎みますか」


 「憎む。だが、使う」


 彼は仮面を机に置いた。

 白は夜の色を少し吸って、灰に近かった。

 「花嫁の仮面は、誓いを守るためにある。明日は兵の仮面をつける。秩序を守るために」


 「あなたは誰の花婿」


 彼は答えず、窓の外を見た。

 日が落ちる。

 夜は来る。

 それでも、今日だけは、少し遅れて来た。


 控え室の薄い空気の中で、彼女は胸の奥の糸をもう一度結んだ。

 嘘はまだ終わっていない。

 終わらせるのは、たぶん自分ではない。

 自分は、終わらせないために嘘をつく。

 誰かが朝を持ってしまうまで。


 遠くで、鳩の羽音がした。

 今度は、足に何も結ばれていない。

 空は誰のものでもない。

 祈りも、たぶん、誰のものでもない。

 沈黙だけが、最後まで自分のものだった。


 彼女は仮面を見つめ、ゆっくりと手を伸ばした。

 明日の顔を、持ち上げる。

 笑いはない。

 涙もない。

 あるのは、細い線だけ。

 生きるための線。

 裏切るための線。

 救うための線。


 夜が、ようやく来た。

 嘘は、まだ終わっていなかった。




第5話 滅びの黙劇

 処刑の日は、季節の匂いがしなかった。

 風は吹いているのに、どの方角からか分からない。空は薄い灰で、炭を水で溶いたみたいに白んでいた。鐘楼の影が、石畳の隙間に細く入り込んで長い線を作っている。

 白い衣は、まるで新しい名前のように彼女のからだに馴染まなかった。

 絹ではない。粗い麻を漂白したもの。糸目の一つ一つがまだ眠っている。手首を通すと、擦れた跡に昨日までの生が浮き上がった。

 鏡はない。窓に映る自分は、輪郭だけで十分だった。

 帯を結ぶ指が、少し震えている。震えは恐怖ではない、と自分に言い聞かせる。これは合図。からだが、次の出番を知っている。

 扉が開く音がして、衛兵が二人、迎えに来た。

 彼らは目を合わせない。目を合わせるということは、後で目を閉じるということだと知っているからだ。

 鎖が手首に回され、金具が鳴る。小さく、一度。

 「歩け」

 彼らは乱暴ではなかった。乱暴に扱うほど、彼らは彼女を知らない。

 石畳に一歩を置く。鎖がまた鳴る。二度目。

 その音が、今日の最初の音楽になった。

 聖堂前の広場は満ちていた。

 ざわめきは潮の音に似ていて、押し寄せては引き、砂利と一緒に小さな罵声を置いていく。

 石が飛ぶ。狙いの甘い石。

 リシェルは顔を上げ、笑った。唇だけで。

 笑いは祈りよりも簡単だ、と気づく。祈りは言葉を必要とする。笑いは、形だけで届く。

 「売国の聖女」

 「神を穢した悪女」

 言葉は空に抜けるが、視線は皮膚に刺さる。

 視線を浴びながら、彼女は一人ひとりの中にいる「誰か」に気づこうとした。怒りの中にある空腹、正義の中にある不安、石を投げる腕の中にある、抱けなかった赤子の重み。

 見ることは、裏切りの始まりだ。裏切らなければ、誰も救えない。

 階段を上がる。

 断頭台は高く、台の板は新しい。

 昨日、油が塗られたばかりの匂い。木目の筋が、空の明るさを飲んでいる。刃は布にくるまれ、光らない。

 彼女は台の手前で足を止め、衛兵のうち若い方の顔を見た。

 まだ少年の骨格。頬に刃の跡。

 彼は一瞬、目を伏せた。祈る人の目ではない。今夜眠るとき、思い出さないための目だ。

 群衆の後ろで動く影があった。

 黒い髪、浅い傷。

 カイだと分かるより先に、胸が先に答えた。

 彼は衛兵の列を押し分け、何度も肩をぶつけられながら、前へ出て来た。

 「リシェル!」

 叫びは、朝の空気を割ってまっすぐ来た。

 「俺はまだ君を信じてる!」

 その瞬間、彼女は静かに目を閉じた。

 まつげが頬に触れる感覚が、今日になって初めて自分のものになった。

 鐘が鳴る。

 一度。

 二度。

 三度。

 ……彼女の胸の奥で、別の鐘がそれと違う数を数える。

 合図は決まっている。四度目は「まだ」。五度目は「いま」。

 四度目の直前、台の脇で誰かが息を飲む音がした。

 ジードがいた。軍装の肩章は跳ねず、目の奥だけが深くなる。

 彼は刃には触れない。台の支えに、わずかに手をかけただけで、視線を群衆へ流す。

 メリオル司教は壇上。白い法衣に紫の帯。指輪が光る。

 「秩序のために、今ここで」

 四度目の鐘が、遠くで、わずかに遅れて鳴った。

 風が向きを変えたのだろう。

 彼女は目を閉じたまま、唇を動かす。

 誰にも聞こえない小ささで。

 「ありがとう。もう大丈夫」

 五度目の鐘が鳴った刹那、世界が白く跳ねた。

 爆炎。

 聖堂の脇に並ぶ古い回廊が、内側から崩れる音。

 炎は高くはなかった。もっと低く、横へ広がる。

 瓦礫は前ではなく、内へ落ちる。外へ飛ぶ破片は、計算されたように小さい。

 燃えるのは、帳簿の置かれた納戸。聖像の影に隠された倉庫。

 怒りが溜められていた場所。祈りに似せられた数字が眠っていた場所。

 天井が崩れ、塵が舞い上がる。

 塵が光を捕まえて、白い鳥になる。

 白い鳥は、本当の鳥だった。

 回廊の梁に隠しておいた籠の扉が、熱で、あるいは誰かの手で、同時に開くよう仕掛けてある。

 真っ白な鳩が、煙の中からいっせいに飛び立つ。

 足には何も結ばれていない。何も告げない。

 だから、誰にでも読める。

 群衆は息を呑み、石を握った手をほどいた。

 炎の音より、羽音が大きく聞こえる。

 誰かが膝をつき、誰かが子を抱きしめ、誰かが「奇跡だ」と呟く。

 奇跡は嘘ではない。嘘で呼び寄せられたものでも、誰かの胸が軽くなるなら、それは奇跡だ。

 ジードの命令は短く、正確だった。

 「広場から外へ人を出すな。押すな。走らせるな。火は中だ。外は安全だ」

 兵は剣を抜かず、腕を広げ、列を緩く組み直す。

 人の流れが変わる。逃げる足が、守る足になる。

 メリオルが叫ぶ。

 「冒涜だ! 神殿に火を!」

 彼の声は届かない。

 届かないように、鐘は鳴り続け、鳩は回廊の外周を回って白い輪を描いた。

 リシェルは笑っていた。

 笑いは固くない。微笑むというより、ほどけていく。

 視界の端で、カイがこちらへ手を伸ばし、衛兵に止められる。

 「リシェル、来るなと言われても、俺は行く」

 彼はその言葉の続きを持っていた。彼女は知っている。

 だから、首を横に振った。

 唇だけで言う。「行って」

 カイは唇を噛む。血が滲むほど強く。

 それでも叫ぶ。「俺はまだ君を信じてる!」

 その言葉は彼のものにならず、空のものになって広場に降り注いだ。

 信じるという言葉は、誰かを縛るより先に、投げた本人の足を地面に繋ぎ止める。

 彼はそこで踏ん張り、彼女はそこで笑う。

 炎の縁で、隠されていたものが露わになった。

 黒焦げになった木箱の中から、鉄の鍵束、刻印付きの金の皿、いくつもの帳簿が落ちる。

 帳簿の紙は火に弱く、水に強い。

 回廊は水路に近い。消火隊の水桶がひっくり返され、紙は濡れて文字を守る。

 それを拾い上げるのは、戦場で死者の名を数えてきた書記官たち。

 彼らは何が大事かを知っている。誰の命令でも、もう止まらない。

 「見ろ!」

 誰かが叫び、群衆が波のようにどよめく。

 記された数字。徴収された麦の量、搬入された塩、兵糧の分配。

 神の名で集められ、神の名で消えたものが、そこに並んでいる。

 メリオルの顔色が変わった。

 彼は壇を降りようとして、足をもつらせ、杖で自分を支えた。

 指輪の石が光り、中央の刻印が露わになる。

 それは王都で唯一の徴収印。教会しか押せない印だった。

 ジードの声が広場を渡る。

「司教、あなたの記録を預かる。秩序のために」

 メリオルは顔を上げ、ジードを睨む。

 「軍が神を裁くのか」

 「神は裁かない。人を裁くのは人だ」

 短い応酬。

 そのわずかな間に、火は弱り、煙は薄くなる。

 鳩は高く上がり、灰の上を白い点に変わる。

 子どもが泣き止み、母親が肩で息をする。

 世界は、ほんの少し、生き延びることを思い出した。

 リシェルは台の上へと進む。

 刃布が外され、金属がわずかに光る。

 衛兵が迷いの目を持つ。彼は若い。

 「本当に……」

 彼は言いかけて黙り、視線だけで訊く。

 彼女は頷く。

 「大丈夫」

 彼女はジードにも視線を送った。

 将軍の目は静かで、浅く濡れている。

 彼は声にしない。「秩序のために」

 秩序は、誰かの死でしか立たない場面がある。

 憎んで、使う。彼は昨夜そう言った。

 カイの方へ、最後の一瞬だけ視線を向ける。

 彼は首を振る。

 「やめろ」

 声は掠れている。

 彼は今なら剣を抜けた。抜いて血を流させ、彼女を連れ去ることもできた。

 でも、しなかった。

 彼は彼女の「嘘」を知ってしまったからだ。

 この混乱が、戦を止める唯一の策であることを。

 彼女は台に膝を置き、前に伸びる木の香りを吸い込む。

 晒された首の皮膚に、朝の空気が触れる。冷たく、正直な温度。

 目を閉じる。

 沈黙の祈りが形を取る。

 届かない祈り。壊れない祈り。

 「どうか、この嘘が、誰かを救いますように」

 刃が落ちる音は、意外にも軽かった。

 鐘の音に似ていて、鐘ほど美しくはなかった。

 世界が一度止まり、すぐに動いた。

 誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが座り込んだ。

 鳩が最後の輪を描き、遠い空の色に紛れた。

 台の板に赤が広がる。

 赤は濃い。濃い赤は、夜に似ている。

 夜はいつも長い。でも、終わる。

 彼女の夜は、ここで終わった。

 終わりは、誰かの朝に連なる。

 ジードは目を閉じ、ひとつ長い息を吐いた。

 兵に静かに合図する。

 「記録を取れ。今日を残せ」

 彼は壇上の帳簿を文官に渡す。

 「この数字は、神のものではなく、人のものだ」

 メリオルは言葉をなくし、指輪を握りしめた。指の白さが、嘘の血色を奪っていく。

 カイは人波に押されながら、立っていた。

 剣は抜かない。泣かない。叫ばない。

 彼の胸の内で、何かが静かにひび割れる。

 ヒビは音を立てない。音が立つのは、壊れる時ではなく、繋ぎ直す時だ。

 彼はゆっくり、深く息を吸い、吐く。

 そして、彼女が最後に見せた笑いと、鳩の白と、炎の低い音を、胸の奥に縫い付けた。

 「俺はまだ君を信じてる」

 それはもう彼女にではなく、これからの自分に向けた誓いだった。

 広場の隅で、少年ノエが胸を押さえていた。

 息は浅く、目は赤い。

 彼は人波の陰からそっと顔を出し、台を見た。

 視線は長くは留まらず、すぐに門のほうへ走る。

 彼は走り方を知っている。転んでも立ち上がれる者は、次の朝まで走れる。

 ノエは走る。橋のほうへ。北へ。

 そこで彼は、濡れた帳簿の束を抱えた書記官とすれ違う。

 その束は重い。

 でも、持てる。持たなければならない重さだ。

 午後、火は完全に消えた。

 聖堂の回廊は黒く、破れた空が見える。

 黒と白だけで描かれた空は、絵のように静かだ。

 ジードは瓦礫の前に立ち、肩で風を受ける。

 「停戦を宣言する」

 彼はそう言い、周囲の将校たちに短く命じる。

 「南門を閉じ、北の橋を護れ。今日、死ぬのはここで終わりだ」

 誰かが問う。「上は認めるでしょうか」

 ジードは答えない。

 答えない代わりに、空を見上げる。

 鳩の白はもう見えない。

 けれど、灰がゆっくり落ち続けている。

 灰は雪に似ていて、雪より温かい。

 灰の中で、今日だけは、刃の影が薄い。

 夕暮れ、彼は控え室の扉を開けた。

 机の上に、白い仮面が置かれている。

 角が欠け、擦り傷が増え、白は灰に近い。

 彼はそれを掌に乗せ、目を閉じた。

 「君の嘘は、今日、国を救った」

 声にしない。

 声にすれば、誰かが奪う。

 沈黙は、最後まで彼のものだ。

 夜、街は早く眠った。

 火の後の眠りは深い。夢は浅い。

 夢の中で、鳩がまた飛ぶ。

 白い影は、誰のものでもない空へ。

 祈りは、たぶん、誰のものでもない。

 ただ、届かないから、壊れない。

 翌朝、噴水に白い羽が一枚浮かんでいた。

 拾い上げたのは、カイだった。

 彼はその羽を掌で温め、胸の内側にしまい込む。

 そして歩き出す。

 剣はまだ鞘にある。出番は遅れてやって来る。

 彼が向かうのは北だ。橋だ。

 彼女が最後に描いた点と線の続きを、誰かが歩かなくてはならない。

 誰も知らない。

 この混乱こそ、戦争を止める唯一の策だったことを。

 彼女が火を選び、鳩を放ち、帳簿を水にくぐらせ、刃を受け入れた順番を。

 そして、彼女の死をもって国が救われたのではなく、彼女の嘘が人を生かしたのだということを。

 滅びの黙劇は、観客が帰ってからが本番だ。

 舞台の上には誰もいない。

 それでも、結び直された糸は、確かに残っている。

 朝の光がそれを照らし、灰の匂いの奥で、新しい息がゆっくりと動き出す。

 彼女の笑いは、もうここにはない。

 けれど、白い羽の軽さだけが、今日の空を少しだけ軽くした。

 沈黙の祈りは、終わらない。

 終わらないものだけが、人を生かすときがある。



第6話 祈りのない世界で

 十年という時間は、石を丸くし、人の呼吸を浅くする。

 かつて鐘の音で満ちていた町は、今はパンを焼く匂いで朝を始め、広場の噴水は子どもたちの叫び声を受け止める。石畳の継ぎ目からは草がのび、冬に短く刈られ、春にまた伸びる。人が生き直す速度に合わせて、緑もやり直す。

 教会は半分だけ残った。

 焼け落ちた回廊はそのまま空に開き、新しく建てられた翼廊は質素で明るい。以前は聖句が金で縁取られていた壁も、今は小麦の束と子どもが描いた鳩が貼られている。祈りは短くなり、代わりにパンの焼き方と種のまき方の冊子が棚に並ぶようになった。

 その片隅に、名前のない墓がひとつある。

 花が絶えない墓だ。

 小さな石の十字も、金の装飾もない。ただ平たい石板の上に白い羽根の模様が刻まれ、誰かがいつも、季節の花を生けている。雨の日は濡れたまま、晴れの日は陽を浴びたまま、それでもいつも、そこに花はある。

 朝の一番の鐘が鳴ると、男がやって来る。

 背は高く、背筋はまっすぐで、歩幅は大きい。

 名前はカイ=アルヴァート。

 彼はもう祈らない。

 祈らないで、立つ。祈らないで、花を替える。祈らないで、石板を拭う。祈らないで、息を吐く。

 十年前、彼は剣の柄を握っていた。

 今、彼は鍬の柄を握っている。

 土は剣より重い。だが、手に残る痣は薄い色をしていて、夕方の光でやさしく光る。彼は町外れの畑で暮らし、昼は土を掘り、夜は灯の下で子どもに字を教える。教会の裏庭の掃除だけは、誰にも譲らず自分の仕事にした。

 墓の石に手を触れる。

 温かい。

 朝の陽がすでに乗っていて、石は冷たくない。

 指先にざらりとした感触が残る。あの頃の言葉のとげとは違う、鈍い安心の質感だ。

 花を置き換える。

 今日は白い小さなマーガレットにした。中央の黄色が朝日に似ている。

 彼は無造作に花をまとめ、土に挿し、根に水をやる。水はすぐにしみこみ、石板の側面を伝って地下へ消えていく。そこは涼しいと、なぜだか思った。地面の下が涼しいというだけではない。誰かの息がそこに安く眠っているからだ。

 風が吹いた。

 花びらが舞い、羽根の彫り物の上で踊る。

 カイはめを細め、指を額に当てる。汗はまだ少ない。けれど、心臓の鼓動はいつもより近くに聞こえた。

 「おじさん、今日も早いね」

 振り返ると、教会付属の学校の少女が立っていた。

 髪を二つに結び、脛に擦り傷、手には古い本。名はミーナ。十歳。

 彼女は毎朝、教会へ来て、古い合唱台の埃を拭く。合唱ではなく、読み書きをするための台になってから、子どもたちの声は聖歌よりずっと自由な高さを覚えた。

 「畑の前に、少しだけな」

 カイは笑う。笑いは、十年前よりも静かに出てくる。

 ミーナが墓の花に目を留める。

 「このお墓、ほんとすごいよね。毎日違う花がある。誰が置いてるのかなあ」

 「誰でも、いいんだ」

 カイは答える。

 「誰が置いた花でも、ここでは同じに見える」

 ミーナは石板の羽根を指でなぞり、瞳を輝かせた。

 「白い鳥。私、これ描く練習してるの。上手く描けるようになったら、学校の壁にも描いていいって」

 「いい先生だ」

 「うん。前の先生は、聖歌ばっかりだったけど、今の先生は字の書き方と、棚の作り方と、雨水の集め方を教えてくれる。私、字と棚は得意になったけど、雨水はまだむずかしい」

 「むずかしいことは、分けるとうまくいく」

 カイは石板を撫で続けながら言った。

 「大きい桶に貯めるんじゃなくて、細い溝をいくつも作って、少しずつ。溝は互いにつながって、どれかが詰まっても全部は止まらないように」

 ミーナは頷く。

 「それ、先生も言ってた。『戦争も、雨水も、ひとつの太い道じゃなくて、たくさんの細い道で考える』って。おじさんも先生みたい」

 「先生は、先生だよ」

 ミーナは笑い、背中の本を抱え直した。

 「今日の授業、遅れないでね」

 「分かった」

 ミーナが駆け出す足音は、石畳で跳ね、回廊のほうへ消えた。

 彼女の背中を見送り、カイはまた墓へと向き直る。

 白い羽根の彫り物に朝の光が差し、線の浅いところだけ影が濃くなる。羽根は石の上に貼り付いているのに、今にも浮いて飛び立ちそうに見えた。

 十年前の朝も、風は吹いた。

 鳩は飛び、火は低く燃え、帳簿は濡れて、嘘は人の手の中で形を失い、別の形に織り直された。

 あの朝の後、町は長い夜を抜けた。

 停戦は周到に延長され、軍の補給路は別の物流路に生まれ変わり、徴発は村の共同倉に名を変えた。誰かが決めたのではない。たくさんの人が、少しずつ変えた。細い溝のように。

 ジードは戦の責を負い、階級をおり、北の畑で暮らすようになった。

 彼は決して教会に入らない。だが、教会の前を通るときは帽子を取る。帽子の中は、今も昔の夜の匂いがする。

 メリオルの名は帳簿から消えた。彼はどこかの修道院の小さな部屋で、紙と冷たいスープの匂いに囲まれ、静かに暮らしているとうわさで聞いた。裁きは誰にとっても長い。神ではなく、人が裁くと、こんなに時間がかかるのだと知った。

 街の人々は新しい言葉を覚えた。

 「献納」ではなく「分かち合い」。

 「施し」ではなく「預け合い」。

 祈りの言葉が減ったわけではない。増えもしない。ただ、祈りを口にする前に、体を動かすやり方を覚えた。それは祈りを薄めたのではなく、祈りの前に置く静かな時間を長くした。

 カイは一度、教会の司書から尋ねられたことがある。

 「彼女の名を、石に刻みませんか」

 彼は首を振った。

 「名は、たぶん別の場所に刻まれている」

 子どもの背に。パンの香りに。畑の畝の直線に。合唱台の鉛筆の跡に。

 刻むなら、そちらのほうがいい。

 風が強くなった。

 花びらがひとひら、羽根の彫り物から浮かび、ゆっくり上がっていく。

 陽光が墓を照らし、温度が一瞬だけ上がる。

 空気が薄くかすれ、世界が耳の裏で鳴る。

 そのとき、彼は聞いた。

 声は小さく、息と息の重なり目で、かすかに。

 ――祈りは、いらない。ただ、生きて。

 カイは目を閉じる。

 まぶたの裏で、鳩の白と、炎の低い音と、刃の鈍い光が重なってほどけていく。

 十年という時間が、一瞬だけ逆流した。

 彼は膝を折らない。

 立ったまま、息を整える。

 祈りはしない。

 ただ、胸の底に積もっていた薄い灰を、そっと吹き飛ばす。

 「生きるよ」

 声にはならなかった。

 でも、声より深く、石に染みた。

 墓の上の花が、ほんの少しだけ音を立てた気がした。茎が、風の方向を選び直すときの、若い音。

 午前の授業まで、まだ少し時間があった。

 カイは石段に腰を下ろし、教会の壁に背を預け、空を見上げる。

 回廊の欠けた四角の向こうに、雲が進む。

 雲は何も知らない。

 でも、ここに吹く風は、知っている。

 風は町の角という角を通り抜け、焼け跡の灰を運び、子どもがこぼした粉砂糖を攫い、畑の土の匂いを抱えて、また戻ってくる。

 「カイ」

 声に顔を上げると、教会の扉から年配の女性が現れた。

 元・聖歌隊の指揮者、今は読み書きの先生。名はアナ。

 彼女の腕には古い帳簿が抱えられている。十年前、水にくぐらせて文字を取り戻した束のうちの一冊だった。

 「今日の午後、これを読み返す授業をするの。『昔の数字の言い方』って題でね。子どもたちに、数字が祈りを騙ることもあるって、ちゃんと教えたい」

 「良い授業だ」

 「あなたも、来てくれる?」

 「俺は字を教える番がある」

 「そうね」

 アナは微笑み、墓へ目をやった。

 「この花の色は、季節に合ってる。あなたは季節をちゃんと覚えてる」

 「畑が教えてくれる」

 アナは帳簿の角を指で撫でてから、肩をすくめた。

 「時々、思うの。十年前、私たちが歌ったあの歌は、祈りだったのかしらって。言葉がない歌。怒りや正しさを遠ざけるための、ただの旋律」

「十分だった」


 カイは言った。

 「言葉が行き過ぎる前に、息が止まるのを防いでくれた」

 「あなたは、彼女に何か言いたい?」

 カイは墓に向き直る。

 言う言葉はいくつもある。どれも長くない。

 ありがとう。

 まだ、続ける。

 信じるという言葉は、今は自分へ向けて使っている。

 でも、今日は言わない。

 彼はただ、石板を軽く叩いた。

 石は硬く、乾いた音を返した。

 その音は、なぜだかやさしかった。

 日が高くなる。

 ミーナたちの声が翼廊のほうから響いてきた。

 「あの字が、こう」「雨樋はここにつける」といった細かい声が重なり、笑いが混じる。

 笑いは、昔の戦の喧噪よりずっと騒がしいのに、耳に刺さらない。

 午後、カイは畑へ戻る。

 鍬は重い。畝の間を歩くと、土の高さが一定でないことに気づく。

 彼はそれを直す。

 まっすぐに、ではなく、苗の背丈に合わせて。

 まっすぐであることは、気持ちがいい。だが、生き物はまっすぐではいられない。

 十年前、彼は剣をまっすぐに振ることを覚えた。

 今、彼は畝をなめらかに曲げることを覚えている。

 曲げることは、弱さではない。風に折られないための技術だ。

 夕方、教会に戻ると、子どもたちが庭に丸く腰を下ろしていた。

 アナが帳簿を広げ、読み上げ、子どもたちはそれを今の言葉に移し替えていく。

 昔の「一樽」を今の「袋」に。昔の「献納」を今の「預け合い」に。

 言葉が動く。

 動く言葉は、人を連れて動く。

 ミーナが手を挙げた。

 「先生。ここに、白い羽って書いてある。『白羽の印』。これはなに?」

 アナは目を細め、ゆっくりと子どもたちを見渡した。

 「合図よ。『ここは出入口。ここは誰にも触れさせない』っていう、静かな合図。昔の人が、祈りの代わりに書いたもの」

 「祈りの代わりって、祈りをしないってこと?」

 別の子が訊く。

 「祈りは、要らない時もあるの。言葉が邪魔になる時も。そういう時、人は息を合わせるのよ。息を合わせたら、怖いけど、歩ける。そういう合図」

 ミーナはそれを聞き、くるりとカイのほうを見た。

 彼は小さく頷いただけだった。

 頷くたび、胸の奥で灰が少しずつ軽くなり、空気が入る場所が広がっていった。

 日が沈みかける頃、教会の鐘がひとつ鳴った。

 誰も綱を引かない。

 風が鳴らす。

 音は薄く、低く、長く尾を引く。

 十年前の鐘と同じ音で、けれどもう、あの朝の恐れは伴っていなかった。

 帰り道、カイは市場を抜けた。

 果物の匂い、布の色、道端の古道具。

 古い仮面がひとつ、棚に掛かっていた。

 白い仮面。目元だけを覆う薄いもの。

 角は欠け、傷がある。

 彼は足を止め、手に取らなかった。

 仮面は、いまは要らない。

 必要な時には、もう誰でも持っている。笑うときの口元、泣くときの肩、誰かに手を貸すときの沈黙。そういう仮面が、町のそこら中にかけられている。

 夜。

 小さな家で灯をともす。

 机に帳面。今日の畑の記録。

 降った雨、土の湿り具合、苗の背。

 ふと、窓が鳴った。

 風だ。

 窓を少し開けると、ひんやりした空気が入り、灯が揺れた。

 羽のような影が、机の上を掠める。

 彼はそうっと窓を閉め、椅子に戻る。

 机の端の小箱を開ける。

 中に、白い羽が一枚。

 十年前、噴水で拾ったものだ。

 彼はそれを掌に落とし、しばらく見つめる。

 羽は軽い。軽いのに、落ちる。

 落ちるのに、風があれば高くいく。

 彼は羽を箱に戻し、蓋を閉める。

 寝台に横になる前、彼は胸に手を当てた。

 鼓動は静かだ。

 かつては戦の前に聞こえた音が、今は眠りの前に聞こえる。

 目を閉じる。

 暗闇の底で、また、かすかな声がした。

 今度は、風の音に混じらずに、はっきりと。

 ――祈りは、いらない。ただ、生きて。

 彼はうなずく。

 うなずきは、誰にも見えない。

 見えないまま、胸の奥が明るくなった。

 祈りを失った世界は、何かを諦めた世界ではなかった。

 祈りより先に手を伸ばすやり方を覚え、祈りより後に言葉を置く世界だった。

 神も、国も、誰も知らない。

 ひとつの嘘が、永遠の救いになったことを。

 朝が来る。

 彼はまた石畳を歩く。

 墓には新しい花。

 名のない石板。

 白い羽根の彫り物。

 風が吹く。

 花びらが舞い上がり、陽光が石を照らす。

 世界は、静かに息を吹き返し続ける。

 息が続く限り、人は少しずつやり直せる。

 やり直すたび、名前のない墓の上で、白い羽根は、確かに揺れた。


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