万能薬なれども
目が覚めた時、私の視界は明瞭であった。どうしてそれに違和感を抱いたのであろうか。元来、床に臥せぬ限り人間の視界とは広く正確なものである。
しかし、長らく病に蝕まれてきた私にとって、久方ぶりの正確な世界がそこにあったのだ。眼病を患い、歩くことすらままならず、数年と持たぬ命であったはずなのに――失った膂力でさえ、嘗て船頭として営んでいた頃の力を取り戻していた。
当然この状況を理解できるはずなどなかったのだが――思い当たる節が私にはあったのだ。
江戸で船頭をしていた頃、客人の一人がぽつりとこうこぼしていた。
「船頭さんや、人魚の肉を食べるとどうなるか知っていますかな」
咄嗟の問いかけに私は戸惑ったが、すぐさまこう返答した。
「いいえ、私は船頭であって漁師ではありませんから。魚のことは詳しくありませんよ」
「左様ですか。でしたら絶対に口にはせぬように。きっとその時はよくともいずれ後悔しますから」
「それはどういう意味でしょうか?」
「万能薬だからです。ええ、如何なる傷も病気も治してしまう万能薬なのです。ですから口にしないように」
ならば尚更欲しいと思った途端、目の前の客が川へ飛び込んだ。慌てて川を見やれば、そこには魚の尾びれが一瞬見えた。だが、次の瞬間には川の奥底へと消えていた。
それから暫くして、腕利きの薬師である客人に出会った。何でも唐にまで渡り、漢方学の何たるかを凡そ学んできたという。その頃からだろうか、光をより一層眩しく感じ始めていたのは。朝方と夕方ほど眩しくて仕事もままならないと伝えた所、薬師はこう言った。
「残念ながら漢方薬ではこれほどの重病は治せないでしょうな。本来であれば。ええ、そういったものは外科……唐でしか治せないことでしょう。ですが、この万能薬であればきっと治せるでしょう。せっかくの縁です。たったの一両でお渡しいたしましょう」
「一両だと⁉ たかが漢方薬にそのような価値など……!」
「要らないのでしたら構いません。ですが、たったの一両で人生が変わるのでしたら……安いものですよ」
私は悩みに悩んだが、薬師の問答も相まって結局買ってしまった。よく分からない薬を服用するなど恐ろしく、死の間際まで摂取することはなかったが――遂に今日服用したのだ。
して私は老衰という病気でさえ克服し、現在に至る。姿が変わらぬ以上、船頭を続けるわけにもいかず、人里を離れ、一人寂しく今を過ごしている。
あの時、私は死ぬべきだったと今でも思っている。一時の苦しさを逃れるため、私は永劫に終わることのない生命という名の牢獄に囚われたのだ。
だから私は私を求めて川にやってきた者にこう告げるのだ。
「人魚の肉は絶対に口にはせぬように。きっとその時はよくともいずれ後悔しますから」