七枚目 リリ その壱
この猫は良い。高く飛べて、長く走れて、夜目も効く。
やはり猫の身体を使うなら飼い猫だ。野良猫ではここまで機敏に動けない。
一際目につく教会の屋根に登った。大きな街だ。鳥が寄らぬ高所だというのに、街の全貌を観ることができない。
夜風に乗って泣き声が届いた。
屋根から屋根へ飛び移るにつれ、泣き声は大きくなる。
泣いていたのは少女だった。開けっぱなしの窓から私は家へ入り、食卓のランタンに照らされた少女の足元に歩み寄る。
「なぜ泣いている?」
私は語りかけた。
「誰! 誰!」
取り乱す少女の足に私は手を置いた。こうすれば大概の人間が落ち着くことを私は知っている。
「落ち着いたかい」
「すごい! 猫さんが喋っている」
「話せる猫もいる。君が知らないだけだよ」
「リリあなたを知ってるわ。パンをあげたことあるもの。リリのこと覚えてる?」
「すまないね、覚えていないんだ。リリはなぜ泣いていたんだい?」
リリは暗闇を指差して「お母さんが動かない」と言った。
暗闇の中には目と腕と腹と足が赤い女が倒れていた。リリの言う通り赤い女は赤い血さえも動いていなかった。
暗闇をぐるりと回った。家中の棚という棚が噴火したような有様だった。あちこちに衣類やら割れた皿が散らばっている。
「リリ、お母さんは殺されていたよ」
「どうしてお母さんが! お母さん悪いことしてないのに」
「物取りの邪魔をしたんだろうね」
「それは悪いことなの?」
「悪いことさ、物取りにとってはね」
「なんでなんで」
リリはまた泣き出した。震える足に手を置いても今度は泣き止まない。
「リリ、悲しいかい?」
「リリ、寒くないかい?」
「リリ、喉は渇いていないかい?」
「リリ、お腹は空いていないかい?」
「リリ、お母さんにもう一度会いたいかい?」
泣き声が止んだ。
潰れた蛙のような顔を私に向ける。
「会えるの? お母さんに」
「会えるさ。私の言う通りにできるかい?」
リリは勢いよく首を振り下ろす。
私は食卓に飛び乗ってリリの顔を照らすランタンに触れた。
「このランタンの火でお母さんを燃やしてごらん」
「そんなのダメ!」
「どうしてだい?」
「火はさわっちゃダメなの。あぶないってお母さんが言ってた」
「リリは物知りだ。確かに火は危ないものだよ。けれどこの火でお母さんを燃やせばまた会える」
「ほんと?」
「本当さ」
「でも、燃やすなんてお母さんがかわいそう……」
「君は賢い子だね。そうさ。お母さんを可哀想にするんだよ」
「え?」
「目と腕と腹と足を刺されて殺されたお母さんをもっと可哀想にするのさ。燃やしてごらん。お母さんはもっともっと可哀想になる。もっともっとお母さんが可哀想になればリリはお母さんに会えるよ」
「ほんと?」
「本当さ。リリのお母さんをこの街で一番可哀想なお母さんにするんだ」
「一番かわいそうなお母さん?」
「目と腕と腹と足を刺されて殺されたお母さんなんてこの街には沢山いるんだ。私は昨日も一昨日もそんなお母さん達を見てきたよ。同じでは駄目なんだ。リリのお母さんが一番可哀想なお母さんでなくては、だからリリ、お母さんを燃やそう」
リリは黙り込んだ。
私の言葉をしっかり飲み込んでしっかり消化しようとしている。
やがてリリはランタンを手に取って言う。
「わかったわ。でもお母さんはまだ燃やさない」
「どうしてだい?」
「燃やしたらお母さんは一番かわいそうになるの? 燃やしてもニ番ならお母さんに会えないもん。だから燃やす前にリリがたくさんお母さんをかわいそうにする」
「素晴らしい!」
「猫さんもお手伝いして」
リリは赤い女の元へ駆け寄った。固まった女の口をこじ開けて、床に散らばっている何かを手当たり次第に詰め込んでゆく。
「猫さん。お母さんをバラバラにしたらかわいそうかな?」
「リリにバラバラにされるお母さんはきっと一番可哀想なお母さんさ」
「じゃあバラバラにする」
「手伝おう」
切って叩いて削るを繰り返した。
切って叩いて削るにつれて赤い女の身体はリリよりも小さくなっていった。
さあリリ。
お母さんを燃やそう。
ここから始めよう。
幕を上げよう。
「猫さん、名前教えて」
「エイト」
「えいと? 変な名前。どういう意味?」
「一座をまとめる神様って意味さ」
汗まみれで血まみれで肩で息をしていたリリは「神様なのー」とえくぼを見せた。
ランタンの赤い火が、赤い女だった塊へ投げ入れられた。