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かえりみち  作者: 以下同文
3/12

遭遇

アビャビャ

「……あれ?」


 息が止まった。

 正面の通り――十メートル先の店のシャッターが、ひとつだけ開いている。

 そこに、古びた木の扉があった。

 さっきまで、確かに全部閉まっていたはずだ。


 ぞくり、と背筋を冷たいものが這い上がる。

 これまでのどの店も、ガラスの自動ドアか木製の引き戸。

 ()()()なんて、ひとつもなかった。


「……嫌な予感しかしねぇ……」


 口に出した瞬間、声が自分のものじゃないように聞こえた。

 それでも、足は勝手に扉へと近づいていく。

 リュックの肩紐を握る手が、じっとりと汗ばむ。


 扉は装飾もない無骨な木製。

 ウォールナット色の板はところどころ剥げ、継ぎ目には緑色の苔が染み込んでいる。

 だが、取っ手だけが異様に目立っていた。

 場違いなほどに豪奢で、鈍く光を反射している。

 何の変哲もないのに、妙に“触れてはいけない”気配がする。

 まるで見知らぬ誰かが、自分を待ち構えているような。


 耳を澄ます。

 ……何も聞こえない。

 呼吸音すら、吸い込まれていくような静寂。


「罠か……?」


 しかし、恐怖よりも、停滞の方が怖かった。

 ここに来て、もう何時間も経っている。

 この場所には時間があるのかどうかも怪しいが、腹の虫は確かに現実を訴えている。

 何かが動いた――この静止した世界の中で、唯一の変化が現れたのだ。

 逃すわけにはいかない。


 息を殺してノブに手をかける。

 冷たい。まるで、生きているような温度がない。

 思いきり引く――動かない。

 押すと、拍子抜けするほど簡単に開いた。


「っ、は……?」


 開いた扉の向こうは“闇”だった。

 黒ではない。

 “吸い込む色”だ。

 床も壁も、奥行きさえも存在しない、真っ暗な空間。


「……嘘だろ」


 次の瞬間、風が吹いた。

 冷たい。

 この空間では一度も感じたことのない風だ。

 頬を撫でたその流れに、思わず一歩退く。

 鼻先に、生臭い鉄の匂いがかすかに漂った。


「……やめろよ……やめろって……」


 誰もいないのに、何かが()()()()

 引き寄せられるように足が前へ出かけた瞬間、背筋に悪寒が走る。

 慌てて後ずさると、扉の前に落ちた小石が――吸い込まれるように闇の中へ消えた。

 音は、しない。


「……落とし穴……?」


 震える声が、自分でも情けないほど掠れている。

 もしあのまま踏み出していたら――。

 想像するだけで、膝が笑った。


 その時だった。


 暗闇の奥で、かすかに光が灯った。

 最初は錯覚だと思った。


 光と呼ぶには弱すぎ、影と呼ぶには温かい。

 だが、それは確かに動いている。

 光が集まり、ぼんやりと輪郭を成す。

 丸い点が二つ、その下に横に細い線がひとつ。

 それが顔の形を作っていく。

 その瞬間、俺は()()()()()()とわかった。


「……お……ぉい……」


 声がした。

 人の声……の、はずだった。

 低く、濁ったノイズ混じりの声。

 どこか壊れたスピーカーのような、割れた音質で。


「おーい……」


「……ひ、人? 誰かいるのか?!」


 返事は、すぐに来た。


「……おーい……オーイ……」


 光の()が歪む。

 笑ったように見えた。

 そして、動き出す。

 音も立てずに、滑るようにこちらへ。


「う、うあぁ……!」


 呼吸が浅くなる。

 冷や汗が首筋を伝う。

 その顔は光を増やし、まるで数百の目がこちらを見ているかのようだった。


「オーイ、オーイ、オーイ、オーイィィィィィ!!」


「うわああああああぁぁぁぁぁっ!!」


 さらなる異常性との遭遇に限界だった。

 咄嗟に扉を閉め、全力で駆け出した。

 足音が床を叩くたび、背後の空気が震える。

 追ってくる――そう確信して、振り返ることはできなかった。



「はっ……はっ……はぁっ……」


 どれだけ走ったかわからない。

 息が、痛い。

 心臓の鼓動が耳の奥で爆ぜている。


 やがて力尽き、膝をつく。

 リュックの中の水を掴み、無我夢中で飲む。

 冷たさが喉を通る感覚に、やっと生きている実感が戻ってきた。


「な、なんだったんだよ……あれ……」


 足が震えて立っていられず、その場に座り込む。

 手の中のペットボトルが、ガタガタと音を立てる。

 怖い。

 だが同時に、逃げられたことへの微かな安堵があった。


「……時間、進んでねぇな」


 見上げた天井越しの空は、まだオレンジ色だった。

 あの夕暮れが、何時間も前から変わらないままだ。

 まるで世界が“止まっている”ように。


「……くそっ……もう、嫌だ……!」


「――ィ」


 ……声?

 耳を澄ませる。

 かすかに、何かの音が聞こえてくる。


 誰かいる? こんな場所に? 自分以外に? 本当に? さっきのやつが追いかけてきた?


 疑問は尽きない上、先ほどの体験もあって体が強張る。

 少しだけ考えた後、音が聞こえてきた場所、広場の奥、左の通路を恐る恐る覗き込むと――


「っ!」


 息を呑んだ。

 そこにいた()()は、もはや人ではなかった。


 背丈は自分と同じほど。

 だが、頭が異様に大きい。

 平たく歪んだ顔。

 眼も口もない。

 手には、刃物のように長い鉤爪。

 全身は黒い針金を絡めたような質感で、光を吸い込んでいた。


 動かない。

 けれど、確かに生きている気配だけが漂っている。

 街灯がノイズを発し、チカチカと点滅するたび、そいつの影が揺れた。


(……頼む、見つかるな、見つかるな……)


 祈るように息を潜める。

 が、次の瞬間。


 ――ギュルン。


 化け物の首が、ありえない角度で回転した。

 目のない顔が、こちらを()()


「――豎昴b謨第ク域アゅ?繧九°? 縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺縺」


 耳の奥に直接響くような、意味不明なノイズ。

 その音を理解しようとした瞬間、頭痛が走る。

 視界が滲む。

 表情は分からないはずなのにきっとそいつは、笑っていた。


「もう嫌だあああああっ!!」


 全力で走る。

 通路を抜け、角を曲がり、何度も転びながら逃げた。

 振り返ると――いない。

 いや、いないはずの影が前方から伸びてきた。


「は……?!」


 地面に飛び込み、間一髪で避ける。

 背後で、鉤爪が石床を裂く音が響いた。

 化け物は日陰から半身を出している。

 

(影の中を移動している?!)

「そんなの、ありかよ!」


 もつれた足で必死に立ち上がり、這うように逃げる。

 だが、あと少しの距離でその怪物は立ち止まった。

 何かをためらうように。

 そして、影の奥へとゆっくり沈んでいった。


 ……追ってこない。

 なぜだ?

 あいつは、なぜ――。


 気づけば、新しい広場に出ていた。

 中央に、静かに水を湛えた噴水がある。

 この世界で初めて日常に存在するオブジェを見た。

 それが、涙が出るほど美しく思えた。


 膝が崩れ、目の前がぼやける。

 水音が遠くで響いた。

 安堵と疲労が混じり、意識がゆっくりと沈んでいく。

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