異世界人の異世界旅~人魚の国の大騒乱~
人間界の最南端、ヤクート島。それは美しい海に囲まれた小さな島。空から降り注ぐまばゆい陽光は真っ白な砂を、瑞々しい木々の緑を、そして澄みきった海の水をきらめかせている。
「見て! キレイな色の魚!」
「すげェな……こんな場所がこの世にあるなんて思いもしなかったぜ」
そして浅瀬を埋め尽くす色とりどりのサンゴには、二人が見たこともないような奇異な魚たちが溢れていた。青や橙色をした魚、風船のような丸い体に不釣り合いなヒレを付けた魚、果ては赤と白のしましまのエビ……寒い所に生きてきた二人にとり、この島は未発見という何物にも勝る宝に満ちた場所だった。
「ここ、人がぜんぜんいないんだナ」
「確かに、こんなキレーな場所、もう先客が来てるもんだと思ったが、流石にこんなとこまで来やしねェか」
この二人は地図に見た「青い水晶」を意味する名を冠したこの島に何か惹かれるものを感じ、大海原の王国の外れにあるここまでやってきた。一周するのに十分とかからないくらいの小さな島だ。普通だったら訪ねてくる人はおろか住む人もいない……はずだが、不思議なことに、ここには確かに人が住んでいた形跡があった。
「なァジーナ。色んなとこに打ち捨てられてた石像、あれはなんだろうな」
「さァ……昔はかみさまがいたんじゃないかナ」
ジーナと呼ばれた少女は話しながら砂浜にどかっと座り、履いていたズボンを脱ぎ捨てると、取り出した花柄に染め抜かれた赤い布を腰に巻き付け、ギュッと縛りつけるなり立ち上がった。
「こんな所で難しい話をするの良くない! ウィレム泳ご!」
「……まっ、それもそーだな。」
少年は相方の散らかした服を丁寧に畳み終えると、雑に畳んだ自分の服と一緒に袋に突っ込んでから木のそばに放り投げると、そわそわしているジーナの手をつかんだ。
「はやくはやく!」
「わーったよ、あせんなって」
空は雲ひとつない晴天、湿気を帯びた風がさざなみの音を巻き添えにして二人の間を吹き抜ける。焼き付くような暑い日差しが二人の体温をぐんぐんと上げていく。先に足を動かし、海の水に足をつけたのはジーナだった。ぱしゃ、ぱしゃ、と、冷たい水音が小さく立ち、その音はまもなくバシャバシャと激しい音になった。
「ウィレム! すごい気持ちいいゾ!」
腰から下を水に浸したジーナが元気よく叫ぶと、それに引き寄せられるように、ウィレムもジーナのいる深さまで、ゆっくりと進む。
太陽の光はなおのこと、足を焼き尽くさんばかりの熱を溜め込んだ砂から開放され、ひんやりとした海水で溜まりに溜まった熱が体から一気に抜けていった。
パシャッ!
「うおっ……」
その心地よさをギュッと目を閉じて噛み締めていたウィレムの顔面に突然冷たい衝撃が走った。
「どうだ? 目が覚めたカ?」
塩辛い水を拭って目を開けると、ジーナがいたずらっぽく笑っていた。手のひらは水をぶっかけてからそのままのようで、空に置かれたままだ。
「やりやがったな! くらえっ!」
「おわっ!」
ウィレムも負けじと、水に手を突っ込んで魔法で水を巻き上げた。
「べはっ…! 『衝撃波』は反則だロ!」
「大丈夫だ! 虫も殺せねェ威力だからよ!」
衝撃波の魔法で飛び散った水がジーナの顔面に降りかかり、桔梗色の美しい髪が水に濡れて一層光り輝いた。
「おりゃ!」
顔を犬のようにブルブルと振るなり、ジーナが腕を振りかぶり、力いっぱい水面を抉るようにして横に払うと、砕けた水が飛び散り、虚空には虹が出来た。
「けほっけほっ…」
「これ以上はやめよカ、生き物達がびっくりしてしまう」
水しぶきの壁を叩きつけられて咳き込んでいるウィレムに、今更ながらジーナは魚たちを案じてこの遊びをやめようと促すと、ウィレムは静かにうなずいた。
「じゃあそうだ、珊瑚礁の外側を回ってどっちが泳ぐの速いかやってみるか?」
「いいなソレ! 負けたほうがご飯の魚、とってくるのどうダ?」
気づけば太陽は天球のほぼ頂点に登ろうとしていた。時分は既に昼前。ジーナはうっすらと筋肉の浮き出たお腹をさすっている。もう既に空腹なのだろう。
「よーい……」
「ドンッ!!!」
ウィレムの合図と同時に、二人はスタート地点から魚雷のように飛び出した。
◆
「ぜぇ……ぜぇ…… ほらよジーナ! 勝って良かったな!」
十分後、息を切らしながら砂浜に這い上がったウィレムの手には、ヒトの半身くらいの魚が突き刺さったモリが、もう片方の手には大きなエビが握られていた。
「おいおいダイジョブか?」
「のど……かわいた……」
くたびれきっているウィレムに心配そうにジーナが駆け寄ると、ウィレムは喫緊の欲求を漏らした。
「島の真ん中に湧き水があっタ! 飲メ!」
ジーナはすぐに鉄の盆にたっぷり汲まれた水を持ってきて、ウィレムは手渡された綺麗な飲み水を二、三度に分けて飲み干すと、ふぅっ、と長い息を吐いた。
「お前……泳ぐのめっちゃ速ェな」
「きェん、赤ちゃんの時から泳いでたからかナ」
ビチビチと跳ねている魚の頭を、獲物の鎌で刎ね飛ばしながらジーナはそう返した。
「あの泳ぎ方、まるで人魚みたいだった」
「……そういえば、わたしのセンゾは人魚と同じって聞いたことあるネ」
会話を止めぬまま魚とエビを大きなヤシの葉に乗せ、器用に鱗を、殻を剥がし、肝を取り出していく。骨を引き抜き、食べやすい大きさに切ると、やおら立ち上がってウィレムに目配せした。ウィレムが手のひらをかざすと、食材に金色の電撃がほとばしって、焦げた匂いに混じって、磯の香りが漂ってきた。
「よし、食おうぜ」
「うん!」
塩をまぶし、切り身を一つ取って口の中に放り込むなり、ジーナはうまい!と叫んだ。二人の食事はあっという間に終わった。ウィレムが漁をしている間に集めてあった果物やヤシの実もすぐに無くなってしまった。
「ふぅ、幸せダ」
「へへっ……俺もだよ」
ウィレムは日陰に、ジーナは砂浜に腰掛けながら、静かに環境音に身を寄せていた。波が押し寄せては去る音、海鳥たちの鳴く声……この島はどこまでも穏やかだった。
「ふわぁ……ねむ……ちょっと昼寝するわ」
「え! もっと泳ご!」
ジーナは大きいあくびをして、そのまま緑の葉っぱの上に寝転がったウィレムを揺さぶるも効果はない。
「お前は疲れてねェのか?」
「まだまだいける!」
ジーナは紫水晶のような瞳をキラキラさせる一方、ウィレムの目はとろとろと閉じかかっている。
「……まっ、いいや! 一人で遊んでるかラ!」
「沖の方に行きすぎるなよ。帰ってこれなくなる」
「分かってる!」
ジーナはまた、太陽できらめく水辺に足を踏み入れ、ウィレムは涼しい木陰で寝そべりながら、心地よい疲労感と穏やかな空気に包まれ、意識を静かな眠りの闇へと放り込んだ。
◆
器用に体を水面に浮かせながら、ジーナはどこまでも広がる真っ青な空を眺めていた。
遠くの方で小さな雲が水面に影を作っているのが見える。
一人で遊べることはおおかたやり尽くした。流れてきたヤシの実に乗っかってバランスを保ってみたり、どこからか流れてきた手紙入りの瓶の蓋を開けて水に浸してみたり、最初は楽しいがすぐに飽きてしまった。
ーやっぱり、一人だとつまらないー
ジーナはぐっすりと日陰で眠りこけているウィレムを遠目で見て、深くため息をついた。自分も眠い気がしてきたジーナは、一緒に昼寝をしに戻ろう、と陸地の方に目線を向けると……
「……!?」
そこにあった信じられないものが視界に飛び込み、眠気なんて吹っ飛んでしまった。
「ハイ!」
太陽の光のせいでよくわからないが、その信じられないものは確かに言葉を喋った。
「ハロー!」
しかし元気よく挨拶されては同じように返さずにはいられないジーナだ。言葉が通じたと思ったのか、怪しい人影が音を立てずにスイスイとジーナのほうに泳いできた。
「こんなところで何してんの?」
「きェん……海に浮かんでたんダ」
その人影は、ジーナと大して年の変わらなそうな少女だった。この近辺に住む人々と同じ褐色の肌をしているが、金色の髪と青い目が目を引く不思議な姿だ。
「キミ暇でしょ。よければ遊ばない?」
「いいネ! わたしジーナ!」
「よろしくねジーナ! あたしは……ミューセっていうの!」
誘いをジーナが快諾し、名乗られた少女も自分をミューセと名乗った。
「何して遊ぶ?」
「泳ぎの競争とかどうダ?」
「……いいのかしら? 人魚のあたしに泳ぎで対決するなんて」
「え……人魚?」
ジーナは困惑の声を上げた。ミューセの浮かんでいる下の当たりをよく見たら、足がない。厳密には、腰から下には太いしっぽが足の代わりに生えているように見えた。
「そ! 人魚!」
ミューセは水しぶきを上げて飛び上がり、その下半身を露わにした。……それは虹色にきらめく、無数の鱗に覆われた、まさに魚のそれだった。
「ね?」
「人魚……ほんとにいたんダ!」
信じられない光景を見てしばらく硬直していたジーナは、声を震わせながらそう漏らすと、ミューセはいたずらっぽく笑いかけた。
「あら? キミだってあたしと似ているじゃない! 例えばその尖った耳とか!」
長く柔らかな金髪に隠れてわからなかったが、確かにこの人魚の耳の先は尖り、まるで魚のヒレのような角度がついていた。
「わたしの種族は……人魚と同じ先祖じゃないかって言い伝えがあるんダ」
「じゃああたし達親戚かもね!」
ミューセは手で口を覆って笑った。確かに尖った耳だけならず、宝石のようなきらめく瞳もそっくりだ。
「そうだ! やっぱり泳ぐより先に私のお家に来ない?」
「いや、お家って……海の底だロ? わたし、水の中じゃ息が……」
バシャン!!!
言い終えるのが遅いか速いか、ジーナは海の中に引きずり込まれてしまった。
「がっ……」
「さぁ! あたしについていけば一瞬だよ!」
ジーナの足首をしっかりと握りしめたミューセは、ジーナの泳ぎなど比べ物にならない速さで海の底へと潜っていく。
(まっ……まてっ……!! 息が……!)
日の届かない深みに潜っていくにつれ、ジーナの視界はどんどん暗くなる。命の恐怖を感じてミューセを蹴り飛ばそうと足を振るが、水の流れにめちゃくちゃに押されて全く当たらない。
「ごぼっ!」
ついに息が続かなくなり、肉体が酸素を欲して口が勝手に開き、塩辛い水が一気に流れ込んだ。口に通じる器官全て、水が入ってはいけない器官にも遍く水が入り込む苦痛にジーナは端正な顔を歪める。しかしミューセは気にも止めていないようだ。
辺りは水だらけで水を吐き出す場所もない。苦しみから悲鳴を上げようにも、助けを呼ぼうにも声が響く空気がない。
ウィレム……! たすけ……
遂に脳みそにまで空気が行かなくなったのか、あるいは死を目前にした恐怖で脳が気絶したのかはわからないが、ジーナの視界は突然闇に包まれ、それまで握りしめていた鎌が手からするりと離れた。
「あらら! そっかホントに息できないんだ! でも大丈夫!」
ようやくジーナの異変に気づいたミューセは、そう言ってどこからか杖のようなものを取り出した。
「ようこそ! 『海底王国』へ!」
……ごめんね……
意味を成さない、ただの音の羅列にしか聞こえなくなっていくなか、ジーナは心のなかで声を絞り出した。こんなことなら、こんなことなら、と。
◆
「……ふわぁあ……随分寝ちまったぜ」
時分は既に空が橙色に染まる頃。地の果てに沈んでいく黄金の光で目を覚ましたウィレムは、ぐぐっと大きく背伸びをして立ち上がった。
「ジーナ! お前ずっと遊んでんのか? そろそろ夜の支度を……」
砂浜に向かって足を進めたウィレムは、突然なにかに気付いて走り出した。
「こ……これ……」
砂浜に打ち上げられたものを取り上げるなり、ウィレムは声を震わせた。……赤い、花柄の模様が染め抜かれた布だった。
「ジーナァァァ!!」
その叫び声を返す者はいない。ただ島の木々に止まっていた鳥たちを驚かせただけだ。気が動転して加速度的に速まっていく呼吸を気力で抑え込みながら、ウィレムは島の一番高い木の上に登って辺りを見回した。
「ジーナは間違っても波にさらわれるタマじゃねェし、生き物の毒にやられる体じゃねェ……ッてことはまさかっ!」
ウィレムは閃きを得て飛び降り、この島に入ったときに目にした石像の前に走った。下半分が埋まった例の像を掘り起こしてみて出てきたのは、ヒトの上半身に魚の体を縫い付けたような……そう、人魚のそれだった。
「まさか人魚がここに……さらわれたのか!?」
「く……クソったれ……こんなことなら……!」
涙を必死にこらえながらウィレムは浜辺に走った。 沖の方を覗き込んでみると、その深さを暗喩しているように真っ暗だった。
「あいつと一緒に泳いでりゃ良かった!!」
『あいつと一緒に寝ていれば良かった……』
陸と海、生と死の堺で、二人の魂の声が重なった。
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『ん……』
真っ暗だった世界に意識の火が灯る。目を開けてみて見えたのは、白い岩で囲まれた空間だった。
『ここは…天国か?』
胸に手を当ててみると、確かに心臓の脈打つのが感じられる。死んだわけではないらしい。ではどうなっている? 確かに私はあの人魚に海の深く深くへと引きずり込まれ……
考えても無駄だと、いつもどおり立ち上がろうとすると、なぜか足が思うように動かず、天と地が逆さまになった。思わず足に視線を移すと、足があるはずの……ちょうど骨盤のすぐしたあたりから鱗の生えた、太いしっぽのようなものが生えている。
『な……なに……これ……?』
足の感覚はしっかりあるし関節はしっかりと曲がる。なのに両足の間をワイヤーでガチガチに縛られているようで全く広げることが出来ない。おまけにしっぽの先端と尻のあたりにはひらひらとしたヒレまでついている。
『人魚……』
私は何かしらの方法で人魚の姿に変えられてしまったようだ。
――『海底王国へようこそ』――
寝覚めにズキズキと痛む頭の片隅に、意識が失われる寸前に聴いた言葉が埋まりかかっていた。サルでもわかるが、今ここにいる場所は海底王国、則ち水中なのだろう。
やはり水中でも息ができる。地上で息をするのと同じ具合で、口から入った水を吸い、吐き出すことで空気を体に取り込めるらしい。肺がそっくりそのままエラに入れ替わったのだろうか?
『とにかく……いつまでもここにいるわけにもいくまいな』
なれない動きで足を動かしながら、今まで眠っていた洞穴の出口から顔を出してみた。そこには洞穴の岩と同じ白い岩盤が広がり、向こう側に同じような洞穴がいくつもあるのが見える。
岩盤には上の方から入ってくる明るい陽の光が幾何学模様を描き、水の流れに揺られている赤や緑の海藻には見たこともないような生き物が隠れたり泳いだりしている。
ブチブチッ……もしゃ……
試しに生えていた海藻をむしり取ってかじってみた。カスみたいな味しかしないが歯ごたえが良い。いくらでも食べられそうだ。何故かとにかく腹が減って仕方ない。何でもいいから腹の中に放り込まないと気がおかしくなってしまいそうだ。
「あっ! だめだよそんなの食べちゃ! お腹壊しちゃうよ!」
私の頭のすぐ上から甲高い声が響いた。
『君は……?』
「ボクはケレ。あんたのその泳ぎ方、よそから来たってすぐわかったよ」
ケレと名乗った人魚の少年は、そう言い終えると、周りを泳ぎながらこちらをジロジロと舐めるように見つめてくる。
『キミは……この国の住民か?』
「そっ、そうだけど……ねぇちゃん、あんた不思議だね、地上から来たのにボクらのと似た言葉で喋るんだ……」
肩を掴み、一気に距離を詰めると、その少年は急に顔を赤らめて目をそらした。……なぜ私の母語が通じる? だが今はそんなことはどうでもよかった。
『……君は人と話す時、まっすぐ眼を見ないのか? 悪いが、私はイライラしている。……ズタズタにされたいか?』
「いやだってさ! あんた裸じゃないか!」
『あぁほんとだ。君も私の仲間と同じで、胸をやたらと気にするんだな』
そうか、水中に引きずり込まれる時に胸に巻いていた布が解けていたらしい。……困った。あいつがくれた大切なものなのだが。まぁ今頃回収されてるに違いない。それに今はこんなことをしている場合じゃないな。とにかく、面倒だが波風立てないように胸は隠したほうが良さそうだ。
『分かった分かった、ちょっと待ってろ』
とはいえ胸を隠すだけのものが見当たらない。海藻はヌメヌメしていて気持ち悪いし、すぐにスッポ抜けるだろう。
『あっ! 目が覚めたんだね!』
『お前は……!』
いっその事ヤドカリから殻を追い剥ぎしてはめてみるか、と考えていると、今度はあの忌々しい人魚、ミューセがこちらに泳いできた。
『お前……! あれだけの事をしておいてよくそんな面で私に話しかけられるな……!』
抱きつこうとしてきたのを後ろに泳いで避け、キッと睨みつけてやると、急に申し訳無さそうな顔になり、しばらく沈黙するとようやく口を開いた。
『その……それは本当にごめんなさい……』
『謝るよりも先に私をここに引きずり込むに飽き足らず、私の本来の姿を奪ってまで果たしたかった目的を教えてもらおうか』
『……わかったわ。近くに食事処があるから、そこで話しましょう』
覚悟を決めたように目を閉じ、息を吸い込むと、ミューセは指を指した方へ泳ぎ始めた。
◆
「クソっ……ジーナのやつを助けにいかねェと」
一方地上では、一人残されたウィレムは、何の考えも浮かばないまま一夜を明かし、空には既に太陽が昇っていた。
ジーナの衣服が浮かんでいた辺りは想像できないくらい深い。よしんば息の問題をどうにかできたとしても、海の底にあるであろう人魚共の領域に入る前にグシャグシャにつぶれてしまうだろう。
「クソっ…せめてあいつの安否が確認できれば……」
何かを急に思いついたのか、ウィレムはそれまで腰掛けていた人魚の像から飛び降りた。
「ハァ……!」
意識を集中させると、小さな稲妻が掌の中で生まれ、やがてバチバチと弾ける雷の刃となった。ウィレムは手を振るい、その石像を両手に収まるくらいの大きさに切り刻んだ。
石像の破片にジーナの下手な似顔絵を削り入れ、頑丈な蔦で、ジーナの持ってきていた予備の鎌と繋げて海に投げ入れようと……
「……そうだ」
ウィレムはジーナが昨日言っていた、「ジーナの種族と人魚の先祖が同じ」という話を思い出し、知識を絞り出してジーナ達が使っている言葉で、
「我、ウィレムはこの記した絵の娘ジーナの仲間である。望むらくは彼女を知る何者かがこれを取り、鎌を彼女に渡さんことを」
と記し、沖合に向けて勢いよく放り投げた。
◆
『――――と、こういうわけなの』
『……なるほど』
ミューセが私に語ったことはこうだ。ここ海底王国は人魚の住む国であり、彼らは水中という環境に生きるにあたって『命泉』、つまり生命エネルギーの源泉を拠り所にしているのだという。人魚達は私の種族が月と海にそれを見出すように、その泉を神と崇めて暮らしてきた。しかし、ある時、その泉を「何者か」が塞いでしまったのだという。
そいつはカエルと人を組み合わせたような不気味な生き物で、小さな子分のような連中を引き連れてここにやってきた。恐ろしいほど強く、この国の住人達では太刀打ちできないらしい。
しかもタチの悪いことに、その『何か』は、泉を塞ぐ蓋を緩める代わりに生娘を要求していて、既に逆らって殺された者、捧げられた者も含めて五十人は犠牲になっている。
皆そのバケモノに心底怯え、いつの日か逆らうことを考えもしなくなってしまったのだという。
『……で、私にどうにかして欲しいからここに呼んできたと?』
『違う! あたしと一緒にあいつらを倒してほしいの!』
『あいつが来てから……みんな変わってしまった。……この国の王女として! みんなの一歩前で戦いたい! 捕まっているお母さんも助けたいッ……!』
『……ふぅん。で、「生きるか死ぬかの戦い」に付きあわされることへの見返りはあるんだろうな?』
『そ……それは……』
ミューセは突然言葉に詰まった。どうやらこの件に関してはノープランだったらしい。突然巻き込んでおいて、『はいいいですよ! いっしょにわるものをたおそー! おーっ!』なんて言うとでも思っていたのか?
『……はァ……悪いが私は帰る。なんの見返りも無いのに命を張りたくない。そもそも派手な殺し合いなんて、もう十分堪能したんだよ』
『帰るって……どこへ?』
……確かに。私は座り直した。この人魚の姿のまま地上に戻り、ウィレムと旅をするのか? この体では歩くのもままならないだろうし、水上で息が出来るのかも怪しい。
『あたしのお母さん、つまりこの国の女王は……人を人魚にする魔法を解ける唯一の人なの。だから……』
『お前……まさか全部計算の上だったのか?』
『キミを見た時、キミしかいないって確信したの。……お願い! 協力してくれればもちろん元の体にも戻してもらうし! 叶えられる願いなら叶えるから!』
ミューセは目に涙を溜めながら懇願してきた。……とんでもない事実を暴露してきたタイミングで泣き落としは通用しないが、仕方ない。見返りはとびきり良いものにしてもらおうじゃないか。
『……わかった。協力してやろう。 私はジーナ。パンデモニウムのジーナだ』
そう言ってやると、ミューセの表情が一気に明るくなった。 だからこういう感情芸は通用しないってのに……まぁいい。
『ありがとうジーナ。私はミューセ。海底王国王女のミューセ! よろしくね!』
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「姉ちゃん姉ちゃん!」
こうして二人の共闘が確定した瞬間、今まで外で遊んでいたケレが食事屋に飛んできた。
『どうしたのケレ?』
『おっ? キミは……』
「紫髪のねぇちゃん! これ!!」
そう言って少年が岩にくくりつけられた鎌を持ってきた。その鎌は……私が予備で買ってあった鎌だった。
「これ! さっき沈んできた! この石に彫ってある似顔絵! ねぇちゃんだろ!」
『ほんとだ! ん? なんか文字が書いてあるな…… どれどれ』
【ウィわムれたしこの言己した糸会の所女“ジーナ”戦友の。……は彼女を認識する怪レい者が取る巳れ、金兼……
『……』
書いた人には悪いが……字が汚すぎるし文法もめちゃくちゃ、単語の間違いが多すぎるせいで内容は全く理解できない。が、『ウィレム』、『ジーナ』、『鎌』という単語だけはかろうじて読み取れた。
私の名前だけやたら丁寧で正確な上、記憶にこびりついた気が抜けるような似顔絵から、すぐにウィレムが全てを察して、武器を送ってくれたとすぐに分かった。
『ジーナの友達?』
『……ま、そんなところさ』
ミューセはしばらく興味深そうな顔をしていたが、すぐに切り替えて声を張り上げた。
『さぁ! 作戦は追って説明するよ! まずは泳ぎ方のコツを教えてあげるね!』
食事を平らげ、腹ごしらえも終わったことだし、とミューセは食事所から飛び出した。最初に洞穴から見えた空間は広場だったらしい。人が見えなかったのはほとんどの連中が怯えて家から出ていなかったからだと、後になってわかった。
『じゃあ、泳ぎの練習も兼ねて追いかけっこしようか!』
『わかった』
こうして、モンスター退治の為の訓練が始まった。
◆
『動きがぎこちない! 足の骨が何十にも分かれてるつもりで水を蹴るんだよ!』
『いやっ……そんなことは分かってる! 昨日までは足が二本だったんだ! 馴れるまでどうしても時間がかかる!』
イルカの動きをイメージしながら足を動かしても、すぐに動きが乱れてしまってミューセの泳ぎに追いつけない。……これでは私もミューセも無駄に体力を浪費するだけだ。……くやしいが別のやり方で人魚式の泳ぎ方を身につけるしか無い。
『ミューセ待て!』
『なによ! そうやって油断した隙を突こうとしてるんでしょ!』
『違う! 私はしっかり見て覚えるほうが合ってる! これじゃ時間の無駄だ!』
『じゃあ、どうすんの?』
『これから壁に手を当てて足を動かすから、おかしいところがあったら言ってくれないか?』
ようやく止まってくれたミューセにそう伝えると、こちらの意図が伝わったようで、元気よくうなずいて、壁に手をついた私をしっかりと見てくれた。ほんの少しでも乱れがあればしっかり教えてくれたおかげで、人魚流の泳ぎをマスターするのにはあまり時間がかからなかった。
◆
『よしっ! 捕まえた!』
『つかまったぁぁ~!』
三十回目の挑戦の末、ついにミューセとの追いかけっこに勝った。何度も敗北したのもあって、私の勝利を心から祝福してくれたミューセの言葉は本当に嬉しかった。
『ふぅ……もう夕方になっちゃったね……どうする? 今日はもう休む?』
『他に何かすることは?』
『あとは水中での上手い戦い方を……と思ったけど』
ミューセは言葉を止めるなり私の肩や胸、お腹や足をペタペタと触り、うなずいた。
『な、なんだよ』
『ジーナ、見た目はほそこいのに、筋肉しっかりしてるね。ほら、昼に言ってたでしょ? 命をかけた殺し合いをしたって。それだったらあんまり時間をかける必要はないかなと思ってね』
『ジーナは何かしたいことある?』
『そうだ、一度地上に戻って仲間に会いたいんだが』
今までそれどころでは無かったが、ウィレムは今ごろ突然いなくなった自分のことを心配してくれているだろう。安心させに行けるのにそれをしないのは外道だ。
『うんっ! あたしもウィワムって人に会ってみたい! 行こう!』
『ウィ“レ”ム、な』
上に向けて泳ぐと、目まぐるしく周りの明るさが変わる。元の姿に戻った後もこの経験は消えないだろう。ほどなくして、水面の揺らめきが見えた。
◆
「ちくしょう……ジーナ……ジーナァ……」
その頃、打つ手も無くなったウィレムは、燃えるような赤い夕日に照らされながら、悲しみに暮れ一人砂浜に涙を染み込ませる作業に勤しんでいた。
「おまえがいねェと俺は……」
ザバン!
近くで上がった水音を耳にするなり、ウィレムは反射的に走っていた。
「……あ……」
「ウィレム!」
はぐれてからちょうど二日が経っていた。魚になった下半身を引きずりながらウィレムに近づいたジーナを、ウィレムは力いっぱい抱きしめた。
「良かった……本当に……!!」
「へへ……心配かけて悪かったナ。何から話せばいいのやら……」
「おまえがどんな姿になっても、無事でいてくれたのが何よりも嬉しい……!」
「……で、お前はナニモンだ」
ジーナの後ろにいたミューセが目に入るなり、ウィレムは恐ろしい形相になってバチバチと雷を帯び始めた。
「まって! 説明するかラ!」
ジーナはウィレムにこれまで自分の身に起きたこと、そしてこれから何をしようとしているのかを、懇切丁寧に説明した。何度も何度も説明したことで、ようやく理解できたようだ。
「……で、つまり人魚を助けるのに協力するってことか」
「そう! 作戦はこれから考えるから、決行前にまた来るゾ!」
「……そうか、あんまり無理すんなよ?」
「お前もナ。その目の下のクマ、全然寝てないだロ?」
「……ったく、誰のせいだと思ってんだよ……」
「ジーナ、そろそろ潜りましょう、夜は厄介な魔物が出るから」
やりとりを遠目で見守っていたミューセの言葉を聞いて、ジーナはウィレムの頬に口づけして、また海に潜っていった。
「おい、そこの金髪の」
「ジーナは元に戻れるんだろうなァ?」
「……ええ、必ず」
呼び止められたミューセも、これ以上何も言わなかったウィレムをちらりと見やって、ぽちゃんと音を立てて住処に帰っていった。
◆
『ふぅ……、ウィレムって人、めっちゃ怖いね……』
『あいつがあそこまで怖い顔したのは久しぶりだ。雷の魔法で炭にされなかっただけありがたいと思えよ』
人の少ない王国にもどってくるなり、ウィレムへの恐怖をこぼしたミューセの肩を叩きながらジーナはそう言った。
既に時分は夜。日はすっかり沈んでしまって辺りは真っ暗だ。街のいたるところに設置されている「光クラゲ」と呼ばれる生き物がいなければ、右も左も上も下も分からないだろう。
『もうずいぶん暗くなっちゃったね…… 明日の朝になったら詳しい作戦を伝えるね。ジーナも今日はずいぶんと疲れたでしょ』
『ふわぁぁ……言われてみれば確かに……』
手で大きいあくびを抑え込もうとしても、眠気を隠せていない。ジーナの種族はいつも、陽光が差さない時間帯になると抗いがたい眠気に襲われる。普段はぱっちりと開かれた目も、今にも閉じてしまいそうなほど細くなり、少しでも気を抜けばあっという間に気を失うように眠ってしまうだろう。
『そうだな……わたしはもう…っ』
『おおっと』
全身の力が抜けて浮かんでいきそうになったジーナを慌てて捕まえると、ミューセはジーナを寝かせておいた洞穴に優しくおろし、浮かんでいかないように縄をくくりつけてやると、ミューセも自分の寝床へ泳いでいった。
ウィレム達がこの島に来てから二日の時が経った。一日目の夕方頃にジーナが海に引きずり込まれ、人魚の姿になって目を覚ましたのは二日目の昼前。そして三日目……決戦の時が差し迫っていた。
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海の王国にも朝がやってきた。真っ暗だった空間が少しずつ明るくなり、水面の揺らめきが水底に光の網となって落ち込み始めた頃、ジーナはだらしなく口を開け、人魚になったせいで出来ない大の字の姿勢の代わりに、十字形に手足としっぽを投げ出して眠りこけていた。
『ジーナ! もう朝よ!』
『すぴーー……』
起こしに来たミューセの声は届いていない。ゆさぶっても効果は見られない。
『ジーナ!!』
『くかーーー……』
耳元で怒鳴ってみても全く効果が無い。水の中で暮らす人魚達は耳の中に常に水が入っている状態で、ゆえに音は地上の生き物が空気を通して音を聞くのよりもずっとはっきり聴こえるものだが、深いジーナの眠りを覚ますことは出来ない。
『こうなったら……!』
ミューセは肩を怒らせてジーナの眠っている洞窟を飛び出して、すぐに戻ってきた。
『起こしたのに起きないほうが悪いんだからね……!』
ミューセの手には、いつぞやの杖と一緒に本が握られていた。魔法の書をペラペラとめくり、書かれたとおりに呪文を唱えると、杖に電気が生まれ、そのバチバチと暴れるスパークで海の水が泡立っている。
『くっ……』
感電しそうになって顔をしかめながら、ミューセは杖の端の端を慎重につまみ、電気を帯びた杖の頭を、勢いよくへその穴に突っ込むと――
『うぎゃあっっ!!!』
ズズン……
ジーナは悲鳴を上げて飛び上がり、頭を天井にぶつけた。天井がへこみ、鈍く重い音が人魚の国の街中に響き渡った。
『ゲホッ……何しやがるんだ!』
体に帯電する電気を振り払おうと腕を振り回しながら、ジーナは黒い煙を口から吐き出した。その表情は驚きと怒りで満ち、目には涙が浮かんでいる。
『起きてくれないのが悪いんだよ!』
『……いや……! だからってこんな真似していいとでも……』
怒りが止まらずに怒鳴り散らそうとしたジーナは、ミューセの真剣な顔を見て次の罵倒を抑え込んだ。
『……で、何だ』
『来て。作戦を伝える』
ジーナはそう言い放って洞穴から出ていったミューセに付いていった。
『作戦か』
『……そう、作戦』
ミューセに誘われてジーナがたどり着いたのは、水の流れで作られた天然の洞窟だった。どうやらミューセ以外にここに来たのは自分が初めてだろう、とジーナは周りを見回しながらそうぼんやりと考えていると、ミューセは壁に描かれた落書きを指した。
『作戦を伝えるよ! まず! これがこの海底王国と命の泉の地図! 奴らは命の泉を祀る神殿を乗っ取っている! あたしのお母さんや人魚たちもここに捉えられている! そしてボスは神殿の中央に居座ってる!』
『で、どうやって侵入する?』
『実はね……』
ミューセは貝殻の胸飾りを取り外すと、ジーナはその顔に驚愕を浮かべた。ミューセの胸には、不気味な文字の入れ墨が刻まれていた。
『察しの通り、これは人魚たちが生贄に捧げられる日付を記した呪印。そしてあたしがあいつらに捧げられるのは、今日』
『……見たこと無い文字だ。文字を使える程度には知能のある奴ら……それも複数人を私達二人だけで相手にするとなると、何か作戦が無いと厳しいぞ? おそらくお前は生贄として神殿に入り、そこで敵と戦うつもりだろうが……』
『バケモノのうち一匹はボスで、みんなそいつがいるから強く振る舞ってる。でも群れから離れればケレみたいな子供でも一捻りだった。あたsみたいに美しい女の子はまっさきにボスの場所へ送られるはず。そこを狙う』
『……そ、そうか。で、私は何をすればいい?』
「自分で言うな」……そんな言葉が出かけたがかろうじて抑え込んだジーナの質問は想定済みだったようで、ミューセは不敵に笑った。
『……いい? 人魚が奴らの元に送られるとき、他の貢ぎ物も合わせて送られる。ジーナはそれに紛れて……目に入った奴らを片っ端から倒してくれればいい』
『で、お前は奴らの首魁と一騎打ち、という寸法か。勝てる算段はあるのか?』
『これでも、なかなかやれるほうよ?』
ズドン!!!
ミューセは体を勢いよくしならせ、尻尾を勢いよく近くの大岩に叩きつけた。
すると岩は泥のような煙を撒き散らしながら真っ二つに砕け散った。
『それだけじゃないわ、氷の魔法や雷の魔法も使える! ……まぁ雷の魔法は水中では使えないけどね』
『じゃあ、私は雑魚どもを始末しながら捕えられている人魚たちを開放しつつ、お前と親玉のいる中央に向かい、合流次第一緒に戦う……こんなところか?』
『そう!』
ジーナが敵の弱点を聞こうとした瞬間、何者かが隠れ家に入っていた。
「ミューセ様、ここにおられましたか……」
「……もう、お時間でございます」
この国の衛兵だろうか、槍を持った厳つい男だ。……こんな強そうなやつをしても化け物共を倒せないのか、そんな不安の混じった疑念がジーナの中に湧き上がった。
『……そう。分かったわ。これから準備をする』
「お役に立てず……申し訳ありません……」
『いいのよ。むしろ……ここまで生き永らえた事を恥ずべきだわ。……ケレの事、よろしくね。最後に、友達へお別れの言葉を言いたいから、外で待っていてくれるかしら?』
衛兵は涙を流しながらうなずき、外へ泳いでいった。王族を守るべき兵士がここまで腑抜けてしまう事態にジーナは思わず目を逸らした。
『……ま、大人たちはこんな感じで頼りにならないからね。あたし達でどうにかするしかないのよ。……ジーナ、広場に貨物を入れる箱がおいてあるはずだから、そこに入っていて』
『……その前に、ちょっと寄りたいところがあるんだが』
『分かったわ。 準備が終わるまでまだ時間はかかるはずだから』
ミューセが隠れ家を出ていくと、ジーナは上の方を見上げ、水で揺らめく陽光を浴びながら、うん、と頷いた。
◆
「ミューセ様……」
『さぁ……急ぐのです』
生贄と貢物を載せた大ウツボは神殿へとそのヒレを揺らめかせる。今日をもって、街に残る女は未亡人と幼児だけ。そして海底王国の主の血筋もいよいよ途絶えようとしていた。
だが王家の血筋が途絶えれば、同時に私も一生人魚のまま。巻き込まれて非常に、非常に腹ただしいが、やはり私は誰かが困っているのを見過ごす事は出来ないらしい。
人魚たちの神殿の周りには生き物が見当たらない。そこだけ塗りつぶされたように真っ暗で、見るからに怪しい雰囲気を漂わせている。
「ギギギ……キムスメ……モッテキタカ?」
正門の左右に置いてあった石像が突然動き出した。石像に見えていたようだが、これがミューセの言っていたバケモノだろうと簡単に理解できた。
箱の隙間から見えるそれは、とても直視できたものではなく、私の本能が視界にこいつを留めようとしない。従者のやり取りが聞こえてからしばらくすると、またウツボは動き出した。
「うぷっ……」
空気が段々気持ち悪くなっていくのを感じる。神殿の中に入ると、複数の化け物がわらわらとよってくる気配を感じた。
ここで、武装した私が潜んでいることがバレたらミューセの計画は人魚の説話よろしく水の泡になる。……私は過去に死にかけた時の事を思い出し、気配を消した。
「ギギギッ……オウジョダ!」
「ワレラガオウモオヨロコビニナラレル」
その言葉が聞こえると、周りの箱が持ち上げられる音が聞こえ始めた。なるほど、特別な娘は奴らのボスへ、それ以外の物は下っ端が取ってくのだろう。
「ギギギッ……」
やがて、私の潜んでいる箱が持ち上げられた。流石に怖い。……箱にぶつかって音を立てないように鎌を抱きしめるように持っておくことにした。
((ジーナ……聞こえる……?))
ミューセの声だ。テレパシーの魔法か。
((もしあたしの声が聞こえたら……頭の中で……私と実際に話すように何か言ってみて……))
((ミューセ……聞えたぞ))
言われたとおりにやってみると、向こうにこちらの声が通じたようだ。
((ジーナ……手短に話すね……いい? ……戦いを始めるのは私が合図をしてから……それまでは何があっても敵意を見せないで……))
((了解した……))
それっきりミューセの声は聞こえなくなった。
ガタン!!
それと同時に、箱が勢いよく置かれた。上の方からは化け物の吐息の音だけが聞こえる。慌てて底板の下に鎌を隠した瞬間、箱が開かれた。
「ギョッ……」
私を見るなり、その化け物は跳ね上がった。どうやらこいつの自室に連れ込まれたらしい。
「グッグッ……」
この半魚人みたいなやつは随分と興奮しているようだ。皮膚?のようなものはさっき目にした個体よりも艶があり、若い個体のようだ。
『しぃ????……大きな声……出したら……だめですよ……?』
クソほども嬉しくないが、どうやら私はこいつに一目惚れされたらしい。……それなら話は簡単だ。猫なで声を出して、くねくねと体を動かして見せればいい。
「ギョッ……ナンデ……オレノトコニ……」
『私……あなたのことがずっと前から好きだったの……。』
若い個体の地位は低いらしく、こういうおこぼれに預かれることは無いようだ。私は考えうる限りの「誘惑的な仕草」でこいつを惑わすことにした。
「ジャ……ジャア……オレノコドモ……」
『やぁだ……あなた、男らしいのねぇ?。』
喉も頭もおかしくなりそうだ! まだかミューセ……!
ズゴン……
((ジーナ!! やっちゃって!!))
地鳴りとともに大きい音が聴こえてくると同時に、ミューセからも暴れる許可が降りた。
スパッ
それに合わせてこっそり取り出した鎌を真一文字に力いっぱい振ると、化け物の首は音もなく真っ二つになった。
『……ヴォエッ……!気持ちわりッ……』
先程までのやり取りが気持ち悪すぎて思わず吐いてしまった。……ミューセの指示も出た。片っ端からクズどもを斬り殺してやる。
私はぐっと鎌を握り直した。やはり鎌が一番手に馴染む。岩の扉を尻尾でぶち破って出たのは、いくつもの同じような扉がある空間だ。
「ギギィッ!!」
先程の騒ぎのせいだろう、他の部屋から化け物がぞろぞろと現れ始める。そして奴らはこちらに気づくと……
「ギァーーー!!!」
剣のような腕を振り回しながらこちらに突進してくる。……が、動きはてんで大したことはない。
キン!! ズシャッ…!!
振り下ろされる刃を押し返し、怯んだところでざっくりと切り刻む……そんな単純なやり方を繰り返すだけで、雑魚どもはいなくなった。
『た……たすけ……?』
空いた扉から、若い女の声が聞こえる。大声でもう大丈夫だ、しばらくそこで待っていろ、そう言ってやると大人しくなった。
((ジーナ!! 早く来てぇ!!))
ミューセの救難信号を受け、私は渦巻状になっている神殿を内へ内へと回り込んでいく。立ちふさがる奴がいたら斬り伏せ、囚われている人魚を見つければ助けてやった。人魚たちの体の所々があの化け物になりかけている。……一体何をされていたのかは知る必要はない。
「グォォォォ!!!!」
ぐるぐると回って突き当たった真っ直ぐな通路の奥からおぞましい咆哮が聞こえた。この先にミューセと化け物共の親玉がいるはずだ。
◆
『ミューセ!』
『早いね! こいつだよ!』
間欠泉のような穴を塞ぐように体を埋めたバケモノを見て、私はその目を疑った。おぞましい。とにかくおぞましい怪物だ。本能が命じてくる。和解など不可能、ただ叩き潰せと。
『ジーナ! いくよ!』
『おう!』
怪物は例の泉に体の下半分を沈めたまま戦うつもりらしい。山のようにでかい腕をこちらめがけて振り下ろしてきた。
だが遅い。一度かわしてしまえば腕が上がるのは遅い! 私は勢いよく化け物の脳天めがけて鎌を振り下ろした。
カキンっ…!!
「……!?」
なんて硬い皮膚だ! 刃が立たないとは……!
『くそっ……! 【衝撃波】!!』
一気に距離を詰め、手のひらに圧縮した魔力を解き放った。とんでもない音があたりの水を震わせるが、直撃したはずの敵にはてんで効いていない。
ブンッ
『がっ……』
飛んできたしっぽをもろにくらい、思い切り壁に叩きつけられてしまった。凄まじい衝撃で全身がビリビリとしびれる。その瞬間にも敵はこちらに腕を向けている。腕を覆っている鱗がどんどんめくれ上がって……
『くっ……うっ……!』
バシュシュシュ!!!
鱗が突然体から離れ、まるで矢のように勢いよく飛び出した。間違いなく触れたら大変なことになる!
『だめだ……これ……』
どずっ……
『……!? ミューセ!』
肉がえぐれる音がした。だがどこにも痛みがない。……ミューセが盾になっていた。
『げほっ……はは……あたし……ぜんぜん……活躍できて……ない……ね……』
ミューセが倒れたくらいで奴は攻撃を止めない。次の鱗攻撃が私達を串刺しにしようと襲いかかってくる。
『……好きにはさせないぞ!』
……藤色に輝いた鎌がひとりでに動き出して放たれた強烈な閃光に、不意を突かれた怪物は攻撃を中断し、目を塞いだ。めちゃくちゃに暴れまわるバケモノを背に、二人はなんとか大広間から逃げ出した。
◆
『はぁ……はぁ……ミューセ……大丈夫か……?』
あたしは気を失ってしまっていたらしい。気絶の霧が晴れるにつれ、体中に刺さった鱗の痛みがこみ上げてくる。
『ジー……ナ……!? あんた……髪が……!』
だが痛みなんて吹き飛んでしまった。綺麗な紫色をしたジーナの髪が、いつの間にか真っ白になってしまっている。
『私は……空気に漂う魂と……自分の魂から漏れ出る気を混ぜ合わせて……特別な術を使える……んだが……』
『空気に漂う魂無しで……その術を使ったもんで……体力が一気に……』
あたしを助けたせいでかなり消耗してしまっている。乱れた呼吸が収まる気配も無く、ヒレを動かして体を浮かせてるのがやっとのようだ。
刺さった部分が急に焼け付くように痛み始めた。腕を上げてみてみると、刺さった所からあの化け物のような皮膚に変異していく。
『最悪だね……』
『やっぱり……おかしい……! なんでお前の国の奴らは……他の奴らにも……協力させるべきだ……』
無理だ。それが出来たら苦労しない。大人たちはみんな怯えた腑抜けになってしまっている。私がやるしか……
「ミューセ!! ジーナ!!」
突然、あの甲高い声が耳に入ってきた。
「姫!!」
しかも大人の声も何十と聞こえてくる。体を起こして声の方を向いてみると、王国の兵士だけじゃない……先程助けられたであろう人魚や、国の全ての人、年寄りから子供に至るまでここに集まっていた。
「みんな……どうして……?」
「ケレのやつに叱られましたよ。なんで大人たちが尻尾を巻いて尻込みしてるんだってね。……私達大人が、子供に任せきりではならん、と皆ようやく気づいたのです」
医者に慎重に鱗を引き抜かれる私を見ながら、大臣は申し訳無さそうに語る。……ここにいる皆、自分たちの国を守るために、ついに立ち上がったのだ。それを考えると目頭が熱くなる。
『さぁ……共に戦いましょう……』
私が手を上げると、皆も大きな声を上げた。これだけいれば……きっとやつにも……
『待て! 考えがある!』
ジーナが突然間に入ると、みんなの目線も一気にあちらへ向かった。ジーナのあの自信たっぷりな顔……一体何を?
『地上に仲間がいる。そいつに少し前から準備をするよう頼んでおいたんだ。……いいか、みんな私の言う段取り通りに動いてくれ。そしたら大丈夫だ』
……ジーナが作戦を話し終えると、この場が一気に沸き立った。ジーナはとんでもないアイデアを考えついていたのだ。
◆
「ふぉるるるる………」
その頃、化け物の親玉はあいも変わらず、泉をその巨体で塞いでいた。暗闇で光る黄色の目からはほんの少しの知性も感じられない。先程起きたことなどもはや記憶にもないのだろう。
大口を開いてあくびをした刹那ーー
ヒュガッ!
どこからか飛んできた鎌が渦潮のごとく回転し、神殿の天井をバラバラに切り刻んだ。
「今だっ!」
ジーナの合図と共に隠れていた人魚たちが怪物を取り囲み、一斉に魔法、【鉄砲水】を放った。
「がぉ……!?」
強い水流で押し流されそうになっている化け物は、離れまいと必死でしがみつく。……だが……
『セイヤァァッ!!』
ミューセの渾身のしっぽ攻撃が顎に命中し、遂に泉を占拠していた半魚の魔獣は引き剥がされた。
そうなってしまえばもう抵抗するすべはない。
『おおおおおおぉ!!』
「おおおおおおおおおぉぉぉ!!!」
海底王国の住民たちは一つとなり、猛烈な速さで水上へと怪物を押し続ける。
ザバァァァァァン……!!
化け物が水しぶきと共に打ち上げられた空は、鉛のようなどす黒い雲に覆われていた。 ヤクート島の周辺だけに雷雲が集中しているのだ。
「ウィレム!!!! 今だーーーーっ!!!」
水から顔を出して一番、ジーナのけたたましい合図が響き渡ると、島の一番高い木の頂上に座っていた人影が立ち上がり、勢いよく手を振り下ろした瞬間ーー
ド ン
あたりが真昼間のように明るくなった。その光が止むと、そこには焦げ臭い匂いと、真っ青な空が広がっているばかりだった。
「やった……のか?」
呆然としている兵士たちの一人がぽつりとそうつぶやくと、それを皮切りに大歓声が上がった。あの海の邪悪と呼ぶべき怪物は、大いなる天の一撃によって、塵と消えたのである。
『ジーナ……!』
『ああ、成功だ』
ミューセとジーナは互いの顔を見つめては、力強く笑ってみせた。
『でも……どうやってあれだけの雷を……』
「ずっと準備してたのさ。ジーナに頼まれてなァ」
ヘトヘトになった体を引きずって砂浜までウィレムがやってきた。
『ウィレムさん……あなたにはなんとお礼を言えばいいか……』
「いーよいーよ、ジーナを元の姿に戻してさえくれりゃァな」
ミューセは未だ興奮冷めやらない兵士たちに高らかに呼びかけた。
『さぁみんな! おかぁ……女王を迎えに行きましょう!』
その言葉をもって、浮上していた人魚達は一斉に潜っていく。最後に残されたジーナの手が掴まれ、また命の泉に皆が戻ってきた。
人魚たちに囲まれた泉から光が吹き上がり、
『ぷはあっ!』
神々しい姿をした、海底王国の女王が飛び出した。
『おかぁさん……!』
『ふふ……、ミューセ、私はずっと泉の底から見ていましたよ。よく頑張りましたね。あなたは私の自慢の娘です』
女王は抱きついてきた自分の娘を優しく抱き返し、ジーナの方に目線を移した。
『ジーナ。……私達はあなたと、あなたの仲間に心から感謝しています。そして……あなたを巻き込んでしまったことを申し訳なく思っています。……何かお礼とお詫びをさせてください』
『じゃあ……この近辺で一番うまい魚を頂きましょう。私の仲間もきっと喜びます。……あ! あと私の体を元に戻してくださいね!』
ジーナがそう言うと、女神は穏やかにほほえみ、あなた方二人が戻ったとき、とびきりの魚を贈る、と返した。
『さぁ、お別れの時間ですね。あなたを元の姿に戻し……』
『いいえ女王様。これは永遠の別れではありません! なぜなら全ての海はつながっていますから!』
その言葉に優しくほほえみ、女王が勢いよく指を鳴らすと、ジーナと女王、そしてミューセは一瞬で水面に移動していた。どこからともなく取り出された杖は淡く光を放ち、ジーナの体に変化を与えた。
鱗が剥がれ、一つになっていた足が2つに分離し、ついにつま先が、膝が、尻が、そして腰がジーナの体に戻ってきたのだ。
『あぁ……やっと戻れた……』
肉体の強制的な変異は強い負担を与えるようで、一気に疲労が全身を覆ってジーナは気を失うように眠り込んでしまった。
『さぁミューセ、彼女を陸地へ運んでやるのです。……そして、帰ってきたらゆっくり話しましょう』
女王はそう言い残して、また指を鳴らして海の底へ消えていった。
『ジーナ。本当にありがとう』
◆
……『いいか、自然のチカラを出来る限りかき集めて、バケモノが水上に飛び出した瞬間に雷を叩き落とすんだ、そうすればどんな強いやつでも必ず灰になる』……
「う……ん……」
「ジーナ!」
……あれ、私、いつの間にか寝てしまってたのか。今聞こえていたのは少し前にウィレムに伝えたことか。……懐かしい声が顔のすぐ上で聞こえてきた。
「ウィレム……」
目にいっぱい涙を浮かべていたウィレムは、私が無事であるとわかるなり、ぎゅっと抱きしめてきた。
「よかった……本当に……!」
「ウィレム……痛いゾ」
足の感覚がしっかりと感じられる。足の裏で感じるサラッとした砂の感触……最後に触れたのは三日くらい前だというのに、妙に懐かしい感じだ。
「そうだウィレム! あいつら、お礼にうまい魚をくれるってサ!」
すっくと立ち上がり、波打ち際のほうに走ろうとすると、やはり感覚を完全に取り戻せていないらしく、つまづきかけてしまった。……が、とてもいい気分だ。
「無理すんなよ。ほら」
ウィレムに手を取ってもらいながら波打ち際まで歩いていくと、沈みゆく真っ赤な夕日が、これまで見た中で一番美しく見えた。
-The End-