ムーロ王国へ 6
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ライモンドが急いで集めた資料を片手にレナートの執務室に入ってきた。すぐに人払いをし、執務机に資料を並べていく。ソファで本を読んでいたレナートは、慣れた手付きで栞を挟みテーブルに置いた。そして、紅茶のカップを片手に立ち上がった。
「あっ……」
「どうされました」
ライモンドが振り返ると、レナートはソファの背もたれに手を載せて立ち止まっていた。
「ソファにぶつかって床に紅茶をこぼしてしまった」
「だから飲みながら歩かないで下さい、っていつも言ってるでしょう」
「すまない」
「案外マリーア様のおっしゃっていた通り、眼鏡を買った方がいいかもしれませんね。きっと殿下は視力が悪くて物との距離感がつかめていないのでしょう」
「いや、それはしっかり見えているのだ。ただ、避けようと思ってはいるのだが、動きがそれに間に合わないだけで」
「……次期国王がどんくさいとか、絶対に気付かれないようにしてくださいよ……」
「善処はする」
中身をこぼさないように両手でカップを持ったレナートは、慎重に執務机に向かった。ライモンドが布で床を拭いてくれている。
「それで、どうだった」
椅子の背もたれにゆっくりと体を預け、レナートは資料に一枚一枚じっくりと目を通した。
「私に取り次ぎを求めていたのはやはりナヴァーロ村の村人でした。ファルツォーネ伯爵の紹介状と、赤黒い染みのついたマリーア様のハンカチを持っていました」
「染みだと?」
レナートが資料から顔を上げた。ライモンドと目が合ったが、彼は全く表情を変えずに言った。
「血かと思い、すぐさま解析班に回しましたが、ただのぶどうの汁でした」
「ぶどうの汁」
「ぶどう食べてたんでしょうね。口を拭いたハンカチを平気で他人に渡すあたり、マリーア様本人で間違いないかと思われます」
「……」
「村人に聞いたところ、マリーア様が村人にファルツォーネ伯爵を紹介したらしく、伯爵に王城に連れて来てもらい、ハンカチを見せて私に面会を求めるように指示したそうです」
「ミミとファルツォーネ伯爵に接点なんてあっただろうか」
「伯爵が遣いに出した荷馬車が賊に襲われていた所を、マリーア様一行が救出したそうです。その後、村人と出会い、きっかけはよくわかりませんが交流を深めてハンカチを渡した、と」
レナートがこめかみを押さえてため息をついた。それでも資料をめくる手は止めない。
「何もないわけがないとは思っていたが、賊と出会うとは。村人と知り合うきっかけがわからない、とはどういうことだ」
「訛りのひどい者が一人おりまして」
「……そうか……。それで、村人はわざわざ何をしに来たんだ」
レナートが資料をめくる音が人気のない部屋に響く。村人の用件。彼はちょうどその辺りのページを読んでいるのをライモンドは確認した。
「村長の娘が誘拐されたので騎士団の派遣をしてほしい、と。領主に訴えてもなぜか取り合ってもらえなかったそうです」
「ナヴァーロ村の領主はナルディ伯爵だったな」
「はい」
資料をめくる手を止めたレナートは、足を組みかえライモンドを見た。
窓の外はすでに日が落ち暗くなっている。王城に残っている者も少ない。
「さすが私のミミだ。期待通りのことをやってのけてくれる」
「ええ、感服いたしました。とりあえず、これで我々がナヴァーロ村へ行く正当な理由ができました。既に連れて行く人員の確保は済んでおります。明日早朝に出ますので、本日は早めにお部屋にお戻り下さい」
「そうだな」
レナートは立ち上がり、近くの窓を開けた。夜空には昇ったばかりの色の薄い月が靄に陰っていた。
今頃ミミもこうして月を見上げているだろうか。
「明後日には会えるな」
「夜通し走るおつもりですか!?」
「女性が誘拐されているんだ。急がなければならないだろう」
「……顔がにやけてますよ」
そういうのを全く隠す気がないんだから、とライモンドがぶつぶつとつぶやきながら部屋を出て行く。レナートはしばらくの間、月が完全に雲に隠れるまで、ひとり夜空を見上げていた。
*****
私の帰国を聞きつけ、早朝の練習場には100名ほどの弟子たちが勢ぞろいした。
「おはようございます。お嬢様」
「今日はいつもより集まりましたね」
弟子たちが次々に声をかけてきて、挨拶をするだけで右を見たり左を見たりといい準備体操になった。
私は久しぶりに弟子たちと同じ制服を着て、一緒に早朝練習に参加した。
開襟の軍服を模した我が家の制服は私のお気に入りだった。良く伸びる素材でできているので動きやすく破れにくい。階級で色分けされており、最上級は黒、次いで濃紺、灰、緑、赤と続く。現在黒は父ひとり。三年前までは私も黒を着ていた。今、私は濃紺を着ている。
膝あての付いたブーツが重く感じた。たった半年でこれほど筋力が落ちたのか、と履きなれたブーツをひと睨みして思う。確かに最近はヒールのあるショートブーツばかり履いていた。
素手で戦う我が家の武術は、ある程度距離を取らなければならない剣や槍が相手となるとやはり不利だ。それでも、騎士や兵士は武器を使えないような狭い場所で敵と戦わねばならない時もある。そういった時のために、弟子入りしてくる者も多い。ムーロ王国の警備隊には、我が家で接近戦を学んだ者たちも多い。
また、師範の資格を取ると弟子を取ることもでき、父から許可を得ると国内で道場を持つことができる。ムーロ王国の各地に点在している道場で、ある程度認められると我が家で緑の制服から始めることができる。
私は今、その緑に囲まれている。
濃紺に一撃を与えることができれば問答無用で上の階に昇級することができる。たまにこういったイベント的な試合が開催されることがあるが、私が一時帰国したので、急遽非公式で昇級試合が行われることになった。ひとりひとり相手している時間はないので、私対緑たちの総当たり戦にした。きちんと昇級試験を受けて緑になった者は、私のことを知っているので参加していない。私を囲んでいるのは、最近地方の道場を卒業してきた新しい緑たちである。
ぐるりと見回せば、見込みのありそうなのは3人と言ったところだろうか。あとは私を女だからとなめてかかっているのが見え見えだった。
例え相手が箒であっても真剣に戦う。これを心得ていないのならば、赤からやり直させるべきだ。どこの道場だ、こんな者たちに緑を与えたのは。
「試合、開始!」
額の広すぎる師範が声を上げた。
一斉に飛びかかって来る緑たち。伸びてくる手を払い、ひと際体の大きい男の腕を掴んで投げっぱなしの背負い投げをすれば、数人がその下敷きとなりそのまま脱落した。
間髪入れずに入れられた顔面に向けての蹴りを躱すと、背後にいた一人が左腕を取ってきた。そのまま上半身を回し左足で相手の足を払い、逆に背後から腕を取る。右から飛んできた飛び蹴りを避けて背後の一人と相打ちさせた。腕を取ったままの男を盾にして数発の攻撃をかわし、最後は男の背中をかけ上がって空中からの回し蹴りで3人を同時に倒す。
やはり残ったのは見込みのありそうな3人。それでもそんな動きでは昇級はさせられない。
瞬きする暇もない与えないするどい打撃の連続を全て受け止め、バランスをくずした相手の背中を蹴って、再び高くジャンプした。私の着地を狙ってきた腕に足をからみつけ、勢いよく回転すればそのまま相手は地面に叩きつけられた。
残りの一人が正面から捨て身の右ストレートを打ってくる。すかさず打った私の右の拳の方が相手の頬に早く到着し、そのまま、ぺちり、とビンタした。それでも彼の右手は私の耳を微かにかすった。
「勝負あり! 勝者、マリーア!」
額の広い師範の声が運動場に響くと、歓声が上がった。地面に倒れていた者たちは他の者の肩を借りて既に立ち上がっている。
「耳にあたったわ」
私が正直に告げると、黙って見ていた父がゆっくりと歩いてやってきた。興奮していた弟子たちも、姿勢を正して静まり返る。
「かすったくらいでは昇級はさせられん。だが、次回の昇級試験受験資格は与えよう」
先ほどよりも大きな歓声が上がった。受験資格を得た彼は、仲間に胴上げされている。彼が強かったのか、私が弱くなったのか。
ファルツォーネ伯爵はもう出てこないので名前は忘れてもらって結構ですが、こんな人いたなーってことだけでも覚えて 帰ってくださいね。