約束 2
「きゃあっ」
私はアンシェリーンをぎゅっと抱きしめた。護衛の騎士たちと侍女たちも、ぎょっとしているが、手を出すべきかどうか迷って顔を見合わせている。
「何しますの! 放しなさい!」
私はアンシェリーンの頭を抱きかかえるようにして左肩に押し付けた。アンシェリーンはモゴモゴ言いながらもがいているが、その細い腕では私の腕から抜け出すことなどできるはずがない。
「アンシェリーン殿下、ミミの絞め技から逃れられた者はいないのです」
「~~!」
可愛らしく小首を傾げたアイーダが声をかけたが、アンシェリーンはジタバタしたままだった。
「……仕方ありませんね。殿下が泣き止むまで、ミミの腕はほどけませんよ」
「わ、わたくしはっ、泣いてなどいませんわっ!!」
「泣いている女性はこうしてなぐさめなさい、って父に言われているの」
私がそう言って頭を撫でると、アンシェリーンは「ひぃっ!」と悲鳴を上げた。しばらくばしばしと私の背中を叩いていたが、突然ぴたりと動きを止めた。
「何なのよ!」
アンシェリーンが私の肩に顔を埋めたまま叫んだ。皇女のドスの効いた怒鳴り声に、騎士も侍女たちも驚いて目を見開いている。
「あなた、いったい何なの! 好き勝手に行動して! それを許しているレナート殿下も何なの! あなたの突飛な行動を笑ってる人たちも何なの! 殿下の元婚約者とも仲良くしているだなんて信じられないわ! 許せない、許せない! 何なのよ! 私がどんなに望んだって手に入れることのできないものをたくさん持っているくせに、どうしてレナート殿下まであなたのものなのよ! こんな国、私のいるところじゃないわ! あなたなんか大嫌い! うわあああん!!」
静かな廊下にアンシェリーンの泣き声が響き渡った。騎士と侍女たちがぽかーんと口を開けたまま固まっている。アイーダも眉を下げたままほほ笑んでいる。
「はあ、アンシェリーン殿下のツンデレ可愛い」
「っ、放しなさいって言っているでしょう!」
仕方なく腕から解放すると、目を真っ赤にして涙をこぼすアンシェリーンと目が合った。しばらく見つめ合った後、アンシェリーンは両手でぐっと涙を拭き、私を突き飛ばした。
「殿下、すぐにお部屋を用意いたします」
アイーダが目配せをすると、すぐにアイーダの侍女の一人が走り出した。アンシェリーンの化粧を直す部屋を用意しに行ったのだ。もう一人の侍女が先導してアンシェリーンをその部屋へと案内する。
「また会いましょう! 今度は私が帝国に遊びに行くわね」
気まずそうに口を歪めたアンシェリーンがゆっくりと振り向く。
「……そのころのわたくしは、レナート殿下よりもずっと素敵で権力のある方のところへ嫁いでおりますので、無理ですわ」
「じゃあ、嫁ぎ先へ遊びに行くわねー」
「絶対に来ないで!」
「またまたそんなー」
「ミミの鋼の心、感心を通り越してちょっとこわいわ」とアイーダがつぶやいた。
アンシェリーンは今度こそ振り返ることなく侍女たちに囲まれて歩いて行った。あまりにも存在感が薄くて今まで気付かなかったが、一番後ろにはベンハミンがいた。
「ベンハミンさん、さっきは助けてくれてありがとう」
すれ違いざまに小声でそう言うと、ベンハミンは面倒くさそうにちらっとこちらを向いた。
「王太子殿下にチクらないでくれたお礼ですよ。これで、貸し借り無しです」
「ふふ、また会いましょ」
ベンハミンは頷くでもなく返事をするでもなく、手をひらひらさせて侍女たちの後を追って行ってしまった。
その後ろ姿をしばらく見ていたら、アイーダに腰を掴まれ、私は思わず飛びのいた。
「えっ、まさか、またお肉がついたとか……」
「今のやりとり、レナート殿下が知ったら絶対怒ると思うわ」
「やだ、言わないで、アイーダ」
「どうしようかしらね」
「ア、アイーダってそういう感じだったっけ?」
「これだけミミと一緒にいたら私も強くなるわよ。そんなことよりも、ミミ、やっぱりあなたまた太っ」
「わ、わ、わ! それ以上言わないで! パーティでちょっと食べ過ぎただけだから! すぐ戻るからっ」
パチリと瞬いたアイーダが、すばやく私のスカートをめくる。そこには、見覚えのある鉄の足枷が。
「これは、その、あの、アイーダ……」
「……これは、ガブリエーレ様の案件だったわね」
「あの人には言わないでー! アイーダー!」
「いろいろと世話になった! 感謝する! レナート」
「礼には及ばぬ。さっさと帰れ」
冷たい王太子の表情で淡々と告げるレナートに、これっぽっちもひるまないで絡むアントーニウス。いい加減その空気の読めなさに慣れてきた私たちは、笑顔でその様子を眺めていた。
アントーニウスから少し離れたところで、アンシェリーンがたたずんでいる。優秀な侍女たちの手によって、元通りに化粧を直された彼女は、侍女のさす日傘の下でぼんやりとレナートを眺めていた。そっと手を振ってみたら、キッ、と目を吊り上げた。
「イルー婆様、道中のお天気は大丈夫かしら」
「んー、雨にはあたらず帰ることができそうじゃの。世にも珍しい狸の娘よ、今年のルビーニ王国には嵐は来ないが多少の日照りはあるかもしれん。気ぃ付けぇよ」
「狸じゃないわ、マリーアです」
帝国の兵士と間違えてカラスに話しかけていたイルー婆を馬車まで連れて行ったら、勝手に離れるな、とガブリエーレに腰のリボンを引っ張られてアイーダの横へ戻された。
来た時と同じようにたくさんの黒い馬車が並び、ルビーニ王国を楽しんだ人たちが名残惜しそうに馬車に乗り込んでいく。きょろきょろと探したが、ベンハミンの姿は見えなかった。
「マリーア嬢、お前は俺の手には負えない! わはは! レナートと末永く仲良くな!」
そう言って私の背中をばしん、と叩いて、アントーニウスは元気よく馬車に乗り込んで行った。後方の馬車を見ると、すでに乗り込んでいたアンシェリーンがカーテンの隙間からこちらを見ていた。目が合うと、彼女はにっこりとほほ笑んだ。長い睫毛の下で深緑の瞳がキラキラと輝き、バラ色の頬がきゅっと上がる。さっきまで大声で泣いていたとは思えないほどの、可憐なお姫様の笑顔だった。
嬉しくって手を振ろうとしたら、彼女は「してやったり」とばかりにニヤリと笑うと、あかんべえをしてシャッとカーテンを閉めてしまった。手を上げたままポカンとしている私の目の前を通り過ぎていく馬車からは、女性たちの楽し気な笑い声が聞こえた。
「本当に仲良くなるとは、恐れ入った」
とても恐れ入っているとは思えないほど鷹揚な態度で歩み寄って来たレナートが言った。帝国の皆さんのお見送りには、大臣や貴族たちだけでなく王宮の官吏たちももの珍しそうに出てきていたので仕方ない。レナートは人前では笑顔を見せない厳格な王太子なのだから。
「初めて会ったお姫様は本当に可愛らしかったわ」
「あれを可愛いという感覚がよくわからないが、ミミがそう思うのならそれで良い」
後ろに控えていたライモンドがふう、と息を吐いた。自ら暗殺者を連れて来るという帝国に振り回されていたのは、ガブリエーレや騎士団だけではない。勝手に予定を変更して好き勝手に出歩いてしまうアントーニウスのおかげで、ライモンドは各所への手配で大忙しだったのだ。
「ライモンド様、お疲れ様。大変だったわね」
「ありがとうございます。マリーア様がアントーニウス殿下に頭突きした時は胃が焼き切れると同時に胸がスカッといたしました」
「ん? ん? どういう意味?」
ライモンドと話す私の横で、レナートが顎に手をやって首をわずかに傾げた。
「そう言えばミミ。あの時は頭突きの音が王族席にまで響いて聞こえていたが、あれは痛くないのか」
「レナート、頭突きは我慢よ」
「我慢」
「ええ、我慢。我慢強い方の勝ちなのよ」
「我慢か……」
「殿下! だめですよ! やっちゃ」
ライモンドがレナートの肩をゆさぶる。「我慢だったら私だって」っと食い下がるレナートをさらにライモンドがゆさぶった。
「マリーア様、殿下におかしなこと教えないで下さい!」
「だって聞かれたから……」
「殿下のお顔に傷がついたらどうするんですか!」
「ハッ! だめよ! レナート、頭突きは訓練をしたプロにしかできない技よ!」
「そうなのか。では、やめておこう」
ほっと胸を撫で下ろしていると、プラチドの呼ぶ声が聞こえた。
「兄上、ミミちゃん。これからアイーダの庭でお茶しようと思うんだけど、一緒にどうかな。お疲れ様会ってことで」
アイーダと手をつないだプラチドが笑顔でやって来て言った。
「公爵家からケーキが届きましたので、いかがですか」
「わあ、アイーダの家のケーキおいしいのよ! レナート、行きましょ」
「うむ。ライモンド?」
「ええ、休憩程度のお時間はあります」
「やったあ、皆でお茶しましょ!」
私が飛び跳ねて喜んでいると、お見送りを終えた官吏の皆さんが笑顔で私を見ながら王城へ戻っていく。
帝国の人たちを気持ちよく送り出すためだろう、エントランスの花壇はきれいな花が咲きほこり、芝生は整然と整えられている。王城の上には澄んだ青空が広がっていた。大きく息を吸いこんだら、きゅるる、とお腹が鳴った。
「そういえばちょうどおやつの時間じゃないかしら」
「そうか?」
レナートが胸のポケットに手を伸ばしたのを見て、私は大事なことを思い出した。
「忘れてたわ! レナート! 懐中時計見せて」
「時計を?」
「わわわ、殿下っ、いけませんっ」
懐中時計を取り出そうとするレナートの右手を、ライモンドが止める。さっきまで笑っていたはずのプラチドまでが顔色を変えてあわてている。
「あ、兄上、やめた方が……」
「ん? なぜだ」
「レナートは懐中時計に私の絵姿を貼ってくれてるんでしょう? 見せて!」
「ああ、そのことか。良いだろう」
「わああ、殿下ー!」
私はレナートの腕にしがみつくようにして、取り出された懐中時計をのぞきこんだ。アイーダのように優美な姿で描かれているといいな。アイーダが女神だったら、私は天使かしら。
「どれどれ、見せて……ん?」
「とてもミミらしくて可愛らしい。名もない画家のものらしいが、よく描けていると思う」
「なっ、なっ、な……何これぇぇぇーーーー!!」
れぇー、れぇー、ぇー、……。
まだまだ人のたくさん残っているエントランスに私の叫び声がこだました。
レナートがパカリと開けた懐中時計のふたに貼られていたのは、笑顔で猛烈なパンチを繰り出している、天使とは程遠い私の絵姿だった。
お付き合いありがとうございました!




