真の敵 3
モグー!気に入ってもらえて何より。
次の日の朝、私は何となく起きる気がしなくて、めずらしくベッドでごろごろとしていた。当然、レナートの朝の護衛にも間に合わなかったので、のんびりと朝食を食べた後は、ベッドに腰かけ鉄の兜を磨いていた。
レナートは今日、アントーニウスの教会訪問に付き合うと言っていた。呪術師の進言で国民を導いている帝国は、神からの神託を重視する教会とも深い関りがあるのだそうだ。密かに結託したりしないように、見張りを兼ねて同行するのだそうだ。
そろそろ出発した時間かしら。私はこの後、アンシェリーンを誘って仲良くなる予定だったのだけれど、昨日のこともあって、どうにもそんな気にはならかった。
少し運動でもして気を紛らわそう。昨日食べたクッキーの分を消費しなきゃいけないし。
私は騎士団の練習場に向かった。
レナートが私を選んでくれるのは嬉しい。皆が私を推してくれるのも嬉しい。でも、それが本当にルビーニ王国のためになるのかしら。アンシェリーンを選ばなかったことにより、アントーニウスが怒って戦争なんてことになったらどうしよう。
「やだ……私ったら、もしかして傾国の美女なのかしら……」
「違いますので、ご安心ください」
振り向くと、目の前にライモンドが立っていた。書類の束を小脇に抱え、人差し指で眼鏡を上げる様子は、いたって普段通りだ。
「ライモンド様。おはようございます。こんなところを歩いているなんてめずらしいわね」
「おはようございます。レナート殿下のお見送りに、ふふ、来ていたんですよ」
「ライモンド様はついて行かなかったのね」
「ああ。ガブさんがついて行きましたから、大丈夫ですよ。ふふふ。アントーニウス殿下の周りは暗殺者ばかりですからね。私がいたって足手まといに、ふふ、なるだけですから」
ライモンドの様子がおかしい。拳を口にあて、肩を震わせて笑いをこらえているように見える。
「ねえ、さっきから何がおかしいの?」
「いえ、笑ってましたか、私。ふふ、いや、失礼」
私が眉をひそめると、ライモンドは降参とばかりに両手を広げた。
「実は先ほど、レナート殿下とアントーニウス殿下の出発をアンシェリーン殿下が見送りに出てらしたんですよ」
「えっ」
「昨日とはうって変わって、しおらしく立ってたんですけどね……。アントーニウス殿下が、このアンシェリーンのどこが気に入らないって言うんだ、って言ったら、ふふふ」
嫌な予感がする。レナートったら、何てこたえたのかしら。
「レナート殿下はちらっとアンシェリーン殿下を見下ろした後、可愛げがない、って言って、さっさと馬車に乗ってしまわれて……ふふ、ははは。まさに、ガーーンって感じでショックを受けたアンシェリーン殿下が、ぷるぷる震え顔を真っ赤にして踵を返していかれて……」
「ラ、ライモンド様、そんなに笑っちゃ……」
「ええ。私だってその場では冷静を装っておりました。でも、今、ぶつぶつ心の声をもらしながら歩いているマリーア様を見たら、笑いが止まらなくなってしまって」
「そんな、相手は帝国のお姫様なのよ」
「ええ、ええ、わかっていますよ。でもね、レナート殿下はさすがだな、と思いまして。マリーア様は傾国の美女ではありませんが、可愛げで言えばその通りだな、と」
「え、それは、可愛いってこと?」
「違います。可愛げ、です」
「難しいわ」
「でしょうね」
では、とひらひらと手を振って去っていくライモンドは上機嫌だった。
アンシェリーンが城内をうろついているのなら、部屋にこもっていた方がいいかしら。でも、別に私は悪いことしたわけでもないのに逃げるって変ね。
やっぱり練習場へ向かおう。走っていれば何も考えなくて済む。ずんずんと廊下を進んで行けば、すれ違う使用人や官吏たちが笑顔で声をかけてくれる。皆と話しているうちに少しずつ気分の良くなってきた私は、練習場への近道へつながる扉に手をかけたその時、ふと気配を感じて振り返った。
「アンシェリーン殿下……」
たくさんの侍女を引きつれ、扇でほとんど顔を隠したアンシェリーンがこちらへ向かってゆっくりと歩いて来ていた。扇からちらりと見えた深緑の瞳は弓なりに細められており、私は思わず身構えた。アンシェリーンの隣には、右手を左肩に載せ、だるそうに首を回して歩くベンハミンがいた。
呪術師のベンハミンは、アントーニウスと一緒に教会へ行ったものだと思っていた。明らかに私めがけて近付いて来る二人。とっさに髪留めに手を伸ばした瞬間、ベンハミンの瞳が深紅に染まった。
「痛っ……」
私の目の前で、何かが弾けて額にパチリとあたった。額を押さえた手のひらを見たが、何もない。静電気かしら。でも、私はまだ扉に触れていない。
立ち止まったアンシェリーンからは先ほどまでの笑みは消えていた。悔しそうに顔を歪め、私をじっと睨んでいる。
「だから言ったでしょ、殿下」
ベンハミンは呆れ顔でアンシェリーンを見下ろして言った。二人はしばらく無言で睨み合っていた。アンシェリーンがパッと扇を閉じて足早に去っていくのを、侍女たちが追って行く。最後にぺこりと私に軽く頭を下げ、ベンハミンもゆっくりとアンシェリーンとは反対の方向へ歩いて行った。
「やっぱりここにいたわね」
「やっぱりここへいらしたんですね」
私とベンハミンの声が揃った。
練習場で真っ赤な騎士服を強奪し、とりあえずそこにいた全員を投げ飛ばして気持ちを落ち着かせた私は、部屋に戻り身なりを整えて自分の庭へ向かった。
やはり池のほとりにはベンハミンが座っていた。
「来るだろうと思ってたんですよ」
猫背をさらに丸めて笑うベンハミンは、悪びれもせずに私をまっすぐに見た。
「さっき、私に呪いをかけようとしたわね」
「ええ。かかりませんでしたけどね」
「即答!」
「かからないから無駄だって言ったんですけどね。権力者っていうのは、本当に人使いが荒くてね、参ります」
どんな言い訳をするのだろうか、と思いながら来た私は調子が狂い、ベンハミンの隣に座った。水筒のお水を一口飲み、私はベンハミンに向き直った。
「ねえ、呪いをかけるの失敗したの?」
「失礼っスね」
むっとしたように唇を尖らせたベンハミンは、膝に手を置いて起き上がり姿勢を正した。
「俺は呪術に関しては失敗したことはない。だが、あんたにはかからないんだ。言ったろ? 呪いと言ってはいるが催眠術みたいなもんだって。俺たちは心の隙を狙う。だから、あんたみたいに心に迷いのない人間には呪いはかけられないんだ」
「心の、隙?」
「そうそう」
「失礼ね。私にだって悩みくらいあるわよ」
「悩みや心配事、そんな浅いことじゃねーよ。肝が据わってるって言ったほうがいいかな。あんたに関しては、心臓に毛が生えてる?」
「やっぱり失礼だわ!」
ははは、と声を上げて笑うベンハミンは、いつもよりも少しだけ明るく見えた。
「だから、あんたに術はかからないって言ったのに、いいから黙ってやれ、って言うんだもの。あのお姫さんが」
私は思わずきゅっと口を閉じた。やはり、アンシェリーンの命令で私を呪おうとしていたのか。
「そう、俺をこの国へ連れてきたのはアントーニウス殿下じゃない。姫様さ。呪いの内容は守秘義務があるから言わないけど、まあ想像した通りだよ、きっと。昨日、あんたと何かあったのかい。姫様はあんたを何としても排除したいようだ」
好みじゃない。可愛げが無い。傅かれ大切に育てられてきた彼女のプライドはどれだけ傷付いたことだろう。呪うほど恨まれるなんて初めてのことで、何て説明していいかわからない。ん? 呪い……ってことは。私の頭にひとつの疑問が湧いた。
「私じゃなくて、レナートの気を変えさせちゃうほうが早くない?」
「あー、それね」
ベンハミンがニヤリと口の端を上げた。
「俺たちにも一応制約があるんだ。モラルって言ったほうがいいかな。俺たち呪術師は、皇族、王族には呪いをかけない。大きな権力を持つやつを呪うことはとても危険なことだ。こちらに有利にするようにしむけるために周りを呪うことはあっても、本人を呪うことはしない。俺たちはそれだけは守る。ちっぽけなことしかできないとは言え、それが俺たちの矜持みたいなもんさ」
そう言った後、また猫背に戻り膝に頬杖をついたベンハミンは、池に小石を投げ込んだ。水面に浮かんだ小さな波紋がどんどん大きく広がっていく。
呪いとはいったい何だろう。ベンハミンはちっぽけなこと、と言っているけれど、例えば大切な場面で王を眠らせてしまえば。重大な局面で騎士団長を眠らせてしまえば。ほんの小さな歯車の狂いが後々取り返しのつかないことにつながるのだ。
催眠術、なんて言葉でごまかしているけれど、目の色が変わることはどう説明するのだろう。やはりベンハミンは不思議な能力を持っている。
消えてゆく波紋を見つめながら、私は少しだけ青ざめた。この人はなんて恐ろしい人なのだろう。
「あんたには呪いは効かない。でも、まだ姫様は諦めていない。あんたのことは嫌いじゃないが、主に命令されれば俺は従うでしょう。それが仕事なのでね。お気を付けて」
ベンハミンは音もなく立ち上がると、私を置いて庭を去っていった。
その後も、城内を歩いていたら、何度か額にパチリと痛みが走った。振り返ればその度に、こちらを睨むアンシェリーンとその横で、ごめんごめん、と手を合わせ苦笑いするベンハミンがいた。
効かないとはいえ、やはり何度もやられれば額が痛い。さすがに腹が立ったので、ベンハミンの瞳が紅くなる瞬間にナックルをつけて空中を全力でパンチしてみた。すると、アンシェリーンの侍女の一人が悲鳴を上げて尻もちをついた。「殴って跳ね返すとか、マジかよ!」とベンハミンが声を上げた。それ以来、アンシェリーンの付きまといはぴたりと止んだ。
強めのデコピンくらいの痛さです。




