真の敵 2
アントーニウスが紅茶を乱暴にテーブルに置いた音に、アンシェリーンはぴくりと眉を上げた。
「レナート、うちの妹を嫁にもらってくれ」
「断る」
びっくりして私が叫ぶ前に、レナートが光の速さで即答した。
「まあそう言うなよ。アンシェリーンは見た目も良いし、淑女としての所作も完璧だ」
「私にはすでに婚約者がいるのを知っているだろう」
アントーニウスはちらりと私を見た後、ふ、と軽く笑った。
「ムーロ王国と我がサンデルス帝国。国の為を思うのならば、答えはわかりきっているだろう」
確かに。ちっぽけな小国ムーロ王国の一貴族の娘よりも、大国サンデルス帝国の皇女。どっちが得かなんて、歴然だ。
えっ、これって、……。
「断れない政略結婚ってやつなんじゃ……ングッ」
私が口を開いた瞬間、レナートが私の口にクッキーを放り込んだ。
「モ、モグゥ……」
クッキーは私の口をふさぐにはぴったりのサイズで、美味しいけれど口の中の水分が全部吸い取られてなかなか飲み込めない。
アントーニウスはしばらくレナートの行動にあっけに取られていたが、気を取り直すように膝をぽんと一度叩いた。
「俺だって王城内や視察先で、お前とマリーア嬢の仲睦まじい様子を耳にした。だから、別にマリーア嬢と別れろとまでは言わないさ。アンシェリーンを正妃に、マリーア嬢を第二妃にすればいい。身分から言えば、それが当然だろう」
「私がだいに……モグッ」
やっと噛み砕いたクッキーを飲み込んだ私が口を開こうとしたら、再びレナートがクッキーを口につっこんできた。
もしかしてさっきレナートが言っていた対策って、私の心の声対策、ってこと? 困惑顔のアイーダの向こうで、プラチドが真顔で宙を見つめている。あれは、必死に笑いを堪えている顔だ。
膝の上の扇をぎゅっと握ったアイーダが口を開いた。けしてでしゃばることのない彼女が、しかも格上の相手に対して勝手に話しかけるだなんて。驚いた私は口いっぱいのクッキーをボリボリ噛み砕きながら振り向いた。
「アントーニウス殿下。ミミは、彼女は既に婚約の取り決めを交わした正式な婚約者です。それを今更っ……」
アイーダはそこまで一気に言うと、言葉を詰まらせてうつむいてしまった。その背にそっと手を添えてプラチドが続ける。
「そうです。それに、我々は以前からこの縁談はお断りしていたはずです。しかも、兄上が選んだ相手を差し置いて正妃にだなんて」
「モ、モグ……」
「だから第二夫人に、と言っているだろう。妹だって自分以外の妃を置くことは了承済みだ。帝国の後ろ盾も得られ、ムーロ王国の顔も立てられる。丸く納まるではないか」
「ミミは立派に王太子妃教育を受けています。王城の全員、そして国民はミミが王妃になるのを楽しみにしているんです。それを、後から突然やって来て、その地位を勝手に奪っていくだなんて横暴です」
「アイーダの言うとおりです。ミミちゃんは第二夫人におさまるような、そんなちっぽけな器じゃない」
「モグモグ、ングゥ」
よし、全部飲み込んだ! と口を開きかけたら、膝の上に置いていた手をレナートに強く握られ、私はそのまま口を閉じた。
「待て、お前たち。ルビーニ王国は一夫一婦制だ。そもそも第二夫人などというものはない」
「「「そうでした」」」
レナートの言葉に、私たちは顔を見合わせた。そうだった。ルビーニ王国は、王様一人に王妃様一人。レナートとプラチドの母親は同じ王妃様。ムーロ王国もそうだ。
アントーニウスは知らなかったのか、あごに手をやり首を傾げていたが、すぐに背もたれにふんぞり返った。
「そうなのか。じゃあ、お前の代から変えればいいだけの話だろう。だいたい、妻が一人では跡継ぎが途絶える可能性が出てくるだろう」
「そのせいでお前の国は後継者争いで年中揉めているではないか」
レナートが呆れ顔でこたえた。ムッとしたように口をとがらせたアントーニウスがじろりと私を睨んだ。
「だからこそ、妻に序列をつけている。俺の母は正妃だ。あいつらが何と言おうと、生まれた時から俺が皇太子と決まっているんだ。偉大なる呪術師イルーヴァも、俺こそが皇太子と神託を受けているしな」
イルー婆はただの天気予報士でしょ。そう言いかけたが、ソファの隅で射貫くようにじっとアントーニウスを見つめるアンシェリーンの瞳に、私は思わず見入ってしまった。
「知らぬ。こちらには関係のない話だ。妻はマリーアただ一人。これは決定で、変わることはない」
つまらなそうにひじ掛けに頬杖をついていたレナートは、これで話は終わり、とばかりに身を起こして言った。アントーニウスが眉を寄せ何かを言おうとしたが、それを遮るようにアンシェリーンが音をたてて扇でポンと自分の手のひらを叩いた。
「わたくしは」
低く品のある声が、室内の空気を震わせた。いつものかすれた小声はそこにはもうなかった。
「わたくしは、物心ついた時から皇族として、民の上に立つものとして教育を受けてまいりました。政治学、経済学、そして帝王学、すべてにおいて優秀な成績を収めてまいりましたこと、レナート殿下もお認めくださいました。それは、わたくしこそ王妃にふさわしいという、そういった意味だと理解しておりました」
「モグゥー!」
「ん゛ん゛っ」
可愛くって優秀だなんて、天に何物与えられてるのー! と思ったら、またもやレナートが私の口にクッキーつっこむ。そして、太ももをつねって必死に目を逸らしていたプラチドが耐えきれずにとうとう変な声を出した。
「曲解だな」
ボリボリとクッキーを噛む私の口の端を指でぬぐい、レナートはそうこたえた。アンシェリーンがきっ、とレナートを睨む。ふたりの視線にバチバチと火花が散った気がした。
「話してみて、たしかに皇女は優秀であった。だが、それだけの話だ」
「おいおい、レナート。お前がその娘を気に入っているのは理解したが、これは政治の話だろう」
「モ、モグ……」
「すでに決まっている話に無理やり横やりを入れることがか?」
「モグモグー」
「……おい、その菓子はそんなにうまいのか?」
頬を膨らませてクッキーを食べる私を見たアントーニウスが、自分の前に置かれたクッキーに手を伸ばす。横目でその様子を見ていたアンシェリーンが、きゅっと眉を寄せた。
アントーニウスはクッキーを食べながら、お前は頭が固い、だの、王たるもの妻が一人だなんて、と喚き、レナートがそれを冷たくあしらう。
「これだけ言っても分からないとは……」
はあ、と大きくため息をついたレナートは、皿の上から球状のクッキーをつまむと、躊躇なく私に向かってシュッと放り投げた。私はつい反射的に飛びついて、それをパクリと口で受け止めた。それを見たレナートは満足したように目を細め、小さく頷いた。
「なるべく角を立てずに穏便に伝えていたつもりだったが……マリーアを見ればわかるだろう。アンシェリーン皇女は私の好みではない、と言っておるのだ」
レ、レナート!? 皇女に何てことを言うのーー!? 部屋にいる全員が、驚いてポカンと口を開ける。容赦ないレナートの言葉に、アンシェリーンの顔色が一瞬真っ赤になった。アントーニウスがバン、とテーブルを叩く。
「レナート! お前っ」
「モグゥー!」
「ん゛ん゛ん゛っ」
耐えて! プラチド!
「……っ、レナート殿下っ、王族の婚姻に、こ、好みなど関係ありませんわっ。国益となるのは、明らかにわたくしです!」
口元をひくつかせ、アンシェリーンが声を震わせた。全く動じる様子もなく、レナートが冷たい視線を走らせる。
「マリーアを失う方がよっぽど国益を損なう」
「……っ、……!」
扇を握ってぷるぷると震えるアンシェリーンの姿に、アントーニウスが驚いた表情を浮かべる。
「……今日のところは、ここまでだ。俺たちは下がらせてもらう。レナート、お前は自分の人生を自分で決められるような生まれではないんだ。俺たちは国益のために生きている。よく考えろ。行くぞ、アンシェリーン」
アントーニウスの手を借りて立ち上がったアンシェリーンは、露骨に私を睨んだ後、侍女に連れられ部屋を出て行った。
二人が帰り、そっと扉を閉めたガブリエーレがくるりと振り返りそのまま仁王立ちする。
「おいっ、レナート! さすがに俺にだってわかるぞ! 皇女に失礼だろう! こ、好みじゃないって」
「……ガブリエーレ、お前。そう言いながら笑ってるではないか」
「ぶはっ、だって、そりゃあ……、なあ? ライモンド」
肩を震わせ壁に手をついたガブリエーレが、ライモンドに話を振る。茶器を片付けていたライモンドが「殿下ってああいうところがあるんですよねえ」と苦笑いした。
ソファからずるずるとすべり落ち、床に手をついたプラチドの背中を、アイーダが優しくさすっている。
「はあ、はあ。ぼ、僕、けっこう頑張ったと思うんだよねっ。ミミちゃんがクッキーに飛びついたのだって我慢したし。でも、最後の『レナート、お前!』『モグゥー!』は限界だったなあ、さすがに。あはは、あはははは、だめだ、思い出し笑いが……あははははは」
私は一人、ソファに腰掛けたまま呆然としていた。
アンシェリーンが、レナートと結婚……。帝国とルビーニ王国、大国同士が結び合えば、どんな国が敵対してこようともけして敵わないだろう。お互いを後ろ盾にして、永久に平和な国を維持することができる。
こんな都合の良い政略結婚はないだろう。
私さえいなければ。
レナートと一緒にいれるのならば、結婚できなくても。私は別に妾でも……。
気を抜くといつの間にか忍び寄ってくる、私とは切っても切れないあの言葉。
―――婚約破棄。
「んぎゃっ」
「良からぬことを考えているな、ミミ」
レナートに頬をつままれ、私はハッと顔を上げた。
「わ、私、また思っていることをしゃべっちゃってましたか!?」
「いや、何も言っていないが、何を考えていたかは丸わかりだ」
プラチドとアイーダが心配そうにこちらを見ていた。壁によりかかったガブリエーレは腕を組んでこの先の成り行きを見守っている。ライモンドはいつも通り、執務机について書類を開いている。
「忘れたか。帝国との縁談は、ミミと出会う前から断っている」
「そうでした」
「あいつらが何を言ってこようと、我々は何も変わらない。考えてもみろ、私だけではなく、父上と母上だってミミのことを手放すはずがないだろう」
「そうでしょうか」
「あの皇女では、二人をあんなに笑わせることはできないだろう」
「ま、まあ、そうだけど、それって重要……?」
もちろん、とレナートはほほ笑み、もう一度私の頬をつまんだ。
プラチド耐えました!モグー!




