帝国ご一行がやってきた 2
レナートはものすごく嫌そうに頷くと、私の肩に手を添えた。
「私の婚約者、マリーア。ムーロ王国の公爵家の娘だ」
「そうか! 可愛らしい娘だな! 俺はサンデルス帝国皇太子、アントーニウスだ。よろしく!」
「マリーア・アンノヴァッツィです! よろしく!」
私は左手を腰に添え胸を張り、差し出された手をがっちりと握り返した。しまった、ここは淑女の礼をするところだった、と気付いたがすでに遅かった。しかも、アントーニウスは私にだけ見えるようにうっすらと片方の口の端を上げたかと思うと、握る手にギリギリと力を込めてきた。
力比べかしら。
私も同じように握り返すと、一瞬目を見開いたアントーニウスはさらに手に力を込めてきた。歯を食いしばりつつ笑顔で手を握り合う私たちは、レナートの咳ばらいでやっと手を離した。その際、ふとアントーニウスの視線が私の頭で止まった。
「ん? それは、髪飾りなのか? ナックルのように見え……」
「我がアンノヴァッツィ公爵家の家紋を模した髪飾りです! 可愛いでしょう!」
「そうだよな! 令嬢が髪に武器をつけるわけがない! わはは、何とも珍しく可愛らしい髪飾りだ!」
「はい! 四つの輪は博愛、平和、体力、気力を表しています!」
「ぜってぇ今、適当に考えただろ……」とガブリエーレのつぶやく声が聞こえたと思ったら、アントーニウスの肩の向こうで、黒い隊列が揺れた。
その瞬間、私はアントーニウスの肩を突き飛ばし前に出た。走ってきた男の持つナイフを叩き落とし、その腕を捕らえひねるようにして体ごと地面にねじ伏せた。騒然としたその場は一瞬で静まり返り、誰かが息を呑む音がした。
やってしまった!
私はビュン、と音を立てて走り、レナートの背中に隠れた。時間にしたら瞬き一つくらいの間だったはず。兵士たちに捕らえられた男は、帝国の黒い軍服を着ている。連れてきた護衛の中に、暗殺者が紛れ込んでいたのだ。私に突き飛ばされたアントーニウスは、肩を押さえて目を白黒させている。
「おい。い、今、マリーア嬢が……」
「やだあ、後ろの方たちにも挨拶しようとしたら、ぶつかっちゃったぁ」
「アントーニウス、マリーアはおっちょこちょいなんだ」
レナートの冷静な様子に納得したのか、アントーニウスは腰に手をあてて大きく笑った。
「わはは、おっちょこちょいか。そうだよな、令嬢が暗殺者を撃退できるわけがない。そうかそうか、俺の部下たちにも挨拶してくれようとしたのか。高位貴族でありながら気さくなのは好ましい。今後とも遠慮せずこいつらにも声をかけてやってくれ」
アントーニウスがバカで良かった。目下皇位継承権争奪戦真っ只中の彼は、襲われたことなど気にも留めていない。彼が手のひらを向けた『俺の部下たち』は皆訝しそうな顔をしているが、異を唱える者はいない。暗殺者が連行され騒然としている中、ゆっくりと二つに分かれてゆく軍服の黒の中から、水色のドレスを揺らしてアンシェリーンが姿を現した。
豊かな黒髪は腰のあたりでゆるく波打ち、長い睫毛がびっしりと生えた瞳は少したれ気味で愛らしかった。短い前髪から覗く額と眉は形が良く、とても賢そうに見える。あまりにも私が凝視しているからか、パッと扇で口元を隠してしまったが、それでもその深緑色の瞳はじっと私を捕らえていた。
か、可愛い……。守りたい……。
ごくりと私ののどから音が鳴った。隣にいるアイーダをちらりと確認したら、彼女にしてはめずらしく鋭い目つきでアンシェリーンを見ている。
「これは俺の可愛い妹のアンシェリーンだ。マリーア嬢、アイーダ嬢よりも年下の十七歳だが、仲良くしてやってくれ」
アントーニウスがそう言うと、アンシェリーンはぼんやりとした瞳のまま口の端だけを上げて優雅に膝を折った。アイーダに合わせ、私も同じように膝を折った。
「お久しぶりでございます、アンシェリーン殿下。こたびの滞在中は私たちがおもてなしいたしますので、ご要望がございましたら遠慮なくお言いつけくださいませ」
アイーダがそう言うと、アンシェリーンはちらりと視線を寄こしコクリと頷いた。そして、すぐに私に視線を戻す。
「マリーア・アンノヴァッツィです。お初にお目にかかります。どうぞよろしく」
いつまで経ってもアンシェリーンからの返事がないため、頭を上げるタイミングを逃してしまった。上目遣いで窺うと、アンシェリーンは変わらず深緑の瞳でじぃっと私を見つめている。敵意を持っているというよりも、検分するかのような視線に頭のてっぺんから冷や汗が噴き出た。
微かに息を吸いこむ音がして、「よしなに」と囁くような声が聞こえた。その消え入りそうにもかすれた声に、私は胸がきゅんとした。
ほ、本物のお姫様ーー!
胸を押さえて立ち上がれば、小柄な彼女の背後にはいつの間にか黒い軍服の兵士たちが整列していた。その間を縫うように、腰の曲がった白髪の老婆が古めかしいローブを揺らしてよたよたと歩いてくる。
老婆はアントーニウスの隣まで来ると、じろりと私たちをひとりひとり眺め、手にした杖で地面をコンコンと二回叩いた。それが合図なのか、アントーニウスが頷く。
「このお方は我が帝国一の呪術師、イルーヴァ女史である。長年我が帝国を良き方向へ導いてきた偉大なるお方である。この度は王太子殿下婚約を祝福するために同行してくださった。見ての通りかなりの高齢であるため、何かと気にかけてやってほしい」
レナートが頷くと、老婆はコツコツと杖を鳴らして前に出てきた。
「ヒヒヒ、これはなかなか良い面構えの王太子じゃの……。かなり強欲な相が出ておるわ……フヒヒ」
私はすぐに老婆のそばにかけより、膝をついてその手を取った。
「イルー婆様。それはレナート殿下ではなく、階段の手すりのオーナメントですわ」
「な、なんと、これはこれは、さすがルビーニ王国。しゃべる狸とはめずらしいのぅ」
「狸じゃないです。マリーアです、イルー婆様」
「ミミ、イルーヴァ様よ」
アイーダが私の肩に手を置いた。そのままぐいっと肩を引かれ、元の位置へ戻された。イルー婆は帝国の兵士に連れ戻されて行った。
「ええと、まあ、そういうことだ。しばらくの間、やっかいになる」
「……ごゆっくり……」
レナートの呆れ声にもめげずに、アントーニウスは大きな口を開けて笑っている
アントーニウスの後ろに控える兵士たちを見渡すと、明らかに一人、軍服を着慣れていない男がいた。ボサボサの黒髪は襟足が長く、真新しい軍服は細身の体にサイズが合っていない。目の下に深いクマを作った男は、つまらなそうに耳の穴をほじっている。
レナートの肩を強めに叩き、アントーニウスは上機嫌で離宮に向かって行った。その後ろをぞろぞろと付いて行く黒い隊列は、あまりまとまりはなく、これからもやっかいなことが起こりそうな予感がぷんぷんした。
「か、体が勝手に動いてしまい……気付いたら飛び出しておりました」
私はレナートの執務室で床に正座させられていた。目の前にはガブリエーレが鬼の形相で立っている。
「襲われてんのに俺たちの前に出るんじゃねーよ! あっちの皇太子を守るのは、俺たちの仕事だ。お前を守る手間をかけさせんじゃねーよ!」
「いや、だって、これはもう長年の」
「お前は今、護衛の兵士じゃねーんだよ。次期王太子妃なんだから、怪我させるわけにいかねーんだよ。お前の髪一本切らせてみろ、騎士団長の首が飛ぶぞ」
私がそっとレナートの顔を窺うと、柔らかく口の端を上げたが目が笑っていない。
「ガブリエーレ、そんなことはしないかもしれないし、するかもしれないが、もういいだろう。ミミをもう解放してやれ」
「お前がそうやって甘やかすからだろ」
「ミミの行動を制限するつもりはない。自由にしていい。こちらで対策を立てればいいだけだ」
足がしびれて動けない私を、ガブリエーレがポイとソファに放り投げた。私が居ずまいを正すのを待って、レナートがこちらを向いた。
「ミミ、帝国の者たちをどう見た」
執務机にひじをつき問うたレナートは、先ほどとは違い真面目な顔つきだった。私は背筋を伸ばし、胸を張った。
「飾緒の揺れから察するに、アントーニウス殿下は左足を過去に痛めたことがおありになるかと。過去にかばって歩いていたくせが残っているものと思われます」
「……」
「連れ来てた兵もそれほど統率が取れておらず、おそらく今回の訪問のためにごく少人数の隊を集めたもののようです」
「……なるほど」
期待する応えではなかったようで、レナートは目を瞑って考える様子を見せた。ガブリエーレが、じろりと私を睨んだ。
「お前、何を確認してんだよ。皇太子を襲撃するつもりか? そんなことより、あの姫を見て何とも思わなかったのかよ」
「すっごく可愛かったわ! 絶対に仲良くなりたい!」
「あっそ。そう言うだろうと思ったけど!」
ガブリエーレはそう言うと、腕を組み扉に背中をつけ黙ってしまった。その様子を見ていたライモンドが、手元の書類をしまい羽ペンを置いた。
「皇太子を襲った暴漢は、十中八九、帝国の第二皇子か第三皇子がもぐりこませた者でしょう。ああいうことは今回が初めてではないのです。自分たちでああして暗殺者を連れて来てしまうので、こちらでどんなに警備を厳しくしようともキリがないのです。この先も、同様のことが起きると思われますので、マリーア様は極力彼らには近付かないでください」
ライモンドがこめかみを押さえながら、はあ、と大きなため息をつくと、扉の方からも聞こえてきた。今までの二人の苦労が偲ばれる。レナートの視線を感じ、私はそちらへ顔を向けた。
「ミミは、呪術師についてどう思った」
「あのお婆さんは見たままだと思います。その後ろに並んでいた、ボサボサの黒髪で痩せた男性が、本当の呪術師だと思います」
「ほう」
「急ごしらえの軍服、でも前の方に並んでいるからそれなりの地位の人物。普段はお婆さんと同じようなローブを着ているのではないでしょうか」
レナートは頬杖をついていた手を下ろし、机の上で指を組んだ。ライモンドもガブリエーレも、レナートの言葉を待っていた。
「私もそう思う。呪術師がどれくらいのことをできるのかはやはりわからない。帝国でも呪術師と呼ばれている者はそう多くはいない。だから、今回も彼以外にいたとしても数は少ないはず。何が起きるかわからない以上、不用意に呪術師に近付かないように」
「はあい」
私が返事をすると、三人が何かを言いたげにじっとこちらを見ていた。が、レナートが、ついっと視線をそらし、口を開いた。
「……ミミは、皇太子アントーニウスをどう思う?」
「へ? 左足が悪いということ以外では……あのデリカシーのない感じ、レナートとはものすごく合わないだろうなって思ったくらいかしら」
「まあ、実際そうなのだが。それはそうとして、ええと」
言いよどむレナートを見かねたライモンドが眼鏡を上げながら振り向く。
「殿下、思い出してください。マリーア様は面食いです。隙を見つけては殿下にしょっちゅう見とれてるではないですか」
「そうだろうか」
「ええ。ご安心ください、この世で一番美しいのはレナート殿下です」
「そうか」
「白雪姫だったか、こんなシーンがあったような……」とガブリエーレがつぶやく声を聞きつつ、さっそく私はレナートのほほ笑む姿にうっとりとした。
自分の首ではなく騎士団長(上司)の首を飛ばそうとするすガブさん。




