番外編: 猫の日
2月22日、猫の日にちなんで。
「レニャートー!」
「レニャーートォォーーー! 出ておいでーー!」
「あっ、今、あっちの草むらが動いた! レニャート! そこにいるの?」
普段よりさらに眉間のしわを深くしたレナートが執務室の窓を閉めた。それでもまだ、中庭からの声が漏れ聞こえてくる。
「どこ行っちゃったんでしょうねぇ、れっ、レニャート。ふふっ」
ライモンドが肩を震わせて笑いをこらえている。
どうしてこんなことに。
レナートは額に手をあて、深いため息をついた。
「猫ちゃん拾っちゃいました」
王太子妃教育のために王城を訪れていたマリーアが、胸に子猫を抱いて現れたのは、昨日の昼のことだった。きょとんと大きな瞳を見開き、ふわふわの白い毛を震わせている子猫は、赤い首輪をつけていた。
「首輪をしているということは、どこかの飼い猫ですね」
ライモンドが人差し指で顎の下をくすぐると、子猫は目を閉じて体を更に震わせた。
「厩舎の近くで蹲っていたんです。あのままじゃ馬に踏みつぶされちゃいそうだったから連れてきました」
「王城内は動物を飼うのは禁止です。しかし、王城の敷地内にいたということは、王城内の誰かが自宅から連れて来たのでしょう」
「城内はペット禁止なんですか?」
マリーアが首を傾げる。執務机から立ち上がったレナートがほほ笑む。
「禁止なのはあくまでも王城だけだ。おばあ様は王城から一番遠い離宮に住んでいらっしゃる。そこはたくさんの犬を飼っていて犬屋敷となっているが、確か猫は飼っていないはずだ」
ライモンドの様にレナートも子猫に人差し指を差し出したが、ぱしりと猫パンチされてしまった。ひっこめようとした指は、子猫に掴まれそのまま甘噛みされている。
「可愛いー」
「可愛いですねえ」
マリーアとライモンドがほのぼのと目を細める。がぶがぶと指を噛まれているレナートはちっともほのぼのしないのだが。
「危険な厩の近くに放置するなど、捨て猫なのではないか?」
「それはないでしょう。丁寧に手入れされた毛並みからして、可愛がられていたのは間違いないですよ」
「そうよねえ、こんニャに可愛い子、捨てニャいわよねえ」
「ニャーン」
「きゃあ、鳴いたわ。可愛い!」
「可愛いですねえ」
マリーアとライモンドは子猫に夢中だ。やっと指を離されたレナートは、ひとりソファに腰掛けた。……早く手を洗いたい。
「ライモンド、早くその猫の飼い主を探して来い。ここにいつまでも置いておくわけにいかないだろう」
「かしこまりました」
ライモンドが名残惜しそうに部屋を出て行った。
レナートは執務机に戻り、仕事を開始していた。ソファではマリーアの膝の上で子猫がじゃれついている。
「まあ、すぐには見つからないと思いますが。どうします? この猫ちゃん」
庶務課と衛兵の詰所を回って来たライモンドが、ソファに腰掛け紅茶をすすった。
「飼い主が見つかるまで、私、王城に泊まらせてもらおうかしら。その間だけなら、客室でこの子を飼ってもいいでしょう? ね、お願い。レナート」
マリーアが瞳をキラキラさせてレナートを見上げる。そして、抱き上げた子猫の前足を揃え、ちょこんと頭を下げさせた。
子猫なんかよりもよっぽど可愛いマリーアにお願いされれば、レナートは頷かざるを得ない。
「すぐに飼い主に返すのだから、あまり構いすぎないように」
「わあ、ありがとうございます。レナート。ねえ、この子に名前つけてもいいかしら」
「ミミ、私の話を聞いていたか」
「この子がいる間は朝練には行かずに、ずっとレナートのそばにいるわね」
「好きな名前を付けるといい」
「やったあ、何て名前にしようかしらねえ。あなたは何て呼ばれたいのかニャア?」
「ニャ」
いいんですか、と、じろりとライモンドに睨まれたが、レナートは上機嫌で羽ペンにインクを付けた。
「名前名前……えっと、じゃあ『一本背負い』。いや、やっぱり『スープレックス!』」
「ニャッ!?」
「ちょっ……! マリーア様、好きな技名じゃなくて、好きな名前って言ったでしょう! 猫ちゃんもびっくりしてるじゃないですか」
ライモンドが噴出した紅茶を拭きながらマリーアを睨む。心なしか猫もおろおろしている。
「ええーと、じゃあ……レナート!」
さすがにレナート本人も思わず顔を上げた。額に手をあてたライモンドがよろめく。
「恐れ多くも王太子殿下の名前を猫につけないでください!」
「だって、世界で一番好きな名前がレナートだもの」
「……マリーア様、いったいどこでそんなの覚えてきたんですか……」
ライモンドがちらりと様子を窺うと、案の定、レナートが両手で顔を覆って机に突っ伏していた。
「許そう」
「殿下! 何言ってるんですか!」
「じゃあ、レニャート! これならいいでしょ。今日からあなたはレニャートよ」
「ニャアン」
子猫が嬉しそうにマリーアの頬に頭を擦りつけた。
約束通り、マリーアは朝からレナートのそばにいる。朝食、その後の庭の散歩。ガゼボでの二人きりの会話。
もちろん、マリーアの腕の中には子猫がいる。ずっと。ずっといる。
レナートがマリーアに寄り添おうと近寄ればシャーっと牙をむき、肩に手を置こうとすればその腕に猫パンチを繰り出す。
「だめよ、レニャート。レナートは王太子様なんだから、怪我をさせてはいけないのよ。ごめんなさい、大丈夫? レニャ、いえ、レナート」
「ああ、平気だ」
「かごに入れた方がいいかしら。大人しくできる? レナート、いえ、レニャート」
「ニャニャニャン!」
猫がぶんぶんと首を振り、マリーアの腕にしがみつく。
「何だかこの猫は言葉が分かっているようだな」
「そうなんです、レニャートはとっても賢いんです! やっぱりレナートから名前を頂いたからかしら。ね、レニャート、良い子ね」
「ニャーン」
「あとで一緒にお昼寝しましょうね、レナート、いえ、レニャート」
お昼寝する暇もない多忙なレナート(人間)は、マリーアと過ごせるこの貴重な時間を大切にしたいのだが、どうにもレニャート(猫)が邪魔をしてくる。
「飼い主はまだ見つからないものか」
レニャートのお散歩に行ったマリーアを見送り、レナートは執務室へ向かった。部屋では既にライモンドが仕事を始めていた。
「おかしいですね。下働きの使用人にまで周知させたのに。このまま見つからなかったら、飼い主を探さなければなりません。城内では飼えませんし、アイーダ様が猫アレルギーがあるそうなので、アメーティス公爵家では引き取れないとマリーア様がおっしゃっていました」
「お前の家で飼えばいいじゃないか」
「レニャートをですか?!」
名前は変えろよ、とレナートが目を眇める。ライモンドが肩をすくめたと同時に、扉がノックされた。
ライモンドが許可を出すと、衛兵の一人が一歩部屋に入り頭を下げた。
「殿下、猫が逃げ出しました」
「えっ、レニャート殿下が!?」
ライモンドがガタリと音をたてて立ち上がる。
「ライモンド。お前、今、殿下って……」
「マリーア様と侍女たちが中庭で猫と遊んでいたのですが、そこに運悪くトンビが上空を飛んでいまして。その影に驚いて猫が逃げ出してしまったようです」
衛兵が手早く報告をしたあと、深く頭を下げる。ライモンドは腰に手をあて目を閉じた。
「ああ、レニャートは生意気だったけど臆病そうだったからな。きっと今頃マリーア様に会いたがって鳴いていることだろう。かわいそうに、レナ、いえ、レニャート。あんなに甘えん坊なのに、ひとりでどこへ行ってしまったのか。レナ、いえ、レニャート」
「おい、ライモンド。お前、わざとだろう」
「何がですか。殿下はレニャートが心配ではないのですか」
ニヤニヤと笑うライモンドを一瞥し、レナートがきりっとした王太子の顔を作る。
「衛兵を増やし、猫を必ず見つけるように。このままだと、ミミが何かやらかすぞ」
そうだった、とライモンドと衛兵が目を見開く。慌てて頭を下げて走り去った衛兵の後ろ姿を見ながら、レナートは頬杖をついて小さく息を吐いた。
「まことに、まことに、申し訳ありませんでした!!」
レナートの執務机の前で、騎士団長が大きな体を小さく小さく縮こませ土下座をしていた。
「よい。とりあえず、顔を上げろ」
「は」
それでも騎士団長は顔を強張らせ正座のままだ。レナートは机に頬杖をついたまま、視線だけを上げた。ソファに座るマリーアの頭の上に、子猫がちょこんと座っている。
「良かったわねえ、ご主人様が帰ってきたわよ。レニャート」
「ニャアン」
レニャートは木の枝に上って下りられなくなっていたのを発見された。その後すぐに、街を警らする衛兵から報告が上がって来た。昨日の朝、馬を駆る騎士団長の背中に白い子猫がひっついていた、との目撃情報があったのだ。泊りで郊外の遠征に行っていた騎士団長は、子猫の話を耳にし、王城に戻ったその足で執務室に飛んできたらしい。
「この猫はお前の家の猫で間違いないのだな?」
「は。確かに、あの首輪は我が家の家令が付けたものでございます。家に迷い込んで来た野良猫を保護していたのですが、知らぬうちに私の背中に引っ付いており、そのまま一緒に王城へ辿り着いてしまったようです。それに気が付かぬまま、遠征へ出てしまいました」
膝に手を置いた騎士団長が、気まずそうに眉をしかめる。
「ふむ。では、さっそく連れて帰れ」
「それが……殿下。実は我が家では既に獰猛な犬を3匹飼っておりまして、この猫の飼い主を探していたところだったのです。名前を付けて可愛がっていただいていたのならば、このまま飼っていただけないでしょうか」
「何?」
レニャートはマリーアの頭から飛び降り、そのままライモンドの膝の上に駆け上がった。
「ニャアアン」
「ええっ、うちに来たいのですか? レニャート」
「ニャアア」
「まあ、ライモンド様にすっかり懐いてるわ」
何て変わり身の早い猫だ。さっきまでマリーアに甘えていたくせに。レナートは心の中で舌打ちをした。
「仕方がないですね。うちの領地にいる妹に任せましょう。妹は動物が好きですから」
「ライモンド殿、申し訳ない。そうして頂けると助かる」
「良かったわねえ、レニャート」
「ニャアン」
ライモンドが優しく抱き上げると、レニャートはうっとりと目を閉じた。
子猫騒動から10日程経った頃。
学院帰りのマリーアが執務室を訪れていた。
「ライモンド様、レニャートは元気ですか?」
元気に駆け回っていた子猫を懐かしむように、マリーアが窓から中庭を覗き込む。
「ええ、無事、領地に到着して、妹が可愛がっているようです。ちなみに名前はレックスになりましたよ」
「レックス? あら、かっこいい名前ね」
「……そうでしょうか。もう、レニャートかスープレックスという名前にしか反応しなくなってしまいしてね。臣下が主の名前を飼い猫に付けるわけにはいきませんので、仕方なしにスープレックスからレックスという名前にしたわけですよ。本当に、名付け親によく似て元気な子猫です」
楽し気に話しているマリーアとライモンドを横目に、レナートは「だったら最初からレックスで良かったではないか」と、羽ペンをきつく握りしめた。
「レニャートが元気で良かったわ。最初に見つけた以上、やっぱり気になるもの」
「もうレニャートではありませんよ、レックスです。と言う私もまだ、ついついレニャートと呼んでしまうのですがね」
「やっぱりレニャートっぽい顔してるものね、あの猫ちゃん。うふふ」
「ですよねえ、レニャート顔ですよね」
何だ、レニャート顔とは。
レナートは羽ペンを置くと、椅子に深く腰掛け目頭を揉んだ。
「ねえ、やっぱりレニャー、ちがった、レナートもそう思うでしょう」
「レナー、いえ、レニャートは相当賢い猫ですよ。もしかしたら、そのうちしゃべるようになるかもしれません。聞いてますか? 殿下」
「……にゃあ」
「「!!」」
マリーアとライモンドが同時に振り返る。レナートはくるりと椅子を返し、二人に背を向けてしまった。
「殿下、今、にゃあって言いました?」
「レナート、もっかい! もう一回言って!」
「……気のせいではないか?」
「お願い! レナート! ちゃんと聞きたい!」
「…………」
「レナーートォォーーー! 出ておいでーー!」
賑やかな執務室の扉の前で、衛兵が廊下のランプに火を灯した。
平和なルビーニ王国の夕日が、王城の陰に沈んでゆく。
たまには翻弄されるレナートを。




