番外編: お見舞い
前回までのおさらい:
マリーア(ミミ):王太子の婚約者内定。通りすがりのお家に不法侵入した件を「何でもする」という条件で許してもらった
レナート:王太子。鼻風邪をひいていてマリーアのお気に入りの香水に気付くことができず、ひと騒動起きたらしい。
薄い雲が月を隠した、星の無い夜。
見張りの番兵の明かりを避け、紺色の制服に身を包んだ私は走っていた。窓に影が落ちないように気を付けながら、ベランダに下りたつ。予想通り、窓には鍵がかかっている。途中で気が付いてはいたのだが、工具を取りに戻る余裕はなかった。仕方がない。蝶番を3回ほど蹴れば開くだろう。右足を高く上げたところで、部屋の中でカーテンが動き、寝衣にガウンを羽織ったレナートが姿を見せた。
「ミミ?」
ベランダに立っていた私を見てとても驚いていたが、すぐに掃き出し窓を開けて部屋の中へ招いてくれた。
「殿下、お見舞いに来ました!」
私はそう言いながらレナートの背中をぐいぐい押しながら歩いた。ぽすりとベッドの端に腰掛けたレナートが首を傾げる。
「お見舞いに来ようとしたら、まだ正式な婚約者じゃないからダメって言われちゃいました。私を許可しちゃうと、殿下のお見舞いに来たい他のご令嬢にも許可しなきゃいけなくなるからって。だから、誰にも見られないようにこっそり来ました」
「来てくれて嬉しいよ……だが……ミミ、ここは4階だが。どうやって上って来たんだ」
「上って来たんじゃないです。下りて来たの。とりあえず殿下は横になって。体が冷えちゃうでしょ」
レナートの体を引っ張ってベッドに押し込み、私は背負っていたリュックをごとりと床に降ろして椅子に腰掛けた。肘を枕に横になるレナートは、ランプの琥珀色の明かりに照らされ、普段縛っている髪をおろしているのもあいまって気怠げに見えた。
「下りてきたって、まさか屋上から下りてきたのか?」
「ええ。まず、今日の見張りの塔の番兵は顔見知りだったので、理由を話して塔に入れてもらいました。塔のてっぺんから王城の洗濯物干し場に飛び移って、そこから屋根を伝って屋上に上り、殿下の部屋のベランダに飛び降りました」
私が胸を張ってそう言うと、レナートが目を眇めた。
「……ミミだけは私の部屋にいつでも来ていい、と許可を出しておくから、次回からはきちんと扉から出入りしてほしい……」
「分かりました!」
「洗濯物の干し場なんて、よく知っていたね」
「ええ。王太子妃教育の帰りに、メイドの皆さんが洗濯物の山を重そうに運んでいたのでお手伝いしたんです。皆でシーツの端を持って引っ張ってしわを伸ばすんですよ。楽しかったあ。その時に、ここから屋根に上って屋上へ移れば殿下のお部屋に行けるなって思ったんです。何でもやってみるもんですね」
「ミミが王城の皆と仲良くしてくれて嬉しいよ」
そう言って体の向きを少し変えたレナートがひとつ、咳をした。
レナートは先日の風邪がなかなか治らず、今日は一日部屋で過ごしていた。代わりにプラチドとライモンドが机に張り付いていたが、それでもベッド横のサイドテーブルには書類の山が積んである。
「お休みなのに仕事していたんですか。そんなことじゃいつまで経っても治らないですよ」
私は足元のリュックを持ち上げ、中からリンゴとナイフを取り出した。しゅるしゅるとリンゴの皮をむく音が静かな部屋に響く。
「仕事ばかりしていたわけではない」
私がリンゴの皮をむく様子を面白そうに見ていたレナートが口を開いた。
「たまにはきちんと休憩を取って、楽しいことを考えていた」
「へえ、どんな楽しいことを考えていたのですか」
「ミミが何でも言う事を聞いてくれるって言うから何をしてもらおうかと」
「ふわっ……、それ、まだ覚えてたんですか」
「忘れるはずがない」
思わずリンゴを落としそうになった私を見て、レナートが起き上がり胸に手をあてた。ランプの明かりが揺れ、レナートの影が私の膝に落ちる。
「ライモンドもいないことだし、お願いを聞いてもらおうかな」
「ひえっ、ラララライモンド様にも言えないようなことですか」
「さてどうだろうな」
「私にできることでしょうか……」
「もちろん」
一体何をお願いされるのだろう。私は知らず知らずリンゴを両手で握りつぶしそうになっていた。私のそんな様子をしばらく見つめていたレナートがやっと口を開いた。
「私のことも名前で呼んでもらおうかな」
「へ?」
「殿下、ではなく、レナート、と。ライモンドやイレネオは名前で呼んでいるのに、私の名前は呼んでくれないではないか」
「そんな、不敬って怒られちゃいます!」
「でも、たまに名前で呼んでくれていたのに」
「そんなことあったかしら」
「あった。何でも言うことを聞くと言ったのだから、これは絶対に聞いてもらう。今後、私のことは名前で呼ぶように命ずる」
レナートが急に王太子の顔つきになって尊大に言い、私は瞬時に背筋を伸ばした。
「……きちんとした場では殿下って呼びますよ?」
「まあ、それは仕方がないだろう。で、ミミ、それは一体何だ」
そう言ってレナートは私が皿に並べたリンゴを見た。10等分にしたリンゴの半分はきれいに皮をむき、残りの半分はウサギにした。子供の頃、風邪を引いたら祖母がいつもウサギリンゴを作ってくれたのを思い出したので、真似をしてみたのだ。
「ウサギリンゴ初めて見ましたか?」
「ふむ、言われてみれば確かにウサギに見えなくもない。細かく飾り切りされた物なら見たことはあるが、これは初めて見た。それに、こうして目の前でリンゴを切ってもらうのも初めてだ」
レナートの嬉しそうな顔を見れば、それが嘘ではないのが分かった。
「殿下は」
「名前」
「レ、レナートは初めてのことがいっぱいあって、これから先楽しいことばかりですね」
「ばかにしないんだな」
「ばかにする人がいるんですか!?」
私がぎゅっと両手で握りこぶしを作ると、レナートが少し笑って、リンゴを一切れ私の口に放り込んだ。そして、私の固く握った指を一本一本開いていった。
「これから楽しい事ばかり、か。そういう考え方はとてもいいな」
レナートは開いた私の手をなだめるように、ポンポン、と二回叩いた。それに促されるように、私はおそるおそるレナートの顔を見た。
「この間はごめんなさい。レナートは風邪をひいていたのに」
私が頭を下げると、レナートはきょとんとした。
先日、私はロザリアに選んでもらった香水をつけ、上機嫌でレナートの執務室を訪れた。しかし、風邪をひいていたレナートは香水に気付かなかった。焦れた私は彼の周りをぐるぐると走り回ったり、目の前で反復横跳びをした。それでも全く気付いてもらえず、私はショックのあまり執務室の扉を壊し、扉の前にいた衛兵をふたり突き飛ばして部屋を飛び出した。勢いのあまり庭の噴水に落ちた私を助け出したせいで、レナートは風邪をこじらせてしまったのだ。
「ミミが風邪をひかなくて良かった」
「レナート」
全面的に私が悪いのに、レナートを始め王城の皆は私をひとつも責めなかった。ライモンドだけは呆れた顔をしていたが、それでも何も言わなかった。優しいこの国を、私は一生守っていこう。そう改めて心に誓った。
「もうずいぶん良くなったんだ。明日からはもう公務に戻る」
「無理しないでくださいね」
「ありがとう。ムーロ王国への訪問をこれ以上遅らせるわけにはいかないからね」
「レナートが来るのをうちの家族皆楽しみにしていました」
私はレナートの手をぎゅっと握り返し、床に置いていたリュックを再び背負った。
「じゃあ、そろそろ私は帰りますね。ライモンド様にバレると怒られちゃうから」
「そうか、さみしいな」
振り返って見上げると、レナートは私のすぐ後ろに立っていた。彼の空色の瞳が残念そうに細められる。そんな表情をされてしまうと、私はもう目をそらすことができない。
「レナート……」
「ミミ」
ベランダの手すりに足をかけた私の上着をレナートがしっかりと掴んだ。
「帰りはきちんと玄関から帰ってくれ」
今夜は何も見なかったことにするように、と命じられた衛兵に案内され、私はいつの間にかレナートが用意していた馬車で無事家に帰ったのだった。
「マリーア様。朝、殿下のお部屋に行ったら、なぜかウサギに切ったリンゴが置いてあったんですよ。こわいですねえ、侵入者が置いて行ったんでしょうか」
「痛い痛い痛い! ライモンド様! 頬をつねらないで!! ちぎれる!!」
たまには二人っきりにさせてあげよう回。
次は、2月22日猫の日「レニャートと遊ぼう」でお会いしましょう。
ちなみに、3月3日はミミの日と制定します。




