夜会 3
イレネオのいた棟はどうやって行くのだろう。何となく歩いていたら、階段の前で背の小さな侍女がきょろきょろと辺りを見回していた。私に気付くと深く頭を下げた。
「イレネオ様からお迎えにあがるようとに承りました」
侍女について行くと、ひっそりとした一角にだけ煌々と明かりがつけられた部屋が見えた。
開いた扉から中を覗くと、イレネオはまだ窓辺から会場を眺めていた。
「やあ、ミミちゃん。今日は一段ときれいだね。こんな可愛い子を放っておくなんてレナートも罪な奴だな」
「イレネオ様、私はもうこれで戻りますから」
なかなか皿を受け取らないイレネオにぐいぐい皿を押し付けた。
「レナートはまた他のご令嬢と踊り始めたからまだ大丈夫だよ。俺がいない分、レナートとプラチドに殺到しちゃってるようだな。いやあ、ふたりには悪いことしちゃったなぁ」
全く悪く思っていない素振りでイレネオが言った。二人分の紅茶がテーブルに用意され、私は仕方なく豪華なソファの端に腰掛けた。
「やったあ、食べたかったんだよねえ。このタルト」
イレネオがフォークで大胆にタルトを真っ二つに割り、片方を一口で食べた。レナートに良く似た上品な顔での無作法な振る舞いに、思わず笑ってしまった。
「音楽も聞こえることだし、一緒に踊ろうよ」
「え、やです」
「超つれない」
イレネオが愕然とした表情をする。きっと自分の誘いを断られたことなんてないのだろう。
「ここにいる者たちは皆、俺が連れてきた口の堅い使用人だから大丈夫。レナートにはバレないって」
壁際には先ほどの侍女と、ひげの生えた中年の従者が控えていた。扉の横には兵士が一人立っている。
「バレるとかバレないとかじゃなくて」
「あーあ、夜会楽しそうだなあ。俺の人生で楽しいのって夜会でのひと時だけなのになあ」
「イレネオ様は夜会以外でも毎日楽しそうじゃないですか」
「いいじゃん、レナートだって他のご令嬢と踊ってるんだし」
再びイレネオが意地悪く口の端を上げた。うっ、と思わず黙ってしまった私の手を強引に引っ張って、部屋の空いているスペースへ移動する。
「この曲が終わるまでだからさ、付き合ってよ」
「この曲だけですよ!」
しぶしぶ上げた私の手を取り、イレネオは慣れた様子でくるくると回り始めた。控えている者たちは、表情を変えることなく私たちを見ていた。きっと彼らにとってこういうことはよくある事なのだろう。
「ミミちゃん、思った通りダンスが上手だね」
「そうですか? プラチド殿下には独創的と言われてるようですが」
「そんなことないよ、基本をしっかりとマスターした上でのオリジナルだからこちらも合わせやすい」
「私は基本通りにしてるつもりですけど」
「……そうなんだ……独創的だね」
イレネオは言葉通り私に上手に合わせている。私が間違えても動じずにすぐに対応して、元のリズムに戻してくれた。
「イレネオ様も上手です。さすが年季が違いますね」
「はは、年の事はっきり言われると結構傷付くー」
そう言ってイレネオは腕を上げて私をくるりと回すと、先ほどよりも近くにぐい、と引き寄せた。
「この間はごめんね。俺が付きまとったせいで、勘違いされてミミちゃんが襲われたって聞いた。怪我しなくて本当に良かった」
イレネオは私の耳元で小声で謝罪した。眉を下げ、本当に申し訳なさそうな顔をしている。
私と王妃様が襲われた事は内密に処理されたので、本当に限られた者しか知らない。例え自分の使用人であっても、彼らの前で大っぴらに言葉にすることができなかったのだろう。
「ずっと謝りたかったんだ」
そう言ったイレネオのいつもの薄っぺらな笑顔ではなく、目を軽く細めた真摯な表情はよく見覚えのあるもので、ついつい許してしまいそうになる。
「イレネオ様」
「んー?」
「いつも、今の様に振舞っていれば、周りも落ち着くのではないのでしょうか」
「今の様にって……どうして? 普段の俺は落ち着きがないかな」
「イレネオ様は本当は、あまり人がお好きではないのでは、と伺いました」
「さっすがミミちゃん、聞きにくいこともはっきり言っちゃうんだね」
「人を遠ざけるためにそんな軽い態度なんですか?」
「……」
イレネオはニコニコとしながらも、返事をしなかった。
「あ、そうだ。大切なミミちゃんを危ない目に合わせちゃったから、レナートにお詫びを用意したんだった。一緒に選んでくれる?」
まだ曲は終わっていなかったが、イレネオは私の手を引いてソファに戻った。
この部屋は本来だったら客室だったはずだ。しかし、家具や調度品は王城の物だが、そこかしこにイレネオの私物らしきものが置いてあり、彼がここを常用していることが丸わかりだった。
執務机らしき物の上には仕事に関係なさそうな本や鏡や香水の瓶などが置きっぱなしになっている。
イレネオはその机からラッピングされた長い箱を二つ抱えて戻ってきた。
「これなかなか手に入らないワインなんだけど、レナートどっちが好きかな。先にレナートのを選んで、残った方を王妃様に渡そうかなって思ってるんだ」
若葉のようなグリーンと、みずみずしい果実のようなオレンジ色のラッピングをされた、二つの箱の中身はワインらしい。
「どっちが好きかなって、ラッピングの色ですか? レナート殿下が好きな色って何かしら」
「ちなみに俺は高貴な紫が好きかなあ」
「人は自分に無い物を求めるって言いますものね」
「ミミちゃんてほんと素直で可愛い」
イレネオががっくりと肩を落とした。そして、よろよろと立ち上がると、壁の大きな絵画の下にある古めかしいチェストに向かった。チェストの上には無造作に飲みかけのワインボトルが並べられており、そこから両手にワインを一本ずつ持って戻ってきた。従者が用意した二つのワイングラスに、イレネオが自らワインを注いだ。その間、私はぼんやりと壁の絵画を眺めていた。
「この絵画は有名な方が描かれたのですか」
「え? いや、有名ではないよ。まだ」
「まだ」
「うん、これから有名になってほしいなあって思って、俺が買ったんだ。こう、何か、どっぱーんと来る大きな波みたいで、かっこいいでしょ。でも、うちに飾ったら不評だったから、ここに持って来て勝手に飾ったんだ」
「ここ王城の客室でしょう。いいんですか、勝手に」
黒と濃紺をベースにした抽象画は、刷毛をこすりつけたようなエメラルドグリーンと細い筆で何度もなぞったような眩しいピンクがキャンバスを埋めていた。何が描きたいのか私には全く分からなかったが、少なくとも大きな波には見えなかった。
「いいんだよ、この部屋は俺しか使ってないんだから」
一つは白ワイン、もう一方は白のスパークリングワインのようだった。
「ミミちゃん飲めるんでしょ。味見してレナートの好きそうな方を選んでよ」
「お酒飲んだことないからわからないです」
「えっ? 成人した高位貴族でしょ。夜会とかで飲む機会なかったの? 食前酒も飲まない?」
「武術の練習ばかりで夜会とかあまり出たことなかったですし、我が家は体作りが基本なので食事中は青汁です」
「あおじるって何……、あ、いや、だいたい想像つくからいいや」
「アメーティス公爵家ではおいしいお水を出してくれます」
「うん、公爵家がまともで安心した。じゃあさ、一口だけ飲んでみて。初めてのお酒はこういう良い物から始めたほうがいいんだよ」
イレネオはそう言って、白ワインのグラスを私の手に持たせた。初めて嗅ぐアルコールの香りに少し目が回った。
「レナートはどうせミミちゃんと一緒に飲むだろうから、ミミちゃんが好きな物を選べばいいよ」
手に押し付けられた白ワインを仕方なく一口だけ飲んだ。強いアルコールの香りの割にはさっぱりと飲みやすく、甘いマスカットの味がした。
ミミは嫌なことは嫌だって言える子です。




