黒望
何だ、この様は。全身の力は抜け、ぐったりとうなだれる。肺の中にある空気を大きく吐き出すとドロドロとした何かが口から体を這って流れていくように感じる。自身から吐き出された何かが纏わり付きそのうち窒息死してしまうのではないかとエドガーは思った。
自分が取り押さえ、地獄のような苦痛を与えるつもりだったにもかかわらず、失神し、手足を縛られ、娘すら人質に取られ、身動きが取れなくなってしまった。復讐しようとしていた相手に完膚なきまでに返り討ちにされる。うなだれるには十分過ぎる内容だった。
ぼんやりと、エドガーはメイルと出会った時のことを思い出す。それは、娘、リラとハイゼンベルグの街で買い物をした時のことだ。その頃のエドガーは全世界を周るライブが続き、長い間、家族と会うことが出来ていないかった。たまたま、そのライブ先が、家から近かったという理由から、なかなか会えない家族と会うちょうどいい機会だと思い、リラに約束を取り付けたのだ。しかし、日頃の行いが悪かったのか、その時のリラの口調は刺々しかったのを憶えている。
「お父さん、約束だって言っても、またどうせ遅刻するんでしょ。分かってるんだから。お父さんが時間通りに来れたことなんて一度もないって知ってる?」電話口でリラはエドガーをまくしたてる。その声には呆れている様子と若干の乾いた期待が窺えた。
「知らない」
「今の所、最高記録は15分遅れ。じゃあ、その時の言い訳が何だったか憶えてる?」
一向にリラの口調からはエドガーに対する不信感が拭えない。
「さあ、何だったかな。そこらじゅうで言い訳をするからな。どのことだったか」
「道でおばあちゃんを助けてた、だよ。今度はもっとましな言い訳を考えてくるか、記録を更新してね。じゃないと許さないんだから」
「ああ、その話か、ふふ、リラ、待ってくれ。俺はな、都合が悪い出来事があると大抵、嘘をつくか、めちゃくちゃなことをいってうやむやにしてしまうんだが、それに関してはまさかの本当なんだよ。道の真ん中でおばあさんが突然爆発したんだ、意味がわからないだろ、思わず、吹っ飛んだおばあさんを助けてやってて遅くなったんだ」
もちろん嘘だ。いけしゃあしゃあと常套手段を行使する。いつも通り、めちゃくちゃなことをいってうやむやにする作戦だ。
「だとしたら、もっと遅くなってるはずだし、だいだい、それなら連絡の一本でも入れるのが筋ってもんじゃないの?ていうか言い訳の言い訳なんてお父さんいつから政治家になったの?」
「それは、どうなんだ」とエドガーは笑みを浮かべた。
確かに、のらりくらりと言い逃れとしか言いようのない発言を繰り返す政治家だという表現は正しいかもしれない。
「いいから絶対時間通りに来てね。来ないと許さないんだから」
「許さないって今度はどんな目に合わせるつもりなんだ」
「そうね、どうしようかな」
リラが思案する様子が電話越しにも聞こえてくる。綺麗な瞳を上に向け、右に左にと忙しく動かしているのが想像できた。
「んーと、じゃあ…。脱税でもしてミュージシャンやめてもらおうかな」
「はぁ?どうかしてるぞおまえ」
「うるさい」
「でもな、それじゃ罰にならないな。脱税なんて日常茶飯事だ。おれはロックンローラーだぞ、政治家の懐に入るお金を使ってやってるんだ感謝すらしてほしいね。書斎に行って棚の下においてある分厚い本を開いてみろ脱税した金で買った宝石が山ほどあるぞ」
「最っ低!!、遅刻したら全部売り払って、父さんの嫌いなバンドのCDで部屋埋め尽くすから」
「なんだその手間のかかった嫌がらせは。ああ、もうわかった、わかったから。今回は間に合うように行くからあのバンドのCDを買うのだけはやめてくれ」
「絶対だからね。約束だよ」
念を押すリラの声を今も鮮明に憶えている。しかし、まあ結局の所、約束の時間を守ることはできなかったのだが。
リラと合流するため道を歩いている途中だった。日程調整を繰り返し、時には嘘を、時には影武者すら使い、絶対にリラとの約束の時間に間に合うよう努力した。本気になったのだ。
毎度毎度、裏切ってきてしまっていたリラの期待に今度こそ答えようと思ったのだ。
しかし、今思い返すと、どうやら遅刻することに関して、自分は神に愛されているらしい。どれほど策を弄したところで、時間を守れなくなる理由が生まれてしまう。そういう運命なのだ。
エドガーはリラとの集合場所に向かうため、大通りを外れた、人通りの少ない路地を歩いていた。途中、開けた場所に出たかと思うとそこには小さな公園があった。
小さな子供が遊具で遊ぶといった公園らしい光景はなく、十三、四の年齢と思われる少し大人びた子供、おおよそ、公園の遊具には似つかわしくない、六人程度の子供の塊が見えた。
それだけならば、リラとの集合時間もあったため、特に気にせず通り過ぎたが、その中の一人が何人かの子供に全身を押さえつけられ、泣きながら何かを懇願しているように見えた。
大人数で一人相手に暴力を振るうその光景を見過ごすわけにもいかず、結局、エドガーはその現場に顔を突っ込んだ。
その時の、主犯格がメイルだった。整った顔立で、エドガーの介入にもまるで動じず、冷静に言葉を発する。その姿には子供らしさはなく、ざわざわと心をざわつかせる、ひとえに狡猾さというべき感情を対峙したエドガーに抱かせた。
あの時に息の根を止めておけば、自分の目の前で娘が車道に突き飛ばされるなんて悲劇は起きなかった。
赤信号を守らなかった短気な自分にも腹が立つ。娘と道を歩いているとき、目の前の信号が点滅した。自分が横断歩道を渡っている最中に、赤信号になることが分かっていたにもかかわらず、待つことを嫌い、信号が赤になりつつも小走りで横断歩道を渡り切った。その結果、真面目なリラと横断歩道越しにはぐれてしまった。
そのすぐ後だった。リラがあの子供に後ろから突き飛ばされ、車に衝突した。後ろから突き飛ばされ、混乱の中、自分が車に衝突することに気づいてしまった時の、絶望したリラの顔が今でも脳裏に染みついている。
「おじさん、待っててね。トイレに行ってくるから」メイルが席を立ち、通路に出ていく。
ブレザーを着たその少年の姿は、どう見ても、上品な家庭で大事に育てられてた子供にしか見えず、「どうしてこんなガキに言いようにされないとならないのだ」と悶えたくなる。
「あ、お酒買ってきてあげようか。カップ酒ってやつ?」と憎たらしい嫌味を言い残し、メイルは開けた観戦エリアへと歩いていく。トイレは逆方向の方が近いのではないか、とエドガーは気づいたが、それを伝えるつもりもなかった。
この少年が、上品な家で大事に育てられた子供であるのは間違いがない。上品な家で大事に育てられた、悪意に満ちた人間だ。
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エドガーを残し、席を離れたのは、特に意図があった訳ではない。純粋にトイレに行きたくなったのだ。
メイルはトイレの位置を知らなかった。エドガーを罠に嵌めるため数日店に通ったがその中でトイレに行く機会がなかったからだ。
しかしそんなことは問題ではなく、人に聞くなり、案内標識を見ればよいだけだ。
メイルはエドガーと別れると観戦席の広間に向かって歩みを進めた。
早くもなく遅くもない普通としか言いようのない足の速さ、尿意はあるが、特に差し迫った尿意ではない。
観戦席の広間では大画面の向かいに反円を描くように人だかりができていた。
それだけならば試合に熱狂する観客。口々にどちらが勝つのかの考察を話し合い、その予想がどれほど正しいか熱弁をふるう。賭博場やスポーツ観戦の会場でよくみられる光景だ。特に不思議はない。
しかし、その光景は異様であると言わざるを得なかった。
広間のテレビは倒れた子供を映し続け、人だかりは絶句したまま静止。静まり返っている。
何があったのか。メイルはその空間に広がる緊張感を帯びた空気に肩をすくめる。
この騒然とした光景が何によって引き起こされたのか、それが気になった。
話を聞きやすそうな人はいないだろうか。と辺りを見回すと少し離れた位置に男を見つけた。
男は画面前の取り巻きから少し離れた位置にある円形のソファに腰かけ、画面を食い入るように見ていた。顔には皴があり、五、六十代のスポーツ観戦が趣味の客と言った風貌だった。
「あの、何かあったんでしょうか。皆さん何かに驚いているように見えるんですけど」
メイルは物腰が低く、この雰囲気が何なのか気になってしょうがない少年を演じた。メイルの様な端正な顔立ちで、好感の持てる謙虚さを持った少年を演出すれば大抵の大人あっという間に警戒心を解く。メイルはそのことを熟知していた。
案の定、座っていた初老の男は知らない子供に急に話しかけられ訝しんでいたが、メイルの雰囲気が優等生然とした庇護しなくてはならない存在だと判断できると、すぐに警戒心を解きメイルの質問に応じる。
「ああ、ユズル君が今、素人相手にほとんど引き分けだったんだ」
ユズルとはどんな人物のことなのかメイルは知らない。しかしこの雰囲気を鑑みると大番狂わせでも起きたのだろうか、と想像できた。
話を続けていくうちに初老の男はメイルがユズル・ナルセのことを知らないことに気づきそのことに対しても驚きの表情を見せた。
「ユズル君はトッププロのカズオ・ナルセの一人息子だよ。時々、この店に遊びに来て相手をしてくれるんだ。歳は12、いや14歳だったかな。まだまだ全然、子供なんだけど腕はプロ級。プロ採用試験も通るんじゃないかって言われているよ。私はここで何年かユズル君を見てるけど、彼がプロ以外の相手に負けるところを一度も見たことがない。だから今、ユズル君と同じくらいの歳の子が引き分けたってことが信じられないんだ」
熱弁を振るう男の勢いに嫌悪感を抱いたものの、ここで起きた出来事のおおよその概形がつかめた。話を聞く限り素人がプロ級の腕を持つアマチュアと引き分けた、の一言に尽きる。
ありがとうございます、疑問が解けました。ますますスターダストというスポーツに興味が湧きました。ご丁寧に説明してくださり、ありがとうございました。などのありきたりな感謝の言葉を述べメイルはその場を立ち去った。
男はまだまだ話したりないといった様子だったが、話を切り上げるしかない口上に渋々といった表情で会話をやめ、メイルを開放する。
スターダストはオーバーソウルと呼ばれる体技を用いて行われるスポーツだ。元々は軍事的な利用を考えた権力者が、その訓練のために発案したものの一つだったらしいが、現在ではスポーツとして世間に定着し、一部の人間はプロとして様々なスポンサーのついた大会に出場することで生計を立てている者もいる。プロの中には、高額で軍からオファーを受け、国軍の特殊部隊になる者もいるとメイルは聞いたことがあった。
メイルにとって、自身の身体能力を飛躍的に上昇させ、あらゆる物理現象を超越するオーバーソウルと言われる体技は魅力的なものだった。
交渉や取引を行う際、見た目や肩書きは非常に重要なファクターとなる。人は信用や信頼と言った心理的な担保を得られない状況下で物事を判断しなくてはいけない時、相手を見た目と肩書きで分類する。
怒りやすそうな人間だや、このような素晴らしい実績をお持ちならきっといい仕事をするだろうなど、曖昧な根拠で判断を下す。だから政治家は学歴に箔をつけ、前髪を上げる。おでこが出ているだけで清潔感があると人が判断されるからだ。その点、メイルは小柄で、力も弱い。人生経験も薄く、人を感心させられるような実績なんてものも、物心ついて数年では大人には敵わない。それらを知恵と知識でカバーするメイルにとって、大人と対等以上に渡り合える物理的な力は魅力的だった。
暴力を行使できれば自分の思いついたことをより早く実行に移すことが出来る。ここ数日、ファイトクラブに通っていたのも、そういった側面を帯びていた。
観戦席の異様な空気の理由もわかったので、メイルは当初の目的だったトイレを目指す。天井を這うように目を走らせトイレの標識を探した。それはロビーの淵の方にあった。見つけた標識の矢印に従って道を歩いていく。
標識が示した先にあった地下へ続く階段を見て、おそらく観戦席側にもっと近いトイレがあったのだろうとメイルは思った。しかしここまで来てしまった以上戻って探し直すのも面倒でこのまま地下に向かってしまった方がきっと早いだろうと結論付けた。
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「それで何が言いたいんだ?僕、トイレの場所、間違えちゃったんだー、面白いでしょ、とでも言いたいのか?何にも面白くねえぞ」
エドガーは話をするメイルに悪態をつく。
「面白くないのはおじさんの方だよ。話は最後まで聞きましょうって小さいころに学ばなかったの?」
トイレから帰ったメイルは元の個室に戻り、再びエドガーと対面していた。子供である自分に指示された通りに、座ったままのエドガーの姿を見て、自身が施した足枷が上手く機能していることに満足感を感じると同時に娘の仇に言いなりのエドガーがおかしくて堪らなかった。
「話を戻すけど、面白いのはここからなんだ。何故か僕は何かを間違えても必ずその後、いい結果に導かれるんだ。僕の望みを叶えるように。今回もそうだった」
「そりゃ御大層なこって」
「僕はそのトイレですれ違った少年に興味を持ったんだ。その子は一人だったのに、ぶつぶつと独り言を呟いてた」
「独り言ねえ」
「そう、その子供は一人でブツブツと何か呟いていたんだ、トイレは階段の途中の踊り場にあったんだけど扉がないせいか外まで声が響いてたんだ、始めは、なんて事はない、ただの独り言かなと思って、聞き流していたんだけど、妙に引っかかることばかり呟いてたんだ」
「子供が人を子供呼ばわりするのは笑えるな」
「まあまあ、それはいいじゃん、子供なのは変わらない訳だし。でね、その時の独り言が興味深かったんだ」
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地下へ続く折り返しの階段を降りていくと声が聞こえた。トイレに近づくにつれその声は大きくなり、最終的にはトイレの中からその声が聞こえてきていることがわかった。静まりかえった空間はトイレの中の会話が聞こえるほどだった。
「リオン、お前、案外大したことねえなあ、あんな子供相手にほとんど互角じゃねえか」
「へぇ、じゃあ一応あの子供、ユズルよりは強いわけか」
「ふーん、じゃあユズルは弱いのか」
「フフッ、なんじゃそりゃ。褒めてんだか、貶してんだかわかんねえな」
「それでどうすんだ、この後、あいつの言う通りダークミラーワールドに行くにしろ、おれがさっきの仮面ライダーに変身するみたいな技を憶えなきゃならないんだろ。あんなの本当に俺にもできんのか」
「自在に操ることができるって言われてもな、なんだ、この後は修行でもすんのか」
「魔鏡?悪魔?何の話だ?大体、お前の部下と合流するつったって、人の顔見た途端、殴りかかってくるようなやつらだぞ?話し合いになるわけがねえ。いくらダークミラーワールドに行くためだとしても、もう少しなんかこう工夫して連絡を取った方がいいんじゃねえか。正面から行ったら今度こそ殺されるぞ」
「…、は?、…、つまり悪魔の死骸を喰えってことか?」
聞こえてくる会話は要領を得ず、そもそも会話が成立しているのかさえメイルにはわからなかった。トイレに入ると、メイルの気配に気づいたのか呟きは止まった。それにしても、とメイルは思う。それにしても、殺される、悪魔の死骸、ダークミラーワールド。
不穏当で、不可解な言葉が多く、少年の風貌には大方、似つかわしくない言葉が多かった。気にはなったものの、特に「会話をする」ほどの必要性も感じず、便器一つ空け、隣で洋を足す。しばらくすると、独り言を呟いていた少年の方が先に洋を足し終え、外へ出ていった。
それに続いてメイルも洋を足し終える。
手を洗いながら鏡に映った顔を見た。そこには整った顔立ちの自分の姿があった。本当に、とメイルは思う。本当に僕はついている。世の中、顔がいいというだけで優遇されることが多い。その様な権利を始めから有しているという事実が目の前にある。エドガーの件に関してもそうだ。彼が差し向けた男が僕を子供と侮り、自ら正体を明かしたのは幸運だった。でなければ今頃、エドガーの復讐は成就されていただろう。つくづく運がいい。自然、笑みがこぼれる。
メイルはトイレを出て、階段を上り、先程通ったホールに戻った。
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「ねぇ、おじさんどう思う。そのトイレですれ違った子は、何者だったと思う」
メイルは目の前に座るエドガーに言った。
「そんな大袈裟に取り扱うほどのことでもないだろ。子供なんて、死ぬだの、殺すだの、呪われただの、悪魔だ!だの、意味のないことを意味ありげに呟いたり、そんな時期、誰にでもある、流行り病みたいなもんだろ。別にそこまで驚くようなことじゃない」
エドガーはすでに投げやりな様子で、手を顔の前に移動させ、繋がったままの親指で自分の鼻を掻いた。
「おまえが無理やり、意味を見出そうとしてるだけなんじゃないのか、トイレを間違えたのがそんなに癪だったのかよ」
「まあまあ、落ち着いて。確かに、そういう呟きを好む、子供もいるね。でも、今回は違うんだ。まだ続きがある。トイレを出た後は、また階段を登って、ホールに戻ったんだ、そしたら、今度は人が1人もいなくなってた」
「どういうことだ」エドガーは思考するためか、モゾモゾと動かしていた親指を止め、目は合わせないものの、こちらを向く。
「僕もびっくりして、辺りを見回したんだ。本当に誰もいなくなっちゃったのかって、客が急にみんな、帰っちゃうのはどう考えてもおかしかったから。だから、一応、もう一回、ホールを見回してみたんだ。でもやっぱり誰もいなくて、びっくりしたのは、受付にいた店員さんの姿すらなかったんだ」
「何だそりゃ、神隠しでも起きたのか」
「その時はわからなかった。まあでも、いないものはしょうがないし、事情を聞こうにも聞く相手すらいないからどうしようもなくて、とりあえずおじさんに、このことを教えてあげようと思って、個室に戻ろうと思ったんだ。その時だよ、外の音に気づいたのは」
「音?」
「そう。金属と金属がぶつかり合うような低くて、鈍い音。連続的な衝撃音だったり、ナイフとナイフを擦り合わせるような音だったりが聞こえてきたんだ、気になって、外に行ったら、人だかりができてた」
「はあ、つまり外でなんかのお祭りが始まって、みんなそこに集まってたってわけか」
エドガーは芝居がかった欠伸をする。それを見て、このおじさんも必死だな、とメイルは冷めた思いになる。
メイルの話している内容の全貌がつかめず、このような話題を口にしている目的もわからず、不安を感じている。その不安を、その年下の敵に悟られまいと、深呼吸を兼ねた欠伸をしているのだ。もう少しだ、とメイルは思う。
このエドガーが自分の無力を認め、立場的にも、状況的にも八方塞がりだ、と受け入れるまでにはもう少しだ。
人間には自己正当化が必要なのだ。
自分は正しく、強く、価値のある人間だ、と思わずには生きていられない。だから、自分の言動が、その自己認識とかけ離れた時、その矛盾を解消するために言い訳を探し出す。子供を虐待する親、浮気をする聖職者、失墜した政治家、誰もが言い訳を構築する。
他人に屈服させられた場合にも同様だ。自己正当化が発生する。自分の無力や非力、弱さを認めないために、別の理由を見つけ出す。「俺を屈服させるからには、この相手はよほど優れた人間に違いない」と考え、さらには、「このような状況になれば、誰であろうと抵抗はできないはずだ」と納得する。自尊心があり、自信を持つほど、言い聞かせの力は強く、一度、そうなってしまえば、力の上下関係は明確に刷り込まれることになる。
加えて、二つか三つ、相手のプライドを保護するような台詞を投げかけてやれば、後はこちらの言いなりで、そのことをメイルは今までの学生生活の中で、目の当たりにしてきた。
大人も子供も変わらないな。
「ううん、お祭りではないよ、おじさんはかわいらしい考え方をするね」
メイルはいつも言葉を紡ぐ場合は、その言葉が相手に対してどういった効果があるのか、必ず吟味してから言葉を口にする。どのような言葉を、どのような口調で発するのか、そのことに自覚的でなければならない、と常に思っていた。
友人同士の会話の中で、「ださい」であるとか、「しょうもない」であるとか、「くだらねー」であるとかそういった、否定の言葉をさりげなく用いることで、ある種の力関係を作り出すことができる、と知っていた。その「ださい」「くだらない」に全くの根拠がないにもかかわらず、影響力がある。「君のお父さんださいねであるとか、「君のセンスは目も当てられない」であるとか、相手の重要な根幹を曖昧に否定することは有効だった。
そもそも、自分の価値観にしっかりとした基準や自身を持っている者は多くない。特に年齢が若ければ、その価値の基準は常に揺れ動いている。周囲に影響を受けずにはいられないのだ。だからメイルはことあるたびに、確信を匂わせ、侮蔑や嘲笑を口にした。すると、それが主観を越えた客観的な物差しとなり、相手との立場の違いを明確にすることがよくある。
「あの男は、何らかの基準を持ち、判定ができる人間なのだ」と他の人間たちが認めてくる。頼んだわけでもないのに、その様な扱いを受ける。ある集団の中で、「価値を決める者」というポジションに立てば、あとは楽だ。野球やサッカーのような明確なルールなどないというのに、友人たちは、メイルの判定を、審判のそれのように気にかけてくる。
今回もそうだ。
エドガーの発言がのどこが「かわいらしい」かは問題ではない。「かわいらしい」と一方的に、判断して見せることが重要なのだ。そうすることで、エドガーは、自分が幼く見られた、と察する。そして、自分のどこが幼いのか、自分の発想は幼いのか、と考えられずにはいられなくなる。もちろん、解答はない。「かわいらしい」理由などないからだ。となれば、エドガーは、「その理由を知っているだろう」メイルの価値基準が気になりはじめる。
「外に出たら、人だかりが出来てたんだ。その中にはホールで僕が事情を聞いたおじさんもいて、そこで、「ああ、外で何かが起きて、店内にいた人がみんな外に出てたのか」ってわかったんだ、その群衆はみんな、一つの方向を見て、目を見開いていたんだ、おじさん、みんな何を見てた思う?」
「知るかよ」
「トイレですれ違った子供だよ。その子が2人組の大人とオーバーソウルを駆使して戦っていたんだ」
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外からの金属音に気づいたメイルは誰もいない受付を通り過ぎて、外に出た。
扉を開けると人々が熱狂する声であったり、話し声であったりが耳に飛び込んできた。これ程の音がこの扉一枚で遮られていたのかとメイルは驚く。
群衆の中には先ほど話しかけたホールの男もおり、『なるほど、外で何かが起きてホールにいた人間がそれを見に行ったのか』とホールに人がいなかった理由について納得した。
何かに熱狂的な視線を送る人々が何に注目しているのか、それを確認するため、メイルも人を掻き分けその中心へ向かう。
驚いたことに、そこには先ほどすれ違った、独り言を呟く少年がいた。
少年は血走った目をした二十歳程度の若い女と殴り合い、右に左に、動き回っている。若い女の後ろには背の高い、眼鏡をした物静かそうな男が立っていた。男は若い女の一通りの攻撃が終わるとまるでスイッチを切り替えるように遠距離から攻撃を行う。それは反撃の隙のない、見事な連携だった。
片方が一方的に蹂躙される。その光景に自分が興奮していることにメイルは気付いた。
このような興奮を以前にもメイルは味わったことがある。それはある本を読んだ時に抱いた感情だ。
それは本が海から流れつく不思議な浜辺で見つけた本だった。本は水に使っているのにも関わらず、濡れることはなく、重さで沈むこともない。海を漂ってこの浜辺に辿り着くのだ。浜辺は本で埋め尽くされ、もはや砂地は見えず、本浜と呼んでしまってもおそらく差し支えはない。噂によると、それらの本は、海の向こうの歪んだ時空から流れてくるらしい。真偽のほどは定かではないが、その本が流れつく本浜がたまたまメイルの家から近く、無料で、有用な本を手に入れることができることからメイルは足しげく通っていた。その本は、その時に拾ったもので、ある国で起きた虐殺について克明に記してあった。
その本によると、ある国には、ラーダ族とヨンハ族という二つの民族がいた。どちらも外見的な差異はほとんどなく、ラーダ族とヨンハ族が結婚した家庭も少なくない。その民族の区分は人為的に分類に過ぎなかった。
およそ二十年前、その国の国王の乗る飛行機が撃墜されたことをきっかけに、ヨンハ族による虐殺が起きた。百日間、三ヵ月強で、約八十万人もの人間が殺された。それも、今まで、隣人として暮らしていた相手の鉈によって、だ。単純に計算すれば、一日に八千人、一分間に五、六人だという。
男も女も、子供も年寄りも片端から殺害されたこの出来事は、つい十数年前の現代で実際に起きた事件という意味で、メイルには非常に興味深く感じられた。
また、他の本を用いて調べていくうちに、これらの事件は、本の著者が考えた空想上の物語ではなく、実際にメイルが生活している世界のどこかで起きた出来事だと発覚し、再びメイルを驚かせた。
なぜこのようなおぞましい出来事がすぐに阻止できなかったのか、どうして虐殺は成功したのか、そのメカニズムはとても参考になった。
どうして虐殺のような出来事が起きるのか、メイルには簡単に理解できた。
人間は、物事を直感で判断するからだ。しかも、その直感は、周囲の人間たちから大きな影響を受ける。
メイルが本で知った、有名な実験があった。大勢の人間が集められ、ある問題が出される。正解が分かりやすい、問いだ。一人ずつ順番に答えていき、誰がどう回答したのか、全員に分かる仕組みになっている。が、実は、これは、その中の一人のみが実験対象で、残りの全員は、わざと謝った回答をするように指示を出されているのだ。すると、どうなるか。その、唯一、「自分の意志で正解を選べる」人物は、三回に一回は、他の人間たちの「誤った回答」に同調した。被験者の四分の三が自分の正しい判断を一度は捨てた。
人間は同調する生き物なのだ。
似た実験は他にもある。それによれば、人間が同調しやすくなるのは、以下のパターンだという。
「その判断がとても重要で、しかも、正解がはっきりしない、答えにくいもの」の場合だ。
その時、人は、他人の意見に同調しやすくなる。
答えが分かりやすいものの場合は問題ない。人は自分の答えを信じられる。
判断の結果がさほど重要ではない問いについても、大丈夫だ。気軽に、自分の答えを口にできる。
つまり、こう考えられる。人間は、おぞましい決断や倫理に反する判断をしなくてはならない時こそ、集団の見解に同調し、そして、「それが正しい」と確信するのではないか、と。
それを踏まえれば、虐殺が止まらないどころか、推進されていくメカニズムも理解できた。彼らは自分の判断ではなく、集団の判断こそ正しい、と信じ、それに従っていたに違いなかった。
僕も、とメイルは思う。僕もこのメカニズムを応用すれば虐殺を引き起こせるのではないか。自分の手を汚すことなく、他人の平穏と安寧を破壊し、深い絶望を与えることが。
―――――――――
「結局何が言いてえんだ」
エドガーは、トイレから帰ってきたメイルの話を、最後まで聞き終えたところでその意図すること、メイルの狙いが一向に見えず、満足げに話し終えたメイルの顔が憎たらしく感じられた。
「おじさん、僕はこのファイトクラブでおじさんを待ち構えていたけど、それは別に、仲良く試合を観戦しようとしていたわけじゃないんだ」
「違うのかよ、どっちの選手が勝つか金でも賭けようか。おまえの配当金は二倍にしてやるからよ」
メイルはくすりともしない。
「おじさんにお願い事があるんだ」
「やだよ」
「やだよ、とか言わないでよ。僕だって、病院にいる女の子が苦しい目に遭うのは耐えられないんだ」
エドガーは胃のあたりに重苦しさを感じ、同時に、血が滾るような怒りも湧いた。「何をやらせるんだよ、俺に」
「元々、考えてたこととはちょっと違うんだけど、さっき思いついたことの方が面白いことになりそうだから少し変えたんだけどね」
メイルは一拍空けてから口を開く。
「おじさんには僕と一緒にその子供を助けるのを手伝ってほしいんだ」