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足に力が入らず、手ではって逃げだそうとしているオレに子どもの声が響いた。
「…は?」
「だからそんなに怖がらなくてもいいでしょ?」
失礼しちゃうなぁ、とぼやきながらそいつはソファから起き上がり、背もたれを飛び越えて近寄ってきた。
小学校や公園を見れば、どこにでもいそうな小さな子どもだった。
だからこそ信じられないと心が拒絶する。
「お…おま、え…」
「大丈夫?」
心配げに小さく白い手を差し伸べられるが、恐ろしくて逃げ腰になる。
そんな様子を察して、そいつは困ったような顔をしてそれ以上は何もしなかった。
「お前…なんなんだっ…!ここも!あいつもっ!」
完全な八つ当たりだった。
訳が分からなくて、無様で、怖くて、誰かにぶつけるしかなかった。
こんなガキ相手に情けなくて仕方がなかった。
「あいつ?」
「外にいた黒い影だよ!」
とっさに振り返りあれがいないか確かめる。ドアは閉ざされたままだ。
ほっと安心したのも一瞬で
「外に誰かいるの?」
息をのむオレのことなんか気にもかけず、ガキは容赦なくドアを全開にした。
「誰もいないよ」
「に…庭に…」
「庭?」
今度は窓へ行き、外をのぞきこみ辺りを見回す。
「うーん…何もないよ」
「…そう、かよ」
全身から力が抜け、オレは大の字で床に転がった。
ぼんやりと暗い天井を見つめていると、ガキの心配そうな顔がやってきた。
「疲れてるなら寝たほうがいいよ?」
「こんなとこでのん気に寝れるかよ。てゆーかお前は何でこんなとこにいるんだ。何なんだよこの屋敷は。つかお前は何なんだ」
疑問が次々にわいてきては、投げかけた。
そうだ。こいつは何だ。
オレは立ち上がろうとしたが、まだ足に力が入らなかった。
肘で床をはって距離をとった。
「あたし?」
首をかしげ不思議そうに聞いてきた。
ただのガキに見える。だが、ただのガキがこんな所にいるはずがない。
「あたしも最近ここに来たって言うか…出られなくなった言うか…」
「出られなくなった?」
「ちょっと面倒な仕組みみたいで解除に手間取ってるんだ」
「おい。訳のわからねぇこと言ってんじゃねぇぞ。じゃあ何か?オレも出られねーってのかよ」
聞き捨てならない言葉に食ってかかった。
「出られないのはあたしだけだから、君は普通に玄関から出入りできるよ」
「そーかよ…」
その言葉に再び気が抜けた。出られなくなった訳じゃないないなら、あの影を振り切って逃げればいい。
「でも君が来てくれて助かった」
「あ?」
「解除まで時間がかかりそうで退屈してたから」
「…オレに何させようってんだ」
低くうなるような声が出た。そんなオレに怯える様子もなくニコニコと上機嫌にガキは続けた。
「暇つぶしの為に本を持ってきてほしいの」
「…はぁ?」
本を持ってくる?本気で何言ってんだこいつ。
「バカか。んなことするわけねーだろ」
ここから出れたら二度と来るものか、と決意していた。
「でもお金がないんでしょ?バイト代出すよ」
その一言に心臓が跳ね上がった。
「何言ってんだ…」
「家出してるんでしょ?見たところ未成年みたいだし泊まる所はおろか、もう食べ物も満足に変えない程度の所持金しかないんじゃない?」
睨みつけるが効果はなく、ズケズケと言い当てていきやがる。
「本を持ってきてくれるだけでバイト代が出るよ?」
「お前こそ金あんのかよ…?」
そいつはニコリと笑うと、机に向かい引き出しからビニール袋を取り出してきた。
「小銭だけどちゃんとあるよ」
「…」
オレは迷った。これまで何度かバイトをしようと申し込んだ。
だが、どこも雇ってはもらえなかった。こんな面倒臭そうな事情を抱えた奴は嫌がられた。
こいつの言う通り、金はもう殆どない。
「…いくらで雇う」
「仕事内容は図書館から本を5冊借りてあたしに届けること。これを1回で700円」
内容だけ考えればすぐに飛びつきたかったが、影が脳裏をちらつく。
「嫌かもしれないけど此処なら雨風をしのげるし洗濯もできるしお布団もお風呂もあるよ」
「なんでオレがここに住むことになってんだよ…」
「別に強制じゃないけど何かと便利だよ」
「クソがッ…!」
自分でもどうしようもなく腹が立つ。
「まぁ今日はもう夜も遅いから、あたし寝るね」
「はぁ!?」
「向かいのソファとこの毛布使っていいよ」
「おい!ちょっと待て!」
「おやすみなさーい」
そいつは自分が使っていた毛布を一方のソファに投げると、最初と同じように自分のソファに寝転がってさっさと寝やがった。
理解が追いつかず、オレは立ち尽くすしかなかった。
月明りのなかで子どもの静かな寝息だけがする。
一定のリズムを刻む音に少しずつ気持ちが落ち着きを取り戻していった
とりあえず言われたソファに座り込んだ。古びてはいたが弾力は失われておらず柔らかかった。
毛布を手に取る。使い込まれ色褪せてはいたがきれいな物だった。
「バカだろ…こいつ…」
机の上に出しっぱなしにされた小銭の入ったビニール袋。
それを盗んで出て行くとか考えないのかよ。
ただの子どもにしか見えない間抜けな寝顔に騙されそうになるが、直感がこいつはそんなモンじゃないと告げていた。
持ち逃げされたところで捕まえられると思っているのか、その程度では痛くもかゆくもないのか。どちらにせよオレはこいつが起きるのを待たなくてはならない。
このまま言いたい放題で終わらせるのはシャクだった。
毛布を持ったまま立ち上がる。
春が近づいてきたとはいえ、夜は冬と同じように冷え込む。
子どもは不細工なぬいぐるみを枕に、大人用のモッズコートを布団の代わりにして暖かそうに包まっていた。
その姿に少し迷い、オレはその上から毛布をかけて、自分の寝床に戻った。
「いつもよりマシな寝床だからな…」
なにとなく言い訳をしながら、オレは久々に熟睡できた。
もう影は怖くなかった。