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三週間前だった。
「立川祐君」
「は、はい」
上ずった声で返事をする。生徒指導室に呼び出されたのは初めてだったし、身に覚えもなかったのでひどく緊張していた。そして、そこに待ち受けていた人物に更に緊張した。
「初めまして。カスペルスキー・神楽です」
その女性は、祐が今まで出会った中で一番の美人だった。祐が知る一番の美人は羽村美咲桜で、芸能人よりも圧倒的に綺麗だと思っていたが、それを軽く超える美人だった。名前が示す通りロシア人の血が混じっているのだろう、透き通るような白い肌とうねりを持ったプラチナブロンド。内に秘めた強い意志を示す青い眼光が祐を射る。歳は祐よりも二回りほど上、母親と同じか、もしかしたらそれよりも上かもしれない。
祐はカスペルスキーに促されて居心地悪く机の前の椅子に座る。座っているカスペルスキーの後ろには二人の大人が立っていた。祐以上に居心地の悪そうな校長先生と、それとは対照的にいつもと変わらぬにこやかな表情を崩さない担任の山谷千重だった。
「時間がないので手短に話すわ。これから話す内容はあなたには突拍子もなく聞こえると思う。でも本当のことだし、学校も了解している。そのことを理解してもらうために、この二人にも同席してもらっています。オーケー?」
早口だが落ち着いていて、聞き取りやすく、内容が理解しやすい話し方だ。
「オーケーです」
「まず私は日本軍に所属しています。ちなみに山谷さんも軍からこの学校に派遣されています」
「ええっ?」
祐は驚いて山谷先生を見る。カスペルスキーは軍人と言われれば納得できる緊張感をまとっているが、山谷先生はいつも笑顔でほんわかとした雰囲気がトレードマークだ。体型も訓練で引き締まっているとはとても言えないぽっちゃり系だ。パステルカラーのカーディガンにスカートの姿は、とても軍人には見えない。
「本当です」と本人ににこやかに言われても受け入れられない。
「そして今日はあなたにアルバイトの紹介を持ってきました。お金は欲しいですか?」
祐に納得するような時間は与えず、カスペルスキーはどんどんと話を進める。
「はい……」
答えてから身体を固くする。カスペルスキーは軍人だと自分の身分を示した。となると、そのアル バイトの内容は軍関係のものだということだろう。まさか、自分が戦場に送られるのか?
「そんなに緊張しなくても、戦場に行けなんて言いませんよ」
祐の考えを見透かしているかのようにカスペルスキーは言ったが、「違うわね」とすぐに先ほどの発言を取り消す。
「どこであろうと作戦を遂行するなら、そこがあなたにとっての戦場になるわ。そして、あなたの戦場は教室よ」
「教室で……、誰かと闘うんですか?」
そんなことは想像できない。そもそも身体の小さな自分では男子はもとより、女子のほとんどにも勝てないだろう。
「レポートを書いてもらうだけよ」
カスペルスキーは机の上に置いてあったタブレットで【レポート】と書かれたアイコンをタップした。日付と白紙欄だけのシンプルな画面が開く。
「あなたの周囲で、政府や軍を否定したり批判したり、逆に他国に友好的なことを言っている人がいたら、その人の名前と、その内容を書いて送信する。毎日ね。何もなければ。なにもなし、と書いて送信する。それだけよ、簡単でしょ」
「なんでそんなことをするんですか?」
「分かるでしょう?」
声は優しいが、つまらない質問をするな、と言われている気がした。なんでそんなことをするのかの理由は、確かにすぐに想像がつくが、そんなスパイ映画みたいなことが自分に降りかかっていることはすぐには理解できない。でも、馬鹿にされ続けるのも嫌だから、頷いて前に進む。
「……反政府的なことを言っている人がいるとして、どうするんですか?」
「必要な措置を取るけど、それはあなたの仕事ではないから安心して。そんなに心配しなくても大丈夫よ。あなたたちが社会に逆らいたくなるお年頃なのは分かっている。生き死に関わるような罰を与えるわけじゃないわ」
そう言われてもクラスメイトを売る罪悪感が薄れるわけではない。
「そうそう、バイト代を教えていなかったわね。そこ、重要よね」
祐に悩む暇を与えないかのように、カスペルスキーは畳みかけ、タブレットを操作する。
「役に立つような報告がなくても、「特記事項なし」でも、金額は変わらない。本当に国家の存亡に関わるような情報があればボーナスも支給するけど、私もそんなことが起こらないと期待しておくわ」
そこに提示された金額は、高校生が普通のバイトで稼げる額の三倍ほどであった。お金のない高校生にはかなり魅力的だ。
「あの……、なんで僕なんですか?それと、これを断ったらどうなるんですか?」
「質問にはお答えできない。やるかやらないかよ」
カスペルスキーはにっこりとほほ笑む。その背後で山谷先生は相変わらず笑顔を浮かべ、校長はだらだらと汗を流し続けていた。
仕事の内容は誰にでもできるものだ。自分である必要はない。そうなると自分が断っても誰かがその席に座るだけのことだ。もしかしたらすでに誰かが断って、自分に順番が回ってきたのかもしれない。クラスメイト全員が断るとは思えない。誰かがこの仕事を引き受けるのだ。
「やります」
「ありがとう。ではここにサインをして」
間髪入れずに、カスペルスキーはタブレットの一角を指さした。
こうして、祐のスパイ生活が始まった。