1
腐れ縁で付き合っている女からの久しぶりの連絡は、少女の捜索依頼だった。その日暮らしの探偵には断る理由も余裕もない。
たとえ軍絡みの、己が逃げ出して来た世界からの依頼であってもだ。
戦争が始まったために完成することなく、十年間放置されてきた超高層ビル、探偵はそこで逃亡者を発見する。
無数の窓からこぼれる光が眩いビル街の中に、闇の塔がそびえている。
ひときわ高いそのビルに明かりはなく、また静けさに包まれていた。
ビルの屋上の上には巨大なタワークレーンが突き出ている。そのクレーンの先端に、一人の少女が立っていた。
パーカーのフードを被り、ショートパンツをはいている。
少し強い風が吹けば簡単に飛んで行ってしまいそうな危うさを感じる。
静寂を邪魔するかのように聞こえて来た規則的な音は彼女の耳に届いているだろうか?微動だにせず、ビル街を俯瞰している。
音と共に、一人の男がクレーンの上に姿を現した。
長身を、仕立ては良いが年季の入ったスーツで包んでいる。白髪交じりの金髪が風に揺れる。しわが刻まれた顔には安堵の表情が浮かんでいる。
予想通りに、推理通りに、調査通りに、彼女はここにいた。
地上三百メートル、六十階建てのビル、プラス、巨大クレーンを足で上ってきて、空振りだったらと考えると、あまりにも辛すぎる。
しかし安心し、気を緩め、油断するのはまだ早い。そこにいるのは目的の人物とは何の関係もない、ただの高所好き少女の可能性もある。
ほぼ水平な状態で止まっているジブの上の狭い通路をゆっくりと歩いていく。さすがにもう靴音は聞こえているだろうが、少女は動かない。わざと靴音を鳴らしながら歩いているんだから少しぐらい反応して欲しい。
ちらりと足元に目を向ける。網目状の通路の隙間から見せる光景は、高所に慣れている私でも少しぞっとする高さだ。
少女から五メートル離れた場所で足を止めた。
「花村 恵さん?」
本人であるとの確信を持ちつつも、表に出てこようとする僅かな不安を押し殺しながら訊ねる。
「誰です?」
当たりだった。勿論、分かり切っていたことだが。
振り返った少女は、私を疑っているようだった。やってきたのが、彼女が期待していた者とは違ったのだろう。
「しがない探偵だよ」
「探偵?」
「君のお仲間に、君を探すよう頼まれてね」
「……探偵って初めて見ました。実在するんですね」
随分なことを言ってくれる。しかし、高校生ならこんなものか。探偵なんて怪しげな職業の者に関わりを持たずに済む方が幸せな人生だともいえる。
「実在するよ。探偵社はどんな街にでも一軒ぐらいはある。数は多くないが、そんなに珍しいものではない。君に比べればね」
そう言っても少女は怒ったり、怪訝な顔をしたりすることもなく、こちらをじっと見ている。探偵という始めて遭遇した存在を見定めているかのようだ。
「君のお仲間も必死に探しているのだけれど見つけられないらしい。いつもの手が使えないからパニック状態になった。それで、人探しのプロである私に声がかかったということだ。ところで、いつもの手が使えない理由を教えてもらってもいいかな」
意外なことに少女は素直に教えてくれた。フードを脱ぎ、右側頭部、耳の上辺りを見せて来た。暗いためにはっきりとは見えなかったが、髪が抜け、血の流れた後が見えた。
「……自分で引きちぎったのか」
資料を思い出し、彼女が何をしたのかを理解する。そして同時に、彼女の今回の行動に対する覚悟も理解する。
「痛くなかったのか?」
「痛かったわよ」
無表情だった少女が、初めて感情らしきものを見せた。
「めちゃくちゃ痛かった。今も痛い」
十年前に始まった世界大戦は、巨大人型兵器ギガンティックマシンによる戦闘を前提としたものだった。各国が競って製造した巨神がぶつかり合った。
ギガンティックマシンはその本体の製造も困難であれば、巨体を自由自在に操る操縦系の構築も困難である。
その解決策の一つが、神経系を機械的に強化した人間『高度戦術体(HTP)』の使用であった。ギガンティックマシンと高度戦術体の結合の度合いが強ければ強いほど、ギガンティックマシンの戦闘力は高まる。
高度戦術体の正体は各国のトップシークレットである。また、適合する人間を探すために非人道的なことも数多く行われていると噂されていた。
私も詳しくは知らなかったし、今回の捜索を依頼された時に渡された資料にも詳細は書かれていなかったが、目の前の年端もいかない少女が選ばれ、サイボーグ化されている程度のことは、この国でも行われているということだ。
国の重要人物、……兵器である彼女には発信器が取り付けられ、常にその行動が監視されている。頭の傷は、彼女がその発信器を自力で取り除いた証だ。
重大な責務や過酷な人生を押し付けられている彼女に同情はするが、それでも私は私で自分の仕事をしなければならない。
「そこまでして逃げたかったのか?」
「そうよ。なのに、なんで見つけに来るの」
感情を露わにしてきたが、その方がやりやすい。
「それはちゃんと伝えたのか?」
「何をよ」
「逃げたいってことさ」
「許してもらえるわけないでしょ」
「分からないさ」
「分かるわよ」
「とりあえず言ってみれば良かったんじゃないかな」
「だから言えないって言っているでしょ。何も知らないくせに!」
「そうでもない」
睨みつけてくる双眸と硬く結ばれた口元が、言ってみろ、と告げている。
「許してもらえないのではなくて、君が言えないってことが分かった」
「そ、それは」
少女がためらいの表情を見せた時、くぐもった音でメロディが流れた。私の上着のポケットが発信源だ。
携帯通信端末を取り出すと、少女はより厳しい顔つきをする。
「連絡するの?」
「まだしない。今の音は着信ではなくてタイマーだ」
タイマーを切って携帯をポケットに戻すと、代わりに金属製の小さなケースを取り出す。その正体を見極めようとして少女の目が細くなる。
「悪いけど、ちょっと失礼するよ」
ケースから取り出したアンプルを注射キットにセットする。首に押し当てて軽くプッシュすれば、速やかに液体が体内に送り込まれる。
「本当は何者なの?」
完全に疑いの目で見られている。
少女はサイボーグ化だけではなく、注射などの様々な医学的処置も受けているのだろう。目の前で当たり前のように自分で注射をすれば、もしかしたら同類だと思われたのかもしれない。
「ただの探偵だよ。そしてさっきのはただのお薬だ。免疫系の持病があってね、定期的に打たなくてはいけないんだ」
「打たなければどうなるの?」
「発症する。さて」
ケースをポケットに戻すと手を左右に大きく広げ、明るい声で提案した。
「そろそろ下に降りないか?」
「嫌よ」
「どうしてだい?この場所がそんなに気に入ったのかい?居心地が良いとは思えないんだけどな」
「だったら帰れば良いじゃない」
少女はこちらを見るのを止め、クレーンの先端の、その先に目を向ける。
「何が見えるんだい?」
「別に、ただの夜景よ。ビルが並んでいるだけ」
話の相手は続けてくれるらしい。
「どうしてただの夜景を見に来たんだ?」
「ただの夜景だって知らなかったから」
「どうしてこの場所なんだ」
少しの間が開いた。
「夜、街の上を飛行していると、明るい中に時々暗い場所があるの。後で調べてみたら、ほとんどは公園だったり、グラウンドだったりするんだけど、ここはビル街のど真ん中で、ビルが建っているのに真っ暗なの。なんでだろう、って調べたのがきっかけ」
「なるほど」
国で一番高いビルを作る。そのことに何の意味があるのかは分かりかねるが、その計画が発表された時にはそれなりの話題になったし、完成を待ち望んでいる人たちもいた。しかし完成直前に戦争が勃発、混乱期の最中にビルの管理会社の不正が発覚し、社長は自殺、あっさりと倒産した。
戦争が始まり、これからどうなるのか分からない状況で、高いだけのビルの管理を引き受ける者は出てこなかった。外資の中には手を上げた者もいたらしいが、政府が拒否したらしい。
管理をする者もなく、行政機関も構っている余裕はなく、解体するにも巨大な費用がかかる。
繁栄を象徴するはずだったビルは、戦争による最初の被害者として、街中に墓標のように立ちすくむことになった。
「それで、納得はできたかい」
「分からない。でも、綺麗な夜景だよ」
「ただの夜景だったんじゃないのか?」
「ただの綺麗な夜景だよ」
どんなに綺麗な夜景だろうと、こんな落ち着かないところで楽しむ趣味はない。
「用事が終わったならそろそろ帰らないか?他にも行きたいところがあるなら付き合っても良い」
「もしかして私が飛び降りると思っている?」
少女は振り返って訊ねてくる。彼女の足先には何もない。空が広がっている。飛び降りようとしたら、それを止めることはできないだろう。
「その可能性はあると思っている」
はっきりと答える。
「飛び降りると困る?」
口調や表情からは真意を掴みとれない。そんな時には本音で話すことにしている。
「正直に話すと、私が受けた依頼は君を見つけることだ。だから目的はすでに達成している。そこから飛び降りても遺体がどこにあるかははっきりしているのだから問題はない。君に、死んでも走り回ったりする機能が付いてなければね」
「そんなの付いてないわよ」
少女は呆れたように行った後、不穏な言葉を口にする。
「自爆装置は付いているかもしれないけど」
不穏ではあるが十分に想像がつくことだ。国の最高機密である操縦士を万が一にも敵国に渡してはならない。その為には自爆装置ぐらいついていてもおかしくはない。もっとも自爆装置と言っても身体が爆散するようなものではなく、機密度の高い回路が焼き切れる程度のものだろう。
「それにしてはまだ連絡していないみたいだけど、どうして?」
照れくさくなることを訊いてくる。しかし当然の疑問であるし、腕の見せ所でもある。
「ここに上がってきて君を見た時、飛び降りる気なのかもしれないってすぐに思ったからだよ。連絡をするよりも話しかけるのが先だと思ったんだ」
「死んでいても困らないんでしょ」
「ああ、依頼に関しては困らない。しかし、若者が目の前で自殺するのを見るのは耐えられない」
「本気で言ってるの?」
少女は驚いた顔をしている。驚くようなことではないだろう。人畜無害だとは言わないが、そんなひどい人間に見えるのか?
「もちろん本気だ」
「へぇ、本気なんだ~」
半笑いのような表情を見せた少女は何を考えたのかその場で半回転して、―――バランスを崩した。
突然のことに、自分で体勢を立て直すことを忘れている。
吸い込まれるように、暗闇の中に落ちていく。
何も考えずに跳んだ。
手を伸ばした。
落ちてはならないという本能がそうさせたのか、右手がこちらへと伸ばされていた。
空中を漂っていた少女の手をギリギリで掴むことができた。しかしそのまま私の身体まで引っ張られそうになる。逆の手で手すりを掴んで堪えた。
半身が宙に飛び出した状態で少女の身体は止まった。少女の顔が腕二本分向こうにある。初めてはっきりと見た顔は、目を真ん丸にさせて驚いていた。
「ガンバレ」だとか「必ず助ける」などと声をかける余裕はなかった。力を振り絞って必死で引きずり上げた。
「はあ」
力が抜けてへたり込む。
「怖かったー」
隣から聞こえてきた声は呑気に思えたが、声が少し震えているのを感じた。
「助けてくれてありがとう。お礼に一緒に降りてあげる」
「それはどうも……」
息を整えながら片手を上げて応える。変わり身の早さに、反論したり説教したりする気分にはなれない。
感謝する気持ちを持っていることに、感謝するだけだ。
「ところでどうやって降りるの?」
急に雰囲気が変わった。雰囲気と言うより距離感か。先ほどまではまだ年長者に対する遠慮のようなものがあったが、今はまるで私を友達だと思っているような調子だ。私は君の命を救っただけで、友達扱いされる覚えは一切ないのだが。これが若さと言うやつか?
「何も考えずに上って来たのかい」
立ち上がって訊ねる。少女は通路に座ったままだ。
「落ちるつもりで来たから降りることなんて考えてなかった」
「嘘だろう」
「正確に言うと、何も考えずに上って来たけど、あまりにも高くて降りるのが面倒くさい、いっそここから飛び降りるのもありかなって思っていたらおじさんが来たの。おじさんは降りるつもりだったんだから、何か考えてあるんでしょう」
まくし立ててくるのを一度遮る。
「おじさんって呼ばないでくれるかな」
「おっさん」
「……」
自分がおじさん、おっさんと言われても仕方がない歳であることは自覚しているが、こうも遠慮なく言われると実際以上に歳を取った気分になる。
「私の職場って男の割合が多いから、おっさんの相手は慣れてるよ」
そのおっさんたちは少女に礼儀を教えなかったのだろうか?愚問だ。教えなかったのだ。そんな面倒くさいうえに少女に嫌われる可能性が高いことを、おっさんたちがやりたがるわけがない。
「畑だ」
「はたけ?」
イントネーションを変えて繰り返したのはわざとだろう。そんな誘いには乗らず、冷静に教えてやる。
「私の名前だ」
「ああ。それで、畑さんはどうやって降りるつもりだったの?」
「後先をきちんと考えるような人間は、探偵なんかになったりしないもんだ」
「納得」
礼儀がないのは分かったが、嫌味を言っていることぐらいには気づいていて欲しい。
「で、どうするの?自分の足で歩いて降りるぐらいなら飛び降りるわよ」
「若いくせに横着だな」
「私に触るのも禁止ね」
「良かった。担いで降りろと言われたら死ぬと思っていたんだ」
「失礼ね」
「それは失礼した」
唐突に謝る。少女は意表を突かれて悔しそうな顔をしている。
「もう、これだからおっさんはイヤなのよ」
そう言っているが、本心には見えない。
「君の周りのおっさん達はそんなにイヤな奴ばかりなのか?例えば、シルバーグレーのしぶい男に優しくされて、ついうっとりしてしまった経験は?もっとも、私ほどのイケメンはいなかっただろうがね」
「……おっさんがイケメンなのは認めるけど」
イケメンを認めてくれるのは嬉しいが、どうやら名前は早くも忘れられてしまったようだ。
少女は懐かしいものを見るような目をした。
「雰囲気イケメンはいるし、白髪交じりも、真っ白な人も、それも無くなっちゃった人もいる。優しいおっさんもいたし、嫌みばかり言っているおっさんもいた。私を人間として扱ってくれるおっさんもいたし、完全に兵器としてしか、実験材料の一つとしてしか見ていないように接してくるおっさんもいた。でも皆、どのおっさんも、おばさんも自分の仕事を頑張ってた」
「ここにいるおっさんだって頑張っているんだけどな」
「自分でおっさんって言ってるじゃない」
「それは、今の話の流れから行くと、自分も頑張っているおっさんチームに入りたいだろう」
「入りたいんだ」
「……改めて確認されると不安になってくる」
「なによそれ」
「そうだな。私はきちんとした仕事につきたくなくて、探偵をやっているわけだ。頑張って、真面目に、誠実に、忠誠心を持って生きるとか、基本的に性に合わないんだ。だらだらと暮らしながらなんとなく生きていきたい。そんな私が、この国の平和を守るために一生懸命働いている人たちと同じカテゴリーに入っていいのかと考えると、……ダメだろう?」
「入りなさいよ」
少女は怒っている。
「そうは言うがね。この国の平和は俺が守る!なんて、かっこいいかもしれないけど、小市民としては、できれば誰かに守っていて欲しいと思ってしまうな」
「主に私が守っているんですけど!本人に向かってそういうこと言うの?」
「ああ。だから、本当に感謝しています。これからもよろしくお願いいたします。この国の平和は君にかかっている!」
「そういうのが、イヤなんだってば!」
大きな声だ。
「何か、言っちゃったかな」
失言を反省しているかのように視線を反らし、顎をに手を当てながら訊ねる。
「言っちゃったんだよ」
少女はぽつりとつぶやく。
「平和を守るって何?」
難しい問いだ。答えるためにはまず、平和とは何かを定義しなくてはならない。
「私がやっているのは、……ロボットに乗ってやっているのは、攻めてきた敵を倒しているだけじゃないんだよ。相手の国に行って、相手の国のロボットと闘って、軍事基地を攻撃して、破壊するの」
私が答える前に、少女は感情を抑えながら呟き始める。
「ロボットを倒せば中にいる人は死ぬし、基地を破壊すれば大勢の人がいる。基地にいるのが軍人だけじゃないってことを、私は知っている。だって私達の基地にいるのも軍人だけではないもの」
「破壊したのは基地だけか?」
私はあえて傷をエグリに行った。その質問は自分の胸も少しエグる。しかし、彼女の胸には以上の穴が開いたはずだ。
「そうよ。私は街も破壊したわ。民間人もいっぱい死んだ」
少女は荒んだ声で告白する。
それはこの国では大々的には報じられていない事実だ。彼女のロボットは敵国のロボットと交戦している間に市街地に入り込み、結果としてその街は壊滅。大勢の民間人が犠牲になった。市街地での戦闘が敵国の作戦だったにせよ、彼女の行為が多くの死を生み出したことは事実だ。
我々はその事実の全てを知らされないまま、知らないままに、戦闘とは離れたところで暮らしている。
「私と同じぐらいの子もいっぱい死んだの。きっとやりたいことがいっぱいあったはず。夢も希望もあった。それを全部私が壊したの。奪ったの。もう帰ってこないのよ。そんなので、なんで平和を守ったなんて言えるのよ」
「言える」
私は断言した。
その勢いの良さに、少女は驚きの顔を見せる。
「私はその時間、家でハイボールを飲みながらカーリングの試合を見てた」
「カ、カーリング?」
「女子ではないぞ。男子の試合だ。女子の試合も悪くはないけどな、男子の方が迫力があって好きだ」
「それが何だっていうのよ」
「分からないのか?君が平和を守ったという話だ」
少女は私から目を反らすが、構わず話を続ける。
「相手の国の少年少女には確かに申し訳ないだろう。しかし君はこの国の、君と同じぐらいの年の子の、夢と希望を守ったんだ」
「そんなの分かってるわよ。でも!それでも!」
彼女の声には先ほどまでの勢いはない。
けど、それでも、多くの人の命を奪った事実は消えない。彼女の言いたいことは理解できる。何度も何度も自分にその事実をぶつけ続け、苦しんできたのだろう。冷たく言ってしまえば、軍人にはよくある話だ。戦場は人を殺すことが正当化される場所だ。しかし犯してしまった行動に心が耐えられない者は大勢いる。資料によれば、彼女も軍で何度かカウンセリングを受けていた。その手のことには素人の俺が下手なことを言ったところで彼女の心の癒しになるとは思えない。
けど、それでも、私にできるのは下手なことを言うことぐらいだ。
「……夜の変質者ってどう思う?」
「夜の変質者?」
突然の話の転換に気でも狂ったのかという表情で見られる。「おっさんのこと?」
「なぜだ。私のどこが変質者なんだ」
「暗がりで少女に嫌がらせをしている大人は変質者でしょ」
「さっきから明るい場所に降りて行こうって言っているだろう」
「行かないとは言ってないでしょ。さっさと連れていってよ」
「マテ。待て待て。夜の変質者の話だ」
「その話まだ続けるの?」
彼女は頭の良い娘だ。私が無理やりに話を変えていることには気づいているだろう。気づいていて付き合ってくれているのだ。
「続けるも何も始まっていないだろう。だからほら、夜の変質者って聞いてどう思う」
「イヤに決まってるじゃない」
話に付き合ってくれるのは嬉しいが、だからといって、私を汚物を見るような目で見るのを止めて欲しい。私は君が思うような変質者ではないのだから。
「では、昼の変質者はどう思う?」
「イヤに決まってるでしょ」
「朝の変質者だったら」
「変質者は変質者でしょ」
呆れて見せながらも、少女にスキができた。だからこんなことを言ってしまう。
「……でも、夜に比べれば、少しは爽やかな感じがするわね」
「だろう」
「だろうって、なんでドヤ顔なのよ。変質者は変質者でしょ。人類の敵よ、ゴミよ、抹殺よ」
「変質者は殺してもいいのか?変質者にだって夢や希望があるんだぞ」
「そんな、夢や希望は私が燃やしつくしてあげるわ」
「酷いな。さっき朝の変質者は爽やかだと言ったばかりなのに」
「比較されたからでしょ。夜の何かに比べれば、朝に会ったものはだいたい爽やかに感じるわよ」
「そうだ。だから比較して考えれば良いんだ」
「何を比較するのよ。街を破壊していた私と、その時間にジャリジャジャンのコンサートに行って楽しんでいた友達を比較するの?」
「好きなのか?」
ジャリジャジャンは国民的に人気のある若手男性アイドルユニットだ。
「ジャリジャジャン?まあね」
そういう情報はきちんと資料に入れておいて欲しかったな。
「じゃあ、今度コンサートチケットを取ってやる」
「ああ。……そういうのは自分で取れるから大丈夫」
少し遠慮しがちに言われたのが悔しくて恥ずかしい。国家権力が後ろにいるんだから、入手困難なチケットだっとしても、どうにでもなることぐらい容易に想像がつく。
「そうか……。とにかくだ。平和を守ったのはどっちだ」
「それは私だけど……」
少女は答えながら、突然大きな声で笑い始めた。
「色んなカウンセリングを受けたけど、こんなにへたくそなのは初めて」
ひーと、苦しそうにお腹を抱えている。
笑っていただけて光栄だ。
「私はカウンセラーではなくて、探偵だからな」
「カウンセラーを選ばなくて良かったよ。向いてない」
涙を手で拭いている。そこまでおかしなことだったか?
「だいたいさ。私はもう落ちる気はなくて、降りるって言ってるんだけど。歩いて降りるのが嫌なだけで。下手なカウンセリングなんていらないんですけど」
「そうだったな。しかし私だけでは君を下ろすことはできない。仕方がない。君のお仲間に迎えに来てもらうか」
「初めからそうすれば良かったじゃない」
「しかしお仲間が来てしまえば、君の自由時間はそこでお終いになってしまう」
はっと気が付いた顔をする。
「そうだね」
寂しそうな顔をした後、小さな笑顔を見せた。
「でも良いよ。今日は帰ってあげる。呼んで」
少女はきげん良く帰る気になってくれた。依頼された仕事はただこなすだけではなく、やはり気分よく終わりたいものだ。
私は首尾良く仕事を終わらせたことに気を良くし、更には緩めてしまった。
上着の内ポケットから取り出した携帯を、手を滑らせて落としてしまったのだ。
今度は手が届かなかった。運良くクレーンの躯体に引っかかるなんてこともなく、ひらひらと下に落ちていった。何かに当たって跳ね返ったような音がした後、
―――爆発した。
「おっさんの携帯なんなの?」
少女が驚きの声を上げるが私だって驚いた。しかし思い当たる節はある。
「君のトラップに引っかかったのかもしれない」
階段の途中にちゃちな罠が仕掛けられていた。ちゃち過ぎて解除もしなかったのだが、ここに来て引っかかってしまったらしい。運がない。
「ああ……。ごめんね」
「いや、この高さから落としたんだから、トラップがなくても壊れていただろう」
「あー、うん。……で、どうするの?」
「君の携帯は?」
「持ってきてるわけないでしょ。居場所がばれちゃう」
彼女に発信器が付けられているぐらいなのだから、当然携帯にもそれらは付けられているだろう。
「そうだな」
八方ふさがりだ。と降参もできないので方法を考える。
できることと言えば、大きな音を立てて誰かに気が付いてもらうことぐらいだろう。
かっこ悪い。しかし仕方がない。周囲を見回して適当な鉄パイプっぽいものを探すが細い通路には落ちていない。錆が浮いてきている手すりは力を入れれば折れるかもしれないが、弾みでバランスを崩して転落するかもしれない。
運転席へと歩いてきた。工具箱からスパナを取り出し、通路に戻った。少女もぶらぶらとこちらに近づいてきている。スパナを振り上げ、手すりを叩いた。
大きな音がした。
それと同時に通路が少し傾いた。「きゃあ」と少女は手すりにしがみついている。
傾きは一度では終わらなかった。徐々にそのまま角度を増していく。
「何をやったのよ!」
「私ではない。さっきの爆発のせいだ」
落ち着いて見せているが、心の中では焦りまくっている。
「そんなに爆薬入れなかったのに」
「そもそも壊れかけていたんだ」
言い争っている間にも角度はどんどん増していく。
「逃げろ!」
私は振り返って全力で狭い通路を走り始めた。
「ま、待ってよ」
慌てた声が後ろから届くが待ってなどいられない。通路はどんどん斜めに傾いていく。私が受けた依頼は彼女を見つけることであり、連れて帰ることではない。
残念ながら、いつも気分よく仕事を終えられるわけではない。
クレーンの運転席に飛び込む。そこが安全だとは思えないが、外にいるよりはましだろう。座席に座ると、少女が必至の形相で走ってきていた。
「早くしろ」
運転席から半身で乗り出して怒鳴る。
クレーンが大きく縦揺れした。少女の小さな身体がふわっと浮き、宙を流れていく。
「手を伸ばせぇ」
怒鳴ると、呆然としていた少女は慌てて、必死に、細い手を伸ばす。
精一杯伸ばす。
限界まで伸ばした私の手が、少女の手首を掴んだ。力を振り絞って運転席の中に引きずり込むと、私の上に座らせて一緒にシートベルトを締める。世界はすでに四十五度以上傾いている。
「きゃああああああ」
今頃になって少女が騒ぎ始める。
「黙っていろ、舌を噛むぞ。丸まって身体を小さくしろ!」
少女は現役の操縦士らしく、素早く言われた体勢を取った。
「良い子だ」
小さく褒めながら、少女の身体の上に覆いかぶさる。倒れる速度は加速度をつけて早くなっていき、轟音と強い衝撃と共に、クレーンはビルの屋上に倒れこんだ。
運転席の周りを囲む窓ガラスが全て砕け散った。計器類が吹っ飛んできて身体を打つ。その痛みを感じないぐらい、クレーンが倒れた瞬間に襲ってきた衝撃は大きかった。
激痛に顔を顰めながら、膝の上にいる少女に声をかける。
「おい、大丈夫か?」
反応はない。呼吸はある。衝撃で気を失ってしまったのだろう。
シートベルトを外そうと手を伸ばすと、基部からぼろっと外れた。もう少しで運転席から放り出されるところだったようだ。どうやら運はまだ残っているらしい。
運が残っているといえば、クレーンがビルの上に倒れたこともだ。ビルの外側に倒れていたら助からなかっただろう。
「それは良いけれどだ」
声を出してみてから改めて気絶している少女を見る。
「これを担いで降りるのか?」
小さい身体とはいえ、おっさんには軽くはない。しかしこんな不安定なところでゆっくりしているわけにもいかない。
「行くか!」
覚悟を決めた瞬間に、細かな振動と、すさまじい金属音が響いてきた。
遅かったか!すぐに大きな振動が襲ってくる。ビルの天井が崩落したのだ。
幸いなことに今回の衝撃にも運転席が潰れることはなかった。
大きく深い息をついて再び運転席から出ようとした時、金切り声と共にまた世界が動き始めた。
四方から何かが壊れる音が聞こえて来る。断続的な振動が襲い掛かってくる。
「な、」
状況を把握する前に身体が大きく落下する。慌てて少女を抱えなおすがそのために体勢が崩れ、身体は運転席の測壁に叩きつけられた。痛い!
その時になってようやく状況を把握した。
このビルには巨大な吹き抜けがある。倒れたクレーンは天井を突き破り、今度はその吹き抜けを落ちて行っているのだ。
クレーンは長さがあるため、一度はビルの内壁に引っかかって止まるが、放置されていて劣化している内壁はクレーンの重さに耐えかねて壊れる。そして落下して止まり、また壊す。その繰り返しだ。
今はまだ一階ずつの落下だからまだ堪えられているが、吹き抜けを一気に落ちるようなことになればもう助からない。
どうする?
悠長に考えている時間はない。奥の手を使うしかないだろう。
少女が気を失っているのを確認してから、力をこめて奥歯を嚙合わせる。仕込んでいたカプセルから出た圧縮ガスが口内を満たす。逃さないように口を堅く閉じる。
症状を抑える薬もあれば発症させる薬もある。
どくんと心臓が跳ね上がる。
身体が薬に反応し、変質していくのを感じる。
肥大化し、毛むくじゃらになった両足と右腕で身体を運転席内に固定する。口を真一文字に結んだまま、左腕で少女を潰さないように気を付けながら抱きしめた。
クレーンは一階、また一階と落ちていき、やがてビルを崩壊させながら、吹き抜けを一気に落下していった。