序(弐)
若男は趣のある古い店の前に立っていた。例の和綴本が売られている書店に来たのだが、当の店には「私情により急遽休業とさせていただきます。」と書かれた貼り紙がはられていた。
本来の目的を達成できず無駄足だった訳だが、男は丁度いい散歩になったと持ち前の陽気さで気を落とすことなく次の目的地へと足を向けた。家を出る際、序だからと華が夕食の材料の買い出しを頼んできたのだ。
持ってきていた買い物用の籠からメモを手に取り、今日の晩飯の事を考えながら彼はその場を後にした―。
「ただいま戻りました。」
玄関の戸を開けながらそう言うと、廊下の奥からおかえりという声と共に華が出てきた。
「メモ書きにはあんまりモノを書かなかった筈なんやけど。あんたまた道草くってたん?」
「書店がしまっていたので、散歩がてら蜩の声を聞きながら帰ってきたんです。けれど今日は頼まれ事もありましたし、早足で帰ってきましたよ。」
「はあ、そうですか。…ねえ、私メモ書きにおあげさんは書かなかったわよね?」
華の手には、男の好物である油揚げ。メモにはお豆腐や塩など書いてあるが、油揚げの字は無い。
「昨日のお味噌汁で無くなったことを思い出したんです。今日のお代は全部私が払いましたから、そう怒らないでくださいな。」
「別に怒ってへんけど、あんたほんまに好きねぇおあげさん。」
男は嬉しそうに頷いて、また今度店を手伝うように伝えて部屋に戻っていった。
普段なら華が台所で夕食の準備をしてくれているあいだは日記を書いているのだが、今日は肝心の日記帳が無い。縁側に座りながらふと、本棚に目がいった。本棚には昨日まで書き綴ってきた日常がぎっしりと詰まっていた。暇つぶしに始めた日記だったが、それを読み返すことはなかったなと、なんとなく思った。
彼はおもむろに立ち上がり、本棚の方へむかう。たまにはのんびり今までを振り返るのも面白い、そう思いながら古びた和綴本を手に取った。