序
人々が『妖』と呼ぶそれは、御伽噺に出てくる空想上の生き物などではない。
実のところ妖というものは、私達の日常に溶け込み、恰も人のように振舞いながらのらりくらりと暮らしている者も少なくない。ひょっとすると今日あなたがすれ違った彼等は…。
ある晩夏の昼下がり、ここ京都伏見には気持ちのいい涼風が吹いていた。そんな伏見のとある古家で、真っ白な長髪の若男がひとり縁側で横になっていた。季節の変わり目を感じながらうとうととまどろんでいる彼を見かねて、部屋の奥からこれまた真っ白な長髪の女が出てきた。
「あんたさ、いつまでそうやって寝てんの。」
風で揺れる風鈴の音に癒されていた彼の耳に、少し酒やけた女の声が響いた。
「…ああ、姉さんでしたか。」
「姉さんでしたか、ちゃうわ。まったく…でぼちん、あんたあたしの店を手伝いにきたんと違うん?」
姉さんと呼ばれた女は、不満そうに眉を吊り上げて言った。でぼちんというのは額という意味の京ことばである。女は、おでこが出ている若男のことを昔からそう呼んでいた。
「まあまあ、そないに怒らんといてくださいな。笑顔が素敵と評判の橘華さんの綺麗なお顔が勿体ないですよ。」
華は、橘というお香屋を一人で営んでいる。橘はそこそこ人気のある店で、お香目当てでなく華目当てで店に通う常連客も多い。
少々ご立腹な様子の華を宥めつつ、若男はあることを思い出した。
「そや、今日は新しい和綴本を買いに行くんでした。」
「本当に昼寝をしに来ただけなんやな、あんた。」
なんとも自由気ままな彼を見て、華は呆れ顔で肩を落とした。