その檸檬は君の屈託だった。
仕事帰りには必ず本屋さんに寄っていた。元々、文系の大学を卒業したというのもあるかもしれない。毎日本を読むことが習慣になっているせいか、手元に読める本のストックがないとどうしても落ち着かないのだ。それが大学に入学してからだから、ここの本屋とはもう五年の付き合いになる。遠くに白山がハリボテのように聳える大通りに面した赤いトタン屋根にベージュ色の建築物――。文習堂といえば全国にもチェーン展開しているから、知っている人も少なくないはずだ。
俺は心なしかくたびれたスーツの襟を正すと、自動ドアをくぐった。近未来を舞台にしたSF小説に出てくるオノマトペのような音を立てて、橙色の明かりがはっきりと店内を照らしだす。そこには本たちが、たくさんの人の助力によって形作られた作家の造花が様々な色彩を纏いつつ、コーナーごとに並べられている。その鮮やかさたるや、筆舌に尽くし難いもので、自分はやっぱりこの圧倒的な奇跡に魅せられて、本を読んでいるのだということをあらためて認識させられる。――さて、今日はどのコーナーを重点的に見て回ろうか。
半ば心踊りながら、店内を物色していると、ふいに一人の女性に目が留まった。もちろん、表紙を飾っている女優にではない、今この瞬間、俺の目の前にいる女性のことだ。ちょうど文庫本の新刊コーナーの前で立ち止まるようにして、彼女は一冊の本を手にしている。ボロボロの、恐らく相当読み込まれたであろうその本は確か梶井基次郎の「檸檬」といったか。表紙に紡錘型の果実が可愛らしく描かれているから恐らく角山文庫のものだろう。彼女はきょろきょろと辺りを見渡して誰にも見られていないことを確認すると、それを一息にえいっと本棚に押し込んでしまった。そして、何事もなかったかのようにして、ずんずんと店外へ出て行ってしまうのである。そんなヘンテコな一部始終を俺はまるで狐にでも化かされたような気持になって――不思議だった。なぜ彼女はあんなことをしたのだろうか。もしかして「檸檬」に登場する「丸善に黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けてきた奇怪な悪漢」を演じようとでも思ったのだろうか。よくわからない。よくわからなかったけれども、しかし俺はなぜかその本をそのままにしておくことができなかった。開きかけたハウツー本のページを一旦閉じて、半ば吸い込まれるようにして新刊コーナーへ向かった。
そこにはやはり水たまりに垂らした水飴のように「檸檬」が沈んでいた。
――檸檬、梶井基次郎。
俺が固唾を飲んでその本を手に取った、その時だった。
何か得体の知れないものが身体中を。黒々と淀んで、けれどはっきりとした白が。意識が。拡散しながら世界に飛び散った。それはまるで花火のように巨大な音を伴って炸裂しその勢いのまま俺を因果律から弾き出しにかかる。俺は無我夢中で手を伸ばしていた。どこからか聞こえてくる誰かの声を必死に掴まえようとして――ぎゅっと唇を噛みしめた。
○
上司からの厳しい怒声を浴びて、私は下げたくもない頭を下げる――。
「申し訳ありません。私の……その、チェック不足でした」
「謝ってすむことだと思うのかね? 君は」
「いえ……ですが」
「相変わらず能無しだな! 君は!」
「……申し訳ありません」
何度も何度も、相手の熱が冷めるまで、私は謝り続ける。仕方のないことだ。きっとそれが私の仕事なのだろう。思えば入社して以来、一度も褒められたことがなかった。たとえどんなに頑張って最良だと思える仕事をしても、上司からしてみれば「最低」の評価でしかないのだ。だから私はもう努力を放棄してしまった。だって、どれほど根を詰めて無理をして、頑張ってみたって、結果が伴わないのであれば、それは無駄だ。徒労なのだ。
どうせ徒労なら、もう何もしない方がマシなのだ。
「ちっ、もう行っていい」
「はい……申し訳ありませんでした」
部長のデスクを離れて、私はすかさずトイレに駆け込んだ。バシャバシャと水道で顔を洗って、「また負けた」赤くなった目元をごしごしともう一度水で洗い流す。ああ、一体どうしてこんなことになってしまったのだろう。何を間違えたというのだろう。無駄だとわかっていても、私にはどうしてもその理由が知りたかった。それだけはどうしても考えざるを得なかったのだ。
「やっぱり、夢を追っているべきだった……」
高校三年生の時に迫られた進路選択を今も思い出す。美大に行ってアーティストになるか、それとも普通の大学に行ってOLになるか。私が選んだのは後者。その結果がこれだ。この有様なのだ。親の言うことを素直に聞いていれば絶対に間違えないと思っていた自分が憎くてたまらなかった。いつだってそうだ。大切なことは振り返った時にしか気付けない。私は鏡に映る自分の姿を見た。きつい三白眼に、少しだけ尖ったように見える耳先。さくらんぼを力強く噛んだみたいな色をした唇は、お世辞でも可愛いとは口にできないだろう。鏡は鬼を映していた。居場所を失い、民家をさまよい、村人に石を投げられ、ただぼんやりと最期を待つ鬼を。
「おいっ、どこに行くんだ!」
「っ!」
そう思うと、私はたまらなくなって会社を飛び出してしまっていた。
「終わりたくない……!」
階段を駆け下りる。吐息と共に漏れ出る声は心だろうか。涙が線を描いて踊り場にぽつぽつと落ちていく。
「いやだ……いやだ……!」
そんな子どものような駄々をこねながら、私は街に踏み入った。照り付ける日差しはさんさんと地上に栄養と光とを与えているが、気温はそれほど高くはなく、むしろ過ごしやすいくらいだ。私は会社のことを一切合切忘れてしまうと、それから街を散策した。お洒落なレストランでランチを食べて珈琲をがぶがぶ飲み、お腹がいっぱいになれば今度はカラオケで時代遅れなロックバンドの歌を熱唱し、終いには公園のベンチで二年ぶりに炭酸を一気飲みして咳き込んだりもした。
とにかく私は――挽回したかったのだ。
最初からまでとはいかなくとも、せめて会社に入社する二年前までは。
そうしてひとしきりやりたかったことをやり終えると、辺りはすっかり夕暮れの気配に満ちていた。公園の遊具で遊んでいた子どもたちは親に手を引かれ、帰路を辿っていき、空を見上げればクジラみたいな雲が月へ帰って行くところだった。
「ああ、私も……」
帰ろう。そこまではあえて口にせず立ち上がり、空になったペットボトルをゴミ箱に捨てる。久しぶりに遊んだせいか身体の節々が筋肉痛になりそうな……そんな疲労感をたたえている。しかし、明日からはあの忌々しい場所へ行かなくともよいのだ。携帯の電源を切ってぐっすり眠って、それから……あれ?
「……」
それから私は、何をするというのだろう?
具体的なことなんて一つも決めていない。
衝動的に飛び出してしまったけれど、私には明確なプランがない。現実を見つめれば、足元はひび割れだらけだった。いつ崩れるとも知れない、綱渡りのような毎日。それをこれから何千回も繰り返していくのだ。私は唐突に寒気がした。そうだ。自分が選んだのはそういうことなのだ。怖いが、進んでいかなくてはいけない。転んでも砂利を払って前へ。前へ。歯を食いしばりながら今度こそ、がむしゃらに進むしかないのだろう。
自宅へと続く帰路の途中、私は一軒の古本屋さんを見つけた。何の変哲もない古本屋さんだ。店先では古書がたくさんワゴンで安売りされていて、その一冊に私は目を留めた。
「あの。この本、ください」
梶井基次郎の「檸檬」だ。子どもの頃、国語の教科書に載っていたことがある。といっても、当時はまだ本文が意図している意味がわからなくて、友達同士でラストシーンの真似をしてよく図書館に給食の蜜柑を置いて帰ったぐらいの記憶しかない。だから、それを私はまた再現してみようと思ったのだ。図書館とはいかなくとも、どこか。どこでもいい。とにかく、この本を置けるような場所へ――。
○
「……はっ」
俺は固く閉じていた目をゆっくり開けた。視界はちかちかしていてぼんやりと影っているが、しかし、何か不思議な体験をしていたような気がして、開いていたハウツー本のページをぱたんと閉じる。そして、ふいに脳裏に浮かんだ「れもん」という言葉を頼りに梶井基次郎の「檸檬」を探した。当然だが、随分前に発刊されたものだから新刊コーナーにはない。探すとしたら文庫本のコーナーだろう。そう当たりをつけて本棚をひとしきり眺めてみたが、あいにくいくら名作だからといって必ずしも置いてあるわけではないのか見当たらなかった。俺はがっくりと肩を落として、店を後にしようとする。しかし、そこでふと、ある一人の女性が目に留まった。新刊コーナーの前で立ち止まるようにして、彼女は一冊の本を手にしている。表紙にいくつもの紡錘型の果物を描いたその本こそ、俺が探していた梶井基次郎の「檸檬」に違いなかった。
「あの、すみません!」
俺が声をかけると、彼女は不思議そうな顔をして「なんでしょう?」と言った。三白眼で、耳先も少し尖っていて、唇はさくらんぼを噛んだように赤かかったけれど、でも逆にそれが可愛かった。それが彼女だったのだ。
「その本、探していたんです。もしよかったら、俺に譲っていただけませんか?」
すると彼女はちょっぴり照れくさそうにして微笑んだ。
「これ、近所の古本屋さんで買ったから……ボロボロのでよければ……ですけど」
「ええ、構いません。どうにもここの本屋さんじゃ売ってないみたいだから」
例えば梶井基次郎の「檸檬」のラストシーン。もしも、あの城壁の頂きに据えつけられた檸檬の存在に気付いた人物がいたら、彼はきっとこうしたに違いない。「この檸檬、あなたのでしょう?」京極を下っていこうとする「私」を呼び止めて、彼は何気なく胸をえんと張って言うのだ。「もったいないですよ。置き去りにしたら」それを受けて「私」はどう思うのだろう。どう感じたのだろうか。
「えっと、いくら払えばいいですか?」
「あ、いいですよ、そんなの。私だってほとんどタダ同然で買いましたし。あの…それよりも……」
――でも、少なくとも明るい気持ちでいてくれたらいい。
「随分とくたびれてますね。そのスーツ」
「ああ、これは――」
俺たちは自然と笑いあっていた。
昔読んだ梶井基次郎の「檸檬」。普通なら文学性や芸術性に重きを置いて読むのが恐らく正しい読み方、というものなのでしょうが、当時の僕は京極を下っていく主人公が可哀想でなりませんでした。それがなぜなのかはわかりません。ただ、胸の奥に何か訴えるものがあってそう思ったのでしょう。
結局は単なる自己満足なのかもしれません。
ですが、この短編を大人になってから書けたことを心から嬉しく思います。
駄文でしかも難解な設定で失礼いたしました。
読了、本当にありがとうございました。
※この作品はエブリスタとの二重投稿です。