1.その子と僕の距離
1,
僕の家には、座敷童がいた。
いつからか気づいた時からすぐそこにいて、自然と家族の中にとけ込み生活しているその子に、僕はある日、思い切って話しかけてみたのだ。
「ねえ」
驚いた顔をしたその子は、振り向きざま、手に持っていたお父さんのお菓子を落とす。
僕は、その子に言葉を続けた。
「君は、そこで何をしているの?」
その子は口に咥えていたアイスが床に落ちた。
「ちょっと、あなた!」
「なんだい、母さん」
「こんなところでアイスを落としたのお父さんでしょ! ちゃんと片付けてください!」
「え? なんのことだい? ……って、おわっ」
床のアイスを見つけ、慌てるお父さんに、お母さんはあからさまにイライラとしていた。
「俺は、こんな所にアイスなんて……」
「あなた、また誤魔化すんですか!」
荒ぶる母と、弁解する父。圧倒的な負け戦を強いられようとしている父の背の手前で、僕とその子は、向き合って立っていた。
お互いに無言、しばらくすると、気まずそうにその子が頭を掻いて、そっぽを向いた。
「……」
無言で頬を赤らめたその子から、返事は僕に返ってこなかった。
2.
「もうすぐ、夏だね」
縁側に座るその子からの返事はない。ただ、楽しそうに足を動かしては、お父さんのアイスをちびちびとかじり空を見上げていた。お父さんが好きな棒付きのアイスがお気に入りのようだ。ちらほらと鳴き始めた蝉につられるように、日々強くなっていく陽の光を浴びても、その子は日焼け一つしなかった。その日もいつもと同じように座って足を揺らしているその子の横に僕は座り、肩を並べ、空を眺めた。横に座るその子が、僕に気がついて、ちらりと見てきたのが分かった。僕が視線を向けると、さっと空を見上げた。
ある日、いつも横に座った僕とその子と視線が重なる。すぐにそっぽを向くその子に僕は、しばらくその子のことを眺めることにした。また、ちらりと目が合う。そらす視線と同時にすっと、僕の目の前に出されたその子の手の中には、いつもその子が食べているアイスが握られていた。僕の視線が、アイスとその子を何度か往復したところで、待てなくなったのか、その子はアイスを僕の口に急に押し込んできた。驚いた僕の口に冷たいという感覚と、あずきの味が広がる。慌てて僕は、その子が今、手から離したばかりの木のスティックを持ち、口から出すと同時にむせた。
涙でにじむ視界の隅、その子はそんな僕をきょとんした顔で見た後、ふふんと満足そうに鼻で笑って、空を見上げていた。そんな僕たちの後ろから父親の声がした。
「あれー? 又俺のアイスが無くなっている! お母さん、俺のアイス、知……」
「知りません。」
「だって、昨日の夜見たときは……」
「……もう、あなたはいつも……!」
僕の後ろで始まった母の堤防決壊の轟音を合図に、僕は小さくなって、どうか僕が食べ終わるまでは続いてくださいと割と本気で祈りながら、そっとあずきバーを食べ続けた。頭を貫く冷たさに涙目になり、ふと横を見る。その子は、相変わらず、マイペースにちびちびとかじっては空を見上げていた。僕も同じように、アイスをかじる。強い日差しの中、風が木々の葉を揺らしていた。その向こう、遠くの空に浮かぶ大きな入道雲。それを見上げながら、僕とその子は、一緒に父のアイスをかじっていた。
3.
ちりん、という風鈴の音に、あの子が振り向いた。
母にお願いされ、僕は脚立を片手に家の軒下に風鈴を付けようと歩いていた僕の後ろを、あの子がついてきた。
僕が軒下に引っ掛ける間、その子は僕が付けようとしていた風鈴をじっと見上げていた、と思うと、近くのあじさいを指でつつき始めたり、お父さんが誰かに取られるのを警戒して隠したお菓子をその子が探し始めたり、まだついていない風鈴に息を吹き付けて揺らそうとしたりしてきた。
「ちょっと!」僕の乗っていた脚立を揺らし始めたとき、抗議の声を上げると、その子は、きょとん、という顔をしてから、ふふん、と嬉しそうな表情をする。僕はしばらく非難の目を向けていたが、僕のことなんてどこ吹く風で大人しく風鈴を見届けている、その子に、僕はため息をついて作業を続けた。
取り付け終え、汗を拭いながら横目で彼女の様子をうかがう。その子は、いつも空を見上げていた。
僕を見る目も、僕の家族を見る目も、空を見上げるときの目も、同じような目で見ていた。
蝉の脱け殻を見たとき、水のはいっていない水槽を見つけたとき、誰も住んでいない家を見かけたとき、なぜかその子のことが頭に浮かんだ。どこか空しく、なぜか儚いものだと、僕は感じた。
いつしか、僕は空を眺める、その子のことを横で眺めるようになった。
……なに? とでも、言いたげな表情で、よく見られた。
横に並んで眺めていた僕と、その子の目が合い、僕は答える。
「なんにも」
その子は、ふん、とすぐに興味を失ったようで、また空を見上げては、足をぶらぶらと振っていた。
僕は思った。アイス以外に好きな食べ物はあるのだろうか、好きな場所は? どうしていつも縁側に座っているの? 他に行きたいところは?
僕は呟く。
「君は、いつも何を見て、何を考えているの?」
振り向いたその子に、僕の声は届いているのだろうか。
目が合い、そらすその子の横顔を見ながら、僕はいろいろなことを考えていた。
4.
今日は、近くで花火大会があるらしい。
珍しく家族がそろっての食事をした後に、縁側に集まった。
僕の座る横には、父親が座っていた。
いつも座る特等席を奪われたからか、ぶすっとした顔でその子は、父を見ている。
それも知らずに父は、おいしそうにお菓子をばりぼりと食べていた。
蚊取り線香の匂いが夜の湿った空気と風で混ざり合う。
まだ夜空に花火は打ち上がっていない。
母が切ったスイカを台所から持ってきた。
みんな、一切れずつ食べる。その子もおいしそうに食べていた。
父と母が、何か話している間、僕はその子がスイカの種を庭に捨てているのを眺めていた。
「おっ」
「あっ」
父と母が、空を見上げる。
僕も見上げる、夜空には大きな光の輪が広がっていた。打ち上げが始まったのだ。
目を戻すと、その子がそっと父のそばに食べ終えたスイカの皮を置いていた。父は夜空を見上げていて気がついていない。母も一緒だった。僕は一つ目のスイカをしゃりしゃりと食べている。その子は2つ目のスイカを食べ始めていた。
絶え間なく打ち上がる花火がかすかに庭を照らしていた。
父がスイカを食べようと、空になった皿を見る。しょんぼりとして、母の様子をうかがってから、また空を見上げた。
僕は一つ目のスイカを食べ終えたところだった。その子は、けらけらと笑っていた。
気がつけば、両親はサンダルを履いて庭へと進み夜空を見上げていた。
何かをこそこそと話して笑っている。よく見れば、そっと手もつないでいた。
僕は、やれやれとため息。と、さっきまでけらけらと笑っていたその子が、父の座っていたところを丁寧に手で払ってから、座った。
僕を一瞥。そして、夜空を見上げ、そこで初めて花火に気がついたのか、その子は、固まる。
僕も同じように空を見上げた。
真っ暗闇の中を、一筋の光が登って行く。そして、消えたかと思った瞬間。色鮮やかな光の輪が広がった。また一つ、また一つ、と打ち上がって行く花火に、空は彩られていた。だんだんその間隔が狭まり、消える前に他の輪が現れる。
まるで、空に涙を落としているようだった。その波紋が次々に生まれ、重なり合い、広がっていく。
やさしく風が吹いた。僕は自然と風の来た方を振り向いていた。
青い朝顔の模様の入った白い浴衣。それを着た同じくらいの背の女の子が、頬に一筋の雫を伝わせていた。
湿った夏の匂いを運ぶ風に髪をなびかせながら、女の子は頬に手を当て、涙に気がついたのか急いで顔を隠しながら拭い、ちらっと目が合う。一度下を向き、足をぶらぶらとする。今までの中で一段と花火が僕と女の子を照らした中、女の子が顔を上げ、僕に向かって小さく笑った。
不慣れな照れ隠し、その笑顔に、どうして胸が高鳴ったのか、そのときの僕には分からなかった。